※ このレポートは長期連載記事であり、完結までに他のレポートの更新を多く挟む予定ですので、あらかじめご了承ください。
2017/4/12 18:16 《現在地(マピオン)》
探索前日の午後6時過ぎに私は奈良田に入った。
明日は「本探索」の決行初日であり、2日間の日程を予定している。
久々に訪れた奈良田は、夕暮れを過ぎていたこともあり、静まりかえって見えた。
このまま孤独に旅立つことが嫌で、この日の車中泊の車内では、秋田のミリンダ細田や都内のトリさんへ何度もメールや電話のやり取りをした記憶がある。私は端的に言って、怯えていた。
「偵察」から、実に6年と3ヶ月あまりの長い月日を隔てて、ようやく本探索を行う決心をした。
なぜすぐにやらなかったのかといえば、ただただ怖かったからだ。
偵察探索と、その前日に体験した“左岸道路”が、私に「早川は怖い」という印象を深く植え付け、私の冒険者としての好奇心や功名心を押さえつけるほどの恐怖で、この地方への本格的な再訪を忌避させていた。
ではなぜ、6年も経って決行を決めたかと言えば、それは技量が十分に備わったと思ったからだ……と言えれば良かったのだが、正直なところそうではなかった。実際はもっと消極的な理由だった。
私が今よりも歳を重ねてしまったら、今なら辛うじて成功しうる探索も、体力的な面で、二度と成功の機会を失うのではないかという焦りが強かったのである。(偵察当時私は33歳、本探索当時は39歳だった。今は44歳だ)
このあと私が行うのは、私にとって、確実に危険な冒険だ。
危険や無謀は、一人で生きているわけではない現代人にとって、「他人の迷惑」を引き合いに叱られやすい行為だが、私はこの探索の全体が、私によってコントロールされた危険性の内側に収まっていたとは正直思えない。どんな山岳のプロでも、この探索を安全に潜り抜けることはできないとさえ思っている。
批判は受けるかもしれないが、もう済んだことだ。運良く生き残ったから、このレポートを、“人生で一度だけ書く”のだ。今回の探索の全般について、再訪するつもりはない。
プロの冒険家でさえ、冒険の中で死ぬことは珍しくない。
彼らが死ぬときには無謀の果てであったかもしれないが、ほとんどは最初の一度目の無謀で死んではいないはずだ。無謀を侵しても、天運に守られ生き残ることをくり返した末に、ある程度の成功を掴んだ者が、プロの冒険家と呼ばれたのではないだろうか。私はそう思っている。
不運な冒険家は、冒険家の名を成すところまで生き残れない。それほどまでに、冒険は過酷なものだと思う。
私は常々、自分の冒険について律する、次のような考え方を持っている。
まず大前提として、私はとても幸運だと信じる。
これまで多くの危機を、天運に守られて救われてきたのだと思っている。
しかし、自らの幸運に胡座をかいてはならないと、厳しく律する気持ちがある。
例えば、10分の1で死ぬかも知れないという難しい探索があったとする。それを1回か2回、せいぜい3回だけやって、それでほどほどに成果を挙げて手を引くのが、私のやり方だ。
完全解明に拘るならば、10回や20回もやらねばならないかも知れないが、しかし確率的に、20回やれば死を引く確率の方が高い。
それはしない。現に私はこれまで、多くの探索を不完全に終えているが、それに拘りは持っていない。持たないように、律しているのだ。身の程をわきまえたとも言える。
私は、いざ危険な場面に直面したときに、感情に流されて、引き際が下手くそな探索者であることを十分に心得ている。
だからこそ、危険な探索には、入口の段階で自制を設けている。総量規制が必要だ。
自転車でのんびりと旧道を走るような行為でも、私の探索者としての欲求は満たされるので、そこで回数を稼ぎ、危険なロシアンルーレットの引き金を引く頻度を減らそうと努力している。
ただし今回は、引き金を10年分くらい引きまくる。
私が自身に許容する危険の10年分を一気に使ったように思う。
こんな探索をくり返していたら、私はとっくに破滅していただろう。
