※ このレポートは長期連載記事であり、完結までに他のレポートの更新を多く挟む予定ですので、あらかじめご了承ください。
15:49
【14:58の地点】へ戻ってきた。
すっかり日は陰り、夕暮れの過程に差し掛かっている。
気温も急速に低下し、立ち止まっていると寒い。
ちょうど1時間を費やして、この地点から150m先にある「隧道」を通過し、250m先にある「断念地点」まで、一往復をしたことになる。
時速500mという異常な遅速の原因は、ひとえに路盤の状況が怖すぎて、スピーディに歩けなかったからだ。
もしもしこんなペースでしか進めないのなら、10km以上先にある観音経への到達には、何時間かかるというのか……。
自分には到底無理なのではないかという確信めいた予感が生まれてしまい、偵察開始直後に比べて、かなり気持ちが沈んでしまった。
しかも、もうこの時間だと、「ドノコヤ橋」への到達も断念せざるを得ない。
偵察としての実りは小さくはなかったが、最も重視していた目標は果たせなかった。
そのうえで、選択肢があった。
このままここから(登ってきた斜面を)下って探索を終了させるか、往路では早川から見上げるだけで実踏をしていない右図の「???」の領域、おおよそ600mを可能な限り踏破するかだ。
後者は当然にリスキーだが、もう1時間くらいは明るい時間があるので、成果の上積みを目指して挑戦したい。
15:51
初めてのエリアへ立ち入ってすぐ、50mも進まぬうちに、小さな谷が行く手を遮るように口を開けていた。
これまでのどの場所よりも積雪があった。
軌道は谷を回り込むように付いていたらしく、うっすらとラインの痕跡は見えるものの、近づいてみると――
15:55
――到底歩けるようなものではなく、先へ進むには、凍てついた谷底を経由した迂回が必要だった。
ここも見ての通り険しいが、いささか直前の探索で険しさへの感覚が麻痺していたのと、時間があまりないことで、黙々と前進を続けた。
15:58 《現在地》
凍てついた谷の横断には思いのほか時間を要した(8分)が、どうにかその先の路盤へ。
ここはスギの人工林になっており、ちょうど【この地点】の真上なのだろうな。
スギ林の斜面は大体どこでも歩けるので、臨時の昇降路に使えそうだ。
もっとも、道があって進める限りは、脇目は振らずにこのまま進むぞ。
なお、道は常に下り坂である。
軌道跡らしく勾配は緩やかだが、疲労した足でも、逆方向よりはだいぶ歩速が稼げる。
将来の「本探索」を、上流と下流のどちら側からやるかも、大きな選択肢なんだよな。この段階では決めかねていた。
セオリー的には下流側からやりたいが、体力的な面からは、全線下りになる可能性の高い上流側からが遙かに楽だろうから。
16:01
スギ林を抜けると、大きな岩があった。
この岩および、岩の下に、注目すべき発見あり!
ミニ木桟橋
&
ミニ片洞門
苦労しても、その分だけ成果があるんだよなぁ…、この路線。
だから、無理もしたくなっちゃう…。
ここまで歩いた距離は1kmにも満たないが、早くも隧道1本、レール1本、片洞門1本、そして、現存する木桟橋まで現われたのだ。
怖いけど、とても楽しいと言わざるを得ない。
ただ……
昭和20年に廃止された路線に、こんなしっかりとした木桟橋が残るものかな…?
皆様はどう思いますか?
もしかして、この軌道の廃止年は、実はもっと新しい?
