マイナーな県道の片隅で、これまで道路ファンにすら発見されずにいたらしき今回の“特異な線形”だが、それが生まれた経緯を明言した文献や関係者の証言は未だ得られていない。以下の机上調査編の内容は、本編同様、私の個人的調査の報告であり、推定に過ぎない不完全なものであること予めお断りする。
『土木のしおり 土木事業概要 昭和49年度』より
まずは県道石堤大野線の全体に関する経歴だが、ウィキペディアにある同路線の解説ページには、富山県の『道路現況調査資料』(2010年)を典拠として、実延長4753m、昭和48(1973)年3月31日路線認定と書かれている。
右図は、富山県土木部が昭和49(1974)年に発行した『土木のしおり 土木事業概要 昭和49年度』に掲載されていた富山県路線図の一部を切り出したものだ。
黄色く着色した部分が県道石堤大野線であり、現在と同じ位置に起点と終点を持つ県道が確かに描かれている。ただし路線番号は今と異なる「259」である(現在は359)。
そして、全県分を1枚の地図にまとめている小縮尺なのでやむを得ないが、経路はかなりデフォルメ&シンプル化されており、この地図から厳密な意味で今と同じ経路が県道に認定されていたかを判断することは出来ない。
平成17(2005)年に高岡市と合併してその一部となった西礪波郡福岡町は、昭和44(1969)年に町史を発行している(『福岡町史』)。
目を通してみると、町内の国道および県道を列挙した部分があったが、発行時点で石堤大野線はまだ存在しておらず、かつその前身と考えられる別路線も認定されていなかったようである。
町内の道路網全体については、「(福岡町は)古くから物資の集散地であって、特に穀物においては県内農家の出荷の約3%をしめており…
」と、道路が町の主要な産業であった米作に果たす役割を強調しているが、本県道が認定される経緯に関わる直接的な内容は見当らなかった。
地図を見る限り、この県道は中間地点(レポートの終点)である加茂地区を境に、性格を二分しているように感じる。
起点側の前半は、丘陵と平野の境界に沿って開発されたいくつかの農村集落を結ぶ、いかにも自然発生的な古道に由来しているように見える。江戸時代に開発された五位庄用水が道路に沿って存在するが、仮にそれがなくても道路は存在したと思う立地である。
一方、レポートしなかった加茂から先、終点までのルートは進路も景色も大きく変わり、丘陵から離れて小矢部川の両岸を最短で結ぶ直線的なルートとなる。町史によれば、小矢部川を渡る三日市橋は、昭和28(1953)年に初めて架設されており、町史刊行時点では町道福岡加茂線に属する木橋だったようだ。これを永久橋へ架け替える計画があるとも書かれていた。そのために県道へ昇格させたのかと思ったが、調べてみると永久橋化は昭和47年(県道認定の前年)に果たされていた。
ともかく、この県道は前部と後部で大きく性格が違っていると感じるが、これを敢えて一つの県道とすることで、限られた県道の認定枠を最大限活用し、かつ認定要件に適応させようとしたものと想像出来る。こういう作為が感じられる県道認定は珍しいものではない。(実際の交通の流れに沿った認定にしなさいという通達は昭和29年からあるのが…)。しかし、その限られた枠の中で敢えてこの道路を県道に認定した積極的な理由がどこにあったのかは突き止められなかった。何か理由(陳情)があったのだろうが。
@ 地理院地図(現在) | |
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A 昭和59(1984)年 | |
B 昭和5(1930)年 | |
C 明治42(1909)年 |
歴代地形図のチェックをしてみた。(→)
1枚目は最新の地理院地図であり、本編でも何度も見ていると思うので、2枚目から。
2枚目は、昭和59(1984)年版だ。
県道の塗り分けがないので、この地図からどこが県道なのかは分からないが、実際には現在の県道と同じ経路が既に県道石堤大野線として認定されていた。
