今回は、道路趣味界の超がつく有名物件である“階段国道”の奥を紹介するぞ!
ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。
文豪太宰治が、昭和19(1944)年に発表した小説『津軽』の中で、路の果てる地として印象的に描いた龍飛(たっぴ)崎。
日本海と津軽海峡を分かつ陸地の尖峰として北海道を間近に望むこの岬には、今でこそ国道339号が東西に通じているが、同国道が指定された昭和50(1975)年当時には、三厩(みんまや)側からしか訪れられない、かりそめの終点だった。ここから小泊(こどまり)へ通じる約24kmの「龍泊ライン」が開通し、津軽半島の周回が可能になった記念すべき年は、昭和57(1982)年である。さほど昔のことではない。
ところで、地形的には文句なく津軽半島の突端にあり、半島の東西海岸線を分かつ存在である龍飛崎だが、人文的な意味の境界線といえる市町村境は、そこから少し外れた位置に敷かれている。
具体的には、東津軽郡外ヶ浜町(旧三厩村)と北津軽郡中泊町(旧小泊村)の町界線は、岬の突端から1.5kmほど日本海の海岸線を南下した辺りにある。
とまあ、それだけならば古い為政者たちによる群雄割拠の結果かと思うくらいで、わざわざ訪れることはなかったかもしれない。私を強く惹きつけたのは、この町界線から僅かに小泊側へ入った位置にぽつんと描かれた小さな集落だった。私はこの集落の存在を前から密かに気にしていた。
現在の地理院地図には道沿いに4軒の家屋が描かれ、小さな文字で袰内という地名が注記されている。
「袰」の字が見慣れないが、調べてみると「ほろ」と読む字だそうであるから、地名の読みは「ホロナイ」だろう。思わずカタカナでそう書きたくなるくらいアイヌ語由来っぽい。「袰」は「母衣」と分かち書きされることもあるようで、こうなると御母衣湖(岐阜県)の名が思い浮かぶ。また、「保呂」や「幌」とも書かれるようで、それぞれ保呂羽山(秋田県)札幌(北海道)などの地名に心当たりがある。
袰内が珍しい漢字を使った地名であることは、惹かれた理由の一つだが、最大の理由ではない。
袰内は旧小泊村では最も北にある集落だ。
だが、同村内の他集落からは非常に遠く孤立しており、龍飛崎を越える旧三厩村からの道しか通じていない。そこに私は心底グッと来た。
地図上で見る袰内は、ひたすらに袋小路の行き止まりで、終端地だ。
であればこそ、ここには太宰が龍飛崎でかつて体感した“鶏小舎に似た不思議な世界”が、今なお温存されていやしないだろうか。
そんな私の身勝手な憧れが、この訪問の一番の根元であった。(冒頭で引用した太宰さんの文章が好きすぎて、共感してみたかったのだ。)
話は変わるが、龍飛崎といえば道路趣味の世界で全国区の知名度を持った物件の在処だ。あの有名な“階段国道”(wiki)が、ここにある。
有名な観光地だから訪れたことのある人も多いだろうし、だいたい語り尽くされているとも思うので、本稿では深く触れない。
だが、全くの無関係を演じることも難しいのだ。
なぜなら、袰内集落へ通じる唯一の道路は、かつて“階段国道”と一続きの国道であったからだ。
ここで初めて、表題にある「国道339号旧道」というテーマが浮かび上がってくる。
“階段国道”は、津軽半島北端の龍浜(たつはま)集落から龍飛崎の高台へ至る、全長約400m(高低差70m)の国道339号現道区間であり、362段の階段を含んでいる。
もちろん自動車は通れないため、1kmほど南にある村道が迂回路として利用されており、そちらが実質的な国道になっている。
“階段国道”という呼称の起源は不明だが、初めて国道に指定された昭和50年以降であるのは間違いない。
それ以前は県道(主要地方道)だったが、“階段県道”と呼ばれていた形跡はない。(“階段県道”は観光的に弱いのだろう…。)
右の地図に懐かしさを憶えた人は、きっと私と同じ中年以上の世代であろう。
これは昭和61(1986)年の道路地図帳だ。