それとも、軌道が廃止された後も、木馬道とかに姿を使われていた可能性もあるのかも。
かわいい片洞門だなぁ。
道幅の狭さを木桟橋で補う、小さな片洞門。
天井の低さは、当然のことながら、前に見た隧道と一緒だ。
そりゃそうだ。それ以上に高くする意味がないものな。
おかげで、軌道跡としては驚くべき“ミニ片洞門”になっている。
結構行き当たりばったりな感じで、進路上に岩場が現われたから仕方なく掘ったって感じなんだろうなぁ。
二つ前の写真に戻って貰えば判るが、避けようと思えば避けられそうな、さほど大きくない岩場に、この片洞門は掘られていた。
片洞門は、片側が解放されており、見晴らしが良かった。
ちょうど早川の対岸、真っ正面の位置に、広河内橋や奈良田第一発電所が見下ろせた。
戦時中に建設され、わずか3年だけ利用できたというこの軌道と、昭和29年から山梨県の威信をかけて建造された電源開発道路(現県道37号)の対比が際立つ風景だ。
奈良田橋から観音経まで、軌道は約11kmで到達していた(と思われる)が、現代の道路は実にその3倍近い距離(29km)を要する。
普通なら、道路より軌道の方が遠回りになるよな、こういうのって……。
軌道がどれほど無理なルートを選んでいたかということが現われてそうな、劇的な距離差だと思う。
16:04
順調に進み続けられているぞ。
これには少なからず安堵した気持ちになった。
なぜなら、今日の偵察で歩いた場所は、どこでも2〜300mのうちに突破が出来ないような欠壊が現われて、撤退を余儀なくされていた。
こんな有様では、到底全線を歩き通すなど不可能だと内心深く落胆していたのだが、いま歩いている区間については、そこまで状況は悪くない。
見慣れた軌道跡並には、ちゃんと歩ける区間が続いてくれている。
こういう場所もあるのであれば、頑張れるかもしれない。そんなふうに、幾分思い直すことが出来た。
16:07 《現在地》
矢先である。
やっぱりこうなるのかという、現実を突きつけられた。
久々の大規模崩落地だ。
しかも、路盤は崩土で埋れているのではなく、大きな欠壊になっている。
埋れよりも欠けが難しい。これは廃道踏破の常識である。
見たところ、崩壊斜面の幅は50mを越えている。
紛れもない大規模崩落。
しかも、崩落地を渡った先には、岩尾根にしか見えないシルエットが尖った急傾斜の尾根があり、その直前に切り通しのような窪んだ部分が見えた。
あの切り通しの奥が、尾根を潜る隧道になっていても不思議はない感じの配置だ。
見にいきたい!
16:08
崩壊斜面の横断をスタート!
私は何でもかんでも大袈裟に書いてるわけではないぞ。
この斜面も、もし完全に凍り付いていて爪先が刺さらなければ超絶恐ろしかったと思うが、幸い、ざっくざくと足が刺さったので、テンポ良く横断はスタートした。
ただ心配なのは、こういって進んでいった先に、早川へ下れる場所が見つかるかということだ。
あたりはいよいよ暗くなってきていて、ある程度は明るいうちに下れる場所を見つけられないと、下りの最中に滑り落ちて怪我をしそう。
そのことも考えながら、前進しないとな。
さすがにこの斜面を尻セードで下れる気はしない。めっちゃ加速して収拾が付かなくなりそう。
これ、
マジで隧道ありそうだ!!
早くも2本目登場なるか?!
16:15 《現在地》
50mの崩壊斜面の横断に7分を費やしたが、
隧道があったことは確定だな!
あとは、開口しているかどうかだが……。
目の前の土山を登って、確かめよう!
よっしゃー!貫通!
そして、今度もやっぱり短く、狭い、隧道だ。
頑張れば頑張っただけ、続々と遺構が現われるぞ、この路線!
今日の偵察探索、わずか1kmほどの軌道跡で、これだけの成果だ。
隧道の先には、意表を突きまくる発見が待っていた……!
16:17 《現在地》
よくこんな姿で残っていてくれたな と思わされる1本だ。
今回の偵察探索では2本目の隧道だが、1本目よりも下流(起点)側にあるので、仮称を付けるなら「1号隧道」となるのかな?
それもこの先次第ではあるか。
もはや隧道としての原形をほとんど止めない。まるで天然の岩門だ。
崩れるに任された狭く短い隧道(長さ10m弱くらい)は、入口と出口それぞれの崩落が洞内で繋がっていて、結果的に隧道の全長にわたって崩壊に呑まれ、もとの内壁も洞床も全く残っていないように見えた。
それでも貫通はしているから、通り抜けが出来るのはありがたいことだが。
振り返ると、こんな景色。
坑口前の切り通しだけが残っていて、その先の路盤は地面ごと失われている。
しかも、見渡す限り道は見えない。
だが、そこを渡ってここへ来たのだ。
たった3年間だけレールが敷かれ、わずかな量の木材を運び出したという記録しか見えない軌道跡だ。
もともと乏しかったに違いないこの隧道の“使用感”は、長い年月と度重なる崩壊によって完全に失われ、この“天然の岩門”のような印象になったに違いないのに、私の視線は、空虚と見えたこの洞内に、レールでも枕木でもない、または登山者の残したゴミとも違う、意外な“遺物”を見つけた。
これは……… 鉄の管?
