この机上調査で解明したい、国道256号の “地形図に描かれていない区間” に関する最大の「謎」は、
並行する県道があるのに、廃道状態の国道が放置されているのはなぜか?
道路界広しといえども、なかなか見られない不自然な現状に対して、納得出来る理由を見出そうというのが、この机上調査の最終目的である。
道路に関する謎を解き明かすセオリーは、来歴を調べることだ。
道の現状を見ただけでは分からないことは多い。現に私も現地探索だけでは上記の謎の答えを導き出せなかった。
まずは、今回探索した道がどのような経緯で誕生したのかという来歴を探ることから始めよう。
なお、今回私が探索したのは、伊那山脈を越えて伊那谷と遠山谷という2つの生活圏を結ぶ歴史的な峠道である小川路峠の一部だ。
本稿では小川路峠や秋葉街道についての一般的解説はほぼ省略したが、小川路峠は近世に秋葉街道として大いに発展し、近代以降も引き続き地方交通の主流となるべく改良を目論まれたものの、車道化が難しい険阻な地形に邪魔されて思うようにならなかった“苦闘の峠道”である――というくらいの大まかな認識で大丈夫なように書いたつもりだ。
第1章: 旧版地形図には描かれていた “地形図に描かれていない国道”
@ 地理院地図(現在) | |
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A 昭和26(1951)年 | |
B 明治44(1911)年 |
まずはいつものように、旧版地形図のチェックから。
ここに掲載した地理院地図、昭和26(1951)年版、明治44(1911)年版からなる3世代の地形図を見比べてみると、“地形図に描かれていない国道”の正体は、明治以前から存在していた古道だったことがはっきり分かる。
明治と昭和のどちらの地形図でも、道は「府縣道」であることを示す太い二重線で描かれており、かつ「荷車が通れない=車道ではない」ことを示す片破線になっている。また、途中の2kmごとに水準点の記号が描かれており、険しい山道でありながら幹線道路として重視されていたことが伺える。
もっともこれについては、現地探索中に石垣や道形を前にさんざん「古道」とか「近代車道」と言っているので、予想通りである。
どう見てもあれは近年の国道指定時に急ごしらえで作られた道ではなく、古くからあった道だった。この国道に限らず、当サイトがこれまで紹介してきた多くの不通国道や不通県道が古道を路線に指定・認定しており、全く珍しいことではない。
「古道を国道に指定した」という状況は、“地形図に描かれていない区間”固有の事情ではなく、小川路峠の国道全体がそうである。
【歴史の道の看板】が入口に立っている国道なのだから、そうでなければ嘘になる。
だから、並行する県道が別に作られなかったなら、“地形図に描かれていない区間”も地形図から抹消されることはなかったであろう。
しかし、厳密に地形図を見比べると、「古道=国道」とはいえない部分もある。
それは、清水集落付近である。
古道は(私が現地探索で予想したとおり)清水集落の手前から九十九折りを描いて高度を稼ぎ出しているが、現在の国道は集落の手前からほぼ直線で斜面を登るという地形を無視した不自然なルートで指定されている。
この大きな違いにはちゃんと理由があると思われるのだが、これについては後述する。
第2章: 明治から大正前半の緩やかな近代化
“地形図に描かれていない国道”は明治以前の古道であった。
つまりは近世からの秋葉街道であろうというわけで、長野県教育委員会が昭和58(1983)年度に調査してまとめた『歴史の道調査報告書XIII 秋葉街道』を調べてみると、まさに今回歩いた道が調査の対象になっていた。
彼らの実踏調査は私とは反対で峠から上町へ向っているが、このうち清水〜上町間について次のように報告している。
『歴史の道調査報告書XIII 秋葉街道』より転載。
「くつ打場」あたりより再び道をたどることができる。くつ打場は大鹿方面より地蔵峠を越えてくる秋葉街道との合流点である。くつ打場という地名は、ここで峠に向う馬にわら沓をはかせたところからその名がでたようであり、屋敷跡の石積みも残っている。林道のすぐ下を林道に沿うように二番観音まで来て、そこより河へ向い下り、河を渡ったところが上町である。上町の入口の八幡神社に一番観音が置かれている。
