常磐線 旧隧道群11連発 最終回

公開日 2006.03.05
探索日 2006.01.21



前人未踏! 隧道突破への試練

隧道突破なるか?!

16:31

 入洞から13分を経過していた。
殆ど脇目も振らず歩いていたから、既に洞内を800m以上歩いていたと思う。
そして、実はこの時すでに、うっすらとではあるが、行く手に出口らしき明かりが見え始めていた。
隧道は私が入洞した南側に緩いカーブがある以外は直線で、サミットを越えたこともあり、出口までの視界を遮る物はもう無いのである。
この時点で、明治期としては最長クラスの本隧道がいまなお貫通しているという事実を、確信した。

 だが、サミットを越えた辺りで足元は深い泥濘に支配され始め、やがて私の歩く速度を大きく奪うばかりか、このままでは泥が深すぎて進退窮まるおそれさえでてきた。
貫通を確信した今、泥による撤退は、余りにも悔しい!

 私の最終攻略への華麗なる足掻きを、ご覧頂きたい。



   足元を埋め尽くす膨大な量の黄色い泥がどこから生じたものなのかは、その汚れ方を見ると一目瞭然であった。
それらは、煉瓦の壁から滲み出ていた。
亀裂や剥離などは殆ど見られない内壁ではあるが、周囲の地質を反映してか、地下水だけではなく、膨大な量の泥をその僅かな隙間から通している様だ。
滑らかな泥の粒子が形作る造形は、さながら鍾乳石のようであるが、好んで触れようとする物は無いであろう。
しかし、100年で5oしか成長しないという鍾乳石ほどではないにしても、この泥のオブジェもまた長い年月をかけて成長していただろう事は、泥の管から勢いよく吐き出される地下水が極めて透明であることからも想像が出来る。



 ネオプレーンの靴下と、なぜか冬用のブーツという足回りで望んだ私であったが、濡れることを前提にした装備とはいえ、踏み込むために飛び散る泥によって、下半身全てが泥にまみれる事は、想定していない。
果たして、このズボンは洗って汚れが落ちるのか…。
私の中に、新しい不安がニョキニョキと育っていった。
こいつは、シャレにならない結末が待っていそうだ…。



 

 そして、無情にも水没が始まった。

 このとき、既に出口は肉眼で確認できていたが、それはまだ点のような小ささで、これまで歩いた距離から考えても、まだ出口までは600m〜700mはあろうかと思われた。
峠のサミットを過ぎた直後というこの時点で水没が始まったということは、かなり危機的な状況だった。
水没隧道を実際に探索された方ならばお分かりかと思うが、この種の水没は進むほどに深さを増すおそれが極めて高い!
仮に出口まで全て水没しているとしたら、その水深は隧道の勾配に従い増えていき、最後には私の身長を超すほどの水位になっているに違いないのだ。



 私の中には、諦めムードが急速に広がっていった。
さらに悪いことには、すでに夕暮れは過ぎており、すぐにでも今日の探索を終えねばならない状況である。
いまさら、この水没している反対側の坑口に再チャレンジする時間など、無さそうだ。
その入口などの情報もはっきりとしておらず、夕闇の中にいちから探せるムードでは到底無い。

 気合いを入れて乗り込んできた私だったが、遂に11本目。
最終目標にて挫折を味わうのか?!
これまでその闇の長躯にて気軽な探索者を寄せ付けなかった金山の穴は、私の攻略をも退けるというのか?!



 だが、奇跡は起きた。
なんと、ジャブジャブと進んでいくうちに水位は下がり、やがて再び地上が現れたのである。
これはには本当に助かったが、不可思議なことではある。
下っていく一方の筈の洞内で、なぜ一度始まった水没が収まったのか。
まさか、勾配が一定しないほどに地殻自体が変状しているとでも言うのだろうか…。
 

 ともかく、これで攻略の目星はついた。
どん底から一転、私は勝利をほぼ確信した!



