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2019/1/29 15:23 《現在地》
軌道跡終点より、下山開始。
特に下調べはしてこなかったが、終点のすぐ下流の左岸に注ぐ沢(仮称:古礼沢)を100mも遡れば、最新地理院地図に描かれている雁坂峠の登山道にぶつかるはず。
谷の遡行ということで少し不安はあったが、そこまで高低差は大きくなく(30mくらい)、登っていけるものと見込んでいた。
しかし、落口に向き合ってみると、完全に氷結した高さ4mほどの滝がいきなり行く手を阻んでいて気圧された。
よく見ると細引きの存置ロープがあり、おそらく情報提供者もその一人だろうか、バリエーションコースとして敢えてこの谷を通行する人がいるようである。
簡易アイゼンは履いているが、氷瀑を攀じ登るなんてことは体験がないので、出来るだけ脇の岩場を利用して登ることにした。
無事、滝を越えて、そのまま狭い谷を登っていく……。
滝の上では、乾いた氷の表面を透かして、その裏を流れる水を観察した。
流れる水の上を濡れずに歩くというのは、なんとも不思議な感覚だった。
15:27
“凍れる階段”と化した谷の行く手に、意表を突いて、“巨大な鉄橋”が姿を現わした。
地理院地図では徒歩道だけが描かれている場所に、こんな大きな車道橋が存在していることに驚いた。
しかもこの橋の姿は、普通のものではなかった。
工事現場などで目にする、いわゆる仮設橋の姿を持つ橋だった。
トラス型式のユニットを4枚横に並べてトラス桁とし、その上に鉄フレームの桁を乗せた構造である。
まるで戦場に架かる橋を思わせる物々しさだが、今の私にとっては、頼り甲斐のある救いの手であった。
向かって左側の斜面を攀じ登って、橋の上に到達した。
15:32 《現在地》
軌道終点を折り返してから約15分という短時間で、最寄りの車道へ脱出することに成功した。
海抜1380mに架かる橋の袂のこの広場が、広瀬集落から延びてきた車道の終点であり、雁坂峠へ延びる登山道の始まりだった。
もっとも、この車道の麓の入口には一般車両の通行を許さないゲートがあるので、登山者はここまで歩いて来るのが通例である。
私が2時間半前に左折した(そして自転車を残してきた)【分岐】をもし直進した場合、ここまで自転車を持ち込むことが出来たと思うが、その場合、隧道の発見も上流側からとなっただろう。
橋の上はアスファルトで舗装されており、そのうえ高欄の四隅に銘板が取り付けられているので、仮設橋らしくない。
4枚の銘板にはそれぞれ、【沓切沢橋】「くつきりさわ」「平成10年10月竣功」【亀田林業所】の表示があって、最後の1枚は、本橋の外観同様、一風変わったその素性を物語るものとなっている。
詳しい経緯は分からないが、この道路は平成10年に開通した雁坂トンネル有料道路の工事用道路として、工事期間中に亀田林業所の私有林内に整備され、工事終了後は同社の私道となっているものらしい。だから旧国道というわけではなく、もとが工事用道路だから仮設橋なのだろう。
ちなみに亀田林業所は中央線塩山駅の北口そば、かつて三塩軌道の起点だった赤尾貯木場のあった所に所在する会社だ。
この終点から、出発地点である広瀬集落までは約4kmの道のりで、300mという大きな高低差を克服する。
そしてこれはほぼそのまま、昭和4年の地形図に描かれていた久渡沢沿いの軌道の全容と重なっており、雁坂峠への登路の一部を担っている状況を含めて、かつての軌道を自動車道へ置き換えた存在といえるだろう。今回の下山路としては、まさにうってつけの存在である。
なお、橋の銘板には「沓切沢橋」とはっきり書いてあるが、どうやらこれが“間違い”であるらしい。
というのも、橋の袂に登山者向けとみられる手書きの看板が設置されており、そこには「この沢は沓切沢ではありません」と書いてある。