ここで最も重要な情報は、赤石林道(現県道)の建設が、並走する秋葉街道を破壊したと言明されていることだろう。
このことは私の探索でもたびたび感じたことだが、昭和58年頃の調査でも既に致命的なレベルで荒廃が進んでいたようで、調査者も清水から「くつ打場」までの踏査を断念している。
右図は同書に掲載されているルート図で、清水から上町までの秋葉街道が、私が探索したルートとほぼ同じように描かれている。
「くつ打場」は、私の探索でも【立派な石垣群】に大いに興奮した場所だが、秋葉街道時代から二つの意味で重要な地点であったようだ。一つは小川路峠越えの馬に沓(くつわ)を履かせるための休み場だったこと。もう一つは、小川路峠越えと地蔵峠越えの分岐地点だったことだ。
地蔵峠は現在の国道152号の径路であるから、あの立派な石垣の場所は、国道256号終点【上町交差点】の原点だったといえる。(今回の私の探索ではそれらしい分岐を見ていないが、たぶんよく探せば見つかるだろう)
また、私が【石仏銀座】と呼んだところが二番観音であったことも判明した。
旧上村の村誌的性格を持つ『南信州・上村 山谷の民俗』(上村民俗誌刊行会/昭和52年)にも、秋葉街道について多くの記述があり、特に三十三体観音のついて詳しかった。以下に関係する部分をいくつか抜粋して紹介する。(括弧内は私の注記)
- 峠への道はこの一番仏(一番観音のことで上町の八幡神社にある)より既に廃道となっているが、観音像は峠の頂上まで往時の路傍の曲り角、険阻な場所、眺望絶佳の地にと三三体仏が造立年代順ではない番号順に配置されている。例えば二番観世音は伊藤沢の曲がり角に立ち(【石仏銀座】のこと)、わずかに道形を残す跡を石仏を求めて灌木や雑草の中を進めば往時の峠道の歩行は困難だが不可能ではない。49年夏豊橋の伊藤徹さんはこれを完了したとのことである。
この廃道は清水部落(三戸の集落)で昭和43年完成した赤石林道が交差している。その林道の堰堤上に六番観音が一本の蓮華の茎を両手で捧げ直立し(【現存】)、この像の左に並立して上村では皆無と称されていた道祖神の碑が見受けられる。(こちらは見当たらない)
- 小川路峠は三三番の観音様が建てられ、上村側は上町の八幡社が一番で、頂上が三三番、飯田側は越久保の一番観音様が起点となって三三の観音様が建てられ、峠越えの目やすにしたり、信仰の対象とし、生活の中へ位置づけられていた。昭和51年3月峠越えをして調べてみたが(中略)清水の仲井氏の下に七番(未確認)があり、それ以下は旧道から新道(当時の赤石林道、現在の県道のこと)に移され、六(【現存】)、五番(【現存】…11番ではなく5番だった)が確認され、くつ打場の上に三番(未確認)がある。
私の一日だけの調査では、調査もれもあるが、現存する観音石仏は(中略)上村側では 1 3 5 6 7 (以下略)
以上の記述と私の探索を総合すると、上町〜清水間には右図のとおり1〜7番の観音様があったことが分かる。ただし3番、5番、6番は県道沿いに移設され、4番は盗難に遭ったことが『歴史の道調査報告書』に出ていた。こうして現地で目にしたものが次々と整理されていく感覚が、きもちいぃ〜(笑)
さらなる情報を求めて、地元郷土誌『伊那』(伊那史学会発行)を調べたところ、そこでも興味深い記述をいくつも見つけることができた。
まずはこれ。
『伊那 昭和46(1971)年12月号』掲載の「小川路峠の今昔・赤石林道」から、【石仏銀座】のところで二手に分かれた道の正体に関する、衝撃的な記述である。
@(略)
A新道その一 伊藤線(上村側麓)渉ると石仏群がある。その前を右に直進トンネルを開いて、三番観音の20m程下側を通って沓打場へ出る1km位の新道で、二、三番観音のある急坂と曲りを除けるためで、大正五年頃開通して、赤石林道開通時迄利用した。
B(略)
C(略)
小川路峠は最後まで自動車を通さなかったから、江戸時代の道がそのまま残っているような印象があるが、実際は明治・大正・昭和を通じて利用される中で様々な改良が行われていた。その一つが、今回の探索区間内にあったという。
『伊那』によると、伊藤の石仏群(二番観音)前の【分岐】を直進して、緩やかな勾配のまま沓打場(三番観音)に至る区間は、大正5(1916)年頃に開通した新道であるという。 しかも、トンネルがあったというではないか!
これは私が歩いた道であり、国道でもあるわけだが………、トンネルあったの……?!?!
