廃線レポート 久渡沢の軌道跡隧道 捜索作戦 第3回

公開日 2024.08.30
探索日 2019.01.29
所在地 山梨県山梨市

 上流側坑口到達への挑戦


2019/1/29 14:34 《現在地》

“隧道”直下の久渡沢は、いかにも固い岩盤に狭められた狭窄部の連瀑となっている。幸いにして往来を阻む落差はないが。
険しさは隧道のある右岸だけでなく、反対の岸も切り立っているから、地中の硬質な岩脈を谷が貫通している地形なのだろう。
隧道の前後30mほどの区間で、河床は10mくらい高くなっている。

これから隧道の上流側の坑口への到達を目指すが、まだその姿は見えない。
坑口から上流側に延びている軌道跡の続きらしきラインは仄かに見えるが、あまり鮮明ではない。
そしてまた、この谷底へ降りたことで一つの大きな懸念を持った。

日陰を中心に、両岸の至る所が氷結しているのである。
この氷結が、行動可能な範囲を狭め、あるいは行動を著しく難しくしている恐れが多分にあった。
こればかりは探索の時期を見誤ったとしか言えず、今どうにもならないことだが……。想像以上の凄まじい凍りっぷりだった。



14:35

あの辺なんだろうな、坑口は。

しかしまあ、やはり、一筋縄ではいかないようだ。

後から崩れたのか、もともと桟橋でも架かっていたのか分からないが、坑口らしき場所のすぐ先に、地続きではない部分がある(点線部)。
その下の方は岩盤の露出したスラブのような地形で、悪いことに、凄まじく氷結してしまっている。水が染みだしているのかも知れない。
仮に凍っていなくても無理かも知れないが、とにかく今の技術と装備でここを登るのは間違いなく無理だと分かった。

ここを登る以外の方法を、考えないといけないが……。



14:36

隧道直下の狭窄部分を通過した。
まだ連瀑地帯にいるが、もう少しで谷が再び広くなり、そこまで行けば右岸にも軌道跡へ復帰出来る場所がありそうだ。
この先、軌道の終点が見込まれるナメラ沢出合附近までは、あと500mもない。
終点到達の目途が立ったといえるかもしれない。

しかし、問題は隧道だ。
このまま通りすぎるには惜しい遺構である。
なんとか到達できないものだろうか。

この場所から、隧道のある右岸高所を振り返って撮影したのが、次の写真だ。(↓)



坑口が、岩の影に辛うじて僅かに見える!

見上げているので見えにくいが、やはり思った通りの場所だ。
しかし、この写真に見えている範囲内に登れそうな場所はない。
可能性があるとしたら、もっと上流側で路盤の高さまで登る必要があるだろう。

もう少し上流側へ“引いて”から、坑口を撮影したのが次の写真だ。(↓)



上流側坑口周辺の地形の全貌が見えた。

まず、最短で坑口へ近づける可能性がある斜面(×印)は、氷結していて登高不能である。
そこで、もっと上流で路盤へ登り、そこから○印のルートで坑口を目指すことを考えた。
ただ、△印の部分に路盤がなく、危うい岩場をトラバースする必要がありそうだ。
この部分の攻略の可否こそが、隧道到達の成否を握るのではないだろうか。

その可能性を確かめるためにも、まずはどこかで路盤へ攀じ登り、○印の場所まで行く必要がある。



14:37

坑口の50mほど上流に、表面がすっかり凍り付いた45度くらいの小さなスラブ谷があった。
周辺よりはいくらか傾斜の緩やかな地形だが、氷瀑となって凍り付いている状況だった。
しかしその上に路盤の水平ラインがよく見えており、階段状に凍っているおかげで、下るのは難しいにしても、登ることなら出来そうだった。
もちろんこれは簡易アイゼンを着用しているお陰である。そうでなければ難しかっただろう。



14:39 《現在地》

小谷を登り、路盤の高さに辿り着いた。
なお、当然のように橋があった形跡はない。
それでも、谷の前後に鮮明な道形が残っており、下流側へ目を向けると……。(↓)



坑口が真っ正面に見えた!

望遠で覗けば、洞内に建つ端正な支保工のシルエットから、出口まで見通すことが出来た。

見え方的には、もはや辿り着いたも同然とガッツポーズを捧げたくなるくらいだが、現実は甘くない。

坑口へ向けて接近開始。



14:40

登高地点から20mほど隧道方向へ戻ったこの足元が、【先ほどの写真】の「○印」の地点である。

この先、おそらくかつては桟橋があったのだと思うが、10m以上にわたって道形が途絶えている。
山側の崖は垂直に切り立っており、とても高巻き出来る状況ではない。
なので、“下巻き”以外に進む術はなさそうだが、それが簡単ではないことも明らかだった。

もう数歩だけ前進し、真にのっぴきならない所まで行くと、次のような眺めを見る。(↓)



私の心を激しく揺さぶる眺めである。

見た瞬間に「無理!」だと即断できた下流側と違って、突破出来る「可能性」を強く感じた。
しかし、それが私を激しく悩ませるのである。

実は、この場所に立った瞬間は、「行けそうだ!」という感覚を得ていた。
だが、まじまじと観察すればするほどに、恐ろしさがこみ上げてきたのである。
地表に積もっている落葉の下が、どういう地形であるのか分からない部分がある。
岩なのか、土なのか、凍っているのか、いないのか。

