ミニレポ第274回 JR米坂線 第4荒川橋梁 旧橋遺構 前編

所在地 山形県小国町
探索日 2010.10.18
公開日 2023.08.05

古くて新しくてやっぱり古い橋のヒミツ


2010/10/18 7:51 《周辺地図(グーグル)》

ここは、山形県小国町の赤芝峡
飯豊山地と朝日山地を分けて流れる一級河川荒川が作り出した峡谷で、磐梯朝日国立公園の一部にも指定されている。古くから紅葉の名勝とされ、かつて国道113号だった川沿いの道が、1.2kmのハイキングコースとして整備されている。周辺に宿泊施設やお土産屋などの施設はなく、観光化のあまりされていない静かな景勝地である。

右の写真は、上記のハイキングコース(旧国道)の風景で、チェンジ後の画像は現地の案内板を撮影した。チェンジ前の写真は、案内板の中央付近の位置で撮影している。

今回紹介するのは、観光客だけでなくライトオブローダーにもお勧めなこの旧国道ではなく、遊歩道区間の西端付近にある鉄道橋だ。
案内板にも、赤芝峡と呼ばれる荒川の蛇行部をトンネルと橋で直線的に通過する鉄道と現国道が並んで描かれている。

さっそく、現場を見にいこう。




7:56 《現在地》

見えてきたー!

2本の橋が前後に重なり合って見えるが、手前のクリーム色のトラス橋が今回の主役、JR米坂線 第4荒川橋梁 だ。
奥にある青色のランガーアーチは国道113号 向大沢橋

これから第4荒川橋梁に接近して“調査”を行うが、その前に、「山行が」でこれまであまり登場していないJR米坂線の簡単なプロフィールを。
米坂線は奥羽本線の米沢駅(山形県)と羽越本線の坂町駅(新潟県)を結ぶ全長90.7kmのローカル線だ。大正15(1926)年から徐々に開業区間を伸ばし、昭和11(1936)年に「現在地」を含む県境区間である小国〜越後金丸間が繋がったことで全通。それまで陸の孤島と呼ばれていた小国盆地周辺の発展を支えたほか、南東北における列島横断路線の一翼を担った。

しかし、地方交通線の例に漏れず近年は著しく利用客が減少しているうえ、険しい山間部を横断する路線であるため災害にも弱く、直近でも令和4(2022)年8月3日の大雨で橋梁流失など大きな被害を受けたことで、これを執筆している令和5年8月現在は、全線の4分の3にも及ぶ今泉〜坂町間で長期運休に伴うバス代替輸送が続けられており、今後は多額の復旧費の負担方法を巡って自治体とJR間の協議が本格化する見通しだが、廃線の可能性も取り沙汰される事態になっている。



現在、廃線の危機に瀕しているとはいえ、探索当時(平成22(2010)年)は元気に運行していたし、この橋(第4荒川橋梁)そのものを表題の“旧橋遺構”として紹介したいわけではない。

この橋には、“旧橋遺構”が存在する。
だが、それはまだ見えてはいない。
それがどこにあるかということが、このレポートの重要なテーマである。
そして例によって、観察が発見へと導いてくれる。とりあえず、橋の全貌を遠景と望遠で観察しよう。

まず目につくのは、いかにも古い鉄道橋らしいデザインのトラス桁だろう。構造は曲弦プラットトラス下路桁で、全部で7径間からなる本橋の起点側より2番目の桁(川の水面を渡る最も長い主径間)になっている。背景の峻険な山肌や、橋と連続するトンネルの坑口と合わせて、なんとも絵になる鉄道風景だ。きっと開業以来たくさんの鉄道ファンが、ここに立って列車の登場を待ち構えたことであろう。

そしてトラスに注目すると同時に目に飛び込んで来たのが、橋のすぐ下の川べりに置かれた、「殉難碑」と刻まれた巨大な石碑である。
この碑については近づいて確かめるとして、もう一つ興味を感じたのが、背後のトンネルの入口(坑口)の様子だ。

トラスが第2径間だと先に書いたが、その隣の第1径間は、トンネルの中にある。少しだけ桁が見えるが、よく見る一般的なプレートガーダーである。
トンネルの方は横根山隧道といい、第1径間の大部分を隠しているのは、トンネルそのものというよりは、トンネルと繋がる覆道の坑口だ。両者は一体化しているために、トンネル内に橋が延びているように見える。
こういう構造は、豪雪地では特別に珍しいものではなく、道路にも例がある。



そのまま視線を右にずらしていくと、遊歩道区間の入口を示す車止め越しに、第3径間から最後の第7径間までが一望出来る。(画像の▼は橋脚や橋台の位置を示す)
いろいろな長さの桁が健在しているが、第3〜5径間はプレートガーダー、第6〜7径間はIビーム桁となっている。
第1〜7径間を合計した、この橋の全長は約150mある。

