ミニレポ第260回 三重県道730号桧山路南張線 後編

所在地 三重県志摩市
探索日 2019.02.12
公開日 2021.12.05

続・いわゆる「険道マニア」が利用する県道って?


入口から約2.4kmもほとんど勾配のない畦道のような道を進んだが、ついに山岳区間に入った。
この時点で終点までは残り1.6kmになっており、既に後半戦だ。

ここまでの徹底した道幅の狭さと、その主な利用者が沿道にある耕地の関係者であると思われる状況からして、山間部に入った途端に道が荒廃する危険性を疑っていたが、実際はむしろ逆で、道幅が少し広くなったほか、法面にもまだ新しい感じの治山工事が行われていたりと、これまでよりも普通の道路風景になった。




2019/2/12 12:00 《現在地》

300mほど坂道を登っていくと、真新しいコンクリートの堰を持った貯水池が現れた。
地形図に描かれている無名の池だが、堤の一角に【立派な石碑】が建っており、表面には流れるような達筆で「奥山池築造記念碑」と陰刻されていたほか、脇に小さな文字で揮毫者の名が「三重縣知事従四位勲三等 市村慶三 書」と刻まれていた。
市村慶三氏が三重県知事だったのは昭和4年から6年までの3年間である。



堤に立ち、湖面を一望した。
快晴の空の下でも、湖面は周囲の森の深い緑に染まっており、水鳥の姿さえなく森閑としていた。
池は、ここまで河口から辿ってきた南張川の源流だ。

ここから見る背後の山の稜線は、道が越えて行くためにはまだ少しかかりそうな高さに見えるが、実際に県道が越える峠はこの正面ではなく、手前を右に折れた見えないところにあり、峠と水面の比高は20mもないので、ここまで来れば、高さの面でも距離の面でも、峠は間近である。

ところで、帰宅後に確認した『角川日本地名大辞典三重県』の「南張」の項に、「昭和初年国の助成を得て、北東に奥山池が完成した」と書かれているのを見つけた。
このような大掛かりな池の造成には、必ず工事用道路を要したはずで、当地へ通じる唯一の車道である本県道の整備史上に大きな役割を担ったのではないだろうか。残念ながら記念碑にそうした事情は書かれていなかったが。

奥山池を後にする。



これが本当にあの「険道マニアしか通行しない!」といわれた県道の奥池の姿なのだろうか?! (←いやいや盛ってる盛ってる! 「しか」とは書かれてなかったから!笑)
池畔の一部は、ごく最近災害復旧工事でもあったのか、1.5車線の真新しい感じの舗装路となていた。




そこを過ぎると、落石か流石か知らないが、大量の小石が路上に散乱している、再び“険道らしい”風景に。
落ち込んでいる池側にもガードレールなどはないし、路肩も弱そうだ。
そしてやっぱり、退避スペースはあまりない。

こんな道が長く続くのかと、一般ドライバーなら恐怖し、険道マニアならテカテカと光り始めるところだろうが、何度も述べている通り、この県道はコンパクトなのである。
池の記念碑から約400m、南張の交差点からだと約3.1kmで、なんとなく期待感のある右カーブが現れ……




12:06 《現在地》

峠の深い切り通し!

海抜わずか60mの地図上無名の峠。

「ああ、いいな、ここ。」

思わずサイクリストの本音が零れた、峠らしい切り通し。

峠は現在、南張と桧山路の大字の境であるが、明治22年の町村制施行時点からいずれも浜島村の大字として継続してきた。
浜島村の町制施行は大正8年と古く、それから浜島町が長く存続したが、志摩郡5町の広域合併で平成16年より志摩市となった。



峠の切り通しを越えると、上ってきた道とそっくりの狭路が、勾配を逆さにして現れた。

峠から、県道の起点である桧山路の交差点まで、800m弱しかない。
この800m弱で落差40mほど下るという勾配も加味すれば、ここは自転車だと本当にあっという間の区間だ。
私も何か立ち止まって撮影するようなものがあれば速度を落しただろうが、ただの爽快な林間ダウンヒルだったので、路上に落ちている大量の枯葉や砂利にだけ注意しつつ、快感が赴くままにぶっ飛ばしてしまった。

そのため――




12:09 《現在地》

3分で下山完了!

