小阿仁森林鉄道 南沢〜中茂口 最終回

秋田県北秋田郡上小阿仁村
探索日 2007.10.30
公開日 2007.11.15

紅葉の谷に続く麗しの軌道跡

渓流の嫌われ者


 2007/10/30 14:30

 巨大なガーダー橋と素堀の隧道との衝撃的な遭遇から始まったこの探索。
さらなる発見を求め、荒廃著しい軌道跡を遡る我々。
次に現れたのは、ものの見事に垂直な法面であった。
黒光りする断崖の所々には、僅かにシダだけが生えている。
どんな獣も決して登ることの出来ない崖だ。落差は10mを優に超えている。

大正初期にこの軌道は敷設されたと言うが、如何にも不安定そうなこの場所に目立った崩壊はなく、むしろ他の部分よりもよく保存されている。

人工的でありながらかつ、自然の造形にも重なる美しさ、壮大さを有している。
我々は感動を新たにして、さらに先へと進んだ。




 砂防ダムが出てしまった。

はっきり言ってガッカリ。

鋼鉄製のかなり規模の大きな砂防ダムが谷を塞いでいた。
その上流はすっかり堆積した土砂に埋もれている。
ダムから落ちる滝の白さは紅葉の黄色と絶妙にマッチしていて美しい景色だが、私の心は沈んでしまった。




 ただですら嫌いな砂防ダムだが、我々の前進にも大きな障害であった。
滝壺に降りても先へ進む術はなく、危険を冒して高巻きする羽目になった。

 そこまでして越えたところで、砂防ダムの先なんて…。




 こんなもんだよ…。





 沢沿いの軌道を辿るオブローダーにとって砂防ダムの何が嫌かって、第一はダム上流の沢が土砂の堆積で埋もれ、場合によっては軌道跡も消滅していること。
そして二つ目は、本来の地形を無視して貯められた水辺風景の、余り美しくないことである。立ち枯れした古木など、上高地で見るから美しいのであって、人造湖で見ても虚しいだけだ。

 そんな定説があるだけに、ここまで100点満点をあげたいと思っていたこの軌道に砂防ダムがズケズケと現れやがったのには、少なからずショックを受けた。
幸いにして、ダムを過ぎて50mほどで本来の渓谷の景色が戻ってきたが…。




 谷幅がひととき広くなり、軌道跡も辿りやすくなる。
この場所はちょっとした作業場にでもなっていたのか、特に広々としていた。

奥には非常に浅い掘り割りが見えている。
いよいよこのレポートも終盤に差し掛かる。



 心の中では「大鉄橋再び」「隧道再来」を期待しながら、緩急織り交ぜて次々に景色を変える軌道を歩いていたが、実際に現れるのは無惨に破壊された小規模な木製桟橋の類だった。

この写真もそのようなものの一つで、写真中央に立っている朽ちた木材が橋脚の一部である。
近づいてみると、木材を固定するための金具が貫通したまま残っていた。
この地域の豪雪と多雨を考えれば、木製橋梁が原形を留めている期待は限りなく低い。




 鉄橋以来ずっと左岸に沿っていた軌道だが、遂に進路を完全に奪われてしまった。
小さな滝と大きな滝壺が眼前に横たわった。
対岸には平らな雑木林が見て取れ、おそらくここで渡っていたとみて間違いないだろうが、全くなんの痕跡もない。
橋脚はおろか、橋台さえ見て取れぬ。


 状況証拠のみで対岸への移動を決定。
滝の手前で沢を渡って、見た目以上に登りづらい対岸の斜面に取り付いた。
橋台があったと思われる対岸の斜面の一角に、不自然な窪地が見て取れた。
おそらくここに木製ないし組石製の橋台があったのだろうが、全く消失している。



 14:55 

 案の定、何事もなかったかのように軌道跡は右岸に続いていた。
滝の上で沢は遊ぶように広がっていて、紅葉の色彩の中で本当に奇麗だった。
また、斜面を見上げると旧国道の白いガードレールが鮮明であった。
細田氏も同行した3年前の定義森林鉄道を思い出した。
定義と言えば例の大木橋だが、秋霖に燃えた緋色もまた、網膜の裏に焼き付いて忘れられない。



 この辺りの軌道敷きは沢底の岩棚に面している。
増水の度に路肩が破壊されるのを防ぐ目的だろうか、しっかりとした石垣が続いている。
それは、近づかないと石垣と分からないほど緑に同化していた。
適当なところから軌道上に上って進んだ。




 新標識の発見!