既に昭和57年に開通した「龍泊ライン」が描かれているが、龍飛崎付近で分岐し袰内へ至る、短い支線のような国道の存在が目を引く。
これこそが、本稿が取り上げる“旧国道”だ。
なお、この地図は“階段国道”の存在を無視して、先ほど“実質的な国道”と表現した村道を国道として描いている。また袰内へ至る国道も、私が探索したルートとは一部異なっている。これらはいずれも利用者の便宜のために、あえて不正確に描いたものと推測される。
小泊村と三厩村竜飛間は地図の上では道路がありながら、実際には道路がなく、幻の県道といわれていた。
昭和44年ごろ地図を頼りに津軽半島を一周しようとした学生が燕崎付近で遭難し、村人達に救助された事件がきっかけとなり、幻の県道として脚光を浴び、世間の注目するところとなった。
「龍泊ライン」が開通するまで、龍飛崎から(正確には袰内から)小泊の間に道らしい道はなかった。だが、当時の道路地図にはしばしば道が描かれていた。
ゆえにこの区間は、旧小泊村の関係者などから“幻の県道”(後には“幻の国道”)と呼ばれていた。
右図はまさにその悪状を表す昭和41(1966)年の道路地図である。このような不正確極まる地図が、冒険心ある一人の学生を危急に追い詰めたのであった。
この地図には、「未舗装の主要地方道」を示す薄緑色のラインが、まるで瑕疵などないようにはっきりと半島の海岸線を巡るように描かれており、「母衣内」と書かれた袰内集落も通過している。
この道は、昭和40(1965)年に青森県が認定した県道(主要地方道)中里今別蟹田線である。“階段”国道339号の先代といえる道だ。
このように袰内という土地は、“幻の県道”(昭和40〜50年)と“幻の国道”(昭和50〜57年)の時代における、かりそめの終点地だったようだ。
(このように実在しない道が地図に描かれていたシンプルな理由は、県道(主要地方道)の認定があったからだ。
当時の道路地図の表記は極めてテキトウなものであり、道が実在しなくても国道指定や県道認定だけを頼りに描かれることが、しばしばあった。
それだけを信じて旅をする行為は本当の“冒険”となることを、当時のベテラン旅行者なら、たいてい知っていたのではないか。)
……とまあ、私が袰内についていくら道路趣味的な旨味があると語っても、所詮は“階段国道”の威光の前で霞んでしまうことだろう。
良くも悪くも、有名な龍飛崎という土地の中ではどこまでも地味な脇役なのが、袰内である。
それは分かっているつもりだが、それでも語りたくなることが妙に多い場所だからこそ、つい長々と書いてしまったのである。
なんかそろそろ言い訳がましくなってきたので……、本編へGo!(苦笑)
2014/11/11 13:41 《現在地》
ここが言わずと知れた“階段国道”の降り口だ。
これが有るのと無いのとでは人気度に10倍は差が出るだろう“おにぎり(国道標識)”が、これ見よがしに設置されているのを見て、確かに萌えないわけではないのだが、どうせならここ以外の“自動車交通不能区間”にも、このくらい熱心に標識を立ててくれたら良いのになと思ったり思わなかったり。
とはいえ、人生初の“階段国道”は、やはり良いものだった。
これがまるっきりの観光目的で指定された国道だったら興ざめだろうが、そうではなく、先に無名だった階段に対しての国道指定(その前は県道認定)があったというのが良い。
さて、ここからが私の世界……観光ガイドを越えたマニア的な楽しみである。
写真は階段国道の降り口前の道路風景だが、なんだかえらくごちゃごちゃとしている。
このうち国道339号に指定されているのは、階段国道から鋭角に手前へ折れるルートで、この先は小泊へ通じる「龍泊ライン」である。
前説で述べたとおり、車で龍飛崎を通過したい場合は、国道を正確に辿っては駄目で、途中で青看の案内に従って村道を通行しなければならない。
だが、この交差点で手前に折れず、階段国道からそのまままっすぐ進むのが、袰内へ通じる旧国道である。