本当にあっという間に下界っぽい景色に辿り着いた。
南張側のような広い耕地が広がる谷ではなく、ちょっとした矢戸っぽい風景。
ちょっと先に民家が見えるが、ここはもう桧山路集落の西の外れである。県道起点まで、残りたったの200m。
もう終わりだぞー。



で、この最後の200mほどが、思い出したようにまた狭い。

地形に恵まれない山の中では道が広く、田んぼや民家とか他人さまの財産を譲って貰う場面では必ず狭くなる。道として、なんか肩身の狭さを感じる(苦笑)。
この写真の民家の住人さまには大変申し訳ない表現となるが、幅2m弱の弱小県道を、山際へ押しやって住んでおられるように見える配置だ。
ここは特に塀があるせいで、これまでで一番狭さを実感しやすい場面かも知れない。
最後に、この道らしい険道風景が帰ってきた。




起点である交差点が見えたが、

最後の最後まで狭い!(嬉)

というか、繰り返しネタのように使って、本当に恐縮なんですけど……




明らかに県道より、沿道の一軒家へ入っていく轍が濃い!

あと、道幅も県道の方が狭い。

そりゃあ、お家には基本毎日出入りしますからね。県道の自動車の通行量がそれ以下だったら、こういう景色になるのはおかしくないんでしょう。

そう。
おかしいのは県道の方です。




ほんっとごめんなさいね。
不審者みたいに後ろ向きに歩きながら、遠ざかる民家を撮っている。たのしい!
この県道はちょうどここが起点なので、これは起点から進入した場合、最初に目に飛び込んでくる風景ということになる。

これはなかなかのインパクトだと思う、個人的に。
一見すると県道ではなく、民家へ通じるだけの道っぽい。
でもそんな疑念を打ち消すように、終点側にも設置されていた「この先幅員狭小最小幅員2.0m」の県立看板が経っている。なるほどここは県道だと分かる。
マニアは、こういうのが、本当に大好物である。



12:12 《現在地》

最後の最後にとびきり濃ゆい“険道シーン”も見せていただきつつ、起点へ到達。

どこにでもある2車線の県道112号磯部浜島線が、信号も青看も用意せずに小さな“卒塔婆標識”だけを持って待っていた。
左に行けば磯部、右に行けば浜島だ。

県道桧山路南張線、全長約4kmの自転車走破に要した時間は約35分。
すれ違った対向車の台数は計3台。
感想を一言で述べるとしたら、小さくてかわいい。


あっ、これって、“手乗り県道”って感じじゃね?
なぜか急に、脈絡もなく、このワードが浮かんできた。
現地報告は、以上である。




 ミニ机上調査編 〜険道マニアが喜ぶ険道の由緒を探る〜



沿道の風景、峠の切り通しと、奥山池。

可愛らしい県道桧山路南張線は、どのような背景を持って誕生した道路なのだろう。
峠の切り通しの深さや雰囲気からしても、この道は最近に生まれたものではなく、それなりに長い歴史を抱えていそうであった。
また、峠の近くにある奥山池は昭和初年に国の助成を受けて完成した大規模な農業用溜池だそうであり、この工事の遂行上にも必要な車道だったろうと感じた。

道路の由緒を考えるうえでは、二つの視点を持つ必要がある。
一つは道路が土木的な意味で誕生した時期や経緯であり、もう一つは県道という格を持つに至った時期や経緯である。
仮に奥山池の造成に道路整備が関わっていたとして、これは前者の内容といえるだろう。

桧山路南張線は全線が旧浜島町内に存在しているので、同町が平成元(1989)年に発行している『浜島町史』を確認したいところだが、残念ながら手配が間に合わなかったので、それ以外の調べうるソースから、本道の過去を探ってみることにした。

まずは県道としての歴史だが、本県道を「険道マニア向け」のように案内していた(?)ウィキペディアの解説ページによると、県道認定は昭和34(1959)年だそうだ。
路線番号が「730」というずいぶん大きな数字であることと、交通量の少ない山間部の短距離路線ということで、平成以降に認定された路線かと思いきや、意外に認定が古く、しかも認定以降路線名は一度も変っていないようだ。

三重県の県道の変遷については、江田沼音氏のサイト「机上の道を辿る」に、現行道路法下で県道の認定が行われるようになった昭和29年以降の内容が網羅されており、大変参考になった。
次の図は、同サイトの情報を元に作成した、志摩市周辺地域の国道および都道府県道(主要地方道と一般県道)の変遷である。


@
昭和34(1959)年度末
A
昭和40(1965)年度末
B
令和2(2020)年度末

一般県道県道桧山路南張線は、昭和34(1959)年1月25日になされた三重県告示によって認定された267本の一般県道に含まれていた。
これは現行道路法下での三重県における最初の一般県道の認定であり、これに先駆け昭和30(1955)年に認定されていた30本の主要地方道と合わせて、初期の三重県道網の布陣(合計297路線)が整えられたことになる。

