ミニレポ第275回 東京都道215号 大坂隧道 前編

所在地 東京都八丈町
探索日 2016.03.03
日 2023.09.02

 都内最古の道路トンネルはどこにある?



『道路トンネル大鑑』「トンネルリスト」より東京都の部

東京都最古の道路トンネルは、どこか?

この問いに確実な回答を得るためには、都内の隧道を全て確認する必要があり簡単ではないが、昭和43(1968)年に発行された『道路トンネル大鑑』巻末のトンネルリスト(右図)に掲載されている、昭和42(1967)年3月31日時点に都内の国道および都道にて現役利用されていた30本のトンネルに対象を絞れば、明確に1本を答えることが出来る。

30本のうち唯一の明治生まれ、逢坂隧道である。

私が探索先を探すための主要なソースとして『大鑑』を採用した時期は早く、そのため“都内最古の隧道”である可能性が高かったこの逢坂隧道の現地調査を意識した時期も早いが、なかなか実現が出来なかった。その理由はただ一つ。

隧道名所在地路線名竣功年全長高さ
逢坂隧道八丈町大賀郷地区内都道215号明治42(1909)年153.2m3.4m3.9m

都内は都内でも、離島である八丈島にある隧道なのだ。逢坂隧道は!

現存していない隧道も含めれば、真の都内最古道路トンネルは、以前にレポートしたここの可能性が高いか。


八丈島。

東京都の有人島としては伊豆大島に次ぐ2番目の面積(約70㎢≒山手線の内側)と、2番目の人口(約7700人)を有する島。都心から約290km南にあり(都心〜山形市の距離に匹敵)、その緯度は大分市に近い。常夏ではないが、黒潮のただ中に浮かぶ温暖な島だ。
全島を東京都八丈町が管轄し、また都の出先機関である八丈支庁が島内にあって本島と青ヶ島を受け持っている。
富士火山帯に属する典型的な火山島で、新旧二つの火山が連なるひょうたん型の島である。

私がこの島を訪れたのは平成28(2016)年3月だ。
このときは青ヶ島への足掛かりとして上陸したが、八丈島と青ヶ島を結ぶ船便は毎日運行でないうえ、海況不良で欠航することも多いために、余裕を持ったスケジュールを組む必要があり、八丈島に賞味2日半ほど滞在した。その間は島内の都道を全て走破するなど大いに楽しみ、逢坂隧道もこのとき訪れることが出来た。

なお、現地へ行く前にこれは調べて分かっていたことだが、『大鑑』にある逢坂隧道は、既に代替わりしていた。
名前も変化して(?)おり、現在のトンネルは坂隧道と呼ばれている。

正しくは、『大鑑』が記述していた古い隧道についてもほとんどの資料は“逢坂隧道”ではなく“大坂隧道”と記載しており、“逢坂隧道”というのは、ほぼ『大鑑』だけの記述であった。なのでこれ以降は特別の理由がない限り、“大坂隧道”の表記を使用する。

右図は八丈島の全体図だ。
長軸約14km、短軸約7kmほどの島内には古くから5つの郷があり、うち2つを坂下地区、3つを坂上地区と総称する。


坂下と坂上は本島の生活圏を二分する古くからの呼称だが、その明確な境界は島を一周する一般都道215号八丈循環線にある登竜峠(のぼりょうとうげ)と大坂トンネルである。
このいずれかの峠を越すことで坂上と坂下の間の往来が行われており、かつてこれら以外の陸路は存在しなかった。

そんな島内二大難所であった登竜峠と大坂のうち、明治時代にいち早く隧道が開削されて島の交通網に一大変革をもたらしたのが、初代の大坂隧道である。ここは、八丈島の長い歴史上で一番重要なトンネルと断言していい。普通の都道府県レベルの広さを持った地域であれば、一番重要なトンネルなんてものを決めるのは難しく、異論も出るとも思うが、八丈島くらい狭い地域であれば、決めきることが出来る。