   内部のあらゆる物を覆い尽くした煤は、天井や側壁に厚さ2cmほどの殻となって固まっていた。
そしてそれが、長い年月を経て自然に剥離し、崩れ落ちた場所もあった。
そのような部分では、気持ちが悪いほどに色鮮やかな煉瓦が現れていた。
始めは壁の全てがこのような美しい煉瓦で覆われていたのだろう。さぞ壮観な眺めだったはずだ。
竣功直後から廃止まで蓄積され続けた灰により、煉瓦自体は風化することも少なく、隧道全体の強度上でもメリットがあったのかも知れない。
そうでないとしても、この壁を覆う醜い殻の裏には、美しい明治の煉瓦がそのまま残っているのだと想像することは、夢がある。
やがてこの煤を全て落としたとき、そこにはどのような隧道が蘇ってくるのだろうか。



   という風に、夢のある煤の殻であるが、洞内探索においては大きな危険の元ともなっている。
出来れば、ヘルメットの着用をオススメしたい。
剥離は現在進行形で進んでおり、場所によってはそう言った灰の塊が累々と堆積し、なお剥がれかけた物がぐらついている。
この煤の塊は元は石炭であるから、踏むと「カラカラ」と乾いた音を立てる。



 長い洞内において、ただ一箇所だけ、側壁に大きな亀裂、或いは陥没と言うべき破損が見られた。

 そして、この亀裂から奥を覗き込んだとき、私の中の金山隧道観というものが、大きくぐらついたのである。


 それでは、あなたにも覗いていただこう…。



 幅30cmほどの巨大な亀裂となった側壁。

 何気なくその奥を覗いてみると、そこには、黒々とした地盤そのものがあった。
また、多数の腐った木片も露出しており、煉瓦と地山との間にあてがわれていたものと見て間違いないだろう。
そこまでは、普通の廃隧道の亀裂に見られる光景だった。

 だが、何かオカシイ。

 妙である。



 さらに接近。
これは、煉瓦の断面を写したものである。


 巻厚薄ッ!

 これはちょっと、驚きの薄さだ!
 この巻厚は、煉瓦一枚だけである。

 重厚長大なイメージの金山隧道であるが、こんな薄っぺらな施工でこれまで保ってきたのである。
保ってきたのだから、技術者の目にも施工にも狂いはなかったわけだが、思いがけない、発見だった。



 強い酸性を保つ煤煙が固まった灰は、洞内の煉瓦以外のあらゆる構造物を冒し、激しく腐らせている。
電源用のプラグと思われる物も、ご覧の通り。
他にも、長大隧道だけあって様々な保守設備があったと思われるが、もはや原形を留めているものは皆無だった。



 一度はドライを取り戻した洞内だったが、またしても濃密な泥濘が現れた。
どうやら、隧道はなんども地下水の多い地層を潜り抜けているようだ。
しかし、出口はもうすぐそこだ。
もはや泥汚れなどでおののく私ではない。



 いよいよ点から、面へと変化しつつある出口の姿。
恋い焦がれ、はるばる400kmを駆けて辿り着いた最終目的地が、大きく見え始めた。


  だが… 

 こ、この見え方って…



   再び歩きやすくなった洞内を足早に前進しつつも、手にしたライトを消すと鮮明に見える出口の姿を前に、私は再び、焦燥した。

 ぼうっとしか見えないとはいえ、それは明らかに、円形のシルエットだった。

 このような見え方は、深い水没を示すサインである。

 信じたくはない。
何かの間違い、目の錯覚であるはずだと、そう心の中で祈りながら、さらにペースを上げて光を目指した。



 そして、嫌な予感は外れることが少ないものだ。
出口のおおよそ200mほど手前にして、水没が再開したのである。

 そして、この水没は、出口まで続いているようだった。
果たして、どこまで深くなるのだろう…。
私はこれまで、隧道内としては最深で胸まで(深さ140cmほど)水没させたことがある(それは、「森吉7号隧道」内部であった)。
しかし、あのときは仲間が見守っていたし、帰りの着替えも、車もすぐ傍に待機していた。

