ミニレポ第273回 富山県道359号石堤大野線にある“特異な線形” 後編

所在地 富山県高岡市
探索日 2018.10.27
公開日 2023.06.23

地図で妙にギザギザした道は、本当にギザギザしていた!


2018/10/27 14:10 《現在地》

この世の中に道路よりも大切にされるべきものがどれだけあるのかは不明だが、経験として、道路という公共物には公共性という大義名分があるために、周囲のさまざまなものに対して少なからず優先性を持っていると感じてきた。例えばそれは、新たな道路を整備する時に私有地が収用され得る制度の存在からも見て取れる。

だが、ここにある県道359号石堤大野線のワンシーンはどうだろう。
いまだかつて、こんなにも道路が脇へ追いやられていると感じたことがあっただろうか。
これは私にとって、もの凄く新鮮な驚きのある風景だった。

技術的な問題でこういう迂回した道になっているわけでないことは確定的に明らかだ。山や谷がこうさせているのでは決してない。
この県道、確かにここまでも狭隘な部分が多く、周囲の他の道路に対し優先的に整備されてきた道路でないと感じるものの、それでも通行人の立場から目の届く範囲ではそれなりに優先・優遇がされていて、出来るだけ通行の不便がないよう取り計らわれていると感じていた。そしてそれは当然のことだと、自然に受け入れていた。

だが、ここで突如、県道は思いっきり隅へと追いやられていた。



後の机上調査の結果を踏まえた結論を先に述べると、

この舗装された敷地の一画に、とても意味ありげに敷かれた白線――

県道の用地は、概 ねこの白線 の左側に限定される。

これは地形との整合性において極めて違和感が強い線形だが、意味深に敷かれた白線の意味そのものは、全く以て常識的なのである。
すなわち白線は、道路の路端と車道の間に設けられる道路外側線という種類の道路標示である。車線を区切る区画線や中央線の類ではない。

もっとも、この車道外側線の外側のどこが路端なのかは、現地には明確な表示物がなく不明である。
しかしともかく、この白線(道路外側線)からさほど離れない位置に県道と路外の用地界が存在している。
物理的には、この白線を無視して、斜めに土地を突っ切る形での走行も可能だが、その場合、法律的には完全に道路の外をはみ出して走行していることになる。



自動車教習所以外では見たことのない、虚無感にまみれた道路風景(笑)。

しかし、行儀悪く道路の外を走るのが嫌ならば、白線の左側に沿って通行する必要がある。
左の路肩(草地との境)から右の白線までの距離はおおよそ3mだ。この数字は、現行の道路構造令が認める車道幅の最小値(特例値)となる。

そしてドライバーの目線で見ると、私の自転車がとんでもなく邪魔くさい位置にあると感じるだろうが、これを踏むようなライン取りは教習所なら落第だ。小回りの苦手な車種にとっては、もはや悪い冗談みたいな線形になっている。特にこの区間に大型車等の通行規制はないものの、この線形をはみ出さずに走れる車は自ずと限られてくる。はみ出して走ったところで実際のペナルティはないであろうが……。




ぽつーん。

この位置に置かれた自転車の場違い感よ。
車が来たら、ぜったいにクラクションを鳴らされる自信がある。
いつまで経っても車が現れる気配は全くなかったが……(県道なのに……)。

ちなみに、奥の田んぼの中を電信柱を従えた広い道路が横切っているのが見えるが、あれが実質的に県道の代替として利用されている市道土屋馬場線である。
あそこを通れば良いのである。わざわざ県道に拘らなければ……。

チェンジ後の画像を見て欲しい。
県道を、このように隅へ追いやり、遠ざけ、迂回させている、その“主犯”の座するに相応しい位置に、立派な台座に安置された大きな石碑がある。
石碑の背後には、少し前までずっと県道と一緒にいたあの用水路が流れている。



