2022/6/11 8:14 《現在地》
峠に辿り着いた。
地理院地図には名前も標高の記載もない、ただ徒歩道として表現された県道が越える峠。地図読みの海抜は約310mで、スタート地点の天谷より約150m高い。
道のりは約1.3kmだったから、平均勾配は10%を越えている。非車道部分を持つ峠としては比較的緩やかだが、このまま拡幅だけで真っ当な車道とするには、終盤の勾配が過剰である。
チェンジ後の画像は、少し手前の路上から撮影した峠の遠景で、ふくらはぎに緊張を感じる急坂だった。
峠は切通しと呼ぶには穏やかな、浅い掘り込みになっていた。
尾根は狭く、両側とも急傾斜である。天然の鞍部をなしており、けもの道から自然に発展した峠のように思う。
峠にしばしば見られる、過去の通行人を偲ぶようなアイテムは、石仏、傍示、標識、あるいは空き缶の類まで、全く見当らなかった。
歴とした県道の峠越えではあるが、実態は極めて素朴な山道に過ぎない。
この無名の峠、見ての通りで表裏とも見晴らしは全くないのだが、登りの汗を労う涼しい風は気持ちよかった。風だけは峠を裏切らない。
峠の向こうに下り行く佐々木側の道を初めて覗くと、登ってきた天谷側との変化を感じない道、地形、樹木の様子だった。
実は、ここへ来る最後の上り坂では、すねの辺りにかつて経験したことのある“嫌な気配”を感じていた。
だが、その嫌な気配……悪寒の正体を確かめたうえで、もし予感が的中したとしたら、それに何か対処をするためには相当長くここに立ち止まる必要がある。だがそれは避けるべきだという判断から、すぐに出発する決断をした。
8:15 下り開始!
地図上の峠の位置は、この区間の両端にある天谷と佐々木の二つの谷の中間から佐々木側に寄っており、天谷→峠は1.3kmで150mアップだったが、峠→佐々木は0.9kmで100mダウンである。平均勾配はあまり変わらないが道のりが短い。それで下り坂なのだから、登ってくるより圧倒的短時間で下れる計算だ。
下りの道は、まだ水流を作らない源頭の谷を右に見ながら、自転車の制動に困難を感じる急な土道から始まった。道幅が狭く、小刻みな蛇行もあり、車道化するなら難所と見えるが、それでも現代の土木技術がその気になれば、簡単に平らげてしまう程度の起伏に過ぎないだろう。
県道に認定されている以上、この峠道を車道として改良されることを目指して活動した勢力があったことは間違いないと思われるが、県道認定までで力尽きてしまったのだろうか。県道になってからの道路整備の気配は、ほとんど感じられない。もしかしたら、天谷集落内に【あの橋】を作って満足したのかもしれぬ…。
序盤の急坂を抜けると、勾配が緩み、道幅も広くなって、頑張れば自動車が導入できそうな道となったが、全く轍はない。引き続き、自動車交通不能区間の顔をしている。
それはそうとして、やはり間違いなく私の足は、むず痒い。
それも、切ないことに、両足である。ズボンと靴下に隠されているはずの両方の生足が、間違いなくむずむずと……痛痒い。
もう認めざるを得ない。
やられている。残念ながら、この独特のむず痛痒さの犯人は、ヤツしかいない。
ヤツにやられている!(確信)
が、それでもここで立ち止まっての確認はしない。そもそも、この感触はもう手遅れだろうし、ここで立ち止まる方が遙かにマズイことになると思うから。いまは、脱出優先だ!
8:19 《現在地》
足の悪寒から些か心の平静を乱されているが、前進を続けている。
幸い、道は下りオンリーなので、ブレーキ操作だけでどんどん距離は稼げる。
峠を出て4分後、おおよそ300m下ったところで、道は左から入ってくる小さな枝谷に断ち切られてしまった。
もともと小さな橋か土堤があったのだろうが、跡形もない。
面倒と思いながらも、先へ進むべく周りを見回すと……
(チェンジ後の画像)
おお! あそこに見えるが救いの道か!