こうして交差点の線形を見るだけでも、旧国道の方がより自然な進路と感じられる。龍泊ラインと階段国道という、生まれた時代も利用方法さえも違う道路を1本の国道に指定しているから、このような不自然な線形になるのだろう。
(なお、この交差点から奥の龍飛埼灯台へ行く歩道があり、そこに「階段村道」という看板が立っていた。
「おおすげー!ここでは国道だけじゃなくて村道も階段なんだ!」と思うビギナーさんがいるのだろうが、市町村道の階段はあなたが住む市町村にも高確率であるからね(笑))
あと、今はもう「村道」ではないはず。(三厩村は平成17(2005)年に外ヶ浜町になった)
上の写真の「黄色い矢印」の先端で撮影したのが、この写真だ。
ここにも分岐があり、右に行くと龍飛埼の先端近いところにある駐車場へ行ける。
だが旧国道はここを直進し、「シーサイドパーク」の方へ向かう。
特にかつて国道や県道であった名残は見られないが、先ほども書いたとおり、線形が何よりも雄弁に、この旧道の峠道としての合理性を主張している。
階段で上って来た道は、ここで海抜70mの尾根に立ち、そのまま寄り道せず反対側へ下っていくのである。
いま前方に見える海は本州最北の日本海であって、2枚上の写真の背景になっていた津軽海峡ではない。津軽半島の中央分水嶺(そしてこれは本州の中央分水嶺でもある)を、ここで越える。
なお、左側に見えるフェンスに囲われた施設は、海上自衛隊竜飛警備所である。
今でこそ小さな敷地を占めるだけだが、戦前戦中まで津軽海峡の喉首を睨むこの地には巨大な砲台陣地が敷かれ、一般人の立ち入りや撮影は厳しく制限されていた。
これまで繰り返し話の中に出てきた、“階段”の代わりに国道の役割を果たしている“村道”も、元は軍用道路として建設されたものである。
だがその当時においても“階段”沿いには小学校などがあり、ずっと民用の道路として存続していた。
階段で上った分の高度を、反対側の海へ向けて急な坂道で下る。
でもこちら側は階段にしなければならないような地形の急さはなく、尾根から海岸線まで直線的に下るがゆえに急勾配なだけだ。
それにしても、日本海側は地表の眺めが驚くほど冴え映えとしている。
その理由は単純で、視界を遮るような木がまるで生えていないからだ。
言うまでもなく、日本屈指の強風地帯である環境に原因があるのだろう。津軽海峡の冬の季節風の厳しさは、「津軽海峡冬景色」という言葉だけで十分連想されることだろう。
これはいかにも日本海の海岸線らしい風景だが、その中でも木のないことの徹底ぶりは群を抜いている。数キロ先まで容易に地表の細かな凹凸が見通せるほどだった。
ちなみにこの日は凪に近い穏やかな風模様だったが。
なお、この龍飛崎にまつわる交通三大イベントといえば、“階段国道”、“龍泊ライン”と来て、あと一つは“青函トンネル”である。
これについても前者二つ以上に様々な資料や痕跡が周辺に点在しているが、説明しているとキリが無いのでスルーだ。
寂寞感…。
これが……、本州最北の日本海の風景…。
遙か遠く山口県長門市までおおよそ1700kmも連なる、裏日本海岸線の始まり……。
うん…、これが見られただけでも、来て良かった気がする。
以前長く暮らしていた秋田市が日本海に面していたせいか、私は日本海が大好きだ。
とまあ個人の感傷もさることながら、改めて、本当に世界の行き止まりを感じさせる景観だった。
この先の地形的には何の特徴もみられない場所に町境線が隠されており、その向こう側に道尽きる地、袰内集落がある。
そこは鋸歯状の凹凸を見せる岩礁が並ぶ半円の入り江に面しているようだが、おおよそ集落がありそうにも見えない寂寥の世界だ。
しかもそんな入り江の向こうには、かつて冒険学生が遭難したという、道なき領域が広がっている。
まさに、“幻の国道(県道)”の二つ名にふさわしい、さもあるべき風景だと思った。
この景色に立ちはだかられて、人は長い間、この先の道を諦めていたのである。
だが、それも最後に克服した。
そうして生まれた“龍泊ライン”がどこにあるかといえば、ひたすら海を嫌うかのように、風景の中の一番高い山の上に見えていた。