(碑文―表面)
  五位庄用水 完工記念碑
 五位庄用水路は、昭和27年から40年代にかけて県営小矢部川下流左岸用排水改良事業により整備されたが、40年あまりが経過し施設の老朽化が進み、洪水時や渇水時の水量の調整が大変困難になっていた。このため、組合員の深い理解と協力のもと県営かんがい排水事業として平成12年度に着手し本日完成の運びとなった。
 (中略)
 平成22年 2月 吉日
福岡町土地改良区 五位庄工区管理委員会

(碑文―裏面)
  事業の概要
事業名 県営かんがい排水事業 五位庄地区
 (中略)
工事概要 水路改修 延長8.4km
 (以下略)

この石碑によって県道の最寄りにある用水路の素性が判明した。
五位庄用水という富山県が整備した用排水施設であり、平成12(2000)年から22年にかけて行われた大規模な改修工事の完成を記念してこの石碑が建立されていた。
碑文の中で道路(県道)についての言及はないものの、少なくとも今いるこの部分の道路については、石碑があるこの敷地と一体的に整備されたもののように見える。

敢えて石碑を設置するために、道路を折り曲げ、このような奇妙な線形としたのか、それとも、もともとこのような線形があって、後から傍らに石碑が設置されたのか。
これについては帰宅後に調べてみたい(机上調査)。
まずは現地調査を継続だ。



石碑の位置から、いま来た道を振り返って撮影した。

ここへ来る直前にも丁字路があった。
丁字路を曲がった直後は2車線の道路幅があるのに、石碑があるこの角地に突き当たると再び1車線になり、しかも舗装された四角い用地の隅を迂回するという奇妙な線形になっている。
いろいろなモノがちぐはぐになっている印象で、道路としての通行のしやすさを優先すれば絶対に作られない線形だ。

もっとも、すぐ近くに2車線の市道が並行していて、そちらは何の疵もない理想的な快走路だ。そちらを通れば良いのだ。ここで県道に拘っているのは、多分我々のような道路マニアだけだ。




同じ立ち位置から、今度は県道の進行方向を見ている。

四角い土地の隅を通らされた県道は用水路に突き当たるが、それを渡る正面の橋を無視して左折。自分の定位置が水路縁であったことを思いだしたように激狭の水路沿い道路となって、奥にある市道との合流地点を目指す。




私は、この道路線形の不思議さと面白さに魅入られてしまい、わざわざ一度引き返してまで、一連の奇妙な線形を1枚の写真に収める努力をしていた。
そしてこの写真と次の写真を撮影した。




何度見ても、この部分に吹き出してしまう。

しかし、もし白線が敷かれていなければ、この奇妙な状況は、もっと遙かに“地味”だったはずだ。県道の位置は同じでも、白線がなければ、この奇妙さは浮き彫りにならなかった。

だが、私は知っている。
悲しいかな嬉しいかな、我々の愛する日本の道路管理者は、その多くが律儀であり仕事熱心なのだ。ここまでの経路に、わざわざ【こんなん】【あんなん】を置いてくれるほどに。

だから、道路と道路外を区切るこの白線(道路外側線)も、こんな風に描かざるを得なかったのであろう。
だからといって、物理的にショートカットした通行を妨げていないのも、面白いところ。
どう考えたって、面白がった道路マニア以外、誰もこの白線通りには車を走らせないだろうに。



グーグルマップから転載

これを見て欲しい。(→)

これは最新のグーグルマップの空撮写真でみる現在地の周辺だが、空から見ても、1本の白線によって無理矢理に隅へ追いやられた県道の姿は鮮明だ。

が、そこに刻まれた轍の行儀がすこぶる悪い。

みんなショートカットしまくっているのがバレバレである。
それでも白線がまだ消えていないのは、そもそもの通行量が少ないせいなのだろう。
これまでここを白線に従って正しく通行した車がいるのかすら疑問である。

そして、コンプライアンスを体現する我らがグーグル社も、やらかしてしまったらしい。
画像中の青い線は、同社が撮影したストリートビューの存在を意味しているのだが、なぜかこの角の部分だけストリートビューが撮影されていない。

私には、その理由は一つしか考えられない。
ストリートビューを撮影するグーグルカーも、うっかり道路外を走ってしまったのだろう。
だが、撮影した画像をチェックする段階で、それが問題になった。道路外を撮影した画像は使えないとなったのではないだろうが。この辺りの敏感さも、さすがはグーグル先生だ。





それではさいごに、この場所の通行のお手本を“全天球動画”でお見せしよう。

(↓↓↓)



みんなもちゃんとこうやって通ってね!