今と経路が違っていると推定される部分は特にない。というか、この頃から認定ルートの変化が未だにないというのが正しい表現だろう。おそらく、昭和48年の県道認定当初から、ほぼ現在と同じルートで認定されていたと思う。
昭和59年版から現在の間で大きく進歩したのは、舞谷から馬場までの区間が拡幅されたことだろうか。この区間は本県道の加茂以北では珍しい“完成された”区間である。
また、馬場や加茂の集落については、近くを迂回する2車線の道路が町道土屋馬場線(現在は市道)として整備されているが、この道路は昭和59年には既にあったことが分かる。この道路を県道としなかった理由も謎である。
3枚目は、一気に時間を遡って昭和5(1930)年版である。
現在の県道の経路は、この地図にも既に道として存在している。現在の県道の姿を見れば一目瞭然ではあるが、やはり古くからある道に由来していたのだ。
とはいえ、当時としても整備された道ではなかったようだ。特に石堤から加茂までの区間は、大半が単実線の「幅員1〜2mの里道」か単破線の「幅員1m未満の小径」として表現されている。
そして、現在も本県道のパートナーとして無二の存在感を示している五位庄用水は、この版でも綺麗に道路沿いに描かれている。「鞍馬寺」付近で何度か道が水路を渡っているのも今の県道と変わらない経路であり、伝統なのだろう。
最後の4枚目は明治42(1909)年版だ。
3枚目と大きな違いはないが、この版だと現在の県道の経路は全て「里道(聯路)」として表現されている。里道(聯(連)路)とは、当時の地形図図式は里道を重要なものから順に達路・聯路・間路と描き分けていたうちの一種で、明治9年にわが国の道路を初めて「国道・県道・里道」に区分した太政官布達第60号において、里道を「一等=彼此ノ数区ヲ貫通シ或いは甲ヨリ乙区ニ達スルモノ、二等=用水堤防牧畜坑山製造所等ノタメ該区人民ノ協議ニ依テ別段ニ設クルモノ、三等=神社仏閣及田畑耕転ノ為ニ設クルモノ」に区分したうちの二等に対応するものと考えられている。
ところで、本県道の石堤〜加茂間の並行路線となっている県道32号小矢部伏木港線は、元を辿れば江戸時代の氷見往来という街道である。氷見往来は小矢部川左岸の広大な氾濫原を通過しているが、これは小矢部川の治水がある程度成功した後でなければ危険な経路である。従ってより古い時代の氷見往来は、現在の県道石堤大野線の経路だったのではないだろうか。集落の配置からもこのような推理はなり立つと思う。
ところで、いま見てきた4枚の歴代地形図では、“奇妙な線形”があるギザギザ部分の周囲を別枠で拡大してある。
このギザギザが地形図で見て取れるのは昭和59(1984)年版以降であり、昭和5年版ではこの部分の道路は水路からもう少し南に離れていたことが分かる。そしてさらに古い明治42年版だと、再び水路沿いに道があるが、ギザギザはしていない。
そもそも、この縮尺の旧地形図でギザギザの有無を判断するのは無理があるのだが、これまでの情報を頭に置きつつ、次は歴代の航空写真でギザギザ部分をチェックしたい。
@ 令和3(2021)年 | |
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A 平成21(2009)年 | |
B 昭和50(1975)年 | |
C 昭和36(1961)年 |
航空写真チェック。まず最新の令和3(2021)年版には、はっきりとギザギザ部分が描かれている。ここから時代を遡っていく。
2枚目の平成21(2009)年版も、ギザギザが描かれているが、平成22年建立と碑面に刻まれていた【五位庄用水完工記念碑】はまだなく、その周囲の敷地も道路以外の部分は未舗装だったように見える(同じ年のグーグルの空撮写真でも同様)。
3枚目の昭和50(1975)年版は、県道認定直後の風景を写したものだが、ギザギザの部分に道の姿は見えない? うっすら見える?