しかし前述の通り、現在使われているのは、初代の隧道ではない。
左図は、新旧地形図の比較である。
最新の地理院地図にも古めかしい「大坂隧道」という注記があるが、八丈島を描いた最古の5万図である大正元(1912)年測図版を見ても、全く同じに見える位置にトンネルの記号が描かれている。前後の道の位置もほぼ一緒である。

出発前に簡単にネットの記事を調べた限り、現在ある大坂隧道は、明治以来の大坂隧道を整備した姿であり、残念ながら当初の隧道そのものは失われているように読み取れたが、もしかしたらワンチャン、強壮強欲なるオブローダーが求めれば、何か初代隧道に関する発見があるかも知れない。仮に発見はなくても、都内最古級の隧道が掘られた現場を見知っておくのは良い経験になるだろう。

……とまあ、こんな動機付けなんてしなくても、八丈島を一周しようとすれば基本的に避けがたいトンネルなので、自然と通ることになるのだが。
私は合計2日半ほどの島内滞在中に2度、この場所を訪れた。
まずは1度目の訪問時の様子を紹介しよう。
2016年3月3日、八丈島到着2日目の16時半前後の出来事である。





2016/3/3 16:27 《現在地》

現在地は八丈町樫立(かしたて)の都道215号八丈循環線の路上だ。
既に樫立の集落を外れて大坂隧道の方向へだいぶ進んで来ており、峠の頂上にある隧道まであと700mくらいだ。
直線的な上り坂が続き、自転車の私に負担を強いているが、集落から峠までの距離は1kmほどに過ぎない。

樫立集落全体が海抜120mを越える海食崖上の広い裾野に展開していて、海抜160m付近にある大坂隧道までの高度差は50m足らずである。隧道以北を「坂下」、以南を「坂上」と呼び慣わしてきたことが頷ける典型的な片峠の頂上に、隧道は待ち受けている。

チェンジ後の画像は、やがて直線登りの先に見えてきた大坂隧道の遠景だ。
闊葉樹の青々と茂る稜線に青空を従えていて、いかにも離島の峠を思わせる眺めだと思った。夕方だから黄色みを帯びているが。



16:30 《現在地》

大坂隧道の南口に丁字路がある。
そしてこの場所が一連の峠道のピークになっており、標高約160mである。
都道はここから下り坂に転じ、下りながら隧道を潜る。

一方、右へ登っていく道は“防衛道路”と呼ばれている町道で、隧道を潜らずに「坂下」へ出ることが出来るがだいぶ遠回りである。太平洋戦争中、本土防衛の目的で島に駐留した日本軍が整備した軍用道路に由来している。

なお、正面の隧道の上やや左に寄った位置に、地形としての鞍部が見える。初代の大坂隧道は、明治42(1909)年に現在のトンネルの位置に整備されたといわれているが、果たしてそれ以前の道はどこを通っていたのだろうか?というのが、私にとってのこの地における“隠しテーマ”となっていた。

“隠し”だから、いま初めて表明したわけだが(笑)、このテーマを解決するには、おそらく峠の鞍部を踏む必要があると踏んでいた。
さらっとした事前の机上調査では、隧道以前の道に関する情報は得られなかったし、最古の地形図には既に隧道だけが描かれているので、旧道は勘で探そうと思う。



丁字路から大坂隧道を一瞥し、その外観や地形条件から、「なるほど確かに旧隧道が別に残っている様子はない」とさっそく観念した。強欲に求めたものが何でも得られるなら、誰も苦労はしない。自分で現地を見たことでしか得られない納得感が重要だ。そんなわけで私は一旦、この場所での捜索の目的を隧道そのものから、たぶんどこかにあったと思う隧道以前の旧道の捜索へシフトした。