2018/10/27 14:16 《現在地》

未だ、ヘンな道路を発見してしまったことへの興奮は醒めやらないが、いつまでも立ち止まってはいられない。
県道の経路に従って、奇妙なギザギザ道路を離れつつ、振り返って撮影したのがこれらの写真だ。

こちら側からギザギザ道路に進入する場合、反射材を取り付けた3本のポール(デリニエータ)が、白線に沿って通行するように誘導している。
まあ、すぐにポールが途切れるので、そこから先は白線を無視して進めるが、とりあえず誤って盲進し石碑に衝突する事態が起らないように配慮されている。親切だ。




こちらは進行方向。

再び水路の肩というこの県道らしい定位置へ復帰した。
道幅も3mギリギリと他の区間に増して狭く、直前のギザギザ道路に引き続いて、県道としての通行量は相当に少ないことが想像出来る、そんな舗装の状態だ。白線すらなく畦道チックだ。実際の利用実態も畦道と変わらないことだろう。水路側のガードレールだけは新しいが…。

そしてすぐに2車線の市道土屋馬場線にぶつかる。




16:17 《現在地》

市道にぶつかると、久々に県道は2車線を得る。
しかしそれは市道の延長でしかなく、ぶっちゃけ県道は空気。
しかも、2車線になったと思いきや、わずか20mほどで県道はまた狭い道、いかにも旧道っぽい右の方へ折れていく。
馬場集落の次に控える加茂集落へは、この狭い道で入っていく。

県道は空気だと書いたが、相変わらず大半の分岐地点に県道の行先を矢印で示す小さな案内標識が【完備】されている。県道を求める者をちゃんと辿らせるつもりがあるのは感じられる。

チェンジ後の画像は振り返って撮影した。もし右の広い市道が県道だったら、私はあの“特異な線形”を知ることなく平凡に一生を終えたことだろう。



起点から本県道へ入っておおよそ2.6km進んで来た。この県道の総延長が約4.8kmなので半分を少し過ぎたことになる。
この間、山際と水路に沿っていくつかの似たような集落を通り過ぎてきたが、これから入る加茂集落が、山際と水路を友として歩む最後だ。




14:18 《現在地》

加茂集落に入って間もなく十字路にぶつかる。
ずっと寄り添ってきた水路は正面の道に沿って続いており、明らかにそこが“道なり”なのだが、どういうわけか県道はここで突如左折し、同時に山際と水路に別れを告げて広大な砺波平野へと向かっていく。いままでそんなそぶりは少しも見せていなかったのに。



加茂で左折した後の県道は、地味な2車線道路となって、
これまでよりはいくらか多い通行量を与えられながら、2km先の終点を目指す。
実は私もこの辺りで県道を離脱して探索を終えたので、その終点は見ていない。

現地レポートは、以上である。



 ミニ机上調査編  〜“特異な線形”はどうして出来た?〜


マイナーな県道の片隅で、これまで道路ファンにすら発見されずにいたらしき今回の“特異な線形”だが、それが生まれた経緯を明言した文献や関係者の証言は未だ得られていない。以下の机上調査編の内容は、本編同様、私の個人的調査の報告であり、推定に過ぎない不完全なものであること予めお断りする。



『土木のしおり 土木事業概要 昭和49年度』より

まずは県道石堤大野線の全体に関する経歴だが、ウィキペディアにある同路線の解説ページには、富山県の『道路現況調査資料』(2010年)を典拠として、実延長4753m、昭和48(1973)年3月31日路線認定と書かれている。

