2019/1/29 14:51 《現在地》
なんとか、戻りも、無事通過できた。
突破した難所を振り返りながら、いまやっと心からのガッツポーズを繰り出している。ここへ来た最大の目的を達成することが出来たのだ。これは喜んでいい。とてもシビアだったが、ギリギリ、私の技と判断が勝ってくれた。
あとはこの成果を持ち帰ることだが、この足で引続き軌道跡の終点を目指すことにする。
昭和4年の地形図に描かれていた軌道の根拠に、あと500mほどで終点ではないかと推測している。
残りの時間的にも、そのくらいであってくれないと厳しいだろう。
チェンジ後の画像は、同じ地点で撮影した進行方向(上流方向)だ。
いまから10分ほど前に、この水のない谷を攀じ登って、久渡沢の底から登ってきたのだ。
今度はこの谷を渡って、向こうに見えている浅い掘り割りへ向かう。あれが道の続きである。
ここまでの全ての“橋があるべき場所”でそうだったが、今回もまた橋の痕跡は一切ない。(海抜1310m附近)
ただ、谷の前後に道形がある、それだけである。
なのでこちらとしても、無造作に横断せざるを得ない。
(チェンジ後の画像)雨裂のような谷を渡る最中、いままさに侵食を受けている土砂面に、割れたご飯茶碗の欠片を見つける。
もっと上流に、これを使うような場所があったのか……。
謎だが、この道に入ってはじめて目にした、人の暮らしを感じさせる遺物であった。
14:53
浅い掘り割りを過ぎると、道はこれまでの“悪行”とも思える険悪ぶり(橋の痕跡がない大峡谷の横断→軌道跡らしからぬ急坂道→死ヌほど厳しい絶壁の隧道)を忘れたかのように、一転して平和な渓谷沿いの林間プロムナードへと変化した。
道幅もなぜか広くなっており、もしここまで来られるならば自動車だって通れそうな幅がある。
地形図に載っていないのが不思議なほどしっかりした道の痕跡となっている。人か獣か知らないが、踏み跡もある。
14:58
そしてそんな歩き易い穏やかな道は、5分後にも変わらずに続いていた。
距離も順調に伸びており、恐らく終点擬定地まで、あと200か300か。
ただ、どんなに条件が良くなっても、私はこの一連の“軌道跡とされる道”の周辺で、まだ一度もアレを見ていない。
レールと枕木。最もシンプルな軌道の証拠といえるこれらのアイテムを、ただの一度も。
14:59
対岸は依然として非常に険しい地形が続いているが、その見上げた天辺に真新しいガードレールを持つ道が現れた。
探索序盤に【分岐】で別れて以来、約2kmぶりとなる左岸道路との再会だった。
地理院地図だと徒歩道の表現をされている区間だが、実際には車道化されているようだ。
軌道跡の探索が終わったら、帰りは向こうを使うつもりだったので、ちゃんと整備されていそうで安心した。
15:01
私がいる右岸も、再び険しくなってきた。
久渡沢の流れる音も、何やら随分賑やかに。この先、滝があるっぽい。
それでも道形はしっかりと残っていて、不安は感じない。とても歩き易い。
この道の終点はどんな場所なのか。もしそれが想定エリア内にあるのなら、そろそろ状況に変化が出てもおかしくない頃合いだ。
15:03
凄いものを見た。
久渡沢本流に滝がある。
驚いたのは、その滝の状態だ。
凍っている?
そう、見ての通り、氷瀑と化していたのだが、それがなんと……
次の動画を見て欲しい。(↓)
凍った滝の中に、流れる落ちる滝がある?!
これは驚いた。
たぶん、冬山をよく歩く人にとっては、そこまで珍しい風景ではないのだろうが、、私はこういう状態の滝を初めて見た。
一部が凍っているとかではなく、表面的には下から上まで完全に氷結しているが、氷の内側に空洞が出来て、そこを大量の水が流れ落ちているようだった。氷は透明に近いから、これを透かして裏側の流れが見えているという状況だ。
近づくのは大変そうだったんで遠目に見ただけで満足したけれど、なかなか面白いものが見れた。
15:04 《現在地》
隧道からおおよそ400m、凍った滝を越えてすぐ、今度は左から支流の氷瀑が落ち合ってきた。(海抜1330m)
ここでも少量の水が氷の裏側を流れていたが、流れ出た水が道を横断するところに橋の痕跡などはなかった。
久渡沢の本流は、この支流との出合を合図に、北から東へ90度向きを変える。そのため道もここで90度右へ曲がっている。
凍った支流を渡ったところに、久渡沢の流れを見下ろすテラス状の広場があった。
よく見ると、この広場には山際の緩やかな上り坂(道の続きの部分)と、谷側の袋状に広い平地の部分があり、その両方に、これまで見ることがなかった大量の“遺物”が散らばっていることを、冬山にはあるまじきカラフルさから遠目にも認識することが出来た。
直近では、目の前の流れの中に、ひしゃげたトタンの壁の切れ端が1枚落ちている。建物の残骸だろうか。
かねてより終点が近いとは思っていたが、ここがその終点かもしれない。
あるいはまだ左に道が続いているようだから、終点でないとしても、一連の道の“終点附近に設けられた拠点的なもの”があったと思う。
いまから、この広場で発見された遺物を紹介していこう。なお、捜索は広い広場の全域に及び、約10分を費やした。
超久々となる“MOWSON”山梨久渡沢店の開店である!