それが事実ならば大いに衝撃的だが、現存しないトンネルの在処としては、【途中にあった崩壊地】が唯一怪しい。法面の崖がオーバーハングしていることもあって、そういう目で見ると急に隧道跡のような気が!(笑)
一方、石仏群の分岐を【左折する道】が旧来の秋葉街道だったのだ。
こちらは実踏していないので位置を特定できない。右図も旧道については推定位置で描いているが、そう大きくは違っていないと思う。
私を大いに恐がらせた上村川沿いの断崖絶壁区間は新道だった。勾配緩和のために大規模な土工を行うのは近代以降の道路工事の特徴であり、以前は難場を避けるように急坂を上り下りしていたというのはしっくりくる。
ちなみに、歴代の地形図は表記が消える最後までこの新道を採用せず、明治以前からの“旧道”を描き続けていたようだ。
左図は先ほども掲載した明治44年版だが、昭和26年版もこれと全く同じように道を描いている。
そしてこれらの地形図は「二番観音」のところに九十九折りを描いているが、私が歩いた“新道”にこのようなカーブはなかった。
ハァハァ…。
突然「トンネル」が出てくるとか、この記述はなかなか衝撃的だった。
だが、『伊那』の収穫はこれだけではなかった。
次は、『伊那 昭和60(1985)年9月号』に掲載されている「小川路峠を思う(二)」からの引用だ。
峠の麓でいよいよ五里の峠(小川路峠の別称)へ差しかかる高遠道(地蔵峠道のこと。高遠へ通じていた)との分去れで、ひと休みして牛馬に沓を打ち替えて出かける処から、沓打場と名付けられた。(中略) 馬宿でも茶屋でも無いが、大雨が降って伊藤川の土橋が流れて飯田から来た馬追が上町へ行けず、二日位泊るような事が度々あった。わしの処へ泊れず、上の清水あたりまで戻って逗留するような事もあった。沓打場から1kmで宿へ着けるのにと残念がって、早く橋を架けて欲しいと話し合ったりした。年代を忘れてしまったが、それから間もなく願いがなかって立派な木橋が出来た。村人は高橋と云って、かど村(上村の古い呼び方)の名物の一つになり川の瀬も良かったのか長い間通行出来た。
ここに登場する「高橋」というのが、伊藤谷を渡る橋の先代の名であるようだ。
【いまの橋】は国道のくせに銘板がなく名前も竣功年も分からないが、その隣で発見された【橋脚跡】が、かつての上村名物「高橋」の遺構なのだと思われる。
現在の伊藤谷は大した川とも思われないが、橋が脆弱だった時代は十分に交通の難所として恐れられていたことが分かるエピソードだ。
古い時代は小川路峠と地蔵峠の両道がこの橋を渡っていたのだから、今風にいえば国道256号と152号の重複区間というくらいの重要度だ。
「高橋」については別の号にも情報が出ていた。
続いては『伊那 昭和61(1986)年2月号』掲載「小川路峠を思う(三)」からの引用だ。
明治35,6年頃だと思う。村ではじめて木橋の高橋が架けられた。高橋とか、欄干橋と云われ子供心に雨に濡れるを悲しく思えた位のいい橋で、毎日行って欄干から川の流れを見たり、小石を拾って来て落としたりして遊んだものだ。一時は八幡さまの境内から橋の上に遊び場が移ったこともあった。この橋、川瀬も良かったのか長いことあった。
山村の少年の心を大いに弾ませた、村で最初の立派な木橋の誇らしい姿が目に浮かぶようである。「雨に濡れるを悲しく思えた位のいい橋」って、良い表現だなぁ。
このように、「高橋」が土橋から木橋へ架け替えられたことも、小川路峠の道がゆっくりと着実に近代化への歩み進めていた現れであったはず。
しかし、小川路峠のさらなる近代化、現代化、具体的にはモータリゼーションへの対応(=自動車道化)は、一筋縄ではいかなかった。
それゆえ、平成最後の年になっても未だ、自動車が通れぬ“酷道”として取り残されている。
次の章では、昭和時代のエピソードを見ていこう。
第3章: 県道認定と小川路峠の終焉
道路を改良するとひとことで言っても、その実現のための工事の難易は、改良の内容によってまるで異なる。
徒道の難所を付け替える程度の改良ならば、頑張れば個人、ふつうは集落単位や村単位で十分に可能であった。
しかし、一つの峠道をまるまる馬車道や自動車道へと作り変えるというような大規模な改良は、技術的にも経済的にも個人や集落や市町村のレベルでは実現が難しい。そこで、都道府県道や国など、より規模の大きな行政組織の力を借りる必要が出てくる。
道路の近代化は、道を個人が「作る」ものから、個人が「陳情して」行政が「作る」ものへと変えたのだ。
そして、ルールに支配された行政による道路作りでは、その道の法的な位置づけがとても重視される。
市町村道よりは都道府県道、都道府県道よりは国道が、様々な点で優遇される力を持つのである。
だからこそここでも、「村道を県道に!」「県道を国道に!」といった陳情が、大きな意味を持っている。
秋葉街道の要地として全国から集まる旅人が通った小川路峠は、わが国の道路に行政的な意味を持つ格付けが生まれた明治時代の比較的早い時期から、「県道」の格を得ていた。認定時期は不明だが、遅くとも明治17(1884)年までには、長野県によって「三等県道秋葉街道」に認定されていたようである。
その後も「県道秋葉街道」として、明治末頃から大正初期にかけて峠道の各所で勾配を緩和し荷車の通行を可能にするための工事が行われた。先ほど紹介した「隧道」や「高橋」はその一部だ。
大正9(1920)年に(旧)道路法が制定されて、道路の種類が「国道・府縣道・郡道・市道・町村道」の5種類に再編されると、同年この道は「府縣道飯田和田線」に認定された。5段階のうち上から2番目の高いポストを手に入れたわけだ。当時の国道は各都道府県ごとに1〜3路線しかなかったから、府縣道といっても実質的には現代の国道に匹敵するエリートだ。まさに、エリート街道まっしぐら!!