そしてもう一つ確定しているリスクとして、ここは必ず往復しなければならない。
行けただけでは駄目。凍っていることに気付いた時にはもう戻れなくなっていた、そんなことは絶対に避けなければならない。



14:41

結局私は、いつものように、自分が得た“最初の感触”を信じることにした。
これまでも大抵この感触に逆らわない決断をして、それで今日まで大きな怪我もなく越えてこられた。
だから今日もきっと上手くやれるはずだと信じた。

落葉の積もった下がどうなっているのかを慎重に確かめながら、手に持った木の棒を露払いに少しずつ前進した。
幸い、落葉の下には土の部分があるようで、滑りやすそうな岩場の感触はなかった。
また、落葉は凍っていたが滑ることはなかった。むしろブロック状に締まっていて、歩きやすくなっていたかも知れない。


だが、これで終わりではなかった。



最後、ここを攀じ登る必要がある。

上に見えているところまで辿り着ければ、見事に坑口到達となるわけだが、これが非常に急傾斜であるうえ、土混じりの風化した岩場だ。
うっかり滑り落ちようものなら、勢いのまま谷底まで滑落する危険がある。
しかもコースが谷側に寄っているため、上に行くほどリスクが大きい。
そして、戻ってくるときのことも考えなければならない。

坑口前の一連の難所の中で、ここが最も緊張し、最も慎重にならねばならない部分だった。



これを無事に遣り果して




14:43 《現在地》

坑口への到達に成功!




 隧道内部の探索を決行!! 


2019/1/29 14:44 《現在地》

遂に、探し求めてきた隧道の坑口へ辿り着くことができた。
情報が少なかったので発見するまでも大変ではあったが、見つけてからがもっと大変だった。最初に隧道の姿を目にした時点から、約25分後の達成であった。私の経験の中でも、かなり到達難度の高い隧道に入ると思う。(車からの歩行距離は短いが、地形的難度が高い)

すぐさま、洞内探索を開始する。
やっと直に触れることができるようになった隧道だが、まず感じたこととしては、その断面の小ささだ。
内部に支保工が見えているが、これを除外した岩壁でも、幅2m、そして高さも同じくらいしかないように見える。
人道であればまだしも、木材を満載したトロッコが通過する断面としては、明らかに天井が低過ぎるように感じた。

この隧道のサイズ感を私の身体と比較した次の画像は、きっと皆さまも驚かれると思う。(↓)



これは隧道へ入ってすぐさま撮影した全天球画像である。

立っている場所は隧道元来の洞床で、私の身長は172cmだが、背にした入口の天井が既に頭を擦りそうなくらい低いことが分かると思う。
そして何よりも低いのが、私の目線の先にある支保工だ。
この支保工、明らかに私の頭より低い所にあり、洞床から1.7mない。

支保工の存在を除外しても、これまでに目にした“軌道用とされる隧道”としては最も狭い部類に入ると思う。
これと同じくらい狭いと思われるのは、同じ山梨県の早川林用軌道の隧道群である。
そして支保工も含めると、本隧道は日本一有効断面の小さい軌道用隧道だったかもしれない。

ちなみに早川林鉄の軌間は一般的な林鉄と同じ762mmであった。この“久渡沢軌道(仮称)”の軌間は明らかでないが、よほど特殊な事情がない限り、おそらく同じ762mmだったと思われる。



これが同じ位置から私の目線の高さで撮影した洞内の様子だ。
明らかに身を屈めなければ接触する高さに支保工の梁が渡っているのが分かるだろう。

ただ、重要な問題として、この支保工がいつから存在するかについては、3つの可能性があるように思う。
一つめは、この隧道が“久渡沢軌道”として開設された当初から存在するという説。
二つめは、軌道廃止後、改めて木馬道として利用された時期に設置されたという説。
三つめは、木馬道も廃止され、登山道として利用された時期に設置されたという説だ。

現時点では軌道が実在した確証がないので、なんとも判断に苦しむ問題であるが、個人的な印象として、木馬道時代に設置されたものなのではないかという気がする。
ここが昭和30年代に木馬道を兼ねた登山道として利用されていたことは、前説で紹介した複数の登山ガイドブックから明らかである。
軌道は洞床に枕木とレールを敷設した上をトロッコが走るので、こんな低い支保工があったら、台車に大量の木材は積載できないだろう。さすがにそれでは手間を掛けて軌道を開設する旨味がなさ過ぎるように思う。しかし木馬ならレールも車輪もないので車高が低く、人力であるから積載量にも限度があって、この狭い空間を(前屈みの姿勢で牽引する人ならなおさら)問題なく通過出来そうに思われるのである。

というかぶっちゃけ、この隧道のサイズを目の当たりにした現地の私は、軌道が存在したことにますます懐疑の気持ちを深めたのであったが(最初から木馬道だったのではないかと考えた)、これについては後ほどの机上調査で白黒をはっきりさせたい。



