今回は机上調査編。
国道113号向大沢橋直下の荒川川底に沈んでいるのが発見されたトラス橋の由来を、文献などから推理してみたい。おいでませ!橋梁探偵!
現場が向大沢橋の真下であるため、まずはこの橋の旧橋が落下して水没しているという説を唱えたくなるところだが、その可能性は考えられない。
なぜなら、向大沢橋は昭和43(1968)年に初めて架設されたもので、現在の橋がそれであり、旧橋といえるような橋がこの付近に架けられたことがないのである。
となると、すぐ上流に架かっているJR米坂線の第4荒川橋梁の旧橋という説が濃厚になってくる。
とはいえ、第4荒川橋梁の架設位置自体は昭和11(1936)年の米坂線開業当初から変化しておらず、別に旧線が存在したことはない。
第4荒川橋梁は水没位置よりも70mほど上流に架かっているので、水没している桁の由来が同橋である場合、転落後に川の流れの力でここまで押し流されてきたと考える必要がある。
水没している構造物の総重量は分からないが、鋼鉄の巨大な塊であり、簡単に押し流されるような軽いものではあり得ない。極めて強烈な水勢がなければ70mも運ばれることはないだろう。
水没廃橋が第4荒川橋梁に由来すると仮定して、これまでに橋が転落する機会があっただろうか。
「橋の転落」
このワードとの関連性を強く疑わせるものが既に現場にあることを皆さま覚えておられるだろう。
昭和15(1940)年3月5日に発生した「米坂線雪崩直撃事故」の犠牲者を弔う殉難碑が、橋のすぐ隣に設置されている。
前回紹介した碑文には、事故の状況として、「列車ここにおいて大雪崩に遭いたちまち崖下に顛落し」とあるだけなので、橋そのものが転落したかは分からないのだが、この事故を詳述する『雪氷 昭和52年3月号』の記事「写真で見る雪崩による鉄道事故について」(丸山久一著)を見たところ、状況が判明した。
午前8時45分頃、横根山トンネルの出口に差しかかったところ、線路左側山頂の高さ約200m附近より、幅300m、長さ20m、厚さ約2mの雪崩が襲来して出合頭に列車に当り、最後部の1両を残して機関車1両、貨車2両、客車3両の列車は、第5荒川橋梁の橋桁もろとも約25mの高さから荒川の河中に転落し、貨車客車は直ぐ燃したため、乗客中死者15名(旅客5名、職員9名、準職員1名)、重傷者12名、軽傷者18名を出した。橋梁の4連中第2連の鉄桁は雪崩と共に飛ばされて第2橋脚に寄り掛り、第1橋脚は桁座下5.56mの個所で破損した。
まず、記事にある事故現場の橋梁名が第5荒川橋梁となっているが、正しくは第4荒川橋梁であるはずだ。これはさまざまな文献と照らしても、引用記事の誤りと思われる。
そして事故の状況としては、雪崩に直撃されて橋桁もろとも列車が川に墜落したと書かれている。
さらに後段の部分では、当時事故現場の橋は4連(4径間)であり、このうち第2径間の桁が川に墜落したことも分かる。
現在の第4荒川橋梁は7径間の橋なので、昭和15年の事故当時の桁の構成は、現在とは大幅に異なっていたのである。
そしてその第2径間が、川へ墜落している!
これは!
――と思ったのだが、待て待て待て、ちょっとマテ!!
『雪氷 昭和52年3月号』「写真で見る雪崩による鉄道事故について」より
(←) 記事に掲載されている写真を見てみると……
落ちた桁は、トラスじゃないぞ!