『南信州・上村 山谷の民俗』掲載の図をベースに追記。
が、その後の小川路峠は、急激に存在感を失っていく。
右図は、『南信州・上村 山谷の民俗』に掲載されていた図をベースに、遠山谷(遠山郷)と伊那谷を結んだ昭和時代の主な交通路を示した。
小川路峠の道が細く描かれているのは、自動車の不通を示している。
伊那山脈を越える索道を建設して物資の輸送を担おうとした竜東索道建設の背景について、同書はこう述べている。
山脈を越える小川路峠の道はあまりに高く険しく、当時としては大量の物資輸送に耐えられるような道路整備は困難と考えられたために、物資輸送に特化した索道の建設が進められたのであった。
そして次には鉄道が小川路峠の価値を脅かすようになる。
飯田駅から南進の工事を進めていた私鉄三信鉄道が、昭和11(1936)年に満島駅(同18年に国有化され国鉄飯田線となり、同27年には平岡駅へ改称)まで開業すると、伊那山脈を切断して流れる遠山川に沿って和田へ至る「県道満島和田線」(現在の国道418号)が遠山郷の新たなメインルートとして俄然着目されるようになる。峠がないためにこの県道の改良は順調に進み(こちらのレポートで当時の県道の一部を紹介している)、引き続き和田から上村川沿いに上町まで「県道飯田和田線」が改良された。そして昭和16年頃には、遂に上町まで自動車が入るようになった。
これにより小川路峠を歩いて通行する旅人は激減して廃道化、竜東索道も廃止の憂き目を見た。
……しかしまあ、この辺りまでは特に不自然というか、変わったことは起きていないかと思う。
どこにでも転がっていそうな平凡で愛すべき地方交通史といえるだろう。
「並行する県道があるのに、廃道状態の国道が放置されているのはなぜか?」
という疑問に繋がっていそうな出来事は、まだ起きていない。
来歴を知れば謎が解けると豪語したのに、今のところ解決に至っていないわけだ。
しかし、次の章では“疑問”の主役の一人である“並行する県道”が遂に登場する。
第4章: 赤石林道の開通と国道指定
昭和16年頃までに遠山川と上村川に沿う県道が車道化し、とりあえず上町と飯田の間が自動車や鉄道で行き来できるようになったことで、小川路峠の改良に対する地元の熱意も一旦は沈静化したものと思われる。
昭和27年に(新)道路法が公布され、道路の種類が「一級国道・二級国道・都道府県道・市町村道」の4種類に再編されると、旧法時代から続いていた府縣道飯田和田線は、昭和29年に県道飯田和田線として同じ路線名の県道に再認定された。しかし、かつての秋葉街道としての重要度から見れば、このときに国道化を逃したことは、ほとんど降格といっても良かった。(このとき国道は一挙に倍増している)
もしこのとき二級国道152号飯田浜松線(昭和28年指定)が小川路峠経由で指定されていたら、改良は飛躍的に進んでいたかもしれない。
しかし実際の国道152号は、飯田から国道151号と重複しながら愛知県東栄まで南下し、そこで分岐して現在の長野愛知県道9号の径路で静岡県浜松市天竜区へと至る径路(右図)で指定されたため、小川路峠は国道にならず、遠山郷に国道がもたらされることもなかったのである。
昭和34年に県道飯田和田線は廃止され、新たに県道飯田上町線が認定された。
小川路峠は県道であり続けたが、上町〜和田間を除外する路線の短縮であり(この間は県道大鹿水窪線となった)、これまた事実上の降格のように思われる。
このように、小川路峠の県道整備がなかなか進展を見せないなかで、彗星の如く現われて伊那山脈横断を実現してみせたのが、道路法の外から来た“黒船”のような赤石林道だった。
もっともこの道とて、天の授かりものであるはずもなく、道を欲する地域の人々の努力……知略を駆使した陳情の賜……であったことに違いはない。
赤石林道とはとはいかなる道であったのか、『伊那 昭和47(1972)年2月号』掲載「赤石林道開通による遠山谷の変化」は、次のように書いている。
遠山の住民全員の願いが通じて、森林開発公団の手により着手されたのが昭和36年である。この林道は、喬木村氏乗から矢筈峠の南、曽山の下をトンネルで通り、上村の上町へ通ずる、全長14kmのもので、喬木側は昭和36年度より、上村側は昭和38年度より着手され、最大の難所、赤石隧道は昭和39、41年より開削が始められた。この地点は標高1200mで、伊那山脈の中腹に延長1070mの隧道も開けた。この開通により、昭和43年3月26日に開通式が行われた。総工費6億8000万円の巨費を投じ、赤石林道が完通したのである。
