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2023/10/28 15:19 《現在地》
線路沿いを歩いて、おそらく神路駅のホーム北の端を少し外れたあたりまでやって来た。
本線から貨物側線が分岐していたあたりだが、例によって特段の遺物は見当らない。
写真は振り返って撮影している。駅を振り返る最後の1枚のつもりであった。
感じ方は人それぞれだろうが、おそらく神路の現状というのは、訪れる困難さを帳消しにするほど廃線ファンや廃村ファンを楽しませるものでないと思う。豊富な遺構や遺物が残っていたら、私のように危険を冒してまで辿り着こうとする人は後を絶たなかったかもしれないが、たぶんそうではない。どんな状況であったとしても構わないから辿り着いてみたい。現場を見てみたい。そんな人だけが、これからもここを目指して来るのだろうと思う。
駅の遺構という感じのものではないが、ぶ厚い陶器で作られた土管のような物体が、ひとところにまとめておいてあった。
何十年も昔から動かされていなさそう。
土管にしては短いが、植木鉢というスケールではない。何に使っていたものだろうか。
これが本日の駅跡、集落跡で見つけた、最後の遺物であった。
15:25 《現在地》
藪を嫌った私は、駅の跡から3〜400mほど線路沿いを歩いた。
線路上を歩くタブーを冒さなくても、線路沿いを歩ける余地が十分あった。もし列車の音が聞こえてきたら、見つかる前に近くの藪に身を潜める心構えで、足早に歩いた。
このままどこまでも歩いて脱出できそうな感じがするが、実際は次の佐久駅まで10km以上も離れているし、地形もやがて険しくなるから現実的ではない。これは反対の筬島方向についても、距離が約8kmと少し短いだけで同様だ。
やがて、線路上にごく小さな橋梁が現れた。
そこを目印に線路に別れを告げ、左折して川の方向へと向かった。
これがGPSを頼りに編み出した、最”楽”帰還ルートである。
なお、上記「現在地」の表示にも使っている昭和31(1956)年版地形図だと、この辺りの線路沿いにも何軒かの建物が建っている。
それは導入回で紹介した【神路大橋の写真】にも写っていた。
神路集落の人家の一部は、駅前から少し離れたこの辺りの線路沿いの山際に並んでいたようである。
やはり建物は残っていないようだが。
上記の地点を左折して川へ向かうと、そこにはカラマツ林と湿原が広がっていた。
季節によっては水位が高く歩けないかもしれないが、この日は長靴でも十分歩けた。もっとも、探索開始時点で私はパンツまでぐっしょりしたので、あまり関係がないが。
昭和31年地形図には、線路沿いの人家と川べりを真っ直ぐ結ぶ小径の記号がある。
そしてその道が川へ突き当たったところが、“幻の神路大橋”の架橋地点であり、私がカヤックを残してきた上陸地点である。
写真には正面中央に真っ直ぐ視界の通る場所が見えるが、それこそが道で、【十字路】から先は往路のコースと重なっていた。
15:32 《現在地》
帰路はこのようなクレバーコースを選ぶことで、往路で苦しめられた笹藪をほぼ全て回避しつつ上陸地点のすぐ近くまで戻ることが出来た。おかげで15分も掛かなかった。
道の終点は、こんもりとした笹の山に突き当たっている。山の向こうは川である。
【神路大橋の写真】だと目立たないが、堤防だったのだろうか。
小山を越えて、川岸を目指す。
往路でも苦しめられたが、この川べりの小山の笹藪の深さは尋常ではない。
越えるだけでも厳しいが、どこでも良いから越えれば良かった往路と違って、カヤックを置いてきた川岸の一点を目指さなければならない復路は、より困難さがあった。
はじめから目的地が見えていれば良いのだが、見えないので、目印である神路大橋跡の主塔基礎を頼りに探す必要があった。
次第に薄暗くなってきているので少々焦っている。
舟に乗れなきゃ、ヒグマの楽園に朝まで居なきゃならん。(真面目な話、濡れている私は低体温症になる恐れもある)
神路大橋の唯一の痕跡である主塔基礎。
無人化した世界を背に、神像のように佇んでいる。
対岸にも何かあるのかもしれないが、いま把握している限りにおいては、橋の証しはこれだけだ。
今回、神路駅や神路集落での遺構発見が全般に薄味だっただけに、この明瞭な遺構の存在感が際立っている。
廃村や廃駅というもの以上に廃道、廃橋を追い求めてきた私にとって、これが今回最大の成果と思えるものであり、何よりのご褒美であった。
さあ、神路からの最後の試練だ。
わずか数メートル下にある川岸の様子が全く見えないが、その一画に置き去りにしてあるカヤックを見つけ出して、乗艇、離岸しなければならない。
1時間以上前の上陸時の記憶、その時の主塔の見え方を思い出しながら、兇悪な藪の中の一点を探し出すという、最終試練の始まりだ。
いままで数多の探検家達がここで心折れ、神路の土となっている。(←冗談です)
↑試練に挑むヨッキれんの雄姿↑
15:41
あった〜〜!!(歓喜)
ドンピシャとは行かなかったけど、まずまず近い場所へ辿り着けた。
どこ下っても同じだったんじゃないかと思われるかも知れないが、岸に歩ける余地がない場所も多いので、そういうわけにはいかなかった。
1時間26分ぶりに戻ってきた上陸地点より眺める、暮れゆく錦秋の天塩川。
美しさと不安の間の天秤が、一気に傾斜してぶち壊れる直前の風景だ。
出航前チェックの後、速やかに離岸します!