 考えたくはないが、見える出口のシルエットからは、かなりの深さが想像された。
私は、どの深さまで耐えるべきなのだろう。
自分で線引きをしなければならないことに、苦痛を感じた。もう引き返したい衝動に駆られた。



 無情にも、確実に、その深さは増していった。

 かかと、脛、そして膝。
ノロノロ歩いていても躊躇いの気持ばかりが大きくなるので、自分を奮い立たせるかのように、大股でジャブジャブと歩いた。
歩く度に水しぶきが飛び、目の前に大きな波紋が広がっていった。
深くなるにつれ、水音もパシャパシャがジャブジャブに、そしてザンブザンブと変わっていった。



 この日、隧道から100kmほども南方の水戸市よりも先、関東地方では広域的に積雪があった。
雪こそふらなかったが、東北地方の一円であるこの地がそれよりも温かいわけもなく、夕暮れを過ぎた外気の温度は零度に近付いていた。
地底湖の水温もまた、これまで体験したことがないほどに冷たいものであった。
私の足のネオプレーン靴下の内側には、自身の体温でぬるまった水の幕が出来ており、足を水の冷たさから守ってくれていたが、それとて完全に足全部が水没し次々と新しい水が外から供給されるようになると、殆ど効果はなくなる。
一言で言って、この水の冷たさは、痛みそのものである。

 

 もはや水の深まるペースは治まらず、むしろ出口が近付くにつれ、その深まり方はより強烈になって来たように思えた。

 そして、それは錯覚などではなかったのである。
金山隧道の資料に因れば、その勾配の有り様は次の通り。
 私の入った竜田側坑口から766mは2.5‰(1000分の25)の上り勾配、そこを頂点とし下りに転ずるが、富岡側坑口の47m手前までの840m間は7.1‰、そして最後の47m間だけは、10‰という急な下りである。

 10‰はつまり100m進めば1m下ると言うことで、約50mのこの区間だけで50cmの水位は保証されていたのである…。



 そんな非情な設計のことはつゆ知らず、それまで鏡のように静かだった水面を波立てて、慌ただしく私は前進していた。
あっという間に太ももで波を掻き分けるようになり、股間にじんわりと冷たさが来た。
震える俺。

 行く手の水の色は、あの自己最深記録の森吉7号隧道で見た色にそっくりで、興奮と恐怖とがない交ぜになって押し寄せてきた。
もう、出口は30mくらいの場所に見えていた。
うっすら見えるあの明かりに到達できればすなわち、この水深から考えると本当に誰も貫通したことがないかも知れない洞内貫通を成し遂げることが出来るのだ。
私の目は、山行が作者という余計な自負によっても、突き動かされていた。



 いよいよ胴体部分に水位が近付いたところで、私は一度立ち止まり、胸までの水没に耐えるだけの最大限の準備をすることにした。
覚悟はもう、決めていた。

 だが、昔の私ならば、少なくともケータイとカメラを頭上に掲げる真似をしなければならなかったが、ここ数年でめっきり耐水性を増した私の装備は、私以上に水を恐れなくなっていた。
かつて7号隧道で水没し破壊されたケータイは、それを教訓にして、珍しい防水性のものを手に入れて使っていた。
これまで最も多く破壊された道具であるデジカメも、遂に昨年より「現場監督」という防水力を手に入れた。
照明の類も水に対する問題はない。
カメラポシェット内の備品(メディアなど)が水没するのは少し躊躇いを感じるが、真水なので乾かせば大丈夫だろう。