余り大きい断面ではないが、中は空洞で、液体か気体を運ぶ管路の一部だったようだ。
軌道跡とは関係がなさそうなアイテムだが、誰かが気まぐれに持ち運んできて置いて行くには重量物に過ぎるし、むしろ隧道の中央に設置していたような雰囲気がある…?
しかし、鉄管の手前側は土に埋れて、そのまま行き先は不明、奥側は切断面を晒すばかりであって、正体解明にはあまりに情報量は少ない。
……なんの管だったろうかと不思議に思いながら反対側へ出る。 するとそこには――
16:18
“謎の構造物”が待ち受けていた!
まるで、地形と人工物を巧みに組み合わた阻塞のような形状を配置を見せる、第一印象が“謎の構造物”である。
外観は、平家程度の高さと大きさを有する巨大なコンクリート構造物だ。
幅以上に奥行きがあり、チェンジ後の画像に示した「A」と「B」の2基(2軒?)が前後に並んでいるようだ。そして「A」は傾斜した屋根を持ち、「B」は平らな屋根を持つ。
また、構造物の手前は、橋がなければ渡れない形状の深い落ち込みになっていて、隧道を抜けた私だが、このまま足元の道を辿って構造物へ行くことは出来ない。
あそこまで進むためには、高巻きなりが必要になるはずだ。
そして最も重要な点は、これだ(↓)。
構造物は軌道跡を占拠して建っている。
状況的に見てこの構造物は、軌道の一部であるとか、軌道と同時期に利用されていたものではなく、少なくともこちら側の軌道は完全に廃止され、軌道敷きが無用になってから、それとは全く別の目的で建造されたのと考えてよいと思う。
現状を一言でまとめると、情報の乏しい軌道跡を辿っていたら、その軌道跡が廃止された後に、何か別の用途で軌道跡を転用したらしき痕跡に遭遇したが、正体不明。
謎が満ちているが、少しずつ確かめながら進もう。
まずは、既知の確認。
振り返り見た、直前の隧道である。
私が“岩門”と表した、短くも野趣に溢れる有り様が、この写真からも伝わるだろう。
貫通している出口の向こうの地形までが見通せる。
隧道直上の土被りは小さく、現代であれば確実に切り通しとなる規模だ。
こんなに短い隧道だったからこそ、先に早川の河原から見上げただけでは、その存在に気付かなかった。この発見は、実際に歩かねば辿り着けないご褒美だった。こういうのって、嬉しいよね!
さて、問題の核心へ。
こちら側から渡ることのできないクレバスのような谷の向こう側に聳える、“謎の構造物”に焦点を当てていく。
前述の通り、構造物は「A」と「B」の二つ部分からなっているように見えるが、いずれも外表部は無骨なコンクリートだ。
手前の「A」の屋根は傾斜し、奥の「B」の屋根は水平である。また、山側は傾斜した自然地形を抱き込むように設置されているが、底面は軌道の路盤の高さである。それは写真右奥に少し見える平らな地面(図の赤線で囲んだ部分)の高さと同じだ。
目の前の谷に軌道が橋を架けて渡っても、正面の「A」が邪魔をして、対岸に辿り着くことができない状況だ。そもそも、橋の痕跡は全く無いが。
このことから、少なくとも現在地より手前側の軌道が完全に役目を終えてから、その跡地に、このコンクリート構造物を設置した可能性が高いと考えられた。
“謎の構造物”は、早川森林軌道の一部ではないと思う。
この構造物の正体は―
おそらく、索道の基礎だと思う。
そう考える最大の根拠は、「A」に取り付けられている二つの滑車だ。
索道とひとことで言っても、簡易なものから複雑なものまで、規模も型式も年代も様々であるから、具体的に、これらの滑車がどういう役割を果たしていたかを言い当てることは難しい。ただ全体として、巨大な滑車と、それが強固に固定された重量物の組み合わせは、索道基礎の二大特徴といえるものだ。
索道は、その運搬物の重量に応じて、基礎の強度というか、どっしり具合が決まってくる。
林鉄探索でしばしば出会う運材用の索道だと、このように大きなコンクリートの基礎を持つものは、ほとんど見られない。だから、木材よりも遙かに重い鉱石輸送用とか、ダム建設用のような索道に近い印象を受けた。
なお、直前の隧道内で発見した鉄管の続きと思われる末端が、この基礎らしき構造物と接続しているのも興味深い。
索道の基礎にパイプが刺さっているのはあまり見ない光景だが、どんな目的のものだろう。
回転と摩擦によって高温になるプーリーを冷やすために冷却水を噴射するためのパイプとか?