写真は、上の写真の地点から左を向いたところにあるものを写している。
「萬世大祈平」の5文字が刻まれたオブジェには、「大東亜戦争終結五十年 平成七年八月十五日 靖國神社宮司大野俊康」と大書きされた黒御影石がはめ込まれていた。その下に小さな文字で「全国近衛歩兵第一連隊会八丈島支部 南方軍総司令部 電信第二十四連隊 通信隊戦友会 独立混成第五十七旅団」などの軍隊名や関連団体名も書かれており、実際の陸戦は行われなかった八丈島に数多くの戦跡遺構があることを物語っている。

また中央に草生したコンクリート製の階段があるが、これを塞ぐように設置された案内板によって正体が知れた。昭和58(1983)年から平成23(2011)年までの長きにわたって、この階段の奥に「戦没者供養大仏像」が安置されていたが、老朽化のため撤去したことが書かれていた。


階段の奥は現代の廃寺院跡であり、一面の藪の中に仏像を安置していたコンクリートの高い堂跡が現存していた。
位置的にここは現道よりも高く、そのまま隧道上の鞍部を目指せる(あるいはそこへ通じる旧道があれば出会える)と期待したのだが、両者は位置が微妙に外れていることと、そもそも仏像と旧道に関係がないために、猛烈な藪で覆われた廃寺院跡の中では方向感覚も失われがちで、思うように鞍部を目指すことが出来ず、いたずらに時間を費やすことになった。

結局、ここからの鞍部到達は断念して、現道へ戻ることに。




大坂隧道に通じる長い掘り割り。
写真だと分かりづらいが、既に下り坂が始まっており、しかも結構か勾配で下って行く。そのままトンネルへ。
掘り割りの周囲にも旧道らしいものは見当たらない。
石垣の上を歩いて無理矢理に坑口上へ行き、そこから背後に見える鞍部へ向かうことはできそうだが、行動する根拠が少し乏しい。鞍部に旧道があったか分からないのだ。そして、既に夕刻であり時間の限りもある。

とりあえずこのまま隧道を潜って、反対側の様子を点検しよう。
そこで旧道の手掛かりが得られるかも知れない。



16:38 《現在地》

これが、大坂隧道(坂上口)。
事前に分かってはいたつもりだが、やはりここまで普通・・だと、少しばかり拍子抜けだ。

まあ、『大鑑』で明治42年竣工を知り、東京都最古道路トンネル?!と期待感を膨らませたのは、私の勝手である。
その初代の隧道を、何度も改良しながら、ずっと大切に使い続けてきた島民と東京都の選択を残念がるというのは、さすがに部外者のエゴが過ぎるだろう。それは分かってはいるが、古い隧道である証しを見たいということも、オブローダーとしての隠しがたい本音だった。

チェンジ後の画像は、坑口に掲げられた扁額だ。
普通の左書きで「大坂隧道」と刻まれている。
敢えて「大坂トンネル」とせず、古風な「大坂隧道」を残しているのは、島の人たちがこの隧道の歴史の長さに愛着を感じていることの表れである……ような気がする。



最後まで、古さを、諦めたくない!

そんな“厄介ファン”の心理を抱えつつ入った洞内は、まあ、やはり、どこにでもある普通のトンネルだった。

資料名(データ年)隧道名竣功年全長高さ
道路トンネル大鑑
(1967年)
逢坂隧道明治42(1909)年153.2m3.4m3.9m
平成16年度道路施設現況調査
(2004年)
大坂隧道昭和43(1968)年162m6.5m6.5m

上の表の通り、昭和43年に発行された『大鑑』で明治42年竣工の全長153mとなっていた隧道も、最近の『調査』では、昭和43年竣工の全長162mとなっており、全長はあまり変わらないが、幅や高さが倍増している。
したがって、現在のコンクリート覆工を持つ近代的トンネルへと刷新された時期は、昭和43(1968)年と推測される。

洞内もずっと下り坂になっており、自転車だとスピードが乗る。
そして出口に近づくとやや急な右カーブが始まり、カーブの途中で外へ出る。
このようなカーブは明治の隧道にはほとんど見られないものであり、やはり後年の改修によるものと考えられる。