古い登山ガイドを調べてみると、本来の沓切沢(クツキリ沢とも)とは、この地図に示した別の沢を指すらしい。
おそらく橋の命名者が沢名をナチュラルに勘違いしたのだろう。
このままだと一部の登山ガイドを頼る登山者が致命的な道間違いをする可能性があるから、親切な誰かが看板で注意喚起をしたのだろう。橋の銘板がこのような形で間違いを指摘されるのは珍しいケースだが、名付け自体は撤回されていないから、古礼沢(仮称)に架かる沓切沢橋という奇妙な状況が生じている。
チェンジ後の画像は、橋の上から見下ろした谷の様子だ。この凍れる谷を這い上がってきた。
15:38
左岸道路の終点を出発した。
写真は終点を振り返って撮影。
薄らと積雪した路上に車のタイヤ痕があるが、ゲートの鍵を持つ関係者だろうか。
軌道跡の探索は、終点側については終わったものの、中盤(この回の13:55辺り)にやり残したというか、見逃した領域(ミッシングリンク)があるので、最後にそこを確かめて下山したいと思っている。まあ本当にやれるかは、時間次第だが……。
問題のエリアに近づくまでは、脇目を振らずに戻ることにする。
15:40
左岸道路のこの真新しいガードレール、さっき谷底から【見上げた】やつだ。
軌道跡からこの道路が見えたのはここだけだった。
左岸道路は久渡沢からかなり高い山腹を通るので、隧道があった辺りの特に険しい峡谷は、路上からだと全く見えなかった。
チェンジ後の画像は、振り返り見る県境の稜線だ。ほんのりと積雪していた。
15:56 《現在地》
終点を出発して約20分後、無名の沢を埋め立てた広大な広場に着いた。
おそらく雁坂トンネル工事で発生した大量のトンネルズリを処分した土地の一つだろう。
ズリ処分や、将来の登山ルートの確保のため、道路本体とは直接隣接しない久渡沢の奥地へ延びるこの工事用道路が整備されたのだろう。
埋め立て地を過ぎると、道は堰を割ったように激しく下りはじめた。
九十九折りでガシガシ高度を下げ、みるみるうちに久渡沢へと近づいていく。
こうなると、私が“やり残した”という場所は、間もなくである。
一連の軌道跡と左岸道路の接続地点。それをはっきりさせたいのである。
16:06 《現在地》
終点から約1.7km、海抜1250mの地点に、地理院地図にはない分岐を見つけた。
「現在地」の地図に示した破線の道が地図にない直進路で、左岸道路の本線は、右から来て手前へ下りていく。
直進路はフェンスで塞がれており、先は前述したズリ処分地の埋め立てられた谷だ。道の行く手も地形ごと埋め立てられている。
そして、この場所から左の谷を覗くと、一基の砂防ダムがある。
路上から見下ろした砂防ダムの下流側は、既に薄暗くなった久渡沢本流の谷底へ相当な急さで落ちているのが見えたが、前半の探索で一旦引き返した軌道跡の続きが、この下の辺りへ延びてきているはずだ。
具体的には、チェンジ後の画像に黄色の線で示した辺りを通っていたはず(×印の地点へ上流側から来て引き返した)。
ここから見ても、軌道跡の存在は全く窺い知れないが、実際に谷へ足を踏み入れて確認してみたい。
おそらくこれが今日最後の探索となるだろう。
しかし、この場所の地形はとても険しく、この時間から道から外れて谷へ下りるなど、正気の沙汰を疑われそうな不気味さがあった。
対応を誤れば、そのまま谷の石ころの仲間入りをしそうな怖さがある。
周囲の地形をよく観察し、砂防ダムから少し離れた下流側に緩やかな場所を見つけたので、そこを下った。
すると……
拍子抜けするほど道のすぐ下に、見慣れた感じの平場が見つかった!
やっぱりあったか!!!
でもこんなんでも、意識して探さなければ、絶対に気付かない気がする。
16:08 《現在地》
よっし! 今日のミッシングリンクを埋める時が来たな。
もう時間はほとんどないが……、スッキリするために頑張ろう!
2019/1/29 16:08 《現在地》
やはりあったか軌道跡!