鉄管が隧道を貫通して伸ばされていたなら、沢水を引用するためのものだった可能性は高い気がする。
16:22
次なる行動へ移っている。
軌道跡がクレバスのような谷で途絶えているので、隧道を出た所から直ちに高巻きをしてから、「B」の上面へ下降することにした。
今は高巻きの頂点まで来ていて、右に隧道、左に「A」「B」が建ち並ぶ軌道跡の続きを見下ろしている。
「A」は前述の通り、索道の基礎である可能性が高く、取り付けられた滑車の配置より、(チェンジ後の画像に示すとおり)早川の対岸方向にケーブルを向けていた可能性が、それ以外の方向よりも高いと思う。
ケモノ道か、【空き缶】を残したりした古い登山者の足跡か、たぶんその両方で、この何気なくはじめた高巻きには、ほのかな踏み跡の気配があった。
右奥の二つの構造物が建ち並ぶ場所が、本来の軌道跡だ。
構造物は、急斜面に刻まれた軌道跡のわずかな平場を利用して、ほとんど崖にへばり付くようにして建造されている。
仮にこれらが索道の基礎だとして、次に疑問として湧き上がってくるのは、なんのための索道だったかということだが……。
16:24 《現在地》
「B」の上面に辿り着いた。
隧道を出てからここまで、謎の構造物の観察に大半の文章を費やしたが、実はこの高巻きもなかなか大変なもので、慎重な足運びの5分を要していた。
クレバスのような谷の反対側に、先ほど潜った隧道の埋れかけた坑口が見えている。
私が今足場としている「B」が建造された時点で、既に隧道は軌道敷ではなくなっていて、鉄管を通す目的で再利用されていたのだと思う。
現在の県道から見る程度だと、この辺りには何の人工物も見えない。
訪れる方法も明らかではない対岸の崖の中腹でしかなく、おおよそ人類にとって価値がある土地には見えないだろうが、少なくとも2回は人の役に立ったのだ。
その2回分の痕跡が混ざり合って、ここに累積しているのは判るが、どちらも古くて雑然としていて、正体の解明には骨が折れる。
まったく、手間のかかるやつである……。
ここまで来て、初めて先が見える。
「B」の上面から見渡す、軌道跡の進行方向だ。
そこには確かに道形が伸びていてるのであるが、残念ながら私はもう知ってしまっている。
ここから200mも行かぬうちに、【大決壊】によって、この道が完全に絶たれているということを。
「B」の裏側はこのようになっている。奥が上流方向だ。
特になにもない平らな壁だが、軌道敷を完全に遮っている。
チェンジ後の画像は、「B」と「A」の谷側の側面だ。
早川に面するこの面は、「B」も「A」もやや複雑な形状をしていて、どちらにも凹凸があり、何かを接続していたらしき複数の金属棒片が露出ししている。
おそらくここは索道が使われていた当時の作業スペースで、荷の上げ下ろしや、索道の運転に関わる装置なども設置されていたのだろうが、廃止時に機械類は撤去し、基礎だけが残ったのだと思う。
滑車類は、最初に見た二つの他は見当らなかった。
現地で、「軌道の廃止後に使われた索道の基礎っぽいナー」と考えた、この謎の構造物。
しかし、単純に林鉄の機能を継承した木材輸送用索道と考えるには、いささか重厚過ぎる印象があった索道の正体の解明は、帰宅後の文献調査へ委ねられた。
だがこれが難航した。
今日まで約11年、いろいろな資料を調べてきたが、文献的な根拠(可能性だが)を示せる説として、以下に紹介する二つが残っていて決定打がない。
私は、“片方”がより有力だと考えているが、皆様のご意見も聞きたい。
★説@ 【芦安鉱山用の索道】という説
奈良田集落から北東に3kmほど離れた、早川支流ドノコヤ沢上流の険しい山間地に、芦安鉱山と呼ばれる銅鉱山が、大正時代から戦後頃まで稼動していた記録がある。