 実は、これと言ってすることはなかった。
ただ単に、私が覚悟するという、それだけで良かった。



 紫色のパーカーの裾が濡れ始めた。

 下半身全てが水没し、あの嫌な浮遊感が感じられ始める。



 道床はコンクリートでありかなり平坦ではあったが、少しでも浅い部分を求めた私が辿り着いたのは、壁際の側溝の縁の部分だった。
そこには、幅10cmかそこいらの平坦部があって、道床よりも10cmほど高く作られていたのだ。
私は、平均台よろしく、この上を歩いた。
自分が歩くことによって、堆積した何十年分の泥が水中に舞い上がり、墨汁を垂らしたように足元を覆い隠した。
だから、余り立ち止まることはせず、足場が見えているうちにどんどんと進んだ。



 へそが濡れる。
緊張しているせいか、寒さを感じることはあまりなく、むしろ、太ももにはジンジンとした温かさを感じていた。

 出口まではもう20m。
しかし、深くなるペースは一向に衰えず、私を戦慄させた。
まさか、泳ぐような羽目にはなるまいな。
それだけは、嫌だ。
帰り道のことを考えるだけで、死ぬほど憂鬱だ。
胸までが、限界だ!!



 林鉄の隧道とは違って断面が大きいから、前を見て撮影すると、その深さは実感しにくいようだ。

 だが、これでも水位はへそくらいある。
水の色にその片鱗はうかがえよう。



 遂に水深はへそを上回り、呼吸に息苦しさを感じる程になった。
こんな体験は、去年の夏に森吉の様沢を探険したとき以来か。
何度味わっても、水圧には慣れない、嫌なものである。

 数メートル進む度に、その水深を確かめながら、カメラを構えて撮影する私は、はたから見るとかなり滑稽だっただろうが、必死である。



 あぶぶぶぶぶ…


 というのは冗談で、カメラだけ水没させて撮影してみたのだが、舞い上がった泥のため視界はない。



 腰までしか水位がないように見えるかも知れないが、水から出た後のことを考えて、パーカーだけでもズリ上げて歩いていたのである。



 ラスト、10メートル!

 いよいよ、上陸すべき陸地が見えてきた。
本来は縦長に見えるはずの出口のシルエットは、水面とその先の土砂によって下部を隠され、幅広の断面となっている。
やはり、200m程手前で見たシルエットに、間違いはなかった。

 最後、私は水の中を跳ねるように移動した。
陸地まで5mとなると、やっと泥の足触りが出てきて、そこから急激に浅くなっていった。
泥は深く足をとられはしたが、勢いで乗り切った。



 午後4時58分06秒、金山隧道
 突破! 



金山隧道 富岡側坑口

16:58

 重かった。

水を含んだ私の体は、それまで浮力によって相殺されていた分、上陸すると急激に重くなって感じられた。
そして、

 暗かった。

入洞から40分余りを経過しており、谷底らしい辺りには夜の帳が降りていた。

 壁に下がる氷柱を見ると、自分のしたことが余りにも馬鹿らしくて、笑えてきた。



 長い旅を終えて辿り着いた場所は、大袈裟ではなく、地獄の門のように見えた。
振り返るとそこにある巨大な石造の門は、それが金山隧道の富岡側坑口であることは間違いがないはずなのに、反対側のあの華美な印象とは余りにもかけ離れており、異様である。

 鉄道隧道としては珍しく、同年代の道路隧道にはありがちな、巨大な迫石と要石による重厚なアーチで、笠石や帯石もまた、巨石による。
さらに、扁額の「金山隧道」の達筆は、一字一字が大人の頭大もある。
ここまでの常磐線各隧道ではあれほど幅を利かせてきた煉瓦は、石造物の隙間を埋めるだけの役目に甘んじており、あらゆる点で、一線を画している。