右図は、富山県土木部が昭和49(1974)年に発行した『土木のしおり 土木事業概要 昭和49年度』に掲載されていた富山県路線図の一部を切り出したものだ。
黄色く着色した部分が県道石堤大野線であり、現在と同じ位置に起点と終点を持つ県道が確かに描かれている。ただし路線番号は今と異なる「259」である(現在は359)。
そして、全県分を1枚の地図にまとめている小縮尺なのでやむを得ないが、経路はかなりデフォルメ&シンプル化されており、この地図から厳密な意味で今と同じ経路が県道に認定されていたかを判断することは出来ない。

平成17(2005)年に高岡市と合併してその一部となった西礪波郡福岡町は、昭和44(1969)年に町史を発行している(『福岡町史』)。
目を通してみると、町内の国道および県道を列挙した部分があったが、発行時点で石堤大野線はまだ存在しておらず、かつその前身と考えられる別路線も認定されていなかったようである。
町内の道路網全体については、「(福岡町は)古くから物資の集散地であって、特に穀物においては県内農家の出荷の約3%をしめており…」と、道路が町の主要な産業であった米作に果たす役割を強調しているが、本県道が認定される経緯に関わる直接的な内容は見当らなかった。

地図を見る限り、この県道は中間地点(レポートの終点)である加茂地区を境に、性格を二分しているように感じる。
起点側の前半は、丘陵と平野の境界に沿って開発されたいくつかの農村集落を結ぶ、いかにも自然発生的な古道に由来しているように見える。江戸時代に開発された五位庄用水が道路に沿って存在するが、仮にそれがなくても道路は存在したと思う立地である。
一方、レポートしなかった加茂から先、終点までのルートは進路も景色も大きく変わり、丘陵から離れて小矢部川の両岸を最短で結ぶ直線的なルートとなる。町史によれば、小矢部川を渡る三日市橋は、昭和28(1953)年に初めて架設されており、町史刊行時点では町道福岡加茂線に属する木橋だったようだ。これを永久橋へ架け替える計画があるとも書かれていた。そのために県道へ昇格させたのかと思ったが、調べてみると永久橋化は昭和47年(県道認定の前年)に果たされていた。

ともかく、この県道は前部と後部で大きく性格が違っていると感じるが、これを敢えて一つの県道とすることで、限られた県道の認定枠を最大限活用し、かつ認定要件に適応させようとしたものと想像出来る。こういう作為が感じられる県道認定は珍しいものではない。(実際の交通の流れに沿った認定にしなさいという通達は昭和29年からあるのが…)。しかし、その限られた枠の中で敢えてこの道路を県道に認定した積極的な理由がどこにあったのかは突き止められなかった。何か理由(陳情)があったのだろうが。



@
地理院地図(現在)
A
昭和59(1984)年
B
昭和5(1930)年
C
明治42(1909)年

歴代地形図のチェックをしてみた。(→)

1枚目は最新の地理院地図であり、本編でも何度も見ていると思うので、2枚目から。
2枚目は、昭和59(1984)年版だ。
県道の塗り分けがないので、この地図からどこが県道なのかは分からないが、実際には現在の県道と同じ経路が既に県道石堤大野線として認定されていた。
今と経路が違っていると推定される部分は特にない。というか、この頃から認定ルートの変化が未だにないというのが正しい表現だろう。おそらく、昭和48年の県道認定当初から、ほぼ現在と同じルートで認定されていたと思う。

昭和59年版から現在の間で大きく進歩したのは、舞谷から馬場までの区間が拡幅されたことだろうか。この区間は本県道の加茂以北では珍しい“完成された”区間である。
また、馬場や加茂の集落については、近くを迂回する2車線の道路が町道土屋馬場線(現在は市道)として整備されているが、この道路は昭和59年には既にあったことが分かる。この道路を県道としなかった理由も謎である。

3枚目は、一気に時間を遡って昭和5(1930)年版である。
現在の県道の経路は、この地図にも既に道として存在している。現在の県道の姿を見れば一目瞭然ではあるが、やはり古くからある道に由来していたのだ。

とはいえ、当時としても整備された道ではなかったようだ。特に石堤から加茂までの区間は、大半が単実線の「幅員1〜2mの里道」か単破線の「幅員1m未満の小径」として表現されている。