“MOWSON”とは、妄想と某コンビニチェーンを組み合わせた全く新しい妄想である。なぜ●ーソンなのかというと、そこが私の古巣だったからだ。最初期の山行がに、その片鱗があるかもしれない。
商品ナンバー001 「いつもの陶器一斗瓶」
林鉄が存在した年代の古い飯場や宿舎の跡地で、一升瓶の次くらいによく見つかるのが、この陶器の一斗瓶だ。
本来は焼酎や薬品の出荷用に製造されていたものらしいが、山の仕事場で大量に見つかることから、水瓶として使用することが多かったのではないかと考えている。
混ざって一升瓶もたくさん転がっており、こちらも最初の内容物を飲み干してからは、水筒代わりに使用したのだろう。
これらがあることで、ここに大勢が働く昔の山の仕事場があったと分かる、そういう便利なアイテムだ。
商品ナンバー002 「懐かしのアルミ弁当箱」
過酷な山仕事では水と共に必須であるのが食料で、それを各自が持ち歩くために弁当箱を持参した。
伝統的な豆型のアルミ弁当箱で、近年ではこれに取っ手がついた飯盒の一種が、メスティンというオシャレな呼び名でキャンプ道具の一つとして人気を博している。
でもこれは純粋な弁当箱。アルミの弁当箱自体は、私が子供のころでも普通に小学校へ持たされていたから、そこまで古いアイテムという感じはしないが、丸くはなかったなあ。
右端に見切れているのは、雨傘だ。錆びた骨組みだけになっていた。
商品ナンバー003 「ナベダイヤル(※)できない電話機」
これは、屋外では初めて見るが、電話機の残骸らしいもの。ガワだけが落ちていた。
ダイヤル部分がないので、通話先が固定されている有線電話の子機だろうか。
軌道運材においては、衝突事故防止のためにも電話の設置は重要なものだったが、ビニールテープで補修されている様子から、そんなに昔のものではなさそうだ。
雨傘といい、この受話器といい、微妙に古くなさそうなアイテムが散見されるのだが、次のアイテムは特に奇抜だった。
商品ナンバー004 「装備できないビニールサンダル」
おそらくは、女児用のビニールサンダルだと思うが、なぜこんなものがここに?!
むさい山男どもの巣窟というイメージがある山の仕事場には一見不似合い過ぎるアイテムだが、むしろこれは、飯場だからこそだろう。
昔の林業の民俗的な文献を読むと、しばしば山奥の飯場に働く炊事婦の女性の姿が描かれている。多くは地元で採用され、住み込みで仕事をした。沢からの水汲みなど大変な重労働であったが、幼子を負ぶったまま働くこともあったようだ。
このアイテムも、昭和ではあろうが、そこまで昔のものには見えない。軌道廃止後に木馬道として利用された時代の遺物だろうか。
商品ナンバー005 「銘の入ったツルハシの頭」
“女子供”のアイテムがあるかと思えば、すぐ近くには屈強なる土木戦士御用達、言わずと知れた隧道掘りの必須アイテム、ツルハシの頭部分が転がっていた。
左右の刃が尖っている両ズル頭で、昔の道路標識の「工事中」に採用されていたことで有名なアイテムだ。
しかも、銘入りの逸品。柄が喪失しているが、それを補えば今すぐ現場で使用を再開できそうである。一瞬持って帰りたくなったが、重すぎるので普通に却下です(笑)。
右に転がっている鉄の棒は、柄の長い六角ボルト・ナットだ。木造建築や、それこそ木橋の構築によく用いられた建材だ。
商品ナンバー006 「刃渡り90cmのビッグサイズ木挽き鋸」
来た! これぞ山仕事道具の花形!! 刃渡り90cmという超ビッグサイズの木挽き大鋸(おおのこ)である。
こんなもの、巷の民俗資料館の展示物でしか見たことはなかったが、刃の部分だけになって転がっていた。
撮影のために持ち上げるのも一苦労な重さだが、昔の仕事人はこんなものを担いで山へ登り、大木に引導を渡していたのだから恐ろしい。
研いで柄を継げばまだまだ使えそうだったが、スマホより重いものを持たなくなった現代人には到底装備不能である。
以上紹介した商品アイテムは、ここで見つけたものの一部である。
全体的な印象として、ここに林業関係の飯場や宿舎があったのは間違いなく、年代としては、戦後から昭和後半という印象だ。
軌道関係の遺物(レール、犬釘、保線道具など)が全くなかったのもポイントである。
15:12 日が陰り、より濃い冷気に包まれた、氷瀑横の飯場跡地を後にする。