この開通によって、上村から飯田まで35km、所要時間1時間以内ということで、飯田が身近に感ずるようになった。昔の人が小川路峠越えの秋葉街道を通って、物資など馬や人の背によって運んでいたのが、林道を通って自動車で往来できるようになったのである。
赤石林道は、道路法による道路整備事業としてではなく、森林開発公団法によって設立された森林開発公団が、関連林道事業として整備した道だった。
関連林道というのは森林開発公団が設立初期に多く手がけた林道事業の一種で、国有林と民有林がともに受益するような場合に設定される中規模以上の林道として、四国の剣山地域を中心に全国に相当数が建設されている。その後に公団は「スーパー林道」「大規模林道」と事業を拡大し、最後は破綻した。
少し乱暴な言い方になるが、林業以外に大きな産業がなく人口も少ない遠山郷に、巨大な公共投資を必要とする峠越えの道路を導入しようと思っても、道路整備事業を待っていたのではいつになるか分からない。だから、当時はちょうど高度経済成長による木材需要の急増期であり、未開発林に林道を整備することを至上命題としていた林野行政の手を借りて、林道として生活道路を整備したということだ。この林道の整備に関して、地元の首長が中央の有力政治家との間で交わした様々な交渉ごとについても『伊那』は述べているが、ここでは省略する。
『南信州・上村 山谷の民俗』より転載。
左の写真のお地蔵さまには、見覚えがあると思う。
『南信州・上村 山谷の民俗』(昭和52年刊)に掲載されていた、「赤石林道自動車転落者供養地蔵
」の図である。
現地で想像したとおり、林道時代には、超絶危険な道路だったようだ。
こんな絶壁で、ガードレールがなく、しかも未舗装で、挙げ句の果てには林業関係のトラックも行き来するから狭いところですれ違う必要があるとなると、いくら飯田まで小一時間で行けたとしても、毎日通うのはとても恐ろしい。無理でなくても、恐ろしい!
しかしともかく、上村は赤石林道の開通によって、秋葉街道全盛の時代に遠山郷の入口という意味合いから「かど(門)村」と呼ばれていた頃の交通上の地位を復権することに成功した。赤石林道は現代の秋葉街道として、着実な成果を上げていった。
だが、遠山郷の住人にとってはもう一つ、是非欲しいと思える道があった。
そしてそのための陳情が、小川路峠に国道をもたらすことになった。
欲したのは、赤石構造谷に沿って南北に細長い地域である遠山郷を南北に貫通する幹線道路であった。
その道は、近代まで小川路峠と並ぶもう一つの秋葉街道(沓打場で分岐したとされる道だ)として栄えたが、やはり険しい地形条件に苦しめられ、北は地蔵峠、南は青崩峠が自動車の通行を許さないままモータリゼーションを阻んでいた。
昭和36(1961)年に長野県と静岡県の関係14町村が「中部横断道路国道編入期成同盟会」を結成している。その後、同会の熱心な陳情が次第に実を結び、昭和45年4月1日から国道152号(昭和40年に道路法が改正され二級国道から一般国道になっていた)は、従来の東栄回りから、飯田〜小川路峠〜上村〜和田〜青崩峠〜天竜を経由するルートへ変更されたのである。
現在は国道256号である小川路峠だが、当初は国道152号に指定されていた。もっとも国道何号でもあまり大きな違いはない。単純に国道に昇格したことが重大だ。
「中部横断道路国道編入期成同盟会」が目指していたのは、茅野〜地蔵峠〜上村〜和田〜青崩峠〜天竜〜浜松という徹頭徹尾赤石構造谷に沿ったルートの国道昇格だったが、この段階では部分的な実現に留まり、そのため飯田〜上村間の小川路峠が国道になったようにも見える。(新しい国道指定ではなく、既存国道のルート変更に収めたせいもあるかもしれない)
この小川路峠の国道昇格が、いわゆる“棚ぼた”だったのかどうかは分からないが、明治以来の同峠の盛衰をみれば、赤石林道が開通した後での国道昇格は、いかにも遅きに失した感があった。
そしてこの、林道が先で、国道が後から来たという順序が、【私の謎解き】並行する県道があるのに、廃道状態の国道が放置されているのはなぜか?に関わる重要な鍵であったと思う。
もし、赤石林道がこのとき即座に国道へ昇格していたら、小川路峠の“登山道国道”(自動車交通不能区間)は生まれなかったろうし、国道と県道が並走する奇妙な現状も生まれなかったに違いないのだ。
だが、林道は国道にはなれない!