往路でも探していたものだが、入渓地点を早めすぎたために、この辺りは久渡沢の谷底を通過してしまい、軌道跡の存在に気付かなかったのだ。
しかし、こうして復路で軌道跡のミッシングリンクが埋まっていくのは大変喜ばしい。やり残しは、少しでも少ない方がいいからな。
辿り着いた軌道跡を、まずは上流方向へ向かうことにした。
手元のGPSの画面上にはこれまでの行動の軌跡が表示されているから、目の前にある支流の谷の対岸を少し行った場所が、13:55の撤退地点であることを把握している。
というわけで支流の谷だが、“矢印”の所に興味深いものが残っていた。
これはッ、超素朴な吊橋の主塔だ!
はじめて一連の軌道跡で橋があった痕跡を見た!
チェンジ後の画像に、想像力を逞しくして再現した橋の姿を描き足した。
主塔の柱2本だけから、よくぞと思われる再現ぶりでしょ?(笑)
橋といえば、この橋の少し先にはこれを遙かに上回る規模の【本流を渡る橋】があったはずだが、そこに橋の痕跡は全くなかった。
だが、こういう吊り橋であったとすれば、主塔が完全に失われた時点で、遺構が残らないことの納得は出来る。
現にこの橋も、対岸側には一切の痕跡が残っていなさそうだ。
ただ、吊り橋説を採るとして、こんなひ弱な吊橋に線路が敷かれてトロッコが走るなんて事があるだろうか…?
これは大きな疑問である。たとえ木馬であっても、吊橋というのは、さすがに厳しいような気がする。
こんな橋はあくまでも歩きの道でしかなく、隧道の存在とは少々不釣り合いだし、登山道時代の遺物っぽい。
それでは、軌道や木馬道であった時代の橋が別に有ったかと言われると、残念ながらそれらしい痕跡や別の道の跡のようなものは見当たらない。
別の橋があったとしたら、吊り橋と同じ場所ということになるだろう。
それはそれとして、この支流の谷は、思いのほかとんでもなく深く切り立っていて、とてもこの場所で簡単に谷を渡って対岸へ行ける状況ではなかった。上流に見える砂防ダムまで迂回して渡れば行けるのかもしれないが……。
吊り橋の対岸に見えるこの平場は、13:55に引き返す際に【撮影した写真】の右奥に見えた平場であり、こうして両側から視線が握手出来たということで、実踏はせずに納得することにした。
時間的にも、これ以上この場所に留まってはいられないのだ。
16:10
というわけで、ミッシングリンクの上流側には吊り橋一つ分だけの未踏を残し、今度は下流側へ軌道跡を下って行くことにする。
16:11
こちらは特に障害物もなく、いかにも軌道跡っぽい幅の道が延びていた。
往路で辿ったこの辺りの久渡沢はもの凄い峡谷地帯だったが、左岸のこの高さは平穏だ。
また、この辺りの路上には、ぽつぽつと空き缶が散らばっていた。それも私が子供のころに見た憶えがあるような、一昔前の空き缶だ。
現状では失われた吊り橋で行き止まりのこの道だが、案外最近まで橋が架かっていて、登山道として利用されていたのではないだろうか。
ただ、右岸では一切こうした空き缶を見ていないので、隧道を含む右岸区間は、登山道としても、早い時期に廃絶した可能性が高そうだ。
16:13
やがて車の音が聞こえはじめ、それからすぐに進路方向の谷底近くに【見覚えのある橋】が見えてきた。
往路で進路に窮して手こずった雁坂トンネル有料道路の料金所は、もうすぐだ。
やはり、往路で辿った谷底ではなく、かなり高い位置に軌道跡はあったようだ。
数時間前に自分を悩ませた謎が、こうして目の前で氷解していくのは、とても気分が良い。
16:16
いま私は、雁坂トンネル山梨側坑口の真上にいる。
ドライブや仕事でこのトンネルを利用したことがある人は多いだろうが、道路上からもよく見えるこの場所を、こんな軌道跡が横断していたことは、ほぼ誰も知らないと思う。
まあ、生きていく上で有利になる要素は全くない情報だが。
しかし知ってしまった以上、次あなたがこのトンネルを潜るとき、きっとこの辺りを見てしまうはず(笑)。