右図の「@」はこの段階の路線網であり、現在の状況である「B」と比較してみると、接続する路線は変化しているが、路線の位置や長さはほぼ変化していないことが分かるだろう。
現在この地域に存在する県道の多くが昭和34年までに認定されていたが、後に他の路線のほとんどが2車線に整備されている中で、この路線だけが取り残されている印象を受ける。このことの背景については、後ほど考察してみたい。

右図の「A」は、昭和40年度末の状況を示している。
「@」と比較したときの最大の変化は、昭和38(1963)年に国道260号が認定されたことである。
同国道の誕生により、志摩半島の風光明媚な海岸線を巡る道路の整備は一挙に進むことになるのであるが、それと引き換えるように、桧山路南張線と接続する県道が1本消滅していることに気付いただろうか。

私もこの机上調査をするまで全く知らなかったが、昭和34年の一般県道の第一次認定では、路線番号731を持つ一般県道南張南勢線という路線が、一般県道桧山路南張線の中間付近から分岐するように認定されていた。だが、この県道は僅か2年後の昭和36(1961)年10月1日に廃止されている。この道についても後ほど少し補足したい。

ここで少し話が脱線するが、桧山路南張線は昭和34年の認定当初から今と変わらない730番の路線番号を与えられていた。
路線総数は300に満たない程度なのに、なぜこのような大きな番号があたえられたのだろうか。これは現時点で三重県だけが採用している、一般県道に対する独特な採番ルールに起因している。
三重県は、101番以降に始まる一般県道の路線番号について、道路法が第七条第一項で定めている「都道府県道の6つの認定要件」(このうちどれかの要件を満たした路線が都道府県道になる資格を持つという条文)のうち、どの認定要件を根拠に認定したかということを、100の位の数字で表わしているそうだ。ここで6つの認定要件の羅列はしないので、条文を確認するか、より分かりやすい解説を試みた私の新刊を読んでみて欲しい。
そして700番台は、最後の6つ目の認定要件である、「前各号に掲げるもののほか地方開発のため特に必要な道路」を根拠に認定したものを示しているのである。


桧山路南張線は近年に県道認定されたが持て余し気味となっているような路線ではなく、年季の入った県道であることが分かった。いわば、生え抜きの“険道”なのである。(この評価は嬉しくないだろうが)
と、こうなると、現行の道路法ではなく旧道路法の時代から既に県道だったのではないか? という推測が生じたので、さらに調べてみた。

大正8(1919)年に公布され昭和27(1952)年まで有効であった旧道路法下の三重県道の一覧は、国会図書館デジタルコレクションで公開されている古い『三重県統計書』に見つけることが出来た。
確認できた中で最も新しいのは昭和4(1929)年版である。(それ以降の版は欠番であったり、県道一覧が廃止されたりで、見られない)


右図は、昭和4年版『三重県統計書』に掲載されていた県道一覧や、後述する旧版地形図などを参考に作成した、昭和4年時点の県道網図だ。
旧道路法時代の県道(正式には府縣道)にも、後の主要地方道にあたる指定府縣道とそれ以外の区別があったが、資料からは判断できなかったので全部同じ色で表現した。またこの地図の範囲内に国道は存在しなかった。そして比較のために掲載した地図は先ほども掲載した昭和34年版である。

新旧の道路法に準拠した県道網を見較べてみると、路線名以外にはさほど大きな違いはないことが分かる。
まあこれは当然で、法律が代替わりししても、地域にとって必要とされる道路の位置に大きな違いは生じないのだ。それこそ地域に劇的な変化が起こらない限りは。

ただ、我らが「マニア向け険道」についてみると、変化がある。
昭和4年当時、現在の桧山路南張線の東側半分はまだ県道になっておらず、西側半分だけが県道五ヶ所宿田曽(シュクタソ←かわいい)線に組み込まれていた。
そしてこの五ヶ所宿田曽線こそは、先ほどちょっと触れた、昭和34年に認定されたが僅か2年で廃止された県道南張南勢線の先祖にあたるものだった。つまり南張南勢線の県道としての由緒は、現存している桧山路南張線よりも深かった。

ここでまた少し脱線だが、現地探索では全く意識の外にあった“幻の県道”である南張南勢線(元・五ヶ所宿田曽線の一部)がどこにあったかを示したのが、次の図だ。


どうやら、最新の地理院地図に破線の徒歩道として描かれているこの峠道が、五ヶ所宿田曽線および南張南勢線のルートだったようだ。
道は峠部分で等高線を著しく登降しており、もともと車道ではなかったように見える。