……というのは、絶対ではないかもしれないが……、
林道が、道路法の道路である町村道や都道府県道を経ず、直接国道へ昇格したケースを、私は見たことがない。
例えば、小川路峠の近くにある国道152号の2つの未開通区間(自動車交通不能区間ではなく国道未供用)である地蔵峠と青崩峠がそうである。
これらの峠でも、昭和後半に林道が開通して、不通国道に対する迂回路として機能してきた。地蔵峠では蛇洞林道と遠山併用林道、青崩峠では兵越林道(現在は県境を境に長野県道と浜松市道になっている)がそれだ。
だが、未だにこれらの林道を国道に昇格させるという形での国道の不通区間解消はなされていない。
全国には例外もありそうだ。紀伊半島を走る国道309号の一部区間は旧行者還林道であるが、林道から直接国道になっているかもしれない(未確認)。
林道が直接国道に昇格することは極めて稀で、直接ではなく市町村道や都道府県を挟んだとしても、元林道の国道昇格は例が少ない。
それがなぜかという疑問に対する答えは、単純に国道と林道は行政の管轄が違うことや、国道昇格は原則として都道府県道などの一部である「主要地方道」から選択することとした旧建設省の慣例などに求めることができるが、昭和56(1981)年9月16日に開催された「第94回国会災害対策特別委員会」では、赤石林道の国道昇格に直接言及した次のような答弁があった。
(略)
御指摘の(国道)152号の交通不能区間でございますが(中略)、林道を国道に格上げ整備できないかという指摘でございましたが、ヒョー越林道(青崩峠の兵越林道)とかあるいは赤石林道というのがございますが、道路の曲線半径とか勾配とか幅員がいずれも国道としての基準を満足しておりません。非常に狭い道路でございます。それから標高も非常に高いところを通っておりまして、冬季の積雪時には交通どめになるということもございまして、道路の管理として非常に問題があるのではなかろうかと考えております。それでこれらの林道を全面的に利用した計画では国道としての機能を十分に果たせないと考えておりまして、現在抜本的なルートを検討しておるところでございます。(中略)
交通不能区間については調査の進展に一層の努力をし、早期にルートの決定を図りたいと考えております。
道路構造令と林道規程(林道版の道路構造令)を比較すると、確かに林道の方が規格の低い道が認められており、国道として万人が通行する道としては林道は不十分というは実際その通りだろう。だからこそ国道に昇格して整備すれば良いという気もするが、そうではなく、「林道を全面的に利用した計画(=林道の国道昇格)では国道としての機能を十分に果たせないから、現在抜本的なルートを検討している」というのである。
なるほど。
国道として恥ずかしくない抜本的なルートを整備するまでは、林道のように中途半端に整備された道を国道にするのではなく、車の通れない古道を国道に指定することで、“塩漬け”にしておこうというわけだな。
だからこそ、並行する赤石林道ではなく、小川路峠の古道が国道に指定されたわけだ。
しかも、そうした古道はだいたいが国有地であり、土地の取得も容易いときたもんだ。 納得!