坑口上部の山腹を横切ると同じタイミングで、行く手に白いガードレールが見えてきた。
これは、先ほど故意に道を外れた左岸道路(亀田林業道)の続きである。
間もなく自然な形で合流しそうだ。
16:18 《現在地》
そして、道路と合流。(海抜1200m)
特に分岐らしい案内物はないが、路肩が広くなっていて、知っていればここから立ち入るのは簡単だ。
チェンジ後の画像は、来た道を振り返って撮影した。
ここから、軌道跡の終点とみられるナメラ沢出合までは、軌道跡ルートで約1.6kmだが、途中2個所に橋がない深い谷の横断があるほか、隧道の地点もそのまま通過することが出来ないので、各所を私のように迂回しながら進むとしても、距離の割にハードな行程を覚悟する必要がある。
また、本レポート中は、軌道跡、軌道跡、と散々書きまくったが、最後まで明確に軌道の存在した物証を見ていないことは、持って帰って解明すべき“宿題”となった。
果たして、軌道の実在性を証明できる文献には、巡り会えるか。
……って、机上調査の導入へ入る流れだったが、帰り道のレポートがあともう少しだけ続くぞ。
16:21
料金所や管理施設、駐車場などが集まっている一画を見下ろしながら、亀田林業道が延びている。
この周辺は地形が変化している可能性も否定できないが、基本的に、この道が軌道跡を継承しているようだ。
また、料金所前の駐車場と亀田林業道を繋ぐアクセス路(チェンジ後の画像)が、棚沢(タナ沢)に沿うように用意されており、登山者のものとみられる足跡が雪の上に多く残っていた。
ゲートがあって車は通れないが、歩行者の通行は遮断していない。
この棚沢も本来は険しい谷であったようだが、道路の周辺は埋め立てで相当地形が変わっていて、かつての面影は無さそうだ。
16:28
これは有料道路の通行券にプリントされてそうな風景だ。
奥に見えるのが雁坂トンネルの坑口で、あのすぐ上を軌道跡が横断していることを、さっき知った。
背後はもちろん雁坂峠のある県境の稜線で、さすがは一般国道の山岳トンネルとしては国内最長のトンネル(6625m)で貫かれるだけあって、山の厚みも高さも、見慣れたいつもの感じではない。土被り900m級は、やはり伊達ではないのである。
言うて今日の午後の探索は全て、この景色の入口辺りの谷底をコチョコチョしていただけだからね。やっぱり奥深いよ。
さっき命がけで戦った廃隧道なんてミジンコだろうな、こいつから見たら。
16:34 《現在地》
13:00以来、約3時間半ぶりに相棒(自転車)を見た。因縁の分岐へ無事帰還!(海抜1170m)
今思えば、この分岐を左折したのは完全にミスだったが、最終的に探索は成功したのでヨシとしよう。
ここまで来れば広瀬集落まであと1.4km。しかも全部下り、かつ自転車をゲットしたので、もうゴールしたも同然だが、あと一つだけ確認したいことが残っている。
16:40 《現在地》
往路で走った約1kmの区間を“ワープ”して、亀田林業道と初めて出会った十字路(海抜1110m)へ。
往路は、この右の道を登ってきて合流したのだが、帰りはこのまま直進して、広瀬集落まで下りきろうと思う。
一応これが軌道跡をより長く辿ることにもなるはずだ。
16:42 《現在地》
直進して150mほど進んだところで、閉じたゲートに迎えられた。
ゲートの向こうには、広瀬集落にある国道沿いの建物も見え始めている。
そしてこのゲートの山側に、ポツンと一体のお地蔵さまが佇んでおられた。
今日初めて目にした、秩父往還としての古道の名残りを感じさせる存在だった。
実際、この辺りの道については、次に挙げる全てのものが、時代を違えながら重複している区間であると考えられる。
――秩父往還・久渡沢軌道・国道140号旧道・亀田林業道――
もちろん、古いものほど厳密には重なっていないかもしれないが、遠くはないはず…。
ゲートを潜って正面側へ。
そこには道路標識とは異なる構内道路っぽい立入禁止看板が取り付けられており、公道ではない雰囲気(亀田林業道という私道)を醸していた。