よく見ると、終盤のトンネル内カーブの前後で壁の年季がだいぶ違っている。
写真手前のカーブ部分はまだ新しく、奥の直線部分は(昭和43年竣工らしい)それなりに年を経た外観である。
どうやら、カーブ部分だけは昭和43年の改修よりもさらに後で延長、改良されたものと察したわけだが……




……外へ出るなり、そんな改修の証拠を直ぐに手に入れた。
坂下側坑口には、坂上側坑口には見られなかった金属製の工事銘板が取り付けられており……

大坂隧道
1990年6月
東 京 都
改修延長41m 巾4.5m 高4.5m
施工 五洋,浅沼建設共同企業体

平成2(1990)年に、この坂下側坑口から41m区間(=カーブ部分)の改修が行われたことが記されていたのである。

そうなると、当然気になるのは、このように改修される以前の隧道は直進していて、別の坑口に通じていたではないかってことだ。

その捜索は、これから行うが、その報告の前に……、ちょっとだけ……、待って欲しい。

なぜなら、この平凡と思った大坂隧道を潜り抜けた直後に、私は思いがけず、強烈な興奮の渦に巻き込まれ、一時的に、放心した。





大坂隧道を抜けると……



16:39 《現在地》《島全体図》

私はとても急峻な山の中におり……

ガードレールの向こうは……




八丈島せかいの半分が、広がっていた。

山腹に架け渡された白い橋の列が、この道の続きだ。

そこは“横間道路”と呼ばれている、おそらく日本で十指に入る美しい道。


峠の前の【このような眺め】から、隧道一つを潜り抜けたことで手にした、この豹変ぶりは、

さすがに地形図からは読み取り切れない、ものすごさだった。

景色を出来るだけ予習しない私の旅のスタイルが活きた。

非常に強烈なパンチを受けてしまった。



(……景色を堪能後、レポートを再開します……)






大坂隧道の北口である坂下側の坑口は、八丈島の南半分の陸地を周囲の海から圧倒的に隔絶する、平均の高さが150mはある巨大な崖壁(火山島を黒潮が削って作り出した巨大な海食崖だ)の高みにある。
坂上側の坑口は丘の上にあって険しさとは無縁に見えたが、150mほどのトンネルを潜り抜けた先は直ちに、この島の名にし負う交通の大難所、“大坂”の核心部であった。

それでも、山手線の内側ほどの面積に8000人近くが暮らす、決して寂しい孤島ではない八丈島における大動脈、本土で言えば間違いなく国道1号に相当する道だ。険しさに負けないだけの充実した整備を受けている。

この標高150mのトンネル出口から、海抜50mの麓にある大賀郷(おおかごう)の為朝(ためとも)神社前まで、約1.3kmの山岳区間は、地名から“横間道路”と通称される本都道のハイライトであり、平成6(1994)年に現在利用されている連続高架道路が開通してからは、ますます眺めの良さに磨きがかかった。

この区間には旧道が残っており探索もしたが、本編は大坂隧道がテーマなので、横間道路の旧道については別レポートとしたい。



が、旧道に入ってすぐの海側路外(矢印の位置)に、隧道と極めて関係の深いものがあるので、紹介したい。
そこにあるのは、同じ台石の上に並んで置かれた2基の石碑だ。
それぞれ、“大坂隧道之碑”“大坂隧道改修之碑”という題があり、前者には明治の隧道工事、後者には昭和の改修工事の記録が刻まれていた。

現地では撮影だけしてじっくり読む余裕はなかったが、ここに内容を転記しておく。少し長くなるが、お陰で机上調査は楽が出来そうだ。
ただし、前者は漢文碑だが、昭和48(1973)年に八丈町教育委員会が刊行した『八丈島誌』に書き下しがあったので、そちらを参考にしつつ脱字を修正したものを掲載しておく。