チェンジ後の画像は、第6〜7径間へ近づいて撮影した。
第7径間は跨道橋になっており、下を潜る旧国道が、1車線ぎりぎりの幅と3.6mの高さ制限を持つ隘路であったことが分かる。
この区間の現国道は昭和45(1970)年に全通しているが、その当時の水準に照らしても“酷道”の誹りは免れなかっただろう。
昭和初期の鉄道開業当時から昭和40年代当時までは、常に道路よりも鉄道が優先されていた、そんな状況を窺わせるような跨道橋の狭さといえる。




さて、この辺りから観察を“深化”させていこう。

道路に近い位置にある第6および第7径間に取り付けられた、塗装銘板(A)や製造銘板(B・C)を目視することが出来た。
おそらく他の径間にも取り付けられていたであろうが、確認していない。

チェンジ後の画像は、第7径間の塗装銘板(A)だ。
目立つところにあるこの銘板によって、本橋の名前(第四荒川橋りょう)や起点からの位置(62k956.7m)、さらに第7径間の支間長(6.7m)などを現地で知ることが出来た。

ところで、位置の欄に「小国玉川口間」とあるが、「玉川口」という駅は平成7(1995)年に廃駅になっており現存しない。【跡地風景】
この塗装銘板が描かれた(=塗装が更新された)平成3(1991)年当時は、ここから700mほど終点側のこの位置に玉川口駅があり、駅前の同名集落や玉川流域にある各集落および飯豊山登山者へのアクセスを担っていた。昭和11(1936)年の米坂線全通と同時に設置され、交換設備を持つ由緒ある駅だったが、利用者極少のため廃止されている。


続いての画像は、第7径間の製造銘板(B)と第6径間の製造銘板(C)だ。

製造銘板は、桁の製造時にその製造者が取り付けた銘板であり、製造者名、発注者名、製造時期の他、設計に関わる技術的な内容が刻まれている。
橋梁メーカーが部材を工場内で建造し、それを現地へ運んで架設する方法を採る鋼橋(いわゆる鉄橋)においては、道路橋・鉄道橋を問わず、このような製造銘板がしばしば桁ごとに取り付けられ、橋というか桁の生まれを知ることが出来る貴重な情報源になる。

第7径間の製造銘板(B)には、発注者である「鉄道省」という文字が最上段に刻まれており、中ほどに製造者名の「株式会社横河橋梁製作所東京工場製作」が見える。また、製造年は「昭和十年」となっている。本橋の開通年が昭和11年だから、それを念頭に発注された橋であることが推測出来る。
そして、黄枠でハイライトした部分には「活荷重KS12」とある。細かい説明は省略するが、橋の設計に関わる“KS荷重”というものの種類を表示している。

このことを踏まえてチェンジ後の画像と見較べると、不思議な違いが見えてくる。
チェンジ後の画像は、第6径間の製造銘板(C)だ。
厚塗りされたペンキのため非常に文字が読み取りづらいが、真ん中の「鉄道省」という文字の上(黄色いハイライトの部分)に「活荷重E-40」という文字が読める。(おそらく左上は「昭和三年」)
これも「KS-12」と同じく活荷重に関する技術的基準を表わしているが、「E-40」というのは大正10(1921)年に制式され、昭和3(1928)年にわが国の鉄道に関する技術的基準がヤードポンド式からメートル式に切り替わるまで利用されていた古い“クーパー荷重”の表示である。つまりこの第6径間の桁は、昭和3年以前に建造されている。

同じ橋の隣り合う桁の製造年に、最低7年もの時差があるのは少々不自然ではないだろうか。そもそも、銘板時代のデザインが異なっていることも異例である。
「ペロッ...これは!」…… “鉄道探偵”にでもなったような不思議な気持ちがするではないか?
この橋には、何か重大な秘密が……??



続いて、先ほどから見えていた橋下の空き地(遊歩道の駐車場になっている)に建つ「殉難碑」のもとへ。
碑前には新しい生花やジュースのボトルがお供えされていた。
この橋が過去に経験した苦い出来事が記録されているに違いない。
川に面した裏側に回り込んでみると……。

昭和十五年三月五日午 前八時四十五分第一〇
三列車此ニ於テ大雪崩 ニ遭ヒ忽チ崖下ニ顛落
シ死者十六名傷者亦多 数ヲ出スノ惨事アリ職
員之ニ処シ遂ニ殉ル是 真ニ鉄道精神ノ権化タ
リ茲ニ国鉄同僚並ニ特 志者ノ醵出ヲ充テ碑ヲ
建テ以テ遭難旅客ト与 ニ名ヲ記シ永ク英霊ヲ
弔フト言爾
   新潟鉄道局 昭和十五年九月