右図は昭和4(1929)年の地形図だが、「蘆安鉱山」という注記の傍から、北東へ尾根を越えて延びる長い索道が描かれている。
もっとも、この索道のルートは、明らかに「現在地=構造物の発見地」を通らない。しかし、この鉱山の歴史を調べていくと、関わりがある可能性が出て来た。
『芦安村誌』の記述を元に、芦安鉱山の歴史を簡単に解説しよう。
なお、今回だけでなく、後の「本探索」とも、この鉱山の存在が少し関わってくるので、面倒くさがらないで読んで欲しいナン。
ドノコヤ沢に賦蔵する銅鉱は、大正初期に奈良田の人が発見したものといわれ、同3年に東京の事業者が銅之古家鉱山として初期の開発を行った。大正6(1917)年に大正鉱林業(株)の経営に移り、同時に芦安鉱山と改名、本格的開発がスタートする。
大正10年に鉱山周辺と芦安村桃ノ木を結ぶドノコヤ峠越えの長大な鉱石輸送用索道が開通。これが歴代地形図に長らく描かれ続けることになる。
このとき敢えて最寄りの奈良田集落ではなく、ドノコヤ峠を越えた芦安村へ索道を建設したことについて疑問を持つ人もいるかも知れないが、これは当時の奈良田には近代的な交通機関が全くなかったためだろう(奈良田に初めて近代交通機関である早川森林軌道が通じたのは昭和16年である)。一方の芦安村は甲府盆地に通じていて、遙かに交通の便が良かったのである。
大正12年に鉱脈が枯渇し、探鉱に注力すると、同15年に新鉱脈を発見し、盛期を迎える。
特に大戦中は重要鉱山に指定され、銅鉱石を掘り尽くす勢いで猛烈に採掘したそうだ。毎日300人以上が働き、現地には小学校分校を含む鉱山集落も誕生した。
当時の賑わいの痕跡は、苦労してこの跡地を訪れている方のレポートからも伝わってくる。
しかし終戦後まもなく、正確な年は分からないが、閉山。
だが、『芦安村誌』には次のような記述がある。
戦後は外国からの良質で安い輸入鉱石におされて採算が取れず、閉山となったが鉱業権は(大正鉱林業(株)が)持っていた。
昭和28年から光鉱業(株)が鉱業権を所有することとなり小規模ながら鉱山が再開された。崩壊している坑道を整備し、奈良田までの自動式索道を建設して鉱石を搬出し、奈良田からトラックで見延線の波高島駅まで運んだ。それが昭和31年まで続いたが休坑となり、今日に至っている。
大正鉱林業が経営した時代の芦安鉱山は、鉱石を索道によって芦安村へ搬出していたが、昭和29年から31年の短期間、光鉱業という会社が経営した時代は、鉱山と奈良田を結ぶ自動式索道が開設されて利用されたというのである。
これまた今回探索している林鉄に負けず劣らぬ徒花ッぷりを想像させるエピソードではないか…。
昭和29年というと、ちょうど奈良田までトラックも通れる道路が全通していたので、老朽化していたドノコヤ峠の索道ではなく、最寄りの奈良田へ向けて新たな索道を開設したものだろうが、3年程度しか使われずに廃止されたというのは、なんとも悲しい……。
以上が、私が見つけた索道基礎は、この光鉱業による鉱石輸送索道の奈良田側起点だったのではないかという説であるが、この索道の具体的なルートは判明していない。歴代の地形図に描かれたことはないし、国土地理院で公開されている歴代の航空写真を見ても、昭和23年版の次は昭和51年版なので、この索道の痕跡は特定出来なかった。
奈良田集落での聞き取りには可能性を感じるが、この集落も昭和30年代に西山ダムの建設で移転しているし、案外難しいかもしれない。
ちなみに、この鉱山が稼働していた時代の地形図は全て、鉱山一帯に係る町村境の記号が書かれておらず、いわゆる西山村側(現早川町)と芦安村側(現南アルプス市)の所属未確定地にあったようだ。
現在の鉱山跡地は早川町に属しているが、そんなこともあってか、『早川町誌』にはこの鉱山についての情報が見当らない。
これが第一の説だ。
★説A 【発電工事用の索道】という説