赤▼の位置にある第1橋脚が雪崩の直撃を受けて上部から5.56mの位置で破損し、そのために第2径間の橋桁が第2橋脚に寄りかかるように転落した。そこに列車が差し掛かり、なすすべなく川に墜落した。
記事本文に解説されている事故の状況が、この写真からも読み取れる。
落ちた第2径間の桁そのものはよく見えないが、橋脚の位置からして15mほどの短い径間に過ぎず、河中で発見されたトラス桁の部材の出所とは考えられない。第2径間にはおそらく、写真にも見えている第1径間と同じようなプレートガーダーであっただろう。
『鉄路の闘い一〇〇年』より
(→)
右の写真も同じ事故現場を写した写真だが、雪崩を引き起こした背後の斜面の状況がよく分かる。
折損した第1橋脚が途中で失われており、坑口から出て来た第1径間のプレートガーダーの先端が中空で途切れている。(応急措置的に別の部材で支えられているのか、橋脚がないのに落ちていない)
それはともかく、手前に写っている主径間(当時は第3径間)で使われている桁は、現在の主径間(第2径間)にある下路曲弦プラットトラストとは全く異なる、上路トラスである。
一緒に写っている人物と比較しても、高さ8mはあろうかという相当に巨大な上路トラス桁だ。
『鉄道技術研究資料 第14巻第12号』「国鉄トラス橋総覧」より
(←)
昭和32(1957)年に発行された『鉄道技術研究資料 第14巻第12号』に掲載された「国鉄トラス橋総覧」という記事に、本橋に使われていたトラス桁の立面図が掲載されているのを見つけた。
これによると、この桁は支間46.8mの上路ワーレントラスで、設計荷重「KS-12」、自重98.266tで、米坂線の第1、第3、第4荒川橋梁や、会津線第5大川橋梁(欄外に、日之影線の第3五ヶ瀬川橋梁の追記アリ)に合計5連(追記分を合わせて6連)が架けられたらしい。
そして、この第4荒川橋梁の備考欄にはとても小さな文字で、「(昭15)災害修理3.086t(横河)」のようなことが書かれている。
この桁こそ、川の中にあるものの正体っぽい?!
――という気はするものの、昭和15(1940)年の雪崩事故ではこの桁は墜落していない。
あるいは、復旧工事にあたって故意に落とされ、新たな桁に取り替えられたのかとも考えたが、「写真で見る雪崩による鉄道事故について」には、事故後の復旧策として、「(事故発生から4日後の)9日より線路の復旧作業にかかり、19日に大部分を終了し
」とあり、事故の規模を考えれば驚くほどの短時間で復旧されている。墜落した第2径間の桁をどう復旧したかは分からないが、これほどの短時間では主径間を取り替えるような大規模な工事が行われたとは考えにくいのである。おそらく、先ほどの備考欄の内容通り、修理され引き続き使われたのであろう。
なお、これらの古写真を見る限り、雪崩事故発生以前からトンネル坑口や橋の第1径間を雪崩から守る覆道が設置されており、開業当初から雪崩を警戒していたことが伺える。事故調査の結果、雪崩に巻き込まれた古レール製の雪崩防止柵が第1橋脚に衝突した衝撃で、橋脚が破壊されたことが事故の直接の原因だと判明した。そのため、斜面上部に雪崩の進行方向を変える雪崩分流堤を設置することで恒久的な対策としたそうだ。
おそらくこの事故後も、上路トラスの主径間は引き続き活躍を続けたものと考えられる。
そう考える根拠として、『事故の鉄道史―疑問への挑戦』(平成5(1993)年刊)の内容が挙げられる。
同書にもこの雪崩事故が採り上げられている(第11話「鉄橋を直撃した雪崩」)のだが、記事の中で著者が昭和62(1987)年12月に現場を訪ねている内容があり――
慰霊碑はトンネル出口の対岸で、機関車が水没した地点を見下ろす場所である。(中略)橋桁は橋脚とともに、昭和42年にトラス橋に架けかえられていた。トンネルの出口は落石よけのためやや延長され、少しせり出した所に橋台が新しく作られ、問題の第1橋脚は撤去されていたが、水中に基礎が残っているので位置は確認出来た。
――「昭和42(1967)年にトラス橋へ架け替えられた」という重要なことが書かれている。
この内容についてはこれから検証するが、先に後段の下線部分について説明したい。
「問題の第1橋脚は撤去されていた」というのは、旧第2橋脚の誤りであろう。
雪崩事故で破壊された第1橋脚の位置には、現在も姿を変えた第1橋脚が立っている。昭和42年に現在の下路プラットトラス桁へ架け替えた際に、橋脚を作り替えたのだろう。
著者が「水中に基礎が残っている」のを見つけられたのは、おそらく昭和42年の架け替え時点まで(先ほどの古写真に見えていた)上路トラス桁を支えていた、旧第2橋脚だ。
右図に赤い点線で描いた位置に、それは建っていたのだろう。上路トラス桁を支える、第1橋脚よりも低い橋脚だった。
私は現場で意識して探さなかったので、水中にそのようなものが残っていることに気付けなかったが、確かになければ不自然な遺構である。
