2022/6/11 7:37 《現在地》
ここは、県道558号天谷佐田線の起点から約50m地点である。
道は初っ端、天谷川の支流に沿って山へ入る。
道に沿って狭い段畑があるので景色は開けているが、かなりの上り勾配で、軽トラ幅で刻まれた2本の細い轍から覗く砂利の外は草道だ。農林作業の軽トラ以外が車が通るイメージは全く湧かない道路状況。
チェンジ後の画像は県道56号上の起点を振り返って撮影。
倒れかけの看板には、大きな「通行止」の文字が、完全に色を失っていた。
もはや看板でどうこうするまでもなく、この冒頭の道を見れば通り抜けを目的に立ち進入する車はないだろうと、管理者もそんな風に考えていそうな看板放置ぶりだった。
100m地点。
こちら岸は緑深いスギの森に狭められ、一方で対岸には明るい土地が広がった。簡易な木橋が何本かそこに通じているが、遅れて県道も対岸へ移る。行く手にやや場違いな白さを放つ、高欄代わりのガードレールが見えた。
チェンジ後の画像は、やはり振り返って撮影。
梅雨の季節のしっとりとした田舎道には、噛みしめるような風情がある。
またこの言葉に頼るかと私自身やや食傷を感じつつも、脳裏に浮かんだ言葉は偽れない。
……日本の原風景。
7:41 《現在地》
起点から150m地点、小川を渡る小さなコンクリート橋。
これといった特徴のない橋で、銘板などもないために、現地にあるものだけでは橋名すら分からない。だが、全国道路構造物マップに橋のデータが掲載されており、それによると橋名は「第2円田橋」といい、竣工は意外に新しく平成4(1992)年、そして路線名はちゃんと県道天谷佐田線と記録されていた。
平成時代にに架けられているのは、老朽化した旧橋を架け替えたのが、たまたまその時期だったのだろう。このことは、平成に入ってからも県道として県による手入れがなされていた証拠と言えるが、一方で、架設当時に現道を大々的に改良する計画が存在しなかったことを暗示している。
皆さまもどこかで、狭い道路の途中にある橋だけが広いという場面に遭遇したことがあると思うが、あれは大抵、将来的な拡幅計画を持っている道で、後から拡幅が難しい橋を予め広く作っているのである。
したがって、この橋と道には、平成4年時点でそのような将来の拡幅計画がなかった可能性が高い。新しい狭い橋とは、道の将来性の狭さを物語ってしまうものなのだ…。
ところで、この橋の名前である「第二円田橋」にも注目したい。
「第二」があるなら、「第一」はどこかという問題が出て来るのである。
だが、対象となりそうな橋は、これより奥には見当らない。また、起点→終点の順に採番する可能性が高いので、おそらく第一円田橋は第二円田橋よりも起点側にある、ないし、あったはず。
これについては前回最後にやった机上調査との関わりが深い話になるが、おそらく第一円田橋は、前回登場したあの【謎の橋】であろうと思う。
あの“謎の橋”は、県道56号のバイパス整備によって県道558号の起点が現位置になった(とみられる)平成元年頃までは、高確率で県道558号の一部であった。
この地区には第一や第二の付かない「円田橋」が既に2本架かっているが、上記仮説が正しければ、さらに第一と第二の円田橋もあることになり、もうこれは“円田橋祭り”を開催すべき土地である。
橋を渡ると直ちに、獣よけのネットバリケードに行く手を阻まれる。
たまにこれを通行止だと解釈する人がいるが、獣よけのバリケードは道路法で規定される道路の通行止とは本質的に異なっている。
獣よけのバリケードの多くは道路管理者が設置したものではなく(道路の占有物として許諾している可能性が高い)、利用者は自由に開けて通過出来る。
その旨の但し書きがされていることが多いが(自由に通過出来ますが開けたら必ず閉めて下さいなどと書いてある)、この場所にはそれは見当らない。なので不安になって(あるいは面倒くさくなって)通過を断念する人がいるかもしれない。
獣よけバリケードを自転車と一緒に通過した。
もちろん、面倒でも開けたら閉めることを忘れずに。
どうせ戻るから開けておくとか横着したらダメだよ。獣はどこかに隠れて見ているゾ…。
バリケードを越えても、軽トラの轍がちゃんと続いていてホッとした。
道路沿いに獣よけのフェンスが続いているが、もう私はケモノ側の存在になってしまったのである。“野生のサファリパーク”というよく分からないワードが脳裏に浮かんだので、これも開陳しておく。
首を巡らせて空を見る。
日差しはないが、太陽の位置が透けて見える曇り空だった。少し前まで雨が降っていたようで、草葉が重そうにしだれている。