15:13
飯場跡を過ぎても道の跡は鮮明だったが、倒木が多くなった。
そしてうっすらと積雪も始まった。
真の終点は、まだ先か。
路傍の立ち木の幹に、ポツンと碍子が一つ取り付けられているのを見つけた。
先ほどの飯場跡で電話機を見たが、おそらく裸の電話線が道沿いに張られていたのだろう。
山奥でも大規模な設備になると、小型水力発電などの自家発電による電化が行われることもあったが、たいていは電話線だけが通じた。
なお、写真の背景は久渡沢の谷で、左から流れてきて、足元で90度折れてから、右の奥へ消えている。道はずっと右岸伝いである。
どんどん日が傾き、少し前に日を浴びて歩いた道が、もう日陰であるのを見ると、気持ちが焦る。
この時間にまだ前進を続けているのは、勝手知ったる山でもないのに、ちょっとピンチかもしれない。
15:15 《現在地》
対岸に無名の支流(古礼山の頂から流れ出ているので、本編では以降「古礼沢」と仮称)が合流してくると、本流は再び90度折れ曲がって北進するようになる。
ここまで辿ってきた久渡沢という名前の谷は、もう間もなく終わりを迎える。
このすぐ先で、左のナメラ沢と右の峠沢に分れる場所が久渡沢の上限とされているからだ。
肝心の我らが“軌道跡”だが、古礼沢(仮称)の出合を過ぎると、なんとなく複線を想像するような広さになった。
ここでもまた終点というワードを連想したが、前の広場のような遺物は見られず、全体的に道形の風化も進んでいて、本当に広いかもよく分からない感じだ。
道と沢の高度差もかつてなく縮小し、ほんの数メートルになった。
そして、この直後……
15:16
ずっと左岸にあった道形が消失し、私は仕方なく横の広い河原へと降り立った。
この範囲だけだと、浸食によって道が流失したようにも見えたが……
上流側から離れて見ることで、この場所より上流には、道の続きがないらしいと分かった。
いささかぼんやりとした結末で申し訳ないが、これにより、直前の道の末端を一連の軌道跡の終点だと判断した。
もちろん、廃止されてからの長い月日で川沿いの地形そのものが変化している可能性はあって、膨大な堆積物に埋れているこの足元の広い河原に、かつては大掛りな軌道の施設があったかもしれない。昔の写真や当時を知る人の証言でもなければ、これはちょっと分からないだろう。
15:17
軌道跡の消失地点のすぐ先が、久渡沢の始まりで、ナメラ沢と峠沢の出合であった。
海抜1360mに達するこの谷底より、右の峠沢をがむしゃらに突き上げたのが、雁坂峠への伝統的な登高路だ。今も大部分は登山道として使われているようだが、登り口の辺りは変わっていて、この場所も登山道からは外れている。ここから峠まで直線距離なら3kmもないが、約700mの高度差を残している。さすがは、“日本三大峠”と語られる巨嶺といえよう。
そして、ここが軌道の終点だったのなら、そこを走っていたトロッコは、我々の長い歴史の中においても、雁坂峠の頂上に最も(陸上から近くに)迫った四輪の乗り物であったろう。
ただ、その痕跡といえるものは最後まで見られなかった。道自体は確かにあったし、隧道も見事に存在したが、いずれも木馬道の気配が濃く、レールが敷かれていた確証を得ないままに、山を下ることになった。
これは、最新の地理院地図と、(チェンジ後の画像)昭和48年の地形図の比較である。
後者の地図では、私が終点と判断した道の末端からもう少しだけ上流まで軽車道が続いていて、そこから峠沢沿いの山道が始まっているが、誤差の範囲と言って良いだろう。峠沢沿いの登山道の位置がだいぶ変わっていることも分かると思う。
こちらは昭和4年の地形図だが、ナメラ沢と峠沢の出合から少しだけ峠沢へ入ったところまで軌道は延びている。
これを厳密に今の地形図に適応すると、私が終点と判断した地点より少し上流まで軌道が延びていたように見えるが、現地の地形はそれを許しそうにない。
そもそも、この地図の地形表現は、谷の位置からして今とはだいぶズレているので、重ね合わせること自体が困難だ。
15:24 《現在地》
次回は最終回、この最奥からの下山の道を、駆け足でお伝えします。
下山なのに、まずはこの谷……古礼沢(仮称)……を登る!
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