……といった御託は、ここまでだ。
後は本編中、わざわざ危険だ、注意だとは書かないが、特筆しない限り、全て危険な場面と思って貰って良いくらいである。
今回の探索のプランを紹介する。
今回の「本探索」の最大の目的は、早川森林軌道のうち、踏破記録がない区間の踏破だ。
具体的には、右図に点線で描いた部分の踏破だ。
この区間は、歴代の5万分の1地形図に描かれたことはなく、『トワイライトゾーンマニュアル7』に掲載されたレポート「林鉄行脚」に、予想ルートとして描かれているのみだ。
したがって、実際の位置とは異なる部分があるかも知れないが、「偵察」によって、奈良田橋付近から約2km地点までの軌道跡が確かめられたので、『トワイラ〜』に遺構現存の報告がある観音経まで、奈良田橋から1本の軌道跡が通じていたことは間違いがないとみられる。
問題は、この地形図に描かれていない軌道跡の尋常ではない長さである。
右図には、軌道跡の予想ルート上に奈良田橋からの推定距離を1kmごとに示したが、奈良田橋から観音経までの総延長は12kmにもなる。今回探索すべき未踏破区間だけで推定10kmだ。
誰も見たことがない未知の軌道跡が10km以上ありそうだとか、魅惑的を通り越して、不安に押しつぶされそうだ。
しかも、中間付近へのアプローチルート……それは途中からの脱出ルートになり得るわけだが……の想定が難しいことも、非常に大きな不安材料だった。
中間部の軌道跡へ近接する道が全く見当らない。古い地形図を見てもそれは変わらない。
中間部の唯一の並走路は、早川の峡谷の対岸の高所を通る(一般車両通行禁止の)県道だけだ。
それとて対岸だし、そもそも軌道跡は奥へ行くほど、谷底より200m、300mという遙かな高みへ離れていき、そこから中途の脱出ができるのか、予想が付かない。
一応、地図上に示した「尾根A〜F」は、軌道跡に交差する尾根ということで、これに沿って早川に下降することは、他の部分よりは可能性があると期待しているが、通れる保証はもちろんない。
今回は探索に2日間使う。
その具体的な行動計画を以下に示す。
初日は、前回の偵察で辿り着くことができなかった、ドノコヤ沢近くに描かれている徒歩道(仮称「ドノコヤ道」)を入山に用いる。
首尾良く軌道跡に辿り着いたら、一旦前回の断念地点を目指して軌道跡を南下して、未踏破区間を減らしたい。
その後、改めて軌道跡の北上を開始し、尾根A〜Fを順に越えて、進めるところまで進みたい。
さて、ここが今回の計画立案上もっとも悩んだ“選択”だったが、初日進めるだけ進んだら、その到達地点に応じて――
1.日が暮れるまでに早川沿いの県道へ脱出し、後は暗くなってからでも良いから、初日のうちにスタート地点へ歩いて戻り、車を回収して夜叉神隧道へ移動。
2.日が暮れるまでに南アルプス林道の夜叉神隧道西口へ歩き通し、トンネル内か山小屋の屋根の下に野営して、翌朝へ。
このどちらかを選択し、2日目は夜叉神隧道を起点に、初日に探索しきれなかった部分を探索したい。
上記の2.を選べればルートの効率的には万々歳だが、偵察で体験した軌道跡の状況の悪さを考慮すれば、そこまで順調にいくことは、正直期待しがたいと思っていた。
だから、たぶん1.になるだろうな。そうなると(主に初日が)体力的に非常にハードなものを要求してくると思う。
なお、初日に進めるだけ進んだところで野営して、翌朝も北上を続け夜叉神隧道や観音経を目指すというプランは、とても悩んだが、次の理由から選ばなかった。
テントやら寝袋やらクッカーやらといった、歩くためには無駄でしかない野営道具一式を持ったまま、2日間もここの軌道跡を歩きたくなかった。
偵察は身軽な装備で行ったが、それでもあんなに恐ろしかったのだ。荷物を増やしたら、もっと危険な目に遭う気がした。
今回は山猿のような身軽な装備で突入し、さっさと見るもの見て戻ってくる。それを2日間、粛々とこなそうというのが、計画の精神だった。
名付けて、早川の山猿作戦、はじめ!!
