現地での最大の謎として残った、この写真の隧道の行く先は、旧版地形図を見ることで簡単に解決した。
次にご覧頂くのは、奈川渡ダム完成の17年前を描いた、昭和27(1952)年応急修正版5万分1地形図「乗鞍嶽」である。
長過ぎ〜!!
案の定、あの隧道はめちゃくちゃ長かった! 深追いせず正解。地形図上での長さを計ると、3800mはある!
この数字は、過去に私が探索したあらゆる廃隧道の中で最長だと思う。
仮に洞内に泥が堆積していなかったとしても、さすがに途中で怖ろしくなって逃げ出したか、或いは本当に酸欠で大変な目に遭っていた可能性がある。
私は僅か20mほどでリタイアしたが、私は本当に果てしない長大な隧道に呑み込まれかけていたのである…。
そして肝心の出口には何があったかといえば、そこにはやはり発電所の記号が待ち受けていた。
その発電所の場所には、梓川と奈川が合流する奈川渡(ながわど)の地名があり、これは現在の奈川渡ダムサイトのすぐ近くだ。
上の図は、昭和27(1952)年と昭和47(1972)年の地形図である。カーソルオンやタップ操作で画像が切り換わる。
これらの地図には、私が今回発見した2本の水路橋を含む長大な発電用水路の全貌が描き出されているが、昭和47年版では既に奈川渡ダムが出現しており、その湖畔に本来なら既に廃止されていたはずの水路が引き続き描かれてしまっている。これは「資料修正版」という、ダム完成以前の図に簡単な修正を施しただけの版だからだろう。
昭和27年版に描かれた一連の発電用水路の上端は、大野川上流の乗鞍高原番所(ばんどころ)付近に設けられた取水堰であったようだ。
そこから小大野川の上流を経由して前川発電所の水圧管路(水を落とす水路)へ導かれていた。これが前半部分で、奈川渡ダムの完成後も引き続き稼働している。
対する後半部分が今回発見された廃止区間であり、ここでは2本の水路橋を経由し奈川渡にあった発電所へ導かれていた。
以上の水路の全長は10km以上もあり、しかもほぼ全線が隧道として描かれていた。
奈川渡ダムの湖底に眠る、長さ4km近い水路隧道。
その奥部は依然として未知のままであり、閉塞しているのか貫通しているのかも分からない。
我々はただ想像するのみである。
仄暗い湖底の底に、人知れず眠り続ける巨大な真闇のあることを。 ――戦慄を禁じ得ない…。
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旧版地形図により水路の行く先は解明されたが、そこに描かれていた「廃止された施設たち」の歴史が知りたった。
そこで、旧安曇村の史誌『安曇村誌』にあたってみたところ、期待していた以上に収穫があった。
まず、第三巻第七編第二章「昭和初期までの電源開発」の頁に、前川発電所の項目を見つけた。
前川発電所とは、私に大きな印象を残した、あの廃墟の上に建っていた発電所(写真→)のことである。その正体がまず判明した。
一 前川発電所
位置
取水口 前川・小大野川・クライ沢・ババ沢・黒村沢
発電所 安曇村四〇九五番地(旧字小大ノ川)
京浜電力(株)が建設し、昭和二年三月に運転を開始した。当時としては、大白川発電所とともに自動発電所として双璧であった。三八年には完全無人化された。そして梓川再開発にともない、八.二二mのかさ上げを行った。(以下略)
完成は昭和2(1927)年というから、梓川流域の発電所の中でも古株で、奈川渡よりも上流で最初に運転を開始した発電所だと思われる。これを開発したのは京浜電力という会社で、戦中戦後の膨大な統廃合の結果、今は東京電力(株)である。梓川再開発(=奈川渡ダムなどの三ダム建設)によって8.22mの嵩上げが行われたことが、はっきりと書かれていた。
続いては、2本の水路橋や幾つもの廃隧道を湖底に残している、旧版地形図で奈川渡に描かれていた発電所。こちらの正体が判明。
その名も、奈川渡発電所。
三 奈川渡発電所
位置
取水口 梓川・奈川・小大野川・前川・ナラオ沢・忠地川沢
発電所 安曇村奈川渡
京浜電力(株)が建設し、大正十四年一一月に営業運転を開始した。奈川調整池を利用したピーク運転と、同時に竣工した大白川発電所、昭和二年に竣工した前川発電所の親発電所として運転された。
(中略)