もう1つの説は、発電工事用の索道説だ。
具体的には、本編冒頭にも登場した、山梨県営奈良田第一発電所に関わるものである。
こちらの索道も、やはり詳細な位置は不明なのだが、右図に示した通り、今回発見した遺構がその起点であった可能性を私は疑っている。
ここでは、奈良田第一発電所の開発を巡る歴史を少し説明しておきたい。
奈良田集落の水没と引き換えに、昭和32(1957)年に西山ダム(奈良田湖)が誕生し、ここから地下水路で導かれた水が、県営西山発電所を動かしている。
同発電所は、山梨県が天野知事のもとで、県民百年の大計をかけて推し進めた、野呂川総合開発計画の最初の偉大な一歩であった。
戦前に早川森林軌道として誕生した奈良田以南の県営軌道は、西山ダム工事のためにトラック道路に改築され、初めて奈良田までトラックやバスが走る道路が出来た。奈良田は眠れる秘境から、華々しい開発の表舞台へ急浮上し、生まれたばかりの奈良田湖も、県民の一大レジャー基地となる輝かしい未来を想定されていた。
西山ダムと奈良田までの道路完成を受け、野呂川総合開発は次のステップへ進む。
それが、奈良田第一・奈良田第二発電所の建造で、昭和33(1958)年に着手している。
これらの発電所も、先の西山発電所と同じく、河川の上流を堰き止め、そこから地下導水路へ導いた水を下流の発電所へ落として発電する導水路式であった。
したがって、発電所本体の完成に先駆けて、それより上流に位置する取水堰や、地下導水路の建造を急ぐ必要があった。
そこで県はまず、早川に沿った電源開発道路の整備を進めている。これが奈良田以北の現在の県道の由来である。
このうち奈良田第一発電所では、発電水量の安定を図るべく、早川だけでなく、その支川である広河内川の上流からも取水することになった。
この広河内川での工事に、索道が用いられた記録が見つかったのだ。
次に引用するのは、平成10(1998)年に山梨県企業局が発行した『山梨県公営企業40年誌』の一文だ。
広河内渓流取水工事も本隧道工事と同時に開始するが、新設輸送道路から奥入りであるので、材料輸送のため索道を設置した。
この一文があるだけで、索道の全長や構造、起点や終点の位置も、分からない。写真も未発見だ。
当時の設計資料をつぶさに調べられれば図面があるだろうが、未発見である。
このような一文だけで、私が見つけたものとの関わりを断定することはもちろん不可能だが、広河内の取水堰は早川沿いで新設中だった「輸送道路=電源開発道路=現県道」から奥へ入ったところにあって、既存の道路がないので、そこまで材料を輸送するための索道を架設したというのは、重要な情報だ。
もし、私が見た構造物が、この工事用索道の基礎であった場合、たぶん右図のように、現在の県道と交差する付近に、別に荷扱場があったのではないかという推測も出来る。
私が見た構造物の周辺は、大量の工事用資材を貯留し、また積み降ろしをするにはあまりに手狭で、そこへ通じるまともな道路もなかったはずだ。
これが第二の説だ。
広河内取水口工事を含めた奈良田第一発電所建設は、昭和36(1961)年9月10日に見事完成し、天野知事の号令で運転を開始している。
当然、どこかに建造された工事用索道も、この時点で不要となり、可能な範囲で撤去されたはずだ。
余談だが、この奈良田第一発電所は建設中に大きな災害に苦しめられている。
工事たけなわの昭和34年夏に、相次いで来襲した台風7号と15号によって早川が異常出水し、建設中だった様々な構造物に致命的な被害を与えたのである。
いろいろと索道の正体明かしと関係ない話も混ぜてしまった気がするが、私が探索しようとしている舞台紹介の一環と思って欲しい。
つまりは、とにかく酷いということだ。
酷いのである。
自然が与えてくる鞭の痛さが酷い!