20mほど離れた谷側に、林内作業路らしき広い土道があるではないか。
ここと路面は繋がっていないが、少しの草むら歩きで上手い具合に乗り移れる位置だ。
足に爆弾を抱えている(確信)私には、ここでの救いの手はマジ仏!
8:20
作業路?へ乗り移り成功。
ここが終点らしく、広場になっていた。
県道の終点的なアイテムは全くない。あくまでも作業路の顔だ。
おそらく県道に認定されているのは、従来からある峠越えの山道(矢印の位置)だろうから、ここで作業路によって無造作に進路を争奪されているようだ。
が、その先の進路は重なっていそうだから、このまま足元の路面を進む。
豪快に切り開かれた、茶色い地肌の裸の路体。
もしこれが県道として整備されたものならば未成道を疑うところだが、たぶんただの林業用作業道だろう。
現状、峠の両側のすぐ下まで、このようなブル道的な車道が通じているので、それらをあと一伸ばしすれば繋げることは出来るだろう。だが、繋げたところで、ちゃんと整備しなければ県道としての開通は出来ない。昔ならともかく……。道路構造令など様々な柵から、事実上、新たな“険道”を作れないのは、現代の厳しいところだ。
8:23 スギの森を抜けて、佐々木側の下界へ飛び出した!
8:24 《現在地》
峠から約550m、佐々木地区の外れにある一軒の民家の脇に出た。
ここで待望の舗装が復活。しかし道幅は依然として畦道同然の狭さである。
これより先は景色的には開けているが、広がるのは休耕地の草原ばかりで物淋しい。育ちきったワラビが沢山生えていた。
県道252号との交差点は300mほど先にあるはずで、もし反対側から来れば、ここが事実上の車道終点だ。いま来た道に対しては特に封鎖はないが、あんな作業路然としたところへ自動車で入ろうと思う部外者は、ほとんどいないだろう。そしてここにも県道らしいアイテムは見当らない。振り返っても、県道起点からここまでヘキサなんて一つもないし、他に兵庫県の関与を感じさせるものも見ていない。
忘れ去られた起点から始まる、県道を語らない県道だ。
ここには、地形的困難のために道を通せないパターンとは違った無力感がある。
8:25 《現在地》
山道を脱し、舗装を獲得し、しかしまだ真っ当な県道とは言えない狭路である。そしていくらも行かないうちに、三叉路にぶつかった。
右から合流してくる道は未舗装で、県道は道なりに進むだけで良い場面だが、通り過ぎる前に気になるものを見つけたので、停車する。
三叉路を振り返る。県道は右から来た。
まず、“青い矢印”の位置に石仏を見つけた。これは後述する。
さらに、左の道へ向かって舗装の切れる直前の路面に、「K558 -N2-」と白いスプレーでペイントされているのを見つけた。
これは兵庫県内の県道ではしばしば見られるもので、Kで始まる558は「県道558号」を意味しているようである(私はそう解釈している)。異なる道路の境界を明らかにするために、道路管理者が表示したものであろう。
ヘキサのように一般の道路利用者へ向けられた情報ではないし、あらゆる交差点にあるものでもないが、県道や路線番号を実地的に知る手掛かりになるので、兵庫県内では有力な情報源になっている。
そんなわけで、ここから先(写真では手前側)は間違いなく県道である。
三叉路の内角の草むらに佇む石仏を見つけた。それも3体並びで。
この立地でまず期待するのは道標石だ。
道標があること自体が、その道の歴史の長さや重要性を物語るうえ、案内された地名からは、設置された当時の道の繋がりや利用の方向性も見えてくる。
今回のように既知の情報が乏しい道では、特に重要な情報源となり得る。
というわけで、地べたにうずくまって古き石のものに参ったが、小ぶりで風化が特に進んでいる右側2体については、文字らしいものは見えず、道標的な要素を持たない野仏と判断した。