4/13 4:53 《現在地》
前夜は奈良田湖畔の駐車場で眠ったが、日が出る前に起き出して準備をした。
そして4:50、県道の広河内橋手前にある無人の駐車帯に車を停め、山神に瞑想してから、荷を背負い、歩き出した。
今回も自転車は利用しない。
歩き出してまもなく、広河内橋が現われた。
ここには奈良田第一発電所の広い専用駐車場の他に、たった2台分くらいのおそらく登山者に向けて開放された駐車スペースがあるが、後者には既に車が収まっていた。そして車内に人影はない。
おそらくこれらの車の主は、泊まりがけの登山へ向かったのだろう。私の行先は登山ルートではないから、出会うことはまずないと思うが、同じ日に山を歩く者同士、無事下山できることを願い合おう。そんなことを、無人の車へ向けて思った。
戻ってきたぞ、6年ぶりに、この地の拒絶の象徴へ。
開運隧道。
今回も例によって冬期閉鎖中で、槍付きの高い鉄製ゲートが閉ざされていた。
偵察ではこの先へ一歩も進むことは出来なかったが、今日は最初の一歩がここだ。
4:55 無言のゲートイン。
4:57
開運隧道へ突入。
野呂川総合開発の要として整備された電源開発道路の入口の隧道である。
全長217m、幅5.5m、竣工昭和33年。長い割りに照明はない。内壁も素掘りにコンクリートを吹き付けただけだ。
足音がとんでもなくよく響くので、目立ちたくない私は、この時間に来て良かったなと思った。
この隧道を起点とした以奥への一般車両の通年通行規制がいつからはじめられたのかは知らないが、もうずいぶんと長いはずだ。
北アルプスには、3000m級の山々への門戸として、一般車両通年通行禁止の釜トンネルがあって、上高地の聖地性を担保しているが、南アルプスでその位置を占めているのが、釜トンよりは遙かに地味で素直そうな、この開運隧道と、明日登場させられれば御の字の夜叉神隧道だ。これらの隧道が意地悪な通せんぼをするせいで、南アルプスの3000m級の膝元は、それなりに覚悟がある者のみに許されている。
5:00
開運隧道通過。
初めて踏み込み、開運より奥の世界へ。
前後に人の気配はなし。
人知れずのまま、県道の通行禁止を破って入山することに成功したようだ。
南アルプスの主要な山ならどこでも登山届の提出は必須だろうが、果たして私の目的に対応した提出場所はあったのだろうか。
とはいえ、今回ばかりは私も普段以上の慎重を期し、事前にトリさんへ詳細なルートと行動計画を伝えたうえで、明日14日の昼までに何らかの連絡をできなければ、ルート上で遭難したものとして、山梨県警へ通報して欲しい旨を伝えていた。これは私にしては稀に周到なことだった。
5:01
上の写真でも既に見えているが、開運隧道を抜けるとすぐに2本目の隧道がある。
隧道……といっても、実態は全く土被りのない、コンクリートの覆道である。
覆道にしては珍しく、断面は他のトンネルと同じくアーチ状をしている。
そして、覆道の上を大量の水が流れ落ちている。
本隧道には扁額など、現地に名前を知る手掛かりがないが、資料によるとちゃんと名前があって、放水路隧道というらしい。
なんとも変わったネーミングだが、これはその名の通り、山の上にある奈良田第一発電所の余水吐きから流れた水が、ここで道路を跨いで早川に放水されているのである。
全長27.6m、竣工は昭和33年だ。
5:07
放水路隧道を潜って200mほど行くと、眼下の早川を堰き止める大きな堰堤が現われる。
砂防ダムのように正面から大量の水を落としていて、その落差が大きく、水量も多いので、狭い谷中を轟音で覆い尽くすような迫力があった。
今日の私は、険しさに関わるものを決して遠巻きには出来ないことを理解しているつもりだが、それでも険しいものを見る度に近づきたくないと思ってしまうのは、まだ覚悟が本当の意味では出来ていない証しだろうな。惰弱忌むべしだ。あんな滝よじ登ってやるくらいの気概が欲しいところ(無理だけど)。
それはさておき、これも奈良田第一発電所の数ある取水堰の一つで、道路と同じく昭和30年代初頭に作られたものだった。