  大坂隧道之碑
八丈之地ル三原山脈、坂上・坂下ヲ横絶オウゼツス。之ヲ通ズルハ、唯大坂ト称スル者有リ。而シテ、急坂峻阻シュンソワズカニ人ヲ通ズルノミ。古来改修成ラズ、島人之ヲ病ム。島司阿坂君来任スル也、日露之役ヲ記念スルノ議起コリ、各村夫役シテ隧道ヲウガツ。明治三十八年工ヲ起コシ、同四十年オワル。隧道ノ長サ九十三間、是之コレヨ輸載ユサイ之便永ク頼ル可キ、皆阿坂君ノタマモノ也。

  東京府立第四中学校長正六位勲六等 深井鑑一郎 撰文
  大正十三年   八丈島各村組合 建之
  大坂隧道改修之碑
大坂隧道と横間道路は阿坂島司の職を賭けた英断と八丈島各村村民の献身的夫役に依って明治四十年に開通したものであるが近時急激に交通輻輳して島民は拡幅舗装改修を渇望するに至り美濃支庁長は美濃部知事と諮り国の補助を得て昭和四十一年に着工し同四十三年竣工して輸載の便産業の振興等八丈島の飛躍的発展を促した
茲に碑を建て旧碑も復元して改修の功を悠久に記念する
    昭和四十七年八月二十九日     大坂隧道之碑建立実行委員会 建之
    八丈町長 (以下15団体代表者名列記を略)

……大切にされているなぁ、大坂隧道。(*´ω`*)

碑が建てられたことはもちろんだが、その碑が大事にされている様子も含めて、大坂隧道に対する島民の愛着や感謝の念が伝わってくる。
二つの碑文に共通するのは、初代隧道の建設に関わった阿坂という島司(現在の支庁長のポスト)への篤い謝意である。
そして、島民の夫役によって建設されたという内容も共通して登場する。

なお、『大鑑』では明治42年竣工になっていたが、これらの碑文では初代隧道の竣工は明治40(1907)年となっており、さらに2年、歴史を長くしている。
こちらの数字がより実態に近いと考えて良いと思う。



姿形は変わってしまったが、往昔を物語る記念碑が二つも残されている大坂隧道。
その坂下側坑口周辺の調査をこれから行う。

写真は旧道側から坑口を振り返って撮影した。
右の現道は逢坂橋といい、平成5(1993)年に完成した本島最大の橋だ。(この橋の名前は確かに「大坂」ではなく「逢坂」である)
その際に旧道は車止めで簡易に封鎖されたが、歩行者の立入りは制限されておらず、車通りのない歩道として歩くことが出来る。

坑口には前述の通り、平成2(1990)年改修完了時の工事銘板が取り付けられている。だが具体的にどのような改修が行われたかについては、現地では判断が出来なかった。
そして、この坑口とは一体的に整備されたとみられる旧道側の高い土留め擁壁だが、その一角に巨大な横穴が開いている。
当然私としては、旧隧道ではないか!と期待してしまうわけだが――




覗いてみると、明治の隧道とは全く違う雰囲気だった。

結論としては、この構造物は太平洋戦争中に建造された直射砲台という施設跡で、この写真に撮してある入ってすぐの半円ドーム状の半地下壕に、上陸してくる敵を直接目視で叩くための砲台を設置していたらしい。

さらに地下への奥行きもあり、穴だったから当然私も入ってしまってこの日は8分、さらに別に日もそれ以上の時間を費やした。複雑に分岐した坑道の一部は地上へ通り抜けていたりして、一応隧道の要素もあるが、厳然たる戦跡廃墟なのでレポートはしない。




いやはや、ほんと目移りして忙しい場所だぞここは。
トンネルから飛び出すなり目に飛び込んできた大展望に心奪われたかと思えば、そのまま旧道が目に入り、その入口に立つ隧道之碑に心を愉しくし、一方で傍らの擁壁に穿たれた戦跡には闇を感じた。
それでもまだ終わらない。

(いろいろありすぎて)なんか印象が薄れつつあるが、明治の大坂隧道が作られる以前の峠越えの道が稜線上にあったのではないかという疑いを、まだ解決していない。
それと、何度も改修されて姿を変えてきた大坂隧道の古い名残を探すことも、まだ終わっていない。





ちょっとこの辺が怪しいぞ?