ここまでの机上調査をまとめると、昭和15年の雪崩事故によって本橋は被災したが、主径間の上路トラス桁はそのまま存続した。だが昭和42年に現在の下路トラス桁に置き換えられたということになる。
ここで、トラス橋の歴史に少し詳しい方であれば、昭和42年という新しい時期に、このような古式ゆかしいアメリカンスタイルの曲弦プラットトラスを新たに製造するのは、年代的に不自然だと考えると思う。
だがこれについては、すぐに理由が分かった。
『歴史的鋼橋調査台帳』「第四荒川橋梁」より
第4荒川橋梁の構造に関する詳細なデータが、土木学会附属土木図書館が作成した歴史的鋼橋調査台帳というデータベースで閲覧できる。
右の画像がその内容で、橋の長さや開通年は当然として、7連の桁それぞれの長さや構造、設計活荷重など、ひととおりのデータが揃っている。
下から2番目の「記事」欄に注目していただきたいのだが、そこにこう書いてある。
「<前架設場所>東海道本線大井川橋梁上り線」
他の欄の内容と合わせて分かることは、現在の第2径間(主径間)に用いられている下路曲弦プラットトラスは、もともとは東海道本線の大井川橋梁の上り線として使われていた、明治31(1898)年にクーパー・シュナイダーが設計し、明治44(1911)年にアメリカンブリッジ社が製造した桁を、移設・改造したものだったということだ。
役目を終えたトラス桁の移設転用は、鉄道の世界では頻繁に見られることだった。
東海道本線の大井川橋梁の上り線は、明治45(1912)年に開通し、46年後の昭和33(1958)年に、新たな上り線の橋が架設されたことで役目を終えている。
この橋は同じ形状をした16連のトラスからなっていたが、このトラスのいくつかが、日本各地へ移設転用されている。
磯部祥行氏(私の『日本の道路122万キロ大研究』の編集者さまだ!)のブログの記事「アメリカン・ブリッジの記憶(大井川橋梁上り線の怪)」に、転用先がまとめられている。
太平洋ベルトのど真ん中で、列島の大動脈という重責を一身に受けて働き続けた長大橋の一欠片が、東北の雪深い渓流へ“転生”していたわけだ。
(←)一見して古そうなスタイルの桁だとは思ったが、まさか明治44(1911)年建造とは恐れ入った。
昭和11(1936)年に開業した米坂線に架けられた(そしておそらく今は水底にある)初代の下路トラス桁よりも、単純に25年は古い桁が現役で活躍している。わが国の鉄道の長い伝統と、システム化された素晴らしい物持ちの良さを感じる。
まとめると、昭和42(1967)年に、本橋の主径間は、開業以来の上路トラスから、(より年式の古い中古の)下路トラスへ更新されていた。
なぜ、このような奇妙なことが行われたのだろうか。
そこには、未曾有の大災害があったことが判明した。
というか、昭和42年という年を聞いた時に察していた…。
今回の舞台は、赤芝峡に架かる第4荒川橋梁だが、赤芝の名を冠する国道113号の赤芝橋が、ここから1kmほど上流にある。
以前レポートしているので(探索日は同日である)、覚えている方も少しはおられるだろうか。
赤芝橋の探索で私は見つけたものは、【転落水没した旧赤芝橋の橋桁】だった。
鉄道橋が沈んでいるわずか1km上流に、道路橋の残骸も沈んでいたのである。
そんな旧赤芝橋を墜落させた出来事がなんであったかも、その時の調査で知っている。
昭和42(1967)年8月26日から29日にかけて、山形県と新潟県下越地方に激甚な被害をもたらした、その名も羽越豪雨(羽越水害)である。
死者104名を数えた水害がインフラに残した傷痕は凄まじく、特に荒川沿いに被害は集中した。
小国盆地にある小国市街地は大半が床上まで浸水し、盆地の唯一の排水口である赤芝峡周辺の水位は10mを優に超えて上昇した。
結果、右画像に×印を付けた道路橋と鉄道橋はことごとく落橋した。
荒川を何度も渡る国鉄米坂線の橋は、第2、第3、第4、第5が流失し、他の支流や小渓流に架かる橋も流失や埋没したものが多数あった。同様に国道113号の橋も多数が失われた。まさに壊滅の状態であった。
道路の被害については、国交省山形河川国道事務所が作成したこのPDFが分かり易い。国道113号の一部区間(村上〜南陽)が指定区間となっているのは、あまりにも被害が大きかったこの道を国が直接復旧させるための特別な措置であった。昭和45年に開通した向大沢橋から横根橋に至る現国道も国が整備したものである。
小国町のサイトにも羽越水害の特設ページがあり、米坂線の被害状況や復興の風景が多数公開されている。
小国町「昭和42年「羽越水害」」より
右の画像も同サイトからの引用で、キャプションには一言、「跡形もなくなった荒川第4鉄橋
」とある。
見覚えのある坑口から第1径間の先端部がぴょこんと出ていて健在を知れるが、その先の第2径間や第3径間は、跡形もない!