ここに人が何を造っても、一度はすぐにダメにしてみせる。まるで意地悪だよ、早川は。
林鉄を苦労して奥地へ伸ばしても、3年は保たせない。
鉱山を苦労して復興させても、3年は保たせない。
立派な永久橋を架けても、すぐに流して見せるし、ダムを造ってもすぐに埋めてしまうしだ。
初物は3年保たないという、そんな呪いでも罹ってるのか、奈良田は…?
以上、謎の索道基礎の正体について2つの説を紹介したが、私はたぶん【説2】が正解だと思っているよ。
そう考える根拠はいろいろあって、まず地形的な説得力だ。
「現在地」から索道のケーブルを渡すなら、【説1】より【説2】の方が自然である。
また、【説1】だと、「現在地」へ運んできた鉱石を、どうやって外へ運び出したのかという疑問がある。
軌道跡を再利用したとしか考えられないが、そんな面倒な段階輸送をするくらいなら、奈良田集落へ直接索道を伸ばした方が効率的だろう。
最後に、構造物「A」に固定されていた滑車の向きだ。
対岸方向にケーブルが伸びていた可能性が高いと思ったので、これは【説1】ではなく【説2】である。
皆様は、どう思いますか?
16:25
軌道跡を占拠して設置されてた索道基礎とみられる構造物を後にする。
索道の登場をきっかけに、これより先の路盤の状況に大きな変化が起こるかも知れないと思ったが、実際は、目に見える変化がなかった。
例えば、レールや枕木が登場するとか、これまでの区間よりも荒廃の度合いが緩和するとかの変化を期待したが、何もなし。
つまり索道は、この軌道跡を用地として利用しただけで、アクセス路としても大々的に再利用したということはなさそうだった。
16:26 《現在地》
索道基礎から50mほど進むと、またしても大規模な崩壊地にぶつかった。
ワニの背ビレのようにゴツゴツとした岩山は、、荒涼の二文字をそのまま写し描いたような風景だった。
このスケールの大きな景色の印象は、今日の偵察の序盤で遭遇して突破を即座に断念した【巨大崩落地】によく似ている。
それもそのはずで、もうその場所までは残り200mもないはずだ。
あるいはもう、同じ崩壊地の反対側に差し掛かっていると言うべきかも知れない。
ぐぬー。
いきなり嫌な地形だ。
路盤が途絶えた先は、大量の落葉に埋れたこの写真の谷を横断しなければ先へ進めない。
地形を埋め尽くした落葉の多さが、以前の場面でも散々語ったように、とても嫌らしい。
しかも積雪があるので、靴底を濡らした状態で進まなければならないことも、不安材料だ。
そもそも、時間的にもう、終わらなければいけないときが来ている。
実際、周りは急速に薄暗くなり始めていて、いつまでもこの路盤から離れないというのは問題だ。
いまいる場所から、車を停めてあるスタート地点は遠くない。500mも離れていない目と鼻の先だ。
しかし、本当にただ距離は近いというだけで、行き来する便利な道はない。
軌道跡から河原まで20〜30mの落差を下り、さらに橋のない川を徒渉する、こういう決して気楽ではない2ステップの帰路である。
ここからの下山は、上手くやればほんの数分で済むと思う。
だからこそ、こうやって諦め悪く厳しい探索を続けてしまっていたが、いくつかの重要な目論見が外れた途端に、もう明るいうちには戻れなくなる状況だとも理解していた。ちなみに一番恐れたのは、早川の水量が渡れないほど増水していることだ。上流に発電所があるので、そういうことが起こらない確証がなかった。
16:27
谷を越えると小さな平場が現われたが、その先も大きく崩れているようだった。
チェンジ後の画像は、奥の方を望遠したものだ。
……たぶん、行ければ行ってしまったんだろうけど……。
ここで、切り上げることにした。
目の前は、一つ前と同じような落葉に埋れた急斜面。
下りから入るのも同じで、嫌な感じがする。
たぶん、時間をかけて慎重に落葉を退かし、足場を確かめながら進めば越えられそうな感じがしたが、この場面で一番必要なものが今は足りないのだ。
足りないのは、時間である。
ケモノの足跡が続いているので、少しだけ悔しさはあるが、うっかり急ぐと滑り落ちそうな気がするので、ここが頃合いだと思う。
仮に突破出来ても、後で引き返してくることに同じだけの時間を使うことは出来ないだろう。
ひとことで言えば、時間切れだ。
16:28 撤退開始! 《現在地》
どこから下りるかを考えなければならないが、ここまで進みながら、途中で何ヶ所か候補を見つけていた。
そのうち最も近い候補地は、直前に越えたばかりの落葉の谷だった。
私が最後に突破を断念した谷よりは、全然下りやすそうに見えた。
16:30
下降中!