この峠に名前の注記はないが、現在は志摩市と南伊勢町の境で、古くはもっと大きなカテゴリの境界だった。
この峠がある稜線は、我が国のいわゆる旧国と呼ばれるものの境であった。すなわち、北側は伊勢国、南側は志摩国に属する地域だった。
もっとも、本土にある国の中で圧倒的に人口も面積も小さかった志摩国は、もともと伊勢国から分置された事実上の属国で、両国の国境は他国のものほど大袈裟ではなかったようだ。

そして、「全国Q地図」の情報によれば、地形図に描かれているこの峠越えの道のうち、少なくとも南伊勢町側の区間については、同町が認定した町道「南張越路線」であるらしく、路線名が越境しているのが分かる。県道ではなくなったが町道としては今も越境路線なのだと思う。




現地では全く気付かなかったこの“幻の県道”との分岐は、この写真の場所であった。

確かに写真を見返すと左に道が分かれているが、ただの畦道にしか見えない。というか、現状はたぶんその通りなのだと思う。
だが、ここまで知ってしまった以上は、いずれ再訪で確かめたいと思う。
机上調査の過程で偶然知った“幻の県道”についての脱線は、以上である。



右図は、昭和3年版の『三重県統計書』に掲載されていた地図の一部だ。
この地図には凡例がないが、図中の一番太い線は指定府縣道、実線はそれ以外の府縣道、うっすらと見える点線は町村道のうち重要なもの(おそらく数年前まで郡道に認定されていたもの)を描いているとみられる。
現在の桧山路南張線の西側半分が県道五ヶ所宿田曽線の一部に組み込まれており、東側は点線になっている。

ここで注目したいのは、現在の国道260号にあたる海岸沿いのルート(浜島〜南張〜宿田曽〜五ヶ所)の大部分がまだ県道になっておらず、五ヶ所宿田曽線が宿田曽に至る唯一の県道であったことだ。

英虞湾と五ヶ所湾の間に突き出た半島の先端を占める宿(しゅく)浦と田曽(たそ)浦の二つの地区からなる宿田曽は、昭和30年に度会郡南勢町(現在の南伊勢町)と合併するまで度会郡宿田曽村という独立した自治体を形成していた。古くから遠洋漁業の基地として栄えた土地であり、それゆえ旧道路法時代からここを終点とする県道が認定されていたのであろう。
とはいえ、当時の五ヶ所宿田曽線はあまりにも貧弱なものであり、宿田曽が事実上は陸の孤島になっていたことは、想像に難くない。

いずれにしても、今回探索した狭い狭い県道の西側半分が、現在の国道260号よりも早い時期に県道へ昇格していたことは、意外な発見であった。
やはり、早くに県道になっても、実際の道路としての整備が伴わなければ簡単に追い抜かれてしまうということなのだ。

以上の調査によって、昭和4年頃まで、桧山路南張線の東側はまだ県道ではなかったことが分かった。
そして残念ながら、これ以後の旧道路法時代における県道の細かな推移は不明である。


しかし、旧道路法時代の最末期にあたる昭和24(1949)年に描かれた右の地形図を見ると、現在の桧山路南張線の全線が県道を示す太い二重線で描かれていた。
また、浜島から宿田曽に至る現在の国道260号のルートも、新たに県道に昇格している。
やはり旧道路法時代の末期には、桧山路南張線にあたるルートの全線が県道に昇格済で、昭和34年の県道認定はその再任だったようだ。

しかも、全線が車道として表現されていた。道幅は現在と同じように狭かったはずだが、当時と今とでは同じ道幅に対する感じ方は全く異なっていただろう。当地に限らない話だが、戦前から存在していた荷車相手の軽車道が、その後に大掛かりな拡幅を受けないまま現在に至ると、例外なく“狭路”となる。このパターン(=古くからある県道があまり整備されず今日まで継続している)の“狭路険道”は、これまで非常に多く取り上げてきたところである。というか、狭い険道の大半はこのパターンだ。平成や令和時代にこういう道を新築することはまずない。

なお、ここまでは県道という道路の格の推移に焦点を当ててきたが、冒頭で述べたもう一つの視点である土木的な面での道路整備も、この地形図の変化からある程度推察できる。
チェンジ後の画像は昭和43(1968)年版だが、宿田曽から下津浦まで、五ヶ所湾の険しいリアス式海岸を越えていく国道が誕生している。
この部分の地形が険しいためになかなか道路整備が進まず、宿田曽は長らく陸路の終点となっていたのである。
そしてその時代までは、今以上に桧山路南張線に需要があったのだろう。



桧山路南張線を誰がどういう経緯で現状のような車道として整備したかについては、情報が乏しく不明である。
奥山池が昭和初年に整備されたことを契機に車道化されたのではないかと考えてはいるが、これも憶測である。
ともかく、この県道には県道としてのずいぶんと長い経歴があることだけははっきりした。そして、現行道路法のもとにおいても引き続き、「地域開発に特に必要な道路」と認識されていることも分かった。

にもかかわらず、現状のような低整備状況に長らく甘んじている原因は、なんだろうか?