まるで、生半可な覚悟と知恵でここは越せないのだと、そう示すかのように。
13:47〜14:27 《現在地》
階段国道の頂上から500mばかり下って辿り着いた海岸線。
この場所は、上にあった看板に書かれていたとおり、「龍飛崎シーサイドパーク」という観光施設(主にキャンプ場)になっている。
しかし今が海の観光シーズンではないせいか、はたまたここが龍飛の中でも僻地だからなのか、なんだか妙に寂れた雰囲気だった。上には観光客がちらほらいたが、ここには誰も見当たらない。
いや、印象だけではなく、事実としてここには寂れが始まっていると思う。
なぜなら、この場所から龍飛崎の下を回り込んで階段国道入口の龍浜集落へ通じる海岸の遊歩道がある(地形図にも描かれている)のだが、それがものの見事に廃道化していた。
そこに寄り道していたせいで40分の時間を使った。(→レポートを公開しました)
シーサイドパークから遠望する、かつて“幻の国道”の在処とされた、袰内以南の海岸線。
どっしりと横たわる正面の陸地に、道は一切存在しない。
では、そのような区間がどれくらいの長さにわたって続いていたかといえば……
写真の中央右奥辺りの水平線にも、うっすらと半島状の陸地が見える。
あれがいわゆる小泊半島であり、旧小泊村の中心集落の小泊(村役場所在地)は、あの付け根にある。
距離にすると、ここから海岸に沿っておおよそ15kmである。だからこそ、こんなに霞んで遠くに見える。
そして昭和57年に開通した全長24kmの龍泊ラインとは、小泊集落から龍飛崎までの不通区間を一挙に解消するという偉大な事業であった。
つまりそれまで、この15kmの海岸線に自動車が通れるような道は存在しなかったのだ。
もっとも、本当の意味での道なし区間は袰内から約6kmの海岸線で、その先には戦前に小泊側から開設された小泊海岸森林鉄道が昭和43年まで存在していた。
14:30 《現在地》
シーサイドパークを過ぎると、道は海岸を右に見下ろしながら、かなりの勾配で海抜30m以上まで上っていく。
そうして400mほど進んだところに分岐地点がある。
直進するのが袰内への旧国道で、左後方から鋭角に合流してくる道は、「道の駅みんまや」(=青函トンネル記念館)を経て、これまで何度か話に出てきている“階段国道”代わりの村道や、龍泊ラインへ通じている。
前説で紹介した【昭和61年の道路地図帳】では、この左の道を国道としていたが、これは昭和40〜50年代の青函トンネル工事に伴って出来た道であり、国道339号が指定された昭和50年当時も工事用道路だったから、国道に指定されたことはないはずだ。
14:31 《現在地》
分岐地点を越えると、いよいよ観光地としての龍飛崎から離れたという印象だ。
今まで路傍の随所に見られた観光看板が姿を消して、まさにそう……、うら寂しい海縁の生活道路、あるいは旧国道と呼ぶにふさわしい雰囲気に変わる。
そして、この変化を待っていたかのように、もう一つの変化が来る。
分岐地点から100mほど進んだところにあるこの何気ないカーブは、郡境であり、町境であり、かつての村境であった。
ここまでは東津軽郡外ヶ浜町(旧三厩村)の大字三厩龍浜で、この先は北津軽郡中泊町(旧小泊村)の大字小泊である。つまり龍泊ラインの開通以前から、国道は三厩村と小泊村の境を越えていた。だがこの先の小泊村中心部までが余りに遠く、ずっと“幻”であり続けたのだった。
なお、この町境にはどういうわけか、それを知らせるような標識類が全く見られない。
ゆえに地図を見ない人であれば、この先の袰内地区も外ヶ浜町の一角だと思うだろう。
繰り返しになるが、この道の他に袰内への道はない。
境を越えて旧小泊村域に入ると、すぐに目指す袰内の集落が見えてきた。
最新の地理院地図には4軒の家屋が描かれているが、確かにそのくらいの家がポツポツと見える。
しかし、これを集落と呼んでも良いのか。そう疑わしく思えるほどに散在しているうえに、数も少ない。
その中では、一番遠くに見える青色の建物がとてもよく目立っていた。手元の道路地図に民宿と書かれている家だ。