15:43
最初の出航時の手こずりや不手際が嘘のように、今度の離岸はスムースに成功した。
気持ちのうえでは、神路のカムイに許されたからとか思ったが、まあ単純に、護岸ブロックが置かれているような急流の衝となる岸から出ようとしたのが困難で、砂地の浜から出ようとしたのが容易であっただけのことだろう。
水上へ出ると、水の流れが私を自動で運ぶ楽な時間が再開した。
ああ…… 助かったな〜〜。
遺構を探さねばという使命感や緊張感、クマとの遭遇に対する恐怖感、無事に帰られるだろうかという不安感、それらで酷く疲労した心を慰めるように、トロトロとした川の流れは優しく私を運んでいった。
ここまで神路について書かれたいろいろな資料を引用したと思うが、ここでもう一つ、今の心境に合うものを紹介したい。
これは、いままで紹介した資料の中では最も古い、大正12(1923)年に北海道山岳会によって発行された『北海道鉄道各駅要覧』に見る神路駅の紹介だ。
開業翌年に書かれているだけあって、神路という処女地の無限の発展を期待させるような文になっていた。
神 路 驛
此の地は大正11年の秋に鉄道が開通したばかりの土地で、未だ何等拓殖の見るべきものもないが、天塩川沿岸江山絶勝の地である。
長江天塩川の清流は、左転右向迂余曲折して此の地を貫流し、両岸に相迫る層岳連嶺は、翠緑を積み、新緑を連ね、殊に秋霜一度至れば満山全渓悉く燃え立つばかりに紅葉して、所々松柏の緑を交へ、山光水色いふばかりなき絶景を現出し、車窓行客の目を楽ましむることも一入である。沿岸一帯は北海道帝国大学の演習林を初め御料林・公有林等の広大なる山林で、椴松・蝦夷松・桂・楓などが繁茂していて、木材の産出も相当に多い。
交通手段が限られていた当時としては、鉄道駅が近くにあるだけで、神路はだいぶ恵まれた立地だったんだと思う。
だからこそ、まもなく駅前に近隣の人々が集まってきて集落が出来上がった。
この地が風光明媚であることは、旅行者の目を楽しませはしても、住まう足しにならなかったのは当然で、それが観光という新たな価値で結実するまで集落が生き残れなかったのは、頼みの綱である橋が落ちた不運に拠るところも大きかったと思う。
もし、橋が落ちなければ、神路駅にも違った生き残り方があったかもしれない……、って思いたいけど、北海道の中でも辺鄙といえるこの地方では、観光による繁栄も、それによる駅の存続も、言うほど簡単ではなかったかもなぁ…。
飯田線くらいの感じだったら、秘境駅なりの生き残りの目があったと思うが…。
な〜んて、凱旋航路を楽しんでいたら、目的地への上陸直前に結構な激流の場所があって、操船に緊張を強いられた。
まあ、動画の中では随分と楽しがっているが、黄昏れていられないくらい緊張したことの裏返しである。
あと、事前に自転車をデポしておいた上陸予定地点がとてもピンポイントなので、そこを外せないという緊張感もあった。
一発でビシッと上陸しないと……! 上手く上陸できずに行き過ぎたら面倒なことになるぞ。
キタキタキタキタ!
上陸地点キタぞーー!!!
一発で決めろよーー!