この発電所は、昭和四十三年十二月、奈川渡ダムにより水没し、四五年間の運転歴に終止符を打ったのである。
奈川渡発電所は、前川発電所よりもさらに古い歴史を持つ京浜電力の発電所であり、前川発電所と連携して動く親発電所であった。
発電量などは記録が無く不明だが、梓川流域の水路式発電所の中でも規模は大きかっただろうことは、それが方々の沢に伸ばしていた水路の多さからも分かる。
今回私が探索したのは小大野川や前川からの導水隧道だけだが、他にも梓川や奈川などからも取水していた記録があり、まだ見ぬ水路隧道がいくつもあるのだろう。
ともかく現在残っている水路橋や隧道の遺構などは、大正末の建造であった可能性が高い。
ダムの湖底という、世間的には既に「存在しない土地の存在しないもの」扱いだが、間違いなく貴重な近代化遺産である。
特に前川の両岸に残る坑門の景観は遺跡然としてとても美しく、遊覧船などでの湖面利用が一切行われていない(奈川渡ダムは揚水式発電を行っているので水位変動が非常に大きく湖面利用が不可能とされる)のが惜しい。
そして同頁には1枚の古写真が掲載されていた。
『安曇村誌第三巻』より転載。
←これが、奈川渡発電所の在りし日の姿である。
斜面に横たわる巨大な落水路が一際目立つが、その最上部の右側に連なる水路が、私が逃げ出した水路隧道の出口というか、ゴールにあたる。
隧道が1度も地上に出ることなく直接この落水路へ続いていたとすれば、あの隧道探索のもう一つの結末は地上にはなく、湖底のさらに底の堆積した土砂の底の底、水面下80m以下の暗黒世界の発電所跡だったことになる。
さすがに途中から水没しているか、完全にコンクリートなどで密閉されているのだろうが、洞内に風がなかったのも道理である。
なお、写真は竣工当時、すなわち大正末か昭和初期に撮影されたものだという。
しかし、写っているのは今日の日本にも数多く見られる普通の水路式発電所の姿であり、ことさら古さを感じさせる部分はない。
逆に言えば、大正時代のわが国の中で発電所の光景は、まさに未来の世界のように感じられたのではないか。
少なくとも、それまでは歩行者が辛うじて通れる程度の道しかなかった未開の峡谷に、東京の会社が僅か数年で出現させた巨大施設を、土地の人々が驚愕の目で見たことは間違いないだろう。
この地で生産された電力は、当時の奈川渡発電所も、現在の奈川渡ダムの安曇発電所も、共に地元で使われず、遙か遠くの首都東京や関東地方の電源になってきた。
それでも地元に全く益が無かった訳では無い。
なぜなら、こうした施設の建設には道路の整備が不可欠であったからだ。この点については後ほど改めてまとめる。
奈川渡ダムの満水位は海抜982mとされており、水路隧道はその少し下のおそらく海抜970m付近に存在する。
そして奈川渡発電所のメインの建物が建っていた梓川の谷底は、昭和27年の地形図で見る限り、海抜900m付近である。
つまり、落水路の高低差が70mくらいあり、発電所そのものは水面下80mというような深い位置に沈んでいることになる。それもきっと水ではなく、堆積した分厚い土砂の下に埋蔵されていることだろう。
そんなわけで、奈川渡発電所そのものは絶対に見ることが出来ないと思われるが、落水路の上部は低水位時に地上に露出しているだろう。
とはいえ、おそらく奈川渡ダムの堤上路からは尾根の陰になって見えず、対岸の国道も長いトンネルであるため、実際に目撃出来る場所があるかは不明である(未確認)。
また、直接地上からアクセスすすることも、ダム湖を横断する術が無いので、長い山歩きを余儀なくされることだろう。そもそも地図に道が無いので、道探しから始めなければならない。
…といったところで、謎だった水路や発電所については大体判明した。
だが、何かお忘れではないだろうか皆さま。
このサイトが何をテーマにしているのか、そしてこのレポートの表題が何だったか(特に括弧内)。
――私は、
廃道を探索するために湖底に降りたのだ。
探索開始から僅かな時間で、左の写真の水没する石垣を最後に姿を消し、以後二度と現れることがなかった県道乗鞍岳線の旧道。
こいつについても、机上調査を行った。
残った遺構は僅かでも、いや、そうであるからこそ、せめて歴史に光を当ててやりたいじゃないか!! まだもう少しだけ、レポートは終わらない!