そして道路と同じということは、我が本題である軌道跡より後のものということだ。
既に新しさなど微塵も感じない、これらの道や堰が生まれた時点で、既に廃絶していたといわれる軌道跡を相手にするのは、怖い。
取水堰堤を越えたことで、早川の谷底には再び奈良田湖上流のような広大な河原が現われた。
同時に、堰堤の高さのぶん、すなわち15m以上は河床が上がり、おかげで対岸を走る軌道跡と河床の落差が、偵察探索の【最上流側撤退地点】より大幅に減少し、いくらか到達が容易な高さになっているのは、小さいながらも“嬉しい誤算”といえた。(進むほど高くなるばかりだと思っていたので)
もっとも、その肝心の軌道跡は、全く見えなかった。
偵察時のように積雪があれば目立つのだろうが、今回は三つの理由から時期を4月上旬にした。
一つ、1月の偵察時に、多すぎた前年秋の落葉が私を苦しめたこと。
二つ、奥地は高標高であり、積雪で探索が難しくなることを恐れたこと。
三つ、少しでも日の長い時期を選びたかったこと。
軌道跡が横断しているはずの対岸を見渡す限り、決定的にどうにもならなそうな崩壊地は見えないけれど、縦に彫刻刀を入れたような鋭い凹凸が幾重も走っていて不穏。ああいう凹凸のたった一つが超えられないだけで、大変な迂回を余儀なくされる恐れがあった。
そろそろ、入山地点が近そうだが、初っ端、うまくいくだろうか……。
5:11 《現在地》
歩き出しから約20分、まだ当分は山の端の日の出を見ることはないだろうが、明るさは十分になった。
そしてそのタイミングで、本日の行程の最初の要となるべき分岐が現われた。
平成17年版地形図ではドノコヤ沢へ入る徒歩道が分岐していた地点、すなわち“ドノコヤ道入口”だ。(最新の地理院地図だと、この道は消去された)
ここで県道を外れれば、次にまともな道と再会できるのは、今日の探索が無事に終わりに近づいたときである可能性が高い。
それは、最も上手くいけば、夜叉神隧道そばの南アルプス林道であろうし、そこそこ上手くいけば、この県道の何キロも上流であろうし、あまり上手くいかねば、この場所へ戻ってきて終了というのも考えられる。ただ絶対に御免こうむりたいのは、私が目にした舗装路はこれが生涯最後だったぞというパターン。ちゃんとお土産話を胸に、ここへ戻ってこようね。
登山者を喜ばせる指導標の一つもない地味な分岐路に、生還の祈りを捧げて後、突入。
5:12
河原の10m手前まで来たが、
だだっ広ーい河原に、かつて地形図に描かれていた橋は、見当らなかった。
広い河原の手前寄りを水が流れていて、橋がないことは確定的に明らか。
……出来れば、初っ端で足を濡らしたくはなかったんだが…、
渡らなければはじめられないので、やむを得ないな…。
思い出されるのは、千頭林鉄の探索だ。
徒渉のために足を濡らしたまま長時間歩いたために、
やがて足の皮がふやけて破れてしまい、随分痛い思いをした。
今回、同じ轍は踏みたくないと、フェルト底の沢靴と、
軽めのトレッキングシューズを持ち歩きながら使い分けることで、
出来るだけ乾いた靴内をキープする作戦を立てた。
荷物が増える(しかも濡れた沢靴は結構重い)ので、正解の判断は後になるが、
とりあえずここでさっそく靴を履き替えて、沢靴の出番となった。
5:24
3000m級の山から流れ出たばかりの清冽極まる生命感なき透明な水。
障害物のほとんどない河原を矢のように走っており、浅い割りに水勢が凄い。
上手く身体を傾けないと、まともに進むことが出来なかった。
最初に流れを渡ってしまえば、後は砂漠のような河原を渡るだけだった。
地形図だとこの場所の水流は対岸寄りなので、最近河原内の水流の位置が動いたらしい。
それでは当然、元の位置で水流を渡っていた小さな橋が残っているはずもなく。
5:29 《現在地》
対岸は人工林であるスギ林になっている。
そして何気ない河原の一隅に、誰かが積み上げた小さなケルンがあった。
それは、ここから始まる古道の存在を主張していた。
奈良田がバスで気軽に行ける土地になる前、すなわち軌道が健在だった時代までは、ここから始まるドノコヤ峠の道は、甲府と奈良田を結ぶ最短ルートとして、芦安鉱山の関係者も、物々交換の農民も、季節商たちも、西山温泉の湯治客も、古きアルピニストたちも、皆々歩いた主要道路であったそうだ。