そして、支保工についてもう一つ、驚くべき発見があった。
これまで隧道の外から遠目に見た時点では、てっきり【こういう】“三つ枠”の支保工だと思ったのだが、間近に寄ってはじめて分かった。
これ、“三つ枠”ではなく、左の支柱と上の梁という2本の柱だけで構成された、“未知の型式の支保工”だった。

シンプル極まる構造だが、重要なのは横に渡されている梁材で、これは天井を支える目的ではなく、側壁を支える役割を期待されていたようだ。
ただ、この梁だけでは落ちてしまうので、右側の壁に“ほぞ穴”を掘って、そこに梁を挿し込み、左側には支柱を立てて梁を支えていたのであろう。
そもそもこの隧道は、上部の土被りは大きいものの、谷側は僅か数メートルで崖になっているから、水平方向に強い偏圧を受けていることが想定できる。この偏圧による隧道の変状・崩壊を予防するために、つっかえ棒のように両側の側壁を支える梁を設置したのかもしれない。



入ってきた坑口を振り返って撮影。
シルエットが綺麗に四角いのは支保工のせいだ。実際はもっと素朴で歪な形状をしている。



短い洞内には、冷たい谷風が常に吹き抜け、水気は全くなく、カラカラに乾ききっていた。土気も全くない。
中央付近は天井が少し高くなっていて窮屈さは薄れたが、天井が崩れてそうなっただけかも知れない。
洞床は全般的に瓦礫に埋れているが、元は砂利が敷かれていたようで、レールや枕木は見られなかった。
外から吹き込んだ落葉が随所に積もっているが、洞奥には苔のような植物や蝙蝠などの生物は一切なく、生命感が皆無だ。体臭を持った人間が洞内に立ち入ったのも、何年ぶりだろう。

しかし、こんな親近感の湧かない穴でも、間違いなく我々の社会の成り立ちに繋がっている。
どこかの知らない異民族であるとか異星人が開発したものでは断じてない。
普通に我々の家族や友人、あるいは同僚、知人である誰かの先祖が掘ったに違いないが、それが忘れられてこんなに遠い存在になっている。



入ったときから出口まで見通せている、なんなら入る前からそうだった、たかだか30m足らずの隧道だ。
どうやっても、終わりはすぐにやって来た。
引き返すよりない出口が、間近になった。

あんな死ぬほど怖い思いをしたのに、辿り着いたらあっという間なのである。
でも、支保工の構造なんかは、こうして間近に触れなければ気付けない要素だろう。
辿り着いた成果は大きかった。何より、ここに思い残すことがなくなった。

出口付近にも、多数の支保工が立っていた形跡(壁のほぞ穴や倒れた支保工の残骸)があった。だが今も立っているのは1組だけだ。
やはり私の背より微妙に低いところに梁が架かっている。
ただ、柱の表面の様子は前のものと違っていて、こちらは樹皮がついたまま(おそらくヒバ材)だった。



これは洞床に落ちていた支保工の残骸だが、これにも樹皮が残っていた。
また、用途不明だが、金属の撚線(ケーブル)が取り付けられていた形跡があった。
やっぱりそこまで大昔のものじゃない感じがするんだよね。

(このケーブルに滑車がぶら下がっていて、この隧道を索道用に利用した時期があったという説を今思いついた。でも、狭すぎてあり得ないな…)



出口(下流側坑口)へ迫った。

右の壁に二つの孔が見えるが、これが支保工の梁を挿していたほぞ穴だ。
1m間隔くらいの濃い密度で設置されていたことが分かる。
また、側壁の部分には鑿(のみ)による荒々しい拡幅の痕が深く残っていた。
削ったままで、全く風化しておらず、硬い岩質に手こずったことが感じられる。
深い谷に面してこれほど著しくそそり立っている大岩盤だ。特別に硬い岩質なのだろう。機械力の乏しい時代、この隧道を貫通させるのは大変な労力を要したに違いない。しかも足場の悪い高所に始まる隧道だ。難工事の一言では、とても片づけられなそうだ。



14:46 《現在地》

一歩たりとも外へは出られぬ、名ばかりの出口へ辿り着いた。

全天球画像で、通行不可能を可能へ変えた人の努力の痕跡を、ぐりんぐりんして確認して欲しい。

廃道探索は、しばしば私に人間賛美の気持ちを抱かせるが、険しさに命を曝すときほど、それを深くするときはない。



洞内の全てを見たと思うので、ここで引き返す。

なお、この画像の「矢印」の位置が、下流側からの私の最終到達地点だった。
辿り着けない隧道に対して、悪あがきして最後に立ったのが、あの小さなステップだった。
そこで撮影したのが、【これ】と、【これ】である。



もう二度と来ることもないだろう洞内を、硬い表情で引き返す。
穴の中はとても安全な空間だが、外へ出たらもう一度だけ命を張らないと帰れないのが、この穴の辛いところだ。
凱旋気分は、あと少しだけお預けである。



14:48

さあ、ここだぞ。

お前、自分で来たんだからな、

戻れるんだよな?



(サーーー……   ←血の気が引く音)






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