ズシャァアアア!!! 上陸!
よっしゃ、上陸成功!!
ここも流れの衝に当る岸だったので、水がアップアップしており、ピンポイントの上陸にかなり緊張した。救命胴衣に身を包んだ私自身はどうにでもなると思うが、舟をうっかり流されたら、たぶんどうにも出来なさそうで恐い。マッシュルームアンカーとかを装備した方がいいのかな。行動重量が重くなるのが嫌で未導入だが。
しかし、何はともあれ上陸に成功した私の目の前には――
15:52 《現在地》
自転車が居てくれるぅぅぅ〜〜(歓喜)
ヨッキれん、神路より無事生還いたしました!
2023/10/28 15:52〜16:06 《現在地》
私が上陸した地点は、神路大橋跡地より約1km下流の左岸である。出航から10分足らずで移動しているので、普通に陸地を歩くよりも速度が出ている。しかもほとんど自力で漕がず、パドルで進路を制御したくらいであるから全く疲労していない。川下りというものが、エネルギー的にどれほど有利な移動手段であったかということを、現代人ながらに体感できた。また一つ、交通史の真理を、身体で理解した気持ちだ。
さて、上陸した私は直ちにカヤックから空気を抜いて、収納袋へ畳んで押し込んだ。この作業には約15分を要した。
予めデポしておいた自転車が目の前にある。この自転車で約2km上流の出航地点のエクストレイルまで戻れば探索終了だが、畳んだカヤックを自転車で運ぶのは、絶対無理とは言わないが非常に重いし嵩張るので時間と体力をいたずらに消耗するので、一旦ここに放置して、後ほど車で取りに来ることを選択した。
16:06 自転車に跨がって出発!
自転車をデポしておいたこの左岸の緩傾斜地は、現在の地図には個別の地名がないが(中川町大字神路の一画)、かつて人が住んでいた当時は幌萌(ほろもい)と呼ばれていた。
渡し舟によって結ばれていたという左岸の幌萌と右岸の神路は表裏一体、一心同体の存在で、存続期間も概ね一致している。
そして今日では一軒の廃墟さえ残っていないことも、共通している。
無人化後に植林が行われた神路に対し、幌萌では町営牧場が営まれたが、それも現在では終息。しかし風景的にはいまも放牧地の様相を留めている。
16:11
緩い上り坂の砂利道を数百メートル走ると、山際を東西に横断する国道40号に辿り着く。
右は稚内方向、左は名寄方向、私はもちろん左折する。
ここから出航地点まで、あと国道を2.2kmである。
チェンジ後の画像は、同地点から幌萌を振り返って撮影。
対岸の山際を宗谷本線が孤独に走り抜けているのであるが、つい30分前まで自分のいた場所が、この瞬間にどれほど寂しい色に包まれているかを想像してゾクゾクした。この感覚が好きである。生還を噛みしめている。
単調な国道を漕ぎながら、生の実感をなおも堪能中。なんだかんだ言って、やっぱり陸は安心する。もちろん、外界と繋がっている道があるという条件付きで。
この国道についても導入回や第1回で触れたような歴史があり、神路(の主に幌萌地区)の盛衰と深い関わりを有している。
すなわち、左岸に初めて道が付いたのは、右岸の鉄道より早い明治41(1908)年のことで、仮定県道天塩線と呼ばれた。
だがこの道はほとんど実体を有さず、ようやく車が通れる国道が通じたのは昭和32(1957)年である。それでも冬期間は除雪がされず封鎖され、その不便さが神路大橋の完成を求める声となって昭和38(1963)年に一度は結実をみた。
音威子府〜中川間は長らく国道40号の最後の未舗装区間として残ったが、昭和50年代に完全鋪装となり、冬期の除雪も行われるようになった。
16:15 《現在地》
“本日最後の探索地”へ辿り着いた。
昭和38年5月20日に開通し、同年12月18日の深夜に落橋した神路大橋は、天塩川の両岸を結んだ橋だった。
先に右岸の遺構を発見・探索しているが、この左岸側にも何か残っている可能性があるだろう。
右岸からは見えなかったが、右岸同様の主塔基礎くらいは残っていても不思議ではない。
というわけで、神路大橋の左岸をこれより調査する。
明るさ的に少し厳しくなってきているが、地図を見る限り、右岸橋頭の擬定地点は現国道から100mどころか50mも離れてはいないと思われる。
ピンポイントで跡地の確認をしてしまおう。
ちょうどこの写真のカーブの辺りであったはず。
道の分岐かと思ったガードレールの切れ目から、川の方向を眺めているが、主塔らしいものは見当らない。
ただ、数メートル下に平場がありそうだ。
自転車をここに置いて、歩いて降りていってみよう。
おお!