土地は海沿いだが、仰々しい港湾施設らしいものも漁船の姿も見当たらない。
岩礁の一角に消波ブロックが並べられているので、小さな船着き場はあるようだが…。
龍飛崎は、観光地として県内有数の入り込み客数を誇る人気のエリアだ。
そしてそのイメージ戦略上のウリは、僻遠さにあると思う。
こう書くと語弊があるかも知れないが、それはいわば観光化された僻遠である。(物理的に大都会から遠いのは確かだが、時間距離的な意味でもっと行きにくい場所は沢山ある)
対してこの袰内は、龍飛から僅か数分でたどり着ける位置にあるにもかかわらず、ポーズではない本当の僻遠の色を残している印象だ。
やはり、別の町であることが影響しているのだろうか…。
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僻地が大好きな私としては、その極地であるところの離島は須く愛すべきものだ。
龍飛崎一帯からも、一つの離島を目にすることが出来る。
日本海上約50kmの遠きに浮かぶ、松前小島の姿である。
松前小島はその名の通り、北海道松前町に属する無人島だ。
面積1.5平方キロ程度の小さな島だが、標高300m近い山島であるせいか、遠さの割に大きくリアルに見えて、ゾクゾクした。
ちなみに北海道の最南端である白神岬より5kmばかり南に浮かんでいるので、離島も含めた場合の道南端の地である。
定期船の便はないが、漁船の避難港があるとも聞く。いつか行ってみたいものだなぁ…。
袰内集落の民家はいずれも道路の近くにあるものの、完全に道路沿いに建っているのは1軒だけで、他の3軒は道路と海岸の間の斜面や海岸近くに建っている。
いずれも普通の住宅で、何かしら日本海の寒村というイメージに沿った、例えば木板葺きの屋根に石を乗せたというような光景があるわけではない。
袰内にはバス停などの公共交通手段は(タクシー以外)ない。そのせいばかりではないだろうが、どの家の敷地にも乗用車が置かれていた。
写真は集落内(といっても、ポツポツと民家が道の下にあるだけなので、あまりそういう感じはしない)で山手を撮影したものだ。
巨大な堆積場のような人工斜面が見えるが、青函トンネルの残土処分場である。
もちろん、53kmも掘った土砂の総量はこんな程度ではなく、これは一部だという。
これが、あまり知られていない龍飛崎の“裏側”の風景だ。
「スタート地点」からここまでの約2kmの道のりは、この景色の中に納まっている。
龍飛崎の表側には、釣り人多い龍浜漁港や、看板多い階段国道、沢山の民家、様々な記念碑(太宰治の『津軽』文学碑も)などがあって、それなりに賑やかだった。
だがこの裏側はどうだろう。
間近に峙(そばだ)つ繁栄が、横たわる見えない境界線のためか、あるいは他の理由からなのか、未だ届いている様子がない。生来の僻地。
太宰が書いた「鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み」とは、やはりこのような景色を指しているべきだろう。
余談だが、この場所から龍飛崎を見て思い出したのは、佐渡島の最北端である二ツ亀だった。二ツ亀も明るくて気持ちの良い場所だが、南から見るとこんな感じの最果てらしい寂しさがあった。
14:35 《現在地》
北から数えて3軒目の建物が、唯一道路に面して建つ青い家だ。
ここまで、階段国道の頂上(レポの「スタート地点」)から約2kmの道のりである。
【昭和61年の道路地図帳】では、この地点までが国道として描かれている。
道は引き続き一本道で続いているが、間もなく海岸沿いを行くことをやめて、袰内川という小さな沢に沿って山中に入っていく。
かつて国道に指定されていたのは、海岸沿いを走る、ここまでの区間だったようだ。
ということで、この先の海岸線は、国道の指定が龍泊ラインに移される最後まで道が無いまま終わった、“幻の国道”の区間である。
明らかに、道はない。
極端に植生が貧弱であるために、道跡があるのではないかという変な期待を持たせる余地もない。