殉難者
 鉄道職員
  (氏名 10名)
 仙台鉄道郵便局職員
  (氏名 1名)
 旅客
  (氏名 5名)

この碑文により、昭和15(1940)年3月5日午前8時45分にこの鉄橋で発生した雪崩を原因とする列車転落事故によって命を落とした16名を弔う碑であることが分かった。
この事故については、Wikipediaにも「米坂線雪崩直撃事故」として解説があるが、記事によって死者や負傷者の数に多少の差が見られる。
鉄道職員に犠牲者が多いのは、事故の一報を受けた玉川口駅長や同駅詰めの除雪人夫が現地へ駆けつけ救援活動を開始した直後に、転落した貨車の積み荷が三度にわたり爆発し客車に燃え移るなどして被害を拡大させたためともされる。



橋梁からの列車転落という大事故の原因は、豪雪地における雪崩対策の不完全にあった。
この事故の事実を知った後に眺めると、第1径間を覆い隠すほどに大きく張り出した
頑丈なコンクリート製スノーシェッドの存在が、改めて大きなものとして感じられるのである。

…… …… ……

…… …… あの、

先ほど言っていた“旧橋遺構”というのは?

多分皆さま、そう思っておられることだろう。



はいはい。



ちょっとだけ、私の後ろに着いてきてくれ。

私が、読者様に教えていただいた情報によると、なんでもこの先の川べりに……。

草むらを掻き分けながら、鉄道橋の下を潜り、奥に見える国道の橋へ近づく。




8:04 《現在地》

モソモソやっている間に、雨が降り始めてしまったが、唐突に藪が開けて、
目の前に荒川の名に反して静かな水面と、それを一跨ぎにする青い道路橋が現れた。
昭和43(1968)年竣工の現役の国道橋、向大沢橋だ。

情報提供者によると、第4荒川橋梁の旧橋の遺構を、この場所で発見したのだという。


…………あるか? 

…………

周囲を見回している。




!!! あれは?!

道路橋のほぼ真下の川岸に(右奥に見えるのは橋脚)……、なにか大きなモノがある。

近づいてみよう!




これはっ!

紛れもなく“旧橋遺構”ッッ!!

あるべき橋の上から転落した、トラス桁の残骸だ!!



水面上に露出している部分は僅かだが、ちょうど岸に懸かっていて手を触れることが出来た。
でかい!
岸にあるほんの僅かの部分だけでも、触れるとデカくゴツい。鉄道という巨大なシステムを支える鉄橋のスケール感というのは、人の身体と比較するようなものではない。

上の写真のように少し遠目から見れば、いま手を触れている部分が、トラス桁の端だということが分かる。
沢山のリベット(ボコボコしている部分)によって、鋼材同士が複雑に接合されている。




トラス桁の端は水上にあるが、残りはすぐに水中へ消えている。

各部材は前述の通りリベットによって接合されているが、太い部材を軽量かつ頑丈に構成するために、レーシング(綾工)と呼ばれる中空構造が使われている。
△▽△▽のようになっている部分がレーシングで、これはシングルレーシングと呼ばれる接合方法だ。××××になるのがダブルレーシング。
後にリベットではなく溶接による部材接合が一般化すると、レーシングは用いられなくなった。したがってこの橋は(大雑把に)古いと分かる。



水没している部分にカメラを向けると、驚くほど沢山の小魚がトラスの周りに集まっていた。

彼らにとって、複雑な部材の配置が、身を守る良い盾になっているようだ。


ここからそのまま、水の奥へ目線を伸ばしていくと……



川の中央付近にも、

さらに巨大な物体のシルエットが!!



あれもトラスの部材と見て間違いあるまい。

トラス橋は桁の両側に対となる構造を持っているので、その左右の塊が、
岸の近くと川の中央付近に分解して水没しているのか、それとも、
もっと激しく破壊されてバラバラになっているのかは、見ても分からなかった。
水底には土砂が堆積しており、そこに埋れている部分も相当有りそうに思う。



改めて、上にある道路橋と合わせた水没廃橋の全容は、ご覧の通り。

巨大なトラスが、薄暗い川底に横たわる、とても幻想的な光景だ。

この水没廃橋の存在は、フリーランスカメラマンである友人の長谷川 智紀氏が、平成20(2008)年11月に、
「米坂線を撮りに行った際に偶然、国道の橋から下を覗き込んだら見つけた」と、メールで教えて下さったもので、
これまであまり存在を知られていなかった遺構であるように思う。私もこれまで数回通行しているが気付かなかった。

今回のテーマである“旧橋遺構”は見つかった。

こうなると、当然気になるのは、その由来だ。



次回、橋の由来を調査する。



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