そして、現在も本県道のパートナーとして無二の存在感を示している五位庄用水は、この版でも綺麗に道路沿いに描かれている。「鞍馬寺」付近で何度か道が水路を渡っているのも今の県道と変わらない経路であり、伝統なのだろう。

最後の4枚目は明治42(1909)年版だ。
3枚目と大きな違いはないが、この版だと現在の県道の経路は全て「里道(聯路)」として表現されている。里道(聯(連)路)とは、当時の地形図図式は里道を重要なものから順に達路・聯路・間路と描き分けていたうちの一種で、明治9年にわが国の道路を初めて「国道・県道・里道」に区分した太政官布達第60号において、里道を「一等=彼此ノ数区ヲ貫通シ或いは甲ヨリ乙区ニ達スルモノ、二等=用水堤防牧畜坑山製造所等ノタメ該区人民ノ協議ニ依テ別段ニ設クルモノ、三等=神社仏閣及田畑耕転ノ為ニ設クルモノ」に区分したうちの二等に対応するものと考えられている。

ところで、本県道の石堤〜加茂間の並行路線となっている県道32号小矢部伏木港線は、元を辿れば江戸時代の氷見往来という街道である。氷見往来は小矢部川左岸の広大な氾濫原を通過しているが、これは小矢部川の治水がある程度成功した後でなければ危険な経路である。従ってより古い時代の氷見往来は、現在の県道石堤大野線の経路だったのではないだろうか。集落の配置からもこのような推理はなり立つと思う。

ところで、いま見てきた4枚の歴代地形図では、“奇妙な線形”があるギザギザ部分の周囲を別枠で拡大してある。
このギザギザが地形図で見て取れるのは昭和59(1984)年版以降であり、昭和5年版ではこの部分の道路は水路からもう少し南に離れていたことが分かる。そしてさらに古い明治42年版だと、再び水路沿いに道があるが、ギザギザはしていない。

そもそも、この縮尺の旧地形図でギザギザの有無を判断するのは無理があるのだが、これまでの情報を頭に置きつつ、次は歴代の航空写真でギザギザ部分をチェックしたい。



@
令和3(2021)年
A
平成21(2009)年
B
昭和50(1975)年
C
昭和36(1961)年

航空写真チェック。まず最新の令和3(2021)年版には、はっきりとギザギザ部分が描かれている。ここから時代を遡っていく。

2枚目の平成21(2009)年版も、ギザギザが描かれているが、平成22年建立と碑面に刻まれていた【五位庄用水完工記念碑】はまだなく、その周囲の敷地も道路以外の部分は未舗装だったように見える(同じ年のグーグルの空撮写真でも同様)。

3枚目の昭和50(1975)年版は、県道認定直後の風景を写したものだが、ギザギザの部分に道の姿は見えない? うっすら見える? 
道ははっきりしないが、区画自体は今となんら変わっていない。
今ギザギザの道があるところは、田んぼと水路を区切るように盛り土で一段高くなった土地だが、道こそはっきりしないものの、当時から同様の区画がされており、今は記念碑がポツンと置かれている敷地に、何かの小さな施設が建っているのが見える。
現在もここには北から合流してくる小さな水路があり、合流地点の水門を操作する施設であったと推測される(現在はその施設は水路の北側に移動している)。

おそらく県道は当時から、この管理施設の縁をまわる形で、今のようにギザギザしていたのだろう。
ただ、当時は舗装はされていなかったため、路上には草が育ち、空からでは見えないほどに“険道”化していたのではないだろうか。

この昭和50年版を見る限り、県道が認定された昭和48年には既に、すぐそばに2車線の完備された町道土屋馬場線が通じていた(ないしは工事が進んでいた)ようだから、県道も最初からこんな需要が見込めないところに認定されたらふて腐れるれるというもの……。入社初日にいきなり窓際とか…。