昭和15年の雪崩災害では崩壊しなかった第3径間の巨大な上路トラス桁が、失われている!
このときに落橋したのである。
そのことが、この写真ではっきりした。
そしてこの復旧のために、東海道本線大井川橋梁で役目を終えて休んでいた古いアメリカントラス桁に白羽の矢が立ったのだ。
『交通技術 昭和43年7月号』より
雑誌『交通技術』の昭和43年7月号に、「米坂線全通」という小さな記事を見つけた。
大井川からはるばる列島を横断して運ばれてきたトラスを再架する右の工事写真と共に、次の通り復旧工事の完成を伝えている。
異常集中豪雨によって、全区間濁流と土石流によって壊滅した米坂線は、この7月28日、10ヶ月振りで全通を見た。なかでもこの復旧工事を最後まではばんだのは第4荒川橋梁だが、この橋梁も突貫工事により完成をみた。新橋梁は旧橋梁より62m長い150.15m。東海道線大井川橋梁の転用桁。
この記事により、旧橋は現在の橋よりも62m短い約88mの長さであったことが新たに判明した。
旧橋時代と、復旧工事後の橋の様子を、航空写真で比較してみる(→)。
解像度的に分かりづらいが、よく見ると旧橋当時は長い築堤であった部分が、復旧工事で橋に変わっていることが分かる。
築堤は洪水を助長するので、橋に変更することで後顧の憂いを断ったのだろう。
そしてこの旧橋時代は、現在の旧国道を跨ぐ【跨道橋】が、第4荒川橋梁の一部ではない独立した橋だった。
だが跨道橋の桁自体は変わっていないために、第7径間の【製造銘板】が、「昭和10年建造」となっていたのである。
対して、復旧工事で新たに架けられた第6径間の【製造銘板】は、昭和3年以前に建造されたことを示す内容だった。
これは、第6径間の小さなIビーム桁は、第2径間と同じく、どこかから連れてこられた古い転用桁という可能性が極めて高い。
同様に、復旧工事で採用された第3、第4、第5径間の各プレートガーダーも、どこかから転用された可能性があると思うが、その場合の転用元は不明である。
『歴史的鋼橋調査台帳』「第四荒川橋梁」より
先ほど転載した歴史的鋼橋調査台帳の本橋のデータシートには一般図という欄があり、橋全体の立面図を見ることが出来る。
右画像がそれで、各径間(@〜F)の番号と、径間長を追記している。
そしてチェンジ後の画像は、ここまでの調査によって判明した羽越水害以前の旧橋の立面図を推定で描いたものだ。
敢えて昭和15年の雪崩に被災した状況を再現してみたが、旧橋は全長88mで4径間からなっていた。
主径間は第3径間の上路ワーレントラス(径間46.8m)である。
なお、旧橋に赤で描いた2つの桁は、現在の橋でもそのまま同じ位置(第1、第7径間)で使われ続けている。
それ以外の第2〜6径間は、羽越水害からの復旧時に架けられた桁だったのだ。
以上のような机上調査によって、
第4荒川橋梁では、昭和11年の開業時に架設された全長46.8mの上路ワーレントラス桁1本が、昭和42年の羽越水害によって荒川へ流失していることがはっきりした。
橋の約70m下流の川岸及び川底に散乱した状態で発見されたトラス橋の残骸らしき物体の正体としては、立地的に、この桁以外は考えにくいと思う。
この残骸について直接言及している文献は見当らず、水中の残骸の全容も分からないので断定は出来ないが、残骸の由来は、前記した上路ワーレントラス桁と考えて良いだろう。
最後になったが、米坂線内だけで15本の橋が落橋または埋没し、ほぼ壊滅状態と化した羽越水害から、全線で運行を再開するまで10ヶ月を要している。
令和4年8月の水害も被害は甚大だったが、それでも落ちた橋は1本だという。だが、被災から1年を経過した現在も、復旧工事は始まってさえいない。
地方の鉄道をめぐる環境の厳しさが、身に沁みるようである。
完結。