これから越える峠は、見上げるような高みにはない。
今いる谷の奥を詰めていけば自然と辿り着ける地形的に易しい峠だ。
鞍部らしいものは見えないが、正面奥のスギの尾根の中にあるのだろう。最奥に見えるやや高い稜線ではなく、その前衛の木立の尾根だ。
ここまで約300mで、峠まで残り1kmだ。
7:45 《現在地》
400m地点。
小支流を渡るコンクリート暗渠と一緒に、再度の獣よけバリケードが行く手を阻んだ。
この二度目を越えるというのは、内→外→内と展開したのか、それとも内→外→外の外ということなのか悩ましいところだが、通行人としては何度でも根気よく繰り返し、開けて、通って、閉めることをやるしかない。
この手の手作りであろうバリケードには、一つ一つに個性がある。
施錠されていなくても、立て付けや閉じ方に癖があって、開けるのにはコツがいるものも少なくない。
きっと部外者の通行を想定してないんだなと思うと、申し訳なさと、優越感と、面倒くささを同時に感じるのである。
だが、ここにあるゲートは2箇所とも紐で支柱同士が結わかれているだけだったので、部外者にも優しかった。
2度目の獣よけを越えると、轍が途端に薄くなった。
そして600m地点付近で、道は仄かに二手に分かれた。
やや上り方の強い左の道を県道の本線だと判断して進むことにした。
右の道は廃田跡らしき段々の谷底で終わっているようだ。行き止まりにサル用の罠とみられる返しのついた檻が設置されていた。俘虜の姿はない。
平成22年に兵庫県が調査した「平成22年度 道路交通センサス」では、この付近には日中12時間で約500台、夜間も合わせた24時間では約600台の日通行量が“推測”されている。 計算方法のメカニズムを踏まえると、このような推定値が出て来ることに他意がないことは分かるのだが、公表された数字と現実の風景のギャップには笑いがこみ上げてくるのである。
650m地点付近。サルの檻を合図に、緩やかな廃道が始まった。
道形は依然として鮮明だが、倒木や下草が放置された状況は明らかに廃道化の一丁目だ。
私も自転車に乗りっぱなしではいられなくなり、降りたり、乗ったり、忙しくなった。
なお、兵庫県はこの県道の一部を自動車交通不能区間に指定しているが、区間の始まりや終わりの正確な地点や長さが分からない。
そのため、ココは既にその区間内かも知れないし、そうではないかもしれない。
7:53 《現在地》
800〜900m地点。
ずっと谷を埋めていた廃田跡が、スギの植林地に追い出されるような形で途切れた。
途端に景色は畦道から林道……いや、使われていない林内作業路のような感じになった。
それでも一応はまだ車道の体をなしている。ジムニークラスなら、運転次第ではここまでは来られそうである。
なお、道路構造物と呼べるものは極めて乏しい。ここまで第二円田橋と暗渠一つだけだと思う。石垣さえ見ない。それでも車道としての道幅や勾配を破局させない安穏な地形で推移してきた。
だがこの先は、峠に向けて谷は狭くなる。道はどう推移するだろう。
峠まで、残り約400m。
流水が作った溝によって路体が切断されている箇所を乗り越えつつ…
起点から約1km。ずっと辿ってきた谷の源頭部に立ち至った。
いくつもの小さな谷筋が楓の葉脈のようにひとところに集まってくる。
道は10〜15%程度の急坂で地形に逆らわず直線的に登る。
道形は鮮明だが、勾配と小さな障害物の多さから、さすがに自転車は押して歩くことが増えた。
周りの斜面にはスギが植えられているが、林床に小刻みな段々が作られていた。
段畑や棚田の跡に植林したのか、それともはじめから植林のためにそうしたのかは分からない。
いずれにしても、人の気配が濃厚に感じられる。ここを県道として通行する人や車は少ないだろうが、山に人の目が行き届いている。こういう場所を里山というのだろう。
8:08 《現在地》
自転車という重い枷を押し歩くことしばし……、とはいえせいぜい15分ほどで、峠の鞍部を直接に見上げる峠直下へ辿り着いた。
麓から続く谷が終わり、最後に稜線へ突き上げる袋小路が峠の直下だ。そこは峠に向けて地形の緩急が最後に切り替わる地点である。(最低限のトンネルを掘るならここという地点)
ここまではかつて路面の手入れがされていた時期なら、自動車の一部は登って来られたかと思うが、ここから最後の登り、高度差約20mを詰める100mほどは、最後まで山道として残されたようだ。
特段難しい地形ではないのだが、純粋に急勾配であり、自動車のために道を整備した形跡はなかった。
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