長野県道84号乗鞍岳線は、長野県松本市と岐阜県高山市を結ぶ全長約28kmの主要地方道である。
特筆すべきは、この県道が県境を越える部分の標高で、2716mという数字を記録していることだ。
この数字は、わが国の自動車が通行する県道では最も高く、日本の屋根と言われる北アルプスの象徴的な道路のひとつである。
ただし、平成15(2003)年以降は、三本滝より西側の区間で通年のマイカー規制が敷かれており、誰でも自由に通行出来る県道ではなくなってしまったが。
なお、起点付近の標高は約1000mであるから、全線を通じて1700mを越える標高差を持つことも、県道としては全国屈指のものであろう。
このように、「日本一高い県道」(ただし自動車が通れる区間に限る)である乗鞍岳線だが、私が探索した前川渡付近の旧道は、そのうちのごく短い区間でしかなく、これをもって路線全体の代表のように語る事は出来ない。というかむしろ、この県道の代表的な区間は、乗鞍高原以西の高山的な山岳道路であるに違いない。
昼なお薄暗い谷底で、青い渓谷と凌ぎを削っていた前川渡の旧道は、やがて3000m級の山頂へ挑むことになる華やかな県道の本当に地味な下積み時代のイメージだ。
事実、この道の近代史は、前川渡と大野川を結ぶ素朴な村道に始まっていた。
それをベースに、時間をかけて徐々に上へ伸びていったのである。
その詳しい経緯は『安曇村誌第三巻』の第八編第四章などに述べられているのだが、今回は旧道と関係がある前川渡〜大野川間の事柄を中心に概要を紹介しよう。
左図は、大正元(1912)年と昭和27(1952)年の前川渡付近の地形図だ。私が探索した県道乗鞍岳線が県道になったのは昭和39年なので、これらの地図はそれ以前の景色を描いている。
2枚の地図では旧道の位置が変化している。
大正元年当時の道は、梓川に合流するだいぶ手前から前川の右岸を通行していたが、昭和27年当時は最後まで左岸を通るようになっている。
もっとも、現地にはこのルートの変遷を窺わせるような遺構は残っていないし、私が目にした石垣などは、全て後期の道の遺構であろう。
図中でこの旧道の微妙な位置の変化より遙かに目立っているのは、梓川の本流に沿った道路の進歩である。
この梓川沿いの道は、現在の国道158号の旧道であり、昭和27年当時は県道松本船津線(国道昇格は翌年)といった。ゆえに府縣道の太い二重線で描かれている。
対して大正元年の道はとても細く頼りない描かれ方だが、当時は県道ではなく里道の格付けで、飛騨街道と呼ばれていた。
『安曇村誌第三巻』より転載。
飛騨街道は、江戸時代どころか鎌倉時代から安房峠を越えて信州と飛騨を結ぶ道として存在したが、江戸時代には奈川渡で分かれて黒川渡経由で野麦峠を越える野麦街道(現在の県道39号)が重視されるようになり、明治時代に界隈でいち早く県道に指定されたのもこの野麦街道だった。安房峠の飛騨街道が県道に昇格するのは、だいぶ遅れて大正9(1920)年のことである。
右の写真は、大正時代に撮影された奈川渡の飛騨街道であるという。
狭い石垣の道に華奢な吊橋、鄙びた雰囲気の建物などが見えてるが、ここも現在の奈川渡ダムの湖底で、その中でも最も深い辺りだろう。
この数年後の大正14年、この近くに奈川渡発電所が建設されるのは既に述べた通りである。
そして、梓川沿いの道が自動車が通行出来る程度にまで整備されたのは、こうした発電所の工事と無関係ではない。
当時の姿を撮した古写真がある。次の2枚がそれだ。
『安曇村誌第三巻』より転載。
この2枚の写真は昭和2(1927)年の飛騨街道のどこか(2枚目は奈川渡とされている)で撮影されたものだ。
路上に軌道が敷設され、その上を牛に曳かれた巨大な鉄管が運ばれている場面である。
この鉄管の正体はもちろん発電所絡みだ。今回の探索中の前川発電所でも目撃しているし、前川の水路橋も、かつてはこのような鉄管を架け渡した橋であった可能性が高い。
写真の鉄管の行方は判明しており、前川渡より上流の沢渡で昭和4年に稼動を開始した霞沢発電所(これは京浜電力ではなく梓川電力という会社が設置)で使われたものだそうだ。
このときの工事では、奈川渡から霞沢発電所の取水口があった大正池(上高地)まで初めて車道が開設され、そこに工事用軌道が敷設された(昭和4年撤去)。(この工事用軌道の話題は、釜トンのレポートや、このレポートでも散々既出なので耳タコかもしれない)
発電所の建設には、一般の土木工事でも必要となる木材やセメントだけでなく、鉄管や発電機などの巨大な重量物を大量に運び込む必要があるために、どうやっても道路の整備を先行せざるを得ないのである。例えば鉱石の輸送には索道が、木材の輸送にも索道や流送などが安価な選択肢としてあり得るが、発電所の工事輸送は、まずもって陸路が必須である。