それこそ、3年保たなかった軌道などより遙かに重要な道が、ここにはあった。
そして近年では、唯一明確な(地図上で説明可能な)軌道跡への中途アプローチとなっていたこのドノコヤ道だが、残念ながらこうして徒渉が必須になってしまったおかげで、増水時は全く軌道跡へ近づく術が失われた。これは急な増水で下山できなくなるリスクでもあり、入山の危険度はますます増したといえるだろう。
5:31
ケルンを目印にスギ林へ入った。
かなり年季が入った植林地で、あまり手入れは行き届いておらず、道もいまいちはっきりしない。
どこでも歩いて行けそうな地形なだけに、私もとりあえず手近なところを歩いて登った。
一定の高さまで行けば、必ず軌道跡と交差するはずなので、見逃す恐れはあるまい。
おそらく、スギ林が切れる高さが、軌道跡のラインだと思う。対岸から見た印象として、そう感じた。
5:41 《現在地》
進むべき道を見失った状態で、なんとなく上方へ進むというのは行動の指針として弱いので、気合いが足らず少し無駄に動いたのかも知れない。
ここの部分の記憶がはっきりせず、大した距離を進んでいないはずなのに10分経過している。こんな薄暗いところで立ち止まって朝飯を食ったとも思えない。
ともかく、ケルンのところからスギ林へ入ったちょうど10分後に、この写真を撮っていた。
スギ林が、このすぐ上手で切れているのが分かる。
しかし、軌道跡を見つけ出した1枚というわけでもない。
軌道跡は、まだもう少し上にあるのだろうか?
ん?
車輪のような形をした金属の物体…?
……索道支柱に取り付けられていた滑車か?
鉱山が近隣にあった。そして索道を使っていたという情報から、
自然と、そのようなことが脳裏に浮かんだ。
いやこれはどう見ても、
車輪&車軸だろ。
それも、軌道用の…。
でも、何か違和感が……。
軌間≒600mmだと?!
なんだこれ??!
いったいどういうことだ…!
5:41 《現在地》
これは驚いた!
周囲と比べて特徴があるわけでもないスギ林の一画……強いて言えば、そのスギ林の外縁部に近いことが特徴かも知れないが……で、思いがけない発見をした。
周囲に明確な道形があるわけでもない中で、この遠目には目立たない発見に巡り会えたことは誉められて良いだろうが、その前に私が己の天運に感謝すべきだろう。
見つけたものは、金属製の車軸1本だ。
偵察探索でも1本だけ【レールを発見】しているが、今度はそのレールの上を走ったであろう車体のパーツが発見されたようだ。
何度も書いていることだが、この区間の林鉄の廃止は昭和20(1945)年と早く、普段よく探索する林鉄よりも20年くらい長く風化しているはずで、遺構の発見はそれだけ難しいと考えられたが、より廃止の遅い林鉄跡でもなかなか見つからないのが、車軸をはじめとする車輌に属するパーツである。車輌全般は林鉄の廃止時に真っ先に回収されるので、遺物として残りにくいのだ。
なお、車軸を見つけた瞬間は、まさに路盤に到達したのではないかと期待したが、周囲を見回してもそれらしい平場は見当らず、ここは目指している軌道跡ではなかった。
そして車軸そのものについても、よく見るまでもなく、違和感があった。
どんな違和感かといえば、林鉄の一般的な軌間である762mmと比較して、この車軸に固定された二つの車輪間の幅が狭すぎるように見えたのだ。
この違和感を確かめるべく即座に私が取った行動が、前回最後に見てもらったとおり、携行しているメジャーで二つの車輪間の幅(バックゲージ)を計ることだった。
そして直ちに得た実測値が、違和感を裏付ける驚愕の600mmニアという数字だった。
ところで、いわゆる軌間(ゲージ)と、車輪間隔(バックゲージ)の関係は、左図のようになっている。
すなわち、軌間とは2本のレールの内側の距離で、当然バックゲージはこれよりも少しだけ小さい数字になる。そうでなければレールに乗って走ることができない。では具体的に軌間とバックゲージの差はどれくらいなのか。これについてはケースバイケースで、カーブに対応するためにも遊びは必須だ。だから大体5cm前後であるようだ。