そしてゲート横の林地には、「亀田林業所」の所有地を示す標柱が設置されていた。
久渡沢沿いの山林は、大半が同社の私有林らしいのだが、国道140号の旧道は、どこをどう通っていたものか。
今のところこの疑問については、新たな手掛かりが得られておらず、解決できていない。私道と国道が重なっているかどうかも不明だ。
そして、今回の主役である“軌道”についても、この先の広瀬集落への進入ルートが、今ある道とは異なっていたようだ。
チェンジ後の画像は昭和4年の地形図だが、軌道はこの辺りから山側へ外れ、谷渡川の先まで、等高線伝いに南下するように描かれている。
この区間には、最大約1kmの軌道跡残存の可能性があるが、残念ながら今回は(予想通り)時間切れである。
もう暗くなるので探索はしない。
しないが、入口だけ探してみた。
さっきの写真のアングルから、おそらくこの辺かな〜と当りを付け、道を外れて行ってみると……
16:45
うすぼ〜〜〜んやりと、あるっぽい。
あるっぽいけど、続きはまた今度!(多分つまらない区間だけど、ちゃんと行ったら追記するよ)
で、すぐさま自転車を待たせているゲート前に戻って、最後の下山行程へ。
16:47
ゲートを出ると、最後は堰を切ったような急坂で一気に広瀬集落の待つ国道140号現道へと下りていく。
もうここは久渡沢沿いではなく、本流である笛吹川改め広瀬ダム湖の湖畔であるが、最後まで湖が見える場面はなかった。
そしてこの最後の最後の下り坂に、国道140号がかつて長らく不通だった時代の名残が一つだけ、残っているような、残っていないような、とても微妙な姿で存在していた。
それは写真の右に写る、こちらに背を向けた標識で……
もう全くケアがされていない、悲しき 廃標識 は、文字を読み取ることも大変困難な有様だが、光を当てる裏技で無理矢理復元したところ、次の表示を読み取れた。
この先交通不能
のため、ここでU
ターンしてください
自転車も通れません
山梨県
私がナマでは知らない、雁坂峠不通時代の標識だ。
この内容で印象的なのが、「自転車も通れません」という最後の一文なのだが、おそらくこの表示がなされる原因となった出来事を、私はどこかで昔に聞いたことがあって知っていた。
それは学生時代から“山チャリ”を愛好していた私にとって、全く他人事とは思えない悲しい内容だったのだが、先日このレポートを書くために読み返した『雁坂トンネルと秩父往還』に次のように出ていたことで、改めて事実と確認できた。
国道工事が遅々として進まないための悲しい犠牲者も出ている。昭和48年の夏、埼玉県の高校生が自転車で峠から転落するという事故が発生した。国道だから道があるだろうと考え、冒険心にとんだ高校生が自転車で雁坂越えを試みたためである。昭和50年3月にも埼玉県の中学生が雁坂峠で、自転車を残し行方不明になる事件が起こり、「開かずの国道」のまま放置することが人身事故につながる危険性も指摘された。
当時、このような自転車での雁坂越えを成功させた冒険者もいたと思われるが、彼らはどのようなルートで山梨側へ下っていたのだろうか。
もし経験者がおられたら、ぜひ教えていただきたいのである。
まさか、“あの隧道”を自転車でくぐっていたりはしないと思うが…、とても気になる。
16:51 《現在地》
最後の最後でうっかり主役の影を薄くしてしまった感があるが、そちらについては“机上調査編”でガッツリやるので、現地探索としては現国道への脱出をもって、終了!
このあと、国道を少し走って出発地点の道の駅へ戻った。
そうです! 本編執筆中の多くの読者様のご協力のお陰で、本レポートはこれで完結ではなく、この後の“机上調査編”で書くべき豊富な内容があります! お楽しみに!!
お読みいただきありがとうございます。 | |
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