現国道の一段下には確かに平場がある。
鋪装はなく、ただの森の地面のような足触りだが、不自然に平らだし、帯状に続いているしで、何らかの旧道跡と見て良いと思う。
これが、たった7ヶ月間しか存在を許されず、一度も地形図にも航空写真にも写ることがなかった、“幻の神路大橋”に通じる旧道の跡なのだろうか。
だとしたら、萌えるな、これ……。
奥へ進んでみよう。
おおおっ! 見える!
神路大橋右岸の主塔基礎!
見える場所が、ちゃんとあったんだなぁ…。
しかし、おそらく現国道の路上からは見えないのだ。
そのことが一層、神路の存在を世に秘しているように思う。
たった数メートル、国道から外れれば見えるのに!
対岸の主塔基礎がほぼ真っ正面に見えているが、いま立っている場所の周辺に、対になる構造物は見当らない。
もう少し周辺を探してみよう。
16:18 《現在地》
現国道との位置関係を見る限り、正面の道は紛れもなく旧国道だと思う。
ここの国道に旧道があるのは知らなかったが、「現在地」の地図に赤線で示したようなカーブひとつ分の小規模な旧道のようだ。
未舗装なので、それこそ噂に聞く冬期除雪がされず通行杜絶していた時代の国道40号の跡か、あるいはさらに古く、それこそ明治の仮定県道の跡なのかもしれない。
そして何より重要なのが、このすぐ先で、チェンジ後の画像で示した感じに、右へ分れる道形が見つかったことだ。
実際に曲がってみると……
これだ!!!
この川へ真っ直ぐ向かっていく感じ……
間違いなく、橋へ通じた道だろう!
分岐より、ほんの20mほど進むと、この道は――
何もないままに、ぶつッと、川で終わっていた。
樹木のせいで見えづらいが、真っ正面に対岸の主塔基礎があり、高さ的にも道形的にも、ここが左岸の橋頭だったと考えて良いと思う。
ただ、既に辺りが薄暗く笹藪もあるために、アンカレッジを探せなかった。少なくとも、見回した範囲に建っているような感じではなかった。
そして、右岸にあったようなコンクリートの基礎が、この左岸には全く見られない理由も不明である。
一番可能性が高いのは、川岸と一緒に浸蝕されて失われたということだろう。
対岸から見た時にも、全く見えていないので、現存していないのは確かだと思う。
このチェンジ後の画像のような感じで、7ヶ月間だけ、橋が架かっていた。
導入回でも紹介したこの開通式の写真は、ここで撮影されたものであったはず。
何度見ても、関係者の7ヶ月後のがっかりを想像して悲しくなってしまう写真だが…。
それはともかく、この橋の袂の線形が、私が見た現地と違って見える気もする。
チェンジ後の画像のように、橋の袂には「@」と「A」の2本の道が接続していたのかもしれない。
だとすると、Aが私の辿った道で、@は存在に気づかなかったか岸ごと流失していたか。
ここについては、未発見のアンカレッジの件も含め、明るい時間に一度再調査した方が良さそうだ。
16:23 《現在地》
どんどん暗くなる森を振り払うように、急いで現道へ戻ってきた。
跨がるものに跨がって、ラストラン開始。
ここに暮らした喜びも、悲しみも、長江の流れに鎖(とざ)されて、
人立ちぬ駅舎と共に、忘却の彼岸へ遠ざかり、
我思う、道無くんば人生きられず。
道は命なり。 ヨッキれん心の詩
16:31 《現在地》
生還ッ!
毎度毎度のことながら、探索終了時に時間的猶予が全くないのは、もう癖になってるなこれ。いつか痛い目みるどころか、もう何度も痛い目見てるのに、なおんない(苦笑)。体力的に夜まで動けなくなったら自然直ると思うけど、直る前に死なないようにな。
以上、駆け足でしたが、カヤックを使用することで初めから終わりまで僅か3時間半足らずで完遂した、日本最凶クラス秘境廃駅“神路”への忙しい人向け到達作戦でした!
たぶんこれが一番早いと思います。
(え? 冬に完全結氷する天塩川を歩いて渡ればもっと早いんじゃないかって? …………それは考えなかったな!)