だが、一番大きな左の1体には、彫刻された仏身の周りに多くの文字が刻まれており、判読を行った。
チェンジ後の画像に、解読した文字を重ねて表示した。
…… …… …… (解釈中)
これも、道標ではなさそうである。
「禅音童子」と「玄雄童子」とあるのは、神仏の名前ではなく故人の戒名だろう。明治10年と11年に相次いで死去したらしき2人の少年の関係は全く分からない。
これが墓場であれば墓標と思うが、敢えて路傍に建立したとしたら、道と関わりの深い生業を持った2人であったのかもしれぬ。
正直、仏像としての正体を含め、私には解読と呼べるほど多くのことは読み取れないが、明治10年代にこの峠を行き交う人がいた傍証にはなると思う。
「天谷村」という文字が刻まれているところがあるが、明治22年の町村制施行まで、峠のあちら側が天谷村で、こちらは佐々木村であったから、峠を越さねば道理が合わないのだ。
閲覧注意。
やられてた。
両足、やられてた。
ヤマビルビルビルビルビル……5匹。
私は、ヤマビルが大の苦手である。
ガサツな私は、世の中で不快害虫とされている様々な生物の多くは我慢できるが(そうでなければ藪山廃道歩きは務まらない)、ヤマビルだけはダメ。
平成6(1994)年8月に当時高校生だった私が、チャリ馬鹿トリオでのキャンプサイクリングのために通りかかった秋田県内の某県道で、全く無防備な素肌を生まれて初めて出会ったヤマビルに食い破られて大流血。なかなか肌から取れず悶絶!失神失禁一歩手前となった事件の数年後、さらに秋田県内の某アンプカ沼で数千万匹ものヤマビルに取り囲まれて悶絶!発狂失神失禁半歩手前となったという、この2度のヤマビルトラウマ事件から私は決定的にヤツを恐れるようになった。
ゆえに私はその後の探索全国展開にあっても、各地のヤマビル出没情報をつぶさにチェックし、基本的に出没時期を避けて探索を行ってきたし、季節を問わず常にズボンと靴下を2枚以上重ね履きする対策や、市販された忌避剤の使用を徹底してきた。ゆえに、奴らとの遭遇自体は度重なったが、流血することは2000年代以降一度もなく切り抜けてきたのである。
が、ついにやった。
大阪府を除く近畿一円の6月はヤマビルのお祭りである事をこれまでいろいろなところから聞き及んでいたにも拘わらず、なぜかこの日の私は靴下もズボンも重ね履きをせず、どう見ても絶対に巣窟っぽい雨あがりの里山へ入り込むという暴挙を犯したのである。その結果はご覧の通り、20数年ぶりの大流血から、血河の県道の出来上がりであった。まさに、魔が差したとしかいいようがない。
なお、靴下内から素肌を食い破ったヤマビルは3匹だったが、さらに靴下越しに甘噛みを果たしたヤツが2匹いて、こいつらの分も漏れなく肌は炎症を起こした。体質もあるのかも知れないが、1ヶ月ほど痒みが続き、煉獄の苦しみを味わった。
そして、直接に被害を与えてきた上記5匹の他にも、靴と靴下とリュックと自転車に少なくとも10匹以上のヤマビルが取り憑いており、それらを全てこの碑の前で捻り潰したが、実は縮緬雑魚のようなミニミニヤマビルがいて、取り切れなかったヤツらは後日の車中泊の車内で繰り返し出現し、私に終わりなきインフェルノを見せたことを申し添えておく。
俺の血を呑んだヤマビルはちゃんと死んだ。安心してくれ。
ヤマビルとの血戦には、15分あまりを費やした。
愛する道を血で汚し、テンションは爆下がりとなったが、身に付いていたものは全部捕殺したので(出来ていませんでした…涙)、出発だ。もうこの苦い探索を終わらせよう。
相変わらず狭い道を走って行くと、古びた砂防ダムの脇を通った。写真はその場面。
そしてこの後、最後の下り坂があり……
8:43 《現在地》
ゴォール!!!
起点から約2.2km地点、天谷から小さな峠を越えて、隣の谷の佐々木へと辿り着いた。海抜は約210mなので、天谷より少し高いところだ。
天谷から佐々木への通常の経路だと、おおよそ13kmの道のりがあるので、確かにこの県道は非常に短絡的だ。所要時間についても、私は自転車で67分を要したが、ヤマビルに食われなければ50分で済んだだろうから、自転車という条件ならば県道にも勝機はあるかも知れない。徒歩だったら間違いなく県道が早いだろう。
……けれども、そもそも天谷と佐々木を短絡したいという交通需要が、ほとんどないんだろうな現状は…。
それはともかく、この交差点を、県道558号は右折する。
左折の道は県道252号佐々木相谷線といい、ここが起点である。
県道252号の側から交差点を見ると、県道558号は右から来て、左の道へ続く経路だ。
しかし見ての通り、交通の流れは異なっている。
路面の白線からして、いま私が越えてきた右の道を完全に黙殺している。
なお、ここにも路面上に県道の路線を示すスプレーのペイントがある。「K252 -BP-」という文字が、画像の破線の位置にある舗装の継ぎ目に描かれている。
「BP」とは Beginning Point の略で、土木用語で起点を指す。つまりここが県道252号の起点であると教えてくれている。舗装の継ぎ目の向こう側は全て県道558号だと暗示している。
とはいえ、一般ドライバー目線では、交差点自体が存在しないに近い扱いだ。
写真は、県道252号側にさらに引いて交差点を撮影したが、交差点を含めて一連の緩やかな左カーブに見える演出で、県道が切り替わることは告知されていない。前後に青看やヘキサもないので、普通は分からない。
だから、いつの間にか県道の路線名が変わっているという印象だろう。
起点でも空気だったが、ようやくまともに使われる区間に入る場面でも空気とは、県道558号は本当に扱いが空気である。
(私にだけ、トラウマを呼び覚ます勢いで鮮烈に記憶されてしまったが)
天谷から越えてきた右の道を覗いて撮影。この景色もとりたてて強い印象は持たれないだろう。せいぜい狭いというくらいか。
ただここにもなおざりな感じで「通行止」の看板がある。天谷にあったものと違って色が残っているだけ扱いはマシだ。この奥にも1軒の民家があり、通行止はここからではないはずだ。看板の有無に拘らず、そもそも県道とは認識されづらい区間であるため、通り抜けを試みる人も少ないだろう。
一方で県道558号の続きとなる左の道だが、一瞬だけ県道252号を引き継いだ2車線だが、すぐ1車線に戻るのが悲しい。
この先は3.5kmほどで終点の佐田で国道426号に出られるが、九十九折りの狭路が続く山越えの難路であり、冬期は封鎖されるほか、ここに標識で告知されているとおり、連続雨量140mmなどで通行止の処置がとられる異常気象時通行規制区間になっている。
県道558号は約5.8kmの短距離路線だが、始まりから終わりまでことごとく貧弱で、扱いに恵まれない気の毒な路線だと感じた。
以上、探索終了だ!
今回は机上調査編はない。
奴らにエネルギーを吸い取られたせいなどではなく、帰宅後に机上調査を試みたが、情報をほとんど得られなかったのである。
頼りになるかと期待した『但東町史』には一度もこの路線名は登場しなかったし、この路線に繋がりそうな古道の存在にも言及がなかった。
兵庫県土木部が昭和53(1978)年に発行した『土木部要覧』には、この県道の路線名が現在と同じ路線番号で、全長5840mの路線として記録されており、今のところ本県道に関する最古の資料である。
豊岡市議会や兵庫県議会の会議録を検索可能な範囲について調べてみたが、この県道への言及は皆無であった。
旧版地形図(右図)には、この道が徒歩道として描かれているが、それだけであった。
この県道の経路である天谷や佐々木は、県境の山岳地帯から流れ出る各河川の最も奥にある集落で、交通条件の不利な土地である。
それぞれの地区から旧但東町の中心部や豊岡市街地へ行くには、川沿いを下る県道を使うことになるが、この道が災害などで途絶すると地区が孤立することになる。
そのため隣り合う谷を山越えで結ぶ道の整備が考えられる。これをはしご形(ラダー型)の道路整備といい、リダンダンシーに優れた交通網計画として、防災面から特に重視されている。
この考えから昭和40年代か50年代初頭に県道としての路線認定に至ったが、峠を越える道路整備には多額の費用を要するため、現状の中途半端な整備状況で取り残されているというのが、情報が足りない中で一応想像してみたバックストーリーである。
「 トホホ、ヤマビルはもうこりごりだよぉ〜 」
完結。