今回、バックゲージの実測値が約570mmであったから、これに対応するレールの軌間は、おそらく610mmだ。
610mmはちょうど2フィートであり、鉄道の世界では昔から広く使われてきたメジャーな軌間である。
全世界的には600mmも多かったが、国内での採用は圧倒的に610mmが多く、有名かつ現役のところだと立山砂防軌道がこの軌間だし、日本各地の鉱山軌道での採用例が特に多かった。
一方、いわゆる森林鉄道で軌間610mmは一路線しか知らない。そしてそれはここではない。
私が偶然見つけたこの車軸は、早川森林軌道(軌間762mm)で使われていたものではないはずだ。
ではどこで使われていたのかと問われると、芦安鉱山というネーミングが脳裏を過るが、その知られている跡地は、ここから直線距離で1km以上離れているし、高低差は300m以上もあるので、現在地と鉱山跡地を直接結ぶ未知の軌道を考えることはナンセンスだろう。
残念ながら、この場所に立ち止まっていて解明できる謎ではないと感じる。
周囲に別の遺物も落ちていないようだしな。ただこの車軸だけが、どこかから転げてきたように、ポツンとここにある。
というわけで、私はこの意表を突く発見を後に、本来目指していた早川林鉄の軌道跡の捜索を再開した。
車軸発見地点のすぐ南隣は、スギ林から外れた単調だが急傾斜な涸れ谷になっている。
平成17年版の地形図に描かれていた徒歩道は、この谷の向かって左側の斜面を九十九折りで軌道跡へ上り詰めるように描かれているが、現地にはそれらしい道形は見当らない。とはいえ登ろうと思えば可能な斜面だ。
周囲の地形を見る限り、軌道跡はもっと高い所にあるようだ。
いったいどこにあるのか、早く見つけ出したい。
そして軌道跡を辿ることに最大限時間を使いたいのである。たぶん今日の行程には少しも時間の余裕はないはずだ。
5:46
涸れ谷の向かって左側よりも、右側の方が樹木が多く繁っていて、安心して登れそうに見えたので、そちらへ取り付いた。
そして、涸れ谷を取り囲む斜面の上部を注視すると――
あれが軌道跡に違いない!
そう自信を持って言えるラインを、「うわー!まだあんなに上なのか!」と驚く高さに見出した。
現在地よりも20mは高い位置だろう。
地形から想像していたより幾分高い位置という印象だが、地形自体のスケールが大きいので、その中ではほとんど誤差の範囲なのだろう。
ぶっちゃけ、この誤差の範囲如きでも、うっかり殺されかねないがな…。20mという高さの差は、状況によっては致命的だろう。
まあいい!
目指すべきところがはっきりしたので、後は足で登るのみ!
目的地がはっきりして、とても清清とした。
両足のエンジンもようやく寝不足の状況から脱して、本来の快調な回転を見せ始めた感じ! いけー!
5:51 〜 5:58 《現在地》
私は戻ってきた!
6年ぶりに、この林鉄の路盤へ!
戻ってきたと書いたが、この場所は初めてだ。
ここは6年前の偵察探索で、あの日一番怖い思いをしながら辿り着いた「落ちたら死ぬ」の【欠壊地】より、800m程度先の地点と思われる。
あの日、本当はここまで来たかったが果たせずに終わった場所。
その気になれば、ここへ来ることくらいなら、6年も待たず出来たはずだが、ここへ来てしまったら、“その先に待ち受けているもの”が大きすぎて、怖すぎて、来られなかった場所だ。
この地点からは、前後共に未体験領域かつ探索対象だが、計画通り、まずは800m先にあると推測される6年前の撤退地点を、前回と逆側から目指すことにする。
すなわち、この写真の奥側へ進むぞ!
ここへ必ず戻ってくる前提なので、最低限の荷物だけをウェストバッグに移し、重いメインザックはデポしていくことにした。そうして身軽にしてスピーディーな行動を心がけるぞ。出来れば先へ進むことに時間と体力を多く使いたいからな。
と、ここを離れる前に1枚だけ、今進むのとは反対の終点側の景色も撮っておこう。
ここから北側の軌道跡は、平成17年版の地