最後の昭和36(1961)年版まで遡ると、遂にギザギザの気配は全く見えなくなった。代わりに、今のギザギザ県道よりは絶対に通りやすそうな道が真っ直ぐ延びていて草が生えるw。
この地域では、昭和20年代から40年代にかけて土地改良事業が盛んに行われた結果、五位庄用水の近代化や田んぼの区画の整理、そして道路の整備が行われた。
昭和36年版では、まだ水路も田んぼもまだ旧態依然の様子だが、このあと急速に土地改良事業が進められ、集落をバイパスする2車線の町道も整備されたのであろう。
明治42(1909)年の地形図に描かれていた旧道は、もっと水路の近くに存在したはずだが、その姿は確認出来ない。

以上のような地形図と航空写真のチェックから、ギザギザの県道が生まれた経過を、次のように推測してみた。

昭和48年に認定された県道は、なぜか土地改良事業で建設された立派な町道ではなく、明治以前からある水路沿いの旧道を中途半端になぞる経路で認定された。だがその径路上には用水路の管理施設があり、そこを迂回するためにギザギザした経路になった。後に用水路の再整備で管理施設は別に移り、跡地は石碑があるだけの更地になったが、県道の線形は変わらないまま現在に至る。




『道路台帳』(富山県道路台帳閲覧システム)より

次に、県道のギザギザ部分の道路の詳細を、道路管理者である富山県が整備した基礎資料である『道路台帳』で確認したい。
富山県の情報公開制度は先進的で、県管理道路の道路台帳がウェブ上に公開されているので、面倒な公開請求手続きを経ることなく自由に閲覧が可能である。

そして右の画像が、公開されている県道のギザギザ部分の図面である。
またチェンジ後の画像では、県道部分を黄色く着色し、【この敷地】を赤色で塗った。
図面の調製は平成8(1996)年3月となっているが、適宜更新が行われているようで、平成22年に建立されたはずの記念碑が既に描かれいるなど、概ね最新の状況が描かれていると考えて良いだろう。

この図面は、県道がギザギザの経路であるという動かぬ証拠である。

また、引用した部分の外には各地点の幅員を一覧にした表があり、【この部分の道路】の厳密な道幅が判明した。ここの道幅は4.3mあり、うち車道が3.0m、左側の路肩が0.8m、右側の路肩が0.5mとのことであった。
実際の風景に照らすと、右の白線から左の舗装端部までが車道の扱いのようだ。

そして最後に、読者さんの力を借りて判明した、重大な事実をお知らせしたい。

右図で私が赤く塗った敷地が.、県道の一部でないことは道路台帳から分かるが、それでは一体どのような土地なのかという疑問がある。誰が所有する、どんな地目の土地なのだろう?
この敷地は現状、県道と白線で簡単に区切られているだけで、ほとんどの利用車は無造作に乗り入れている。県道ではないとしても、例えば市道だったりするのだろうか。

この疑問の答えを教えて下さった方がいた。
伊豆半島北部の道路研究氏(Twitter:@s9vVAUZYchdQehd)である。
彼が登記情報提供サービスで調査したところによると、この記念碑が置かれている部分(高岡市福岡町馬場202番地)の所有者は「五位庄用水土地改良区」であり、その地目は「用悪水路」とのことである。

土地について私は素人なので詳しい解説は不可能だが、用悪水路という地目は、農業用水路敷などを広く含むものらしい。
そして、明らかに道路(地目は「公衆用道路」)ではない。
かつ所有者は現在の五位庄用水の管理者でもある五位庄用水土地改良区とのことであり、これはつまり、先ほど歴代の航空写真を見ながら推理した通りに、かつてこの敷地に五位庄用水の何らかの関連施設があったことを物語っている。

その当時から県道はいまと同じくジグザグの経路だったが、後に更地となったうえ、道路と同一平面になるような舗装を行ったため、現状のような極めて不思議な光景になったのだろう。
なぜ舗装したのかは不明だが、土地の管理者である五位庄用水土地改良区は、ここに車が乗り入れることに寛大なのだろうということは想像出来る。


調査は以上である。
不思議な道路にも、たいていは納得出来る理由がある。公共物である道路は、無駄が許されない理詰めの世界。だから頑張って調べれば応えてくれる。だから面白い。


完結。



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