机上調査中に知ったこととして、起点の桧山路にも終点の南張にも、もとは平家の隠れ里であったという開村の由来が伝わっていることが分かった。
平家落人の呪いで県道整備が滞っている…… はずはないが、要するにこの県道が結ぶ土地は、もともと都の目が届かないような辺鄙なところだったということだ。
そういう地方の小集落同士を繋ぎ、そのうえ途中集落も全くないこの県道は、単純に、整備の優先順位が低かったのだと思う。
これよりは、風光明媚な海岸線や浜島町の中心地を通る国道260号や、名古屋方面へ通じる県道浜島阿児線の整備が優先されてきたのだろう。
そして実際に上記の幹線道路が整備された結果、その並行路線に過ぎない本路線を積極的に整備する必要性が薄れてしまったものとも思う。

では、将来にわたっても、ずっとこのままなのだろうか。
もちろん未来は分からないが、これについて一つ参考になる情報があるので、最後に紹介しておこう。
平成22(2010)年の志摩市議会第4回定例会で、この県道の整備の見通しについて市長が答弁をしていた。
今回紹介した県道の風景の数々を思い出しながら(ポワポワポワー)、耳を傾けていただきたい。


小田幸道 議員
もう1点ですね。県道南張桧山路線の道路は、ここ3年ぐらい毎年川沿いの道路下の土手が崩落し危険な状態にあります。県にはその都度、連絡をしているとはいうものの、応急処置しかしていなくて道路のあちこちが傷んでおります。天下の県道が泣いておるわけであります。大規模地震・津波など災害が発生したときは、避難・救助、あるいは物資輸送などに支障を来す恐れがあります。抜本的な対策が必要であろうかと思いますが、この2点について答弁を求めます。
大口秀和 市長
次に、県道桧山路南張線の対策についてですが、この県道は浜島町南張地区の圃場整備内を通り、桧山路の生涯学習センター横へ抜ける県道です。南張地区の圃場整備区域より桧山路地区方向の耕地は十分に耕作、適正な保全管理がなされており、耕作に伴う作業車や耕作する人の往来が多いものと思われます。しかし、県道は狭わいで通行に危険であり対向車があった場合にはすれ違うことができない状態です。災害で崩落した箇所もあり、確かに安全でない道路であります。
この路線は抜本的道路改良工事がされていないものの、志摩建設事務所では平成17年度より待避所設置などの要所での改良工事を行い、平成21年度までに6,000万円を超える測量設計、工事を行っており、安全の確保に努めてきております。抜本的な対策を行うのが道路改良の本旨ではありますが、なかなか進んでいないのが実情であります。
浜島町地内では、市民の念願でありました県道浜島阿児線浜島バイパスが平成22年3月に完成、供用開始をしております。これにより、浜島地区だけでなく南張地区の住民の方にはより安全で早く通行できるようになり、道路環境の整備は一段と進みました。志摩市では塩屋地区住民の道路環境の向上のため、塩屋バイパス事業の着手について志摩建設事務所には強く要望しているところでございます。この路線要望は志摩市としても早期完成を願い、市の最優先事業として位置づけているところであります。この完成により、塩屋・桧山路・浜島地区、そして南張地区住民の方により快適な道路環境を実現できたものであると考えております。県道桧山路南張線改良の必要性は十分認識しておりますが、塩屋バイパスの実現を最優先する中で従来どおり必要箇所の改良を行っていただくよう志摩建設事務所には要望してまいりたいと考えております。
志摩市議会平成22年 第4回定例会会議録より

さすがに市長は“険道マニアが愛用している”などとは述べられなかったが、本県道の狭さ、特に対向車が現れたときのヤバさは、大いに認識されているらしい。
そのうえで、志摩市としては県道浜島阿児線の整備を最優先に要望しており、積極的に本県道の整備を要望するつもりがないと明言されている!(涙)

……まあ、そうだよね。
というわけで険道マニア諸兄は安心しても良い。愛くるしい“手乗り県道”状態は、当分の間、このまま続く模様である!




完結。


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