『伊那 昭和47(1972)年2月号』掲載「赤石林道開通による遠山谷の変化」より転載
国道昇格直後の“衝撃的”な1枚(↑)
この写真は、昭和43年に開通した赤石林道の上村側入口を昭和47年頃に撮影したもので、
ここは現在、国道256号と県道251号の分岐地点になっているのだが……
「土橋は秋葉街道 現152号線である」
……というコメントが、衝撃的である。
私がある人に見せてもらった地図で初めて知った“地形図に描かれていない国道”が、
国道に昇格(昭和45年)して間もない頃の姿は、私の予想を越えて、駄目だった。
“土橋”って、江戸時代かよ?! かつて少年が「雨に濡れるを惜しいと思う」ほど
誇らしく思った「高橋」の最末期の姿は、かくも哀れみを誘うものであったか。
そんな老兵を、“塩漬け”のためだけに新たに国道に指定したとは、行政には人の心などない(言い過ぎ)。
いやでも、国道に指定されたお陰で今の橋に架け替えられたのかも知れないから、そこは良かったのか(笑)。
『歴史の道調査報告書』にも書かれていたとおり、先の赤石林道の建設によって、その下部に位置していた伊藤〜清水間の古道は徹底的に壊されていた。
そのことなどお構いなしに、完全廃道状態の古道を国道に指定しているわけだから、ルートを設定した関係者は最初からこの区間の国道を、歩道としても利用する気がなかったのだろう。
清水から先の峠区間は“歴史の道”として登山やハイキングに利用されているから、よほどマシだ。
指定された時点で、実はまるで使う気がなかったことが透けて見える、“地形図に描かれなかった国道”の区間は、可哀想すぎる…。
(←)国道が清水付近で地形を無視した実態のない直線ルート“虚道”になっていた理由も想像は容易い。
本来ならここも古道に沿って国道を指定したかっただろうが、ここでは赤石林道が大きな九十九折りで古道を跡形もなく破壊しており、地形自体も変化していた。
だから国道は仕方なく、この区間については、土地の取得が最小で済む最短の径路で結んでしまったのではないだろうか。
どうせ、道として使うつもりなどなかったのだから、どうでもいいだろう。
人間は誰も困ってはいないけど…、もしもこの国道に“心”があったら、相当荒んでいそうだ。
謎解きは、ほぼ終わった。
だが、“地形図に描かれなかった国道”が、これで完全に静止してしまったわけではなかった。
実はこの後に、大きな転機が訪れている。
“地形図に描かれなかった国道”は、ちゃんと解消されたかもしれなかった。
最終章: 小川路峠の抜本的な国道整備計画の顛末
昭和45年に小川路峠は国道152号に指定されたが、昭和50(1975)年には、国道256号にも指定されている。
それまで国道256号は飯田と中津川を結ぶ短い路線だったが、茅野〜地蔵峠〜上村〜小川路峠〜飯田〜中津川というふうに大幅な路線延伸が図られたのである。
これにより、昭和36年に発足した「中部横断道路国道編入期成同盟会」は、茅野から浜松までの全線を国道に昇格させるという当初目標を達成している。
小川路峠については、遂に国道152号との重複区間となったが、道路が2本重なったから2倍の予算が付くというようなものではない。それでも、2本の国道が重なっている廃道・酷道とか、いま以上に廃道・酷道ファンからの覚えは良さそうだ。もし小川路峠に“串刺しおにぎり”なんかあったら、私も興奮しちゃう!
【こんな道】がダブル国道として“塩漬け”になっている脇で、赤石林道はますます生活道路としての利用度が高まり、実態に則した整備を受ける必要性から、昭和57(1982)年に県道昇格を果たし、現在の県道上飯田線となった。(昭和45年に小川路峠が国道152号に昇格する以前の県道名「飯田上町線」と似ているが違う)
これで、やっと県道から国道への昇格が視野に入るのかと思いきや、国会でもっと大きな議論がされていた!
それは……、
(略)
○串原分科員 小川路峠のルートは昨年の3月、一応は決まりました。そこで、関係地域、市町村にとっては、中部日本を東西に結ぶ重要路線でありますのに、なお未開通区間でありますだけに、事業の早期着工が渇望されているわけであります。調査は何年で終わる予定でありますか。57年度から調査が始まったわけでありますから、およそ59年ごろには終わると私どもは理解をさせていただいているのですが、そんなぐあいにいくのでしょうか。そして、事業着手のめどというのはいつごろに考えていらっしゃるか、伺いたい。
○沓掛政府委員 お答えいたします。一般国道152号の小川路峠区間につきましては、青崩峠区間とともに調査を進めてきたところでありますが、この区間は交通不能延長が長く、長大トンネルが予想されるため、今後さらに地形、地質調査や路線計画調査の精度を高め、青崩峠区間の進捗状況を見ながら事業化の時期について検討してまいりたいと考えております。
うお〜!!
小川路峠越え国道152号の“抜本的な改良計画”が動いている感あり!
「昭和52年度から建設省は地質調査や路線計画調査をしてきた」とか、決して“塩漬け”して終わりじゃなかったんだね!(安堵)
しかも、昭和57年頃には、「長大トンネルが予想される」小川路峠でも、「一応のルート」が決定しており、これから詳細なルートを設計するという。うおおお〜(期待)。
…だが、今日の地図を見ても、国道152号の小川路峠新道は、影も形も見られない。
ということは、この計画は未成で終わってしまったのか?