まだまだオブローダーの目が少ない離島だけに、ちょっとこういう横道に逸れれば、

案外まだまだ、意外なものが見過ごされて残っている可能性だってある。

そんな期待をしながら、坑口脇の用途の分からないところへちょっと入ってみると…。



なるほど、何かがあったようだ。

この坑口脇の意味深なスペースには、間知石を丁寧に積み上げた高い石垣によって稜線側を守られた、数メートル四方ほどの小さな平場があった。

道の跡というよりは、何か施設の跡っぽい。旧坑口とかは見当らない。
一見古そうな間知石の石垣だが、【水抜き穴は塩ビ管】なので案外古くなさそうだ。明治のものではない。

景色の良い場所なので、小さな展望台とか休憩所が置かれていたのではないか。
自動車ばかりではく、歩きの人も多かった一昔前なら、需要は確実にあっただろう。




で、平場から尾根の鞍部を見上げて撮影したのがこの写真だ。

めっちゃ険しい岩山で、草も生えない。

【反対側】から見上げたときとは、様子が違いすぎますねぇ……。

隧道以前の旧道が坑口前で分岐して峠を目指しているイメージを持っていたが、この場所から峠へ行く事はムリだ。道がないし、そもそも道を付けられるような勾配ではない。ススキが生えているところもあるが、随所に裸の岩が露出していて、クライマーでもなければこんなところを登っては行かない。

……隧道以前の道はどこにあったんだ……?

あったこと自体は確かだ。先ほど撮影した「隧道之碑」にも、「坂上・坂下を横絶す。これを通ずるはただ大坂と称する有り。急坂峻阻、わずかに人を通ずるのみ。古来改修成らず」とあった。
この大坂を越える、徒歩のみの古道があったのは間違いない。

しかし、見上げる地形はこの崖……。

そして、現在時刻は17:08。

この坂下側坑口へ来てからいろいろ見て回ったせいで、いい時間になってしまった。
とりあえず今日は時間切れだな。撤退しよう。
“大坂の古道”は気になるが、八丈島滞在中にもう一度、ここへ来て捜索しよう。

撤収!




17:10 《現在地》

それから私は、隧道と麓を結ぶ横間道路の旧道を通って、下山した。

写真も旧道から撮影している。この旧道の紹介は後日とするが……



燃える夕陽をバックにして疾走する車を好きなだけ撮影出来る、

良い感じの自動車CM映像が無限に撮れる道だった。

そういう映像を量産したい人は、天気と時刻に気をつけて訪れてみるといい。



17:38 《現在地》

そんな横間道路を下りきった大賀郷地区の外れに為朝神社がある。

横間道路を振り返り、降りて来た道の凄さを見られるのが、この場所だ。

覚悟しろ。




横間道路やべェ。

麓から頂上までを一望出来る峠道としては、スケールが大きい。

これで基本的に道や隧道の位置は、明治40年からほとんど変わっていないことも凄い。

大半を旧道がある地形に沿った高架橋とすることで、斜面崩壊のリスクを回避し、かつ幅員を確保し、
そのうえで観光の島の大動脈に相応しい最高の眺望をも手にした、一挙三徳の道路であった。
首都高速の高架を山に置いたらこんな感じだろうな。同じ東京だからかそんなイメージを持つ。



さっきまでいた坑口付近は、麓からこんな風に見える。

稜線を取り巻く地形の傾斜が全体的に凄まじい。

あそこを越える道があったとしたら、絶対に急峻だったと分かる。

八丈島を二つの地域に横絶オウゼツしてきた大坂の険しさが、心に染み入る眺めだった。




後日再訪


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