そして年中水量が豊富な梓川上流は、大正時代から各地の電力会社が着目し、挙って進出した電力銀座であるだけに、大正以前の極めて零細で個人的色彩を帯びていた道路の整備が、ここに来て一挙に大規模化したのであった。
左図は、梓川流域で大正〜昭和初期に開設された主な発電所と、その主な導水路、そして同時期に車道として開通した主な道路を示したものだ。
(茶色の目立たぬ破線は、明治以前の飛騨街道の大まかな位置。この道は渓谷を避けた峠越えの連続だった)
大正11(1922)年に筑摩電気鉄道が島々駅まで開業し(後に新島々〜島々間は廃止され、残りが現在のアルピコ交通上高地線として存続)、以後この路線が梓川流域への発電所工事における物資輸送の大動脈となった。
まず開発されたのは島々と竜島という“入口”近くの発電所だったが、その後も急速に奥地へ進展し、大正14(1925)年に稼動を開始した奈川渡発電所の工事では、奈川渡までの野麦街道が車道化され、工事用軌道が敷かれた。続いて昭和4(1929)年の霞沢発電所の建設は、奈川渡から大正池までの梓川沿いの道(飛騨街道+α)を改良し、ここにも軌道が敷設された。
なお、それぞれの工事が終わると工事用軌道は撤去され、順次一般の交通に解放されていった。
『安曇村誌第三巻』より転載。
この写真は、昭和初期に撮影されたとみられる、“ガンクラ”と呼ばれる梓川本流沿いの地点である。
ここも現在はダム湖に沈んでしまっているが、前川渡と奈川渡の中間付近にあったらしく、写真を見ても明らかなとおり、落石の危険が絶えない沿線随一の難所であったという。
そしてこのガンクラの難所を貫いて川の右岸を駆け抜けているのが、発電所工事に伴って開削された県道松本船津線である。
遠目に見ても、大正時代の奈川渡で撮影された道よりは、だいぶ高規格に成長しているのが伺えるだろう。
(余談だが、私が敗退した水路隧道は、このガンクラの上部を地中で貫通していたはずである。現在も崩れずに残っているのかは不明だが。)
このように、梓川の本流沿いにある発電所の工事と本流沿いの車道の建設がリンクしていたが、その進展に付随し、各支流沿いでも変化が起きた。
これらの支流沿いに立地する、かつての飛騨街道沿いの集落が主体となって、梓川の新たな車道と接続する支流沿いの車道を建設していったのである。
例えば、奈川上流の黒川渡、前川上流の大野川、湯川上流の白骨などが、こうした生活道路を昭和初期に相次いで建設した。
今回取り上げた前川沿いについて見れば、ここには明治時代から乗鞍高原一帯からの木材搬出を目的とした牛馬道が存在したようだが(大正元年の地形図に描かれていたのがその道だろう)、昭和7年から昭和15年にかけて、前川渡〜大野川〜鈴蘭(乗鞍高原)間に幅4.5mの車道が建設され、安曇村道に認定したという記録がある。
このときに建設された道が、現在も痕跡が残る旧道だと考えられる。
前川沿いの道のその後も簡単に触れると、乗鞍高原より先の乗鞍山頂方面への延伸工事は、昭和33(1958)年に県が観光の目的で着手し、実際の工事は自衛隊に委託されている。これが38年に完成し、翌年に長野県が前川渡〜乗鞍岳の全線を県道乗鞍岳線に認定した。
だが、この頃には既に前川渡は湖底に沈む運命が決しており、昭和41(1966)年に奈川渡ダムに伴う道路付替工事が着工。同44年までにダムと付替道路が共に完成した。
故に私が探索した旧道が県道であった時期はとても短いし、ほとんどの期間を村道として過ごしてきた素朴な道であった。
最後にもう1枚だけ古い写真を見て貰おう。
これも村誌に掲載されていた写真で、奈川渡ダムに沈む前(正確な撮影時期は不明)の前川渡橋の姿だそうだ。
おそらく左図(←)のアングルで撮影された写真で、これが今回の探索の主役の旧県道が写った、たぶん唯一の古写真である。
心して、ご覧頂きたい。
…と、その前に、比較となる現在の風景がこれ(→)。古写真とはほぼ同じアングルとなる。
やっと会えたね〜! 旧県道!!
現在では水と泥の底に沈んでしまった前川渡は、梓川と前川という清い水の流れが出会う山紫水明の土地だった。
旧国道の前川渡橋は、コンクリート3径間の橋だったようだ。その袂から前川に沿って両岸に道が見える。
それぞれ、大正元年と昭和27年の地形図に描かれていた、前川沿いの道なのだろう。
写真の中でとはいえ、ようやく探し求めていた旧県道と旧国道を見る事が出来た!
そして今回の“影の主役”(主役を食った感も…)だった、前川を渡る水路橋。
うっすらとだが、谷の奥で確かに前川を渡る、長くて高い白い橋が写っている。
残念ながら、橋の形式までは見えないが、間違いなく言えることは…
昔の谷は本当に深かった!!
壮大なV字峡を高々と跨ぐ水路橋の姿があった。
ダムはただ水を蓄えるだけでなく、不可逆の変化を世界に強いた。
そうして我々は発展してきた。前川渡での探索は、その事を私に印象づけた。