実はそんなことはなかったのだ。
三遠南信自動車道にある矢筈トンネルの事業名をご存知だろうか。
平成6(1994)年に開通した全長4.2kmの矢筈トンネルを含む、下伊那郡喬木村から飯田市上村程野までの全長6kmは、 一般国道474号三遠南信自動車道 小川路峠道路 である。飯田国道事務所のサイトにもそう書いてある。
矢筈トンネルが越えているのは、かつて竜東索道があった矢筈峠である。小川路峠から直線距離で約3km離れており、伊那谷側の降りる谷が違う完全に別の峠である。であるにもかかわらず小川路峠道路という名を持つことには理由がある。
次に引用するのは、三遠南信自動車道小川路峠道路の関係者を集めて行われた座談会(『開発往来 平成6(1994)年4月号』掲載)から、建設省中部地方建設局飯田国道工事事務所所長西脇恒夫氏の発言である。
三遠南信自動車道の長野県側の状況は、通行不能区間の内6kmを含む13.5kmが小川路峠道路という名称で、平成元年8月に基本計画ならびに整備計画が策定されています。また、それから中央自動車道寄りの約14.5kmが飯喬道路の名称で、平成4年度に事業化していただいており、現在、環境などの調査をおこなっています。
現在の国道474号三遠南信自動車道の矢筈トンネルを含む区間は、昭和59年度に国道152号の1次改築として事業化されていた!
当初の「小川路峠道路」は、国道152号(現256号)の飯田市上久堅から喬木村に出て、さらに矢筈トンネルをくぐって上村の程野の国道256号(現152号)へと至る、全長13.5kmからなる国道152号の新道計画だった。
それが、昭和62年度から高規格幹線道路(いわゆる高速道路などの自動車専用道路)である三遠南信自動車道に組み込まれ、平成5年度に三遠南信自動車道のみを路線とする国道474号(飯田〜浜松)が新たに指定されたことで、国道152号から除外されたのである。
(後に小川路峠道路の上久堅〜喬木間が飯喬道路に組み込まれて全長6kmに短縮されている。飯喬道路も平成5年までは国道152号の一部であった)
平成5(1993)年に行われた国道の改編による複雑怪奇な変化を右図にまとめた。
国道152号の起点は、昭和28年に初めて二級国道として認定されて以来初めて飯田市から変更されて長野県上田市となった。同時に国道256号の起点と終点もダイナミックに変更されて、結局小川路峠は国道256号の単独区間に収まった。
加えて、国道474号が新たに登場した。昭和28年当時の二級国道152号と同じ起点飯田・終点浜松であるこのニューフェイスは、全線が「一般国道の自動車専用道路」である三遠南信自動車道であり、歩行者や自転車は一切立ち入ることができない国道だ。
こいつが国道152号から完成間近だった虎の子の矢筈トンネルを含む小川路峠道路をぶんどった。
国道152号改め256号となった小川路峠に残されたのは、もう未来永劫改良の可能性を失った、抜け殻の国道だけ。
それでも、“歴史の道”として歴史を愛するハイカーに無聊を慰めて貰える峠の区間はまだいい。
だが、過去の赤石林道との複雑な関係から、廃道状態のまま塩漬けにされていた“地形図に描かれなかった区間”は、もう本当に夢も希望もなくなってしまった。
成り行きからこんな道を受け取ってしまった国道256号さんの気持ちを聞かせて欲しいぜ。
現在では赤石林道が県道251号に昇格し、県道としての整備が進んだわけだし、もう国道を塩漬けにしておく理由もないわけだから、地理院地図が描いているとおりに国道の路線を変更しても良さそうだが、果たしてその日が来るのかどうか。
…わざわざこんなことを“陳情”する人はいないだろうし、来ないかな…。
右図はオマケ。
今回のレポートに登場した、小川路峠、赤石トンネル、矢筈トンネルという伊那山脈越えの3世代の道が、昭和29年以降に得ていた路線名の変遷をまとめた。
自動車が通れるか通れないかなんてことは度外視して、路線名だけを書いている。
あと、こんなGIFアニメも作ったよ。
写真は、国道474号の矢筈トンネルの上村側坑口の様子だ。
国道474号になった翌年の平成6(1994)年3月29日に、関係者の万歳三唱に迎えられて華々しく開通した。
矢筈トンネル、お前だったのか…。お前が、“地形図に描かれなかった国道”の生まれ変わりだったのか……。
いま思えば、このレポートの【冒頭から登場】して、アピールしてたんだな。
道の歴史はこんなにも奇々怪々。それでも甲斐甲斐しく、人の営みに付き添ってくれている。