道路の坂道とかでは絶対にあり得ない、毎歩毎歩が飛び込み台に立つような急傾斜だ。
しかも、斜面上には滑落者の背骨をうっかり砕きかねない多くの岩のギャップが突出していて、全く油断はならない。
四つん這いと尻セードの姿勢をこまめに使い分けながら、出来るだけ樹木のある場所を選んで、慎重に下降した。
幸い見通しが良く、早川の谷底という目的地が常に見えているのは有り難かった。
そして、斜面を半分くらい下ったところから状況が大きく変化し、強烈な印象を残す場面となった! ↓↓↓
もふッ!もふッ!もふッ!
何年分、何十年分の落葉が、崖錐斜面の下部にぶ厚く堆積していた。
私はそこへ突入し、固い地面に足が付かないフワフワの恐怖を味わうことになった。
背丈を超す落葉の中にどんな危険が潜んでいるのかはよく分からないが、分からないものは怖いのである。
しかしともかく、最後はこのふかふかに優しく抱き留められながら、数時間ぶりの早川河原へ下降できた。
16:34
しかし、撤退を決断したタイミングはやはりギリギリだったようで、
約5分かけて下山を終えると、空が広い早川の河原ですら、もうすっかり薄暗かった。
あぶないあぶない…。夢中になりすぎて、また失敗するところだったようだ。
降りてきた斜面と、軌道跡のある山肌を振り返る。
索道基礎や隧道など、いろいろなものがあったが、下からだとろくに見えない。
はっきり見えるのは、私が溺れりるように下りてきた落葉の斜面の足跡(?)だけだ。
見た目に、めっちゃ山の調和を乱してしまった感がある(笑)。
もう1枚。
先ほどの撤退地点(16:28)と、序盤の撤退地点(14:28)の位置関係は、この通りだ。
結局私が歩かずに終えた途中の距離は、150mくらいだろうか。
この区間にアプローチする手段があるかは、残念ながら不明。
2022年現在まで、この区間の再訪探索はしていない。将来の課題だ。
16:40
急げ急げ。真っ暗になる前に、川を渡ってしまわないと怖いぞ!
身を切る冷たさに耐えきって、早川右岸、私の愛車の待つ岸へ。
16:51
おおよそ3時間ぶりに、スタート地点へ生還。
今回の探索は、偵察という名目で行ったものだったが、言葉通りの意味での目的は果たせた。
どんな場所であるかということが一通り分かった気がする。
その結果、容易ならざるものであるということが、よーく分かった。
『身の毛のよだつ処の沙汰ではない』廃線跡ということが、十二分に理解できた。
この3時間の探索によって、上図の赤線の位置の軌道跡、合計1kmを実踏した。
区間内には隧道が2箇所あり、いずれも崩壊の状況にあるが、貫通はしていた。
全体的に極めて荒廃していて、地形も劣悪。危険度は、かつてないほどだった。
随分と苦労したが、3時間で1kmしか終わらなかったという現実がある。
私がもともと計画していた探索対象の推定全長は11kmだから、
まだ11分の10が残っている状況だ。
残り10kmを今日のペースで探索したら、単純計算で30時間もかかる。
明らかに1日では無理だろうなぁ……。 2日あれば行けるのか……?
「本探索」に必要なのは、
私が持てる限りの技術と体力と覚悟の、おそらく全てだろう。
「偵察」で、それが分かった。
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