 15:00 

 川べりの岩場を削り取った軌道跡が続く。
歩きやすく、色とりどりの紅葉に心をリラックスさせて歩くことが出来た。

 …どうやら我々は、本当に「一番の核心」から探索を始めてしまったみたいだ(笑)。
後半まったく物足りなさを感じなかったと言えば嘘になるが、ノンフィクションだから仕方がない。
むしろ、逆順に辿ってしまっていたら肝心の橋や隧道に付いたときにはすっかり薄暗くなっていたかも知れないのだ。
天気が余り良くないこともあって、午後三時、もう辺りは暗くなりはじめた。



 さらに進んでいくと、初めて軌道敷き上で枕木、バラスト、ワイヤ以外の人工物を見付けた。

一本の角材が地面から斜めに突きだしていた。
その太さと言い長さといい、表面が白くペイントされている様子といい、鉄道の標識っぽい雰囲気がプンプンする。
もしや距離標か?!

 うーーーん。

残念ながら完全に文字は消えており、或いは何も書かれていなかったのかも知れないが…、とにかく正体不明である。
細い釘が2本突きだしており、何か標識を固定していたようだ。
となると距離標ではないな。 …勾配標だろうか。


 とりあえず、上辺の長さを測って持ち帰り、机上調査の結果を待つことにした。





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 ちゃんと調べましたとも。

 左の図は、秋田営林局が昭和30年に制定交付した「林道規定」の細部を補足する目的で、昭和32年に同局が制定した「林道規定細則」の一部、「標識基準準則」の別表である。
ここには秋田営林局管内(秋田県・山形県)の林道(森林鉄道に限らない)で使用すべき標識が細かな規格とともに記載されている。

 はっきり言って、林鉄を歩いてきた者にとって目から鱗の資料である。
が、残念ながらこの標識に定められた様々な標識のなかで、お目にかかったことがあるのは距離標だけである。(ミニレポ第70回 他)

 何故ほとんど残っていないのだろうか。
最大の理由は、これが「準則」に過ぎず、必ずしも全ての標識を設置する義務がなかったことだろう。
また、発効がが昭和32年4月1日であるが、少なくとも森林鉄道についてはこの後10年ほどでほぼ姿を消してしまった。
車道林道についても標識は利用されたはずだが、次第に道路標識に置き換えられていった状況は容易に想像が付く。
他県の林鉄及び林道でも同様の状況ではなかっただろうか。(そもそも、このような細則が無かった営林局もあったかも知れない)



 だが、これは距離標ではなく、やはり勾配標だった。

新発見だ!
上辺の長さ12cmが一致するし、釘が打たれている位置も図の通りだと思う。
他にも釘を使いそうな標識としては、「構造物標」「保線区界標」「警笛標」などがあるが、いずれも上辺の長さ(5cm、12cm、15cmなど)や形状(平板であるか寄棟形であるかなど)が異なっており、横板が消失した状況でも判別が出来るようになっている。
だから、ほぼ間違いない!
これは、秋田営林局制定の標識、勾配標である!!




 国道上南沢橋への到達


 15:03

 朦沢に再び小さな2段の滝が現れ、軌道敷きはこの中段の滝壺によってえぐり取られていた。
高巻きして滝の上に立つ。

 む!
なんという早業だ!
軌道敷きがまた対岸に行ってるではないか!



 ここには橋の一部がまだ残っていてくれた。

とはいっても、たった一本の木製橋脚。
しかもその基部のみであるが。

 軌道は二度までも、滝となって沢が狭隘となっている部分をねらい打ちで渡っていたのだ。
現存する遺構は少ないが、想像力を少し働かせれば魅惑の林鉄風景が見えてくる。
渓を遊ぶように渡り歩いた、森の軽便鉄道の姿が。




 再び軌道は左岸に移った。
軌道と水面との高低差はほとんど無くなり、沢も非常に浅く穏やかだ。
いよいよ我々のゴールが近づいてきたようだ。




 細田氏が何かを水中から見つけ出したようだ。

 れっ レールだ!

この軌道では初めての遭遇か。
しかし、随分と軽々と持っているが、そんなに軽かったか。 鉄だぞ?!




 レールはレールだったが、酷く痩せている。
元もとかなり規格の低いレールだったのだろうが、それにしてもスカスカだ。
秋田営林局管内の林鉄で使用されたレールは一級線(森林鉄道)と二級線(森林軌道)で異なり、いずれもいくらかの幅が持たされていたのだが、最も軽い低規格なものが「6kgレール」だった(「林道規定」による)。だが、6kgは手押し軌道専用であり、機関車が入線するものでは9kgが最低基準である。
水中から発見されたこのレールは、(そんな規格があるか分からないが)1m辺り3kgとか、そんな重さに感じられる。

 大正初期に2級線として(おそらく手押しで)建設された、その最初期のレールの可能性がある。




 オオッ! 