道ははっきりしないが、区画自体は今となんら変わっていない。
今ギザギザの道があるところは、田んぼと水路を区切るように盛り土で一段高くなった土地だが、道こそはっきりしないものの、当時から同様の区画がされており、今は記念碑がポツンと置かれている敷地に、何かの小さな施設が建っているのが見える。
現在もここには北から合流してくる小さな水路があり、合流地点の水門を操作する施設であったと推測される(現在はその施設は水路の北側に移動している)。
おそらく県道は当時から、この管理施設の縁をまわる形で、今のようにギザギザしていたのだろう。
ただ、当時は舗装はされていなかったため、路上には草が育ち、空からでは見えないほどに“険道”化していたのではないだろうか。
この昭和50年版を見る限り、県道が認定された昭和48年には既に、すぐそばに2車線の完備された町道土屋馬場線が通じていた(ないしは工事が進んでいた)ようだから、県道も最初からこんな需要が見込めないところに認定されたらふて腐れるれるというもの……。入社初日にいきなり窓際とか…。
最後の昭和36(1961)年版まで遡ると、遂にギザギザの気配は全く見えなくなった。代わりに、今のギザギザ県道よりは絶対に通りやすそうな道が真っ直ぐ延びていて草が生えるw。
この地域では、昭和20年代から40年代にかけて土地改良事業が盛んに行われた結果、五位庄用水の近代化や田んぼの区画の整理、そして道路の整備が行われた。
昭和36年版では、まだ水路も田んぼもまだ旧態依然の様子だが、このあと急速に土地改良事業が進められ、集落をバイパスする2車線の町道も整備されたのであろう。
明治42(1909)年の地形図に描かれていた旧道は、もっと水路の近くに存在したはずだが、その姿は確認出来ない。
以上のような地形図と航空写真のチェックから、ギザギザの県道が生まれた経過を、次のように推測してみた。
昭和48年に認定された県道は、なぜか土地改良事業で建設された立派な町道ではなく、明治以前からある水路沿いの旧道を中途半端になぞる経路で認定された。だがその径路上には用水路の管理施設があり、そこを迂回するためにギザギザした経路になった。後に用水路の再整備で管理施設は別に移り、跡地は石碑があるだけの更地になったが、県道の線形は変わらないまま現在に至る。
『道路台帳』(富山県道路台帳閲覧システム)より
次に、県道のギザギザ部分の道路の詳細を、道路管理者である富山県が整備した基礎資料である『道路台帳』で確認したい。
富山県の情報公開制度は先進的で、県管理道路の道路台帳がウェブ上に公開されているので、面倒な公開請求手続きを経ることなく自由に閲覧が可能である。
そして右の画像が、公開されている県道のギザギザ部分の図面である。
またチェンジ後の画像では、県道部分を黄色く着色し、【この敷地】を赤色で塗った。
図面の調製は平成8(1996)年3月となっているが、適宜更新が行われているようで、平成22年に建立されたはずの記念碑が既に描かれいるなど、概ね最新の状況が描かれていると考えて良いだろう。
この図面は、県道がギザギザの経路であるという動かぬ証拠である。
また、引用した部分の外には各地点の幅員を一覧にした表があり、【この部分の道路】の厳密な道幅が判明した。ここの道幅は4.3mあり、うち車道が3.0m、左側の路肩が0.8m、右側の路肩が0.5mとのことであった。
実際の風景に照らすと、右の白線から左の舗装端部までが車道の扱いのようだ。
そして最後に、読者さんの力を借りて判明した、重大な事実をお知らせしたい。
右図で私が赤く塗った敷地が.、県道の一部でないことは道路台帳から分かるが、それでは一体どのような土地なのかという疑問がある。誰が所有する、どんな地目の土地なのだろう?
この敷地は現状、県道と白線で簡単に区切られているだけで、ほとんどの利用車は無造作に乗り入れている。県道ではないとしても、例えば市道だったりするのだろうか。
この疑問の答えを教えて下さった方がいた。
伊豆半島北部の道路研究氏(Twitter:@s9vVAUZYchdQehd)である。
彼が登記情報提供サービスで調査したところによると、この記念碑が置かれている部分(高岡市福岡町馬場202番地)の所有者は「五位庄用水土地改良区」であり、その地目は「用悪水路」とのことである。
土地について私は素人なので詳しい解説は不可能だが、用悪水路という地目は、農業用水路敷などを広く含むものらしい。
そして、明らかに道路(地目は「公衆用道路」)ではない。
かつ所有者は現在の五位庄用水の管理者でもある五位庄用水土地改良区とのことであり、これはつまり、先ほど歴代の航空写真を見ながら推理した通りに、かつてこの敷地に五位庄用水の何らかの関連施設があったことを物語っている。
その当時から県道はいまと同じくジグザグの経路だったが、後に更地となったうえ、道路と同一平面になるような舗装を行ったため、現状のような極めて不思議な光景になったのだろう。
なぜ舗装したのかは不明だが、土地の管理者である五位庄用水土地改良区は、ここに車が乗り入れることに寛大なのだろうということは想像出来る。
調査は以上である。
不思議な道路にも、たいていは納得出来る理由がある。公共物である道路は、無駄が許されない理詰めの世界。だから頑張って調べれば応えてくれる。だから面白い。
完結。