それでもよくよく見ると、1kmくらい先の海岸線に、漁具小屋か何かの廃墟が見える。
少し古い地形図にも、道はないけれども、あの辺りに数軒の小屋が描かれている。
今から半世紀近く昔、ここにありもしない県道を描く【黎明期の道路地図】を手にした冒険学生は、
当時は健在だったろう漁師小屋を心の頼りとして、この落莫たる海岸線に一人、足を踏み入れたのだろうか。
しかし彼は遭難し、海上をゆく小泊村民に発見されて九死に一生を得る。その現場となった燕崎はここから約1.5kmの位置だが、見通せない。
道は徹底的にない。ゆえに私の遊び場も、この先には存在しない。
この諦めのつきやすい圧倒的な断絶こそ、前から私が密かに訪問の機会をうかがっていた、袰内“幻の国道”の実景だった。
派手さも名残も遺物も何もないが、私よりも上の年代には、やはり昔の地図が原因で、この地に興味を持った人はいると思う。
これはそんな彼らへの報告である。
疑いの余地もなく、“幻の国道”は実在しないからこその幻であった。
本稿の表題である「国道339号旧道」は、ここまでだ。
だが先ほども述べたとおり、道自体はこの袰内川の谷へ入って、もう少しだけ続く。
そしてそこにも次なる探索の舞台が待っていた。
―― See You Next “廃”Stage! ――
以上が、中泊町の袰内集落を訪れた記録である。
単に通り過ぎただけであるから見た以上のことは分からないが、現在4戸が暮らしていると思われる袰内は、おおよそ集落としての共同体を単独で維持できる規模ではない。
車で数分の位置に外ヶ浜町の龍浜集落があり、国道もそこまでは来ているので、物資の移入は全て町外経由であろう。
ゴミ収集や学区制度がどう扱われているのかも興味深いところだが、おそらくこれも中泊町ではなく、外ヶ浜町側の委託で対応しているだろう。
ここはあまりにも中泊町の他の集落からは離れすぎている。
龍泊ラインがある今でさえ、中泊町の小泊集落(旧小泊村役場所在地)までは28kmも離れており、これは外ヶ浜町の三厩集落(旧三厩村役場所在地)へ行く倍の距離がある。
龍泊ライン開通以前に至っては、小泊までは延々と60km以上もわたって半島内部を迂回する必要があり、全く現実的ではなかった。
しかし陸路がこのような有様である一方、海況さえ穏やかであれば、小舟を出して“幻の国道”をなぞることが可能であった。
むしろそうした交通の便があったからこそ、この地に旧小泊村に属する小集落が存続出来たのに違いない。
平成10(1998)年発行の『小泊村史 中巻』に、「袰内地区の漁業」という項が設けられている。
最後にその記述を引用して、見ただけでは分からなかった袰内の生きた道を示そう。
袰内(ほろない)は小泊村字袰内番外地となっていて、地区は竜飛近くの海岸であるのに、国有林(北小泊山国有林)に村落がある。
住宅地、船着き場などは営林署で分けてくれた。
現在は浜野某、浜野某、浜野某、鳴海某、鳴海某(氏名なので一部略す)5戸が住んでいるが、多いときは6戸住んでいた。
小泊からも竜飛からも離れているので、電気、電話などは昭和の後半にようやく設置された。
漁業を営んでいるが、漁業協同組合は小泊の漁協に加入、船は竜飛漁港へ所属するなど、竜飛の生活文化圏である。
袰内地区は魚類が豊富で、年中休む暇がなかった。漁業の経営は青森の仕込親方に依存する経営であったが、漁が多いので生活は楽であった。
山陽丸という定期船が生活物資を運搬してくれるので、生活に不自由はなかった。
袰内地区では、現在、漁業を営むかたわら民宿を経営している。交通が便利になったので夏期間は人々で賑やかである。
子供の学校は、三厩小学校へ依託生として通学しているので、義務教育のときから下宿している。
住民たちの名字が、みんな海関係だ。
この小さな集落が廃れずに続いた根源は、隣り合う海の恵みにあったらしい。
その点においては、竜飛を路の果てと見た太宰(ちなみに彼は北津軽郡金木村(現五所川原市)の出身)も私と同じく、海を異界と感じる陸の民であったのだ。
完結。