グレート細田の

しゅつげんか?! 






 上流(左写真)と、下流(右写真)の様子。
非常になが〜〜い石垣が続いている。
いろいろな林鉄風景を見てきたが、これは新しい景色だ。
周囲の地形はそれほど険しくないので、こんなに全て石垣を築かなくてもレールは敷けたと思うが、それは大切な森を侵食から守ろうという愛だろうか。
それとも、予算の消化か(笑)。

 それにしても、ずっと沢に沿っている旧国道がほとんど視界に現れないのは意外だった。
少し高い位置を通過しているせいなのだが、もし軌道が先にあって後から道路を造ったならば、この辺りの軌道跡は真っ先に車道化しただろう。
ここには元来「五城目街道」が江戸・明治期より存在しており、軌道がそれを避けて敷かれたため、平行する車道があるにもかかわらず軌道跡が破壊されず残ったのだ。
トンネルと橋を惜しげもなく使っている現道にとっては、もう軌道跡など歯牙にもかけぬ存在だ。



 所々はこのように、軌道跡が川に削り取られ消滅していた。

まるで定規を当てて水路を作ったみたいな川だ。
ひっきりなしに頭上からもたらされる黄金の落ち葉が、早瀬にさらわれては次々流されていく。
水面だけを凝視していると、なんだか酔いそうだ。

でも、車道の音が聞こえて来ちゃった。
もう、終わりだなー。




 浅くて幅の広い沢底。
長靴でも、十分足を濡らさずに好きなところを自由に歩けた。
ちょっと深くなった所には、小さいけれど魚影もあった。
身が蕩けるほどに心地のよい渓だ。

 が、頭上にバカヤロウが出現。
遠慮を知らぬバカヤロウ。
いつもお世話になっている国道285号だが、今はバカヤロウで十分だ。



 15:10

 頭上は上南沢橋だ。
軌道はその下を潜って引き続き左岸に沿っている。
取りあえずいつでも国道に戻ることが出来る保証は得た。

気持ちのよい渓と軌道跡を捨ててはおけない。
もう少しこのまま辿ってみよう。





 川べりの石組みの軌道跡は、左写真のように水上から観察した方が楽しいし、良く形を掴めた。
あくまでも軌道敷きの上を歩くとなると、右の写真のような眺めに終始することになる。
もっとも、後者にはレールや標識の発見というサプライズも期待されるので、一概にどちらが正解とはいえないが。



 国道の下を潜ってさらに歩いてた我々だが、そう行かないうちに、バカヤロウはまたちょっかいを出してきた。

しかも、今度は逃げ場もない。
元の地形や植生なんてお構いなしで作られた、巨大な築堤だ。
図々しくも沢辺りまで裾野を延ばしており、軌道跡など一瞬でお釈迦になった。

…悩んだが、そろそろ頃合いではあった。
ここから国道へ脱出し、今回の一連の軌道歩きに終止符を打つことにした。



 15:18

いままで何十回も通った、お馴染みの国道風景のなかへと「退場」。

遠くに見えるのが、「南沢の旧道」を産み出した原因の「南沢トンネル」で、その手前に架かっている橋が、先ほど下を潜った上南沢橋だ。
見慣れた景色だからかも知れないが、全国津々浦々どこにでもありそうな秋の国道の景色だとしか思われない。
よもや、ここから少しだけはみ出した渓谷の底に、大鉄橋やら隧道やら、そのほか夢心地にさせる美しい眺めの数々が隠されていたとは…。

 アルトさんありがとう。






 レポートはここまでだが、実はこのあと引き続いて、左図の通り4区間の軌道跡を実踏した。
本軌道「小阿仁林鉄茂沢」の起点である「南沢分岐」から、中間地点である「茂沢口」までの約1.7kmの踏破を完遂したのである。

ただし、この4区間にも明瞭に路盤跡と分かる地形は続いているものの、橋・隧道他、特筆すべし遺構は発見されなかった。
また、時間的に押していたため撮影量も少なく、かつ後半は夕暮れになってしまいライトに頼った探索となった。
以上の事情によりレポートはしない。


 うふふ。

本当にこの日の我々は、最初にピンポイントで核心部を突いてしまったのだった。
しかし、我々は忘れないだろう。
この地に隠された、素晴らしい「林鉄プレミアムコンボ」のことを!!