 これを見つめる私の精神状況もまた、かなり越えてはならない一線に近い場所にあった。



 隧道さえ突破できれば楽な道があるのではないかなどと漠然と期待していたわけだが、竜田側の坑口に比べると圧倒的に地味なこの富岡側坑口には、明確なマニア道などという踏み跡もないようで、稀に訪れる人はあると聞くが、果たしてどこから接近してきたのかと聞きたくなるような、猛烈なススキ藪に口を開けている。
現在線の線路からもそう遠くないはずだし、坑口に向かって右側の山の裏の方からは、頻繁に車の通る音は聞こえてくるが、イバラが呪いのように密生した斜面はあまりに高く、天辺では杉の木立が空に接して見えており、とても挑もうという気にはなれない。



 見ていると憂鬱な気持になってくるだけの坑口を背にして、明るい生還へのルートを探すが、坑口から20mも廃線跡を進むと、全く隙間のない猛烈ブッシュに四方を遮られ、本当に行く手が無くなってしまった。
或いは明るささえあれば何かしら抜け道もあるのかも知れないが、当てずっぽうに進んでも何所に出られるか見当が付かない。
私は、またあの闇に還らねばならないのかと思った。

 だが、意外なほどに、それは嫌ではなかった。
私は、これ以上確証のない藪漕ぎをしても生還への目処は立たないと考え、潔く、闇の沼へと帰る決心をした。
たとえ辛く冷たい沼や長く恐ろしい隧道であっても、その先には確実に帰れる道が待っている。
それだけでも、どんなにかホッと出来ることだろうか。
それを私は実感した。



 年間を通じ、殆ど人の目に触れることはない、金山隧道富岡側坑口。

 私は未だに、これがどこなのかを、地図上で明確に指し示すことは出来ない。
ただ、1600m余りの地中を経て出た先に、このような場所があったのだという、点の情報しか持っていないのである。
話は飛躍してしまうが、これが本当にこの世なのかさえあやふやに思えるような、寂しい場所だ。

 なお、水没の原因となっている坑口の土砂は、まず間違いなく人為的に持ち込まれたものである。
坑口から3mほどの外側には、なにかしらゲートがあったような残骸が残っており、以前はここまで人の行き来があったのだろう。



生還


 帰りは、行きにもまして洞内を素早く通り抜けた。
その水深も底が知れていたから、躊躇わずにザンブザンブと掻き分けて進んだし(水は濁ったままだったために浅い側溝の縁を歩けなかったと言うこともある)、半身びしょ濡れの私にはもう怖い物など無いように思えて、泥沼だってぐっちゃぐっちゃと駆け抜けた。

 そして、帰りはたった24分で隧道を駆け抜けた。
やはり夜闇に覆われてはいた竜田側坑口だが、見覚えのある景色の出現に、生還を実感し、顔がほころんだ。
ケータイを取り出してみると、濡れた画面には電波が3本立っており、こんな場所でも通話できることに笑みがこぼれた。
今から1時間後には仙台駅前で待ち合わせる予定の彼女に電話をかけた。
 今なら言える!
1時間…いや、2時間遅れることを、やぶれかぶれとばかりに告白した。

  プチッ   ツー ツー ツー 


17:28

 闇の中に白く浮かび上がる動輪のレリーフより、光を反射して光る洞内の壁面の方が目立っており、そこにあるものは、紛れもなく、ただの廃隧道のうらぶれた姿そのものであった。
その真に美しい姿は、地中深く、分厚い灰の奥にいまも隠し持っている。



 現在線と出会い、捨てたチャリと出会い、脱ぎ捨てたジャンバーとも出会った。

 どんどんと生還の感覚が蘇ってくる。
太ももから下の感覚はかなり薄れてはいたが、今ならまだ間に合うはずだ(何がだ)。



 私の、平常から言えば明らかに異常な隧道体験は、チャリをこぐ私の隣を、闇を割って列車が駆け抜けたとき、真の意味で終わったといえる。
そこには、日常の喧噪があって、ウザイがホッともする、普段の景色だった。


 この探索で最後に課された、最も困難な任務…。

 それは、失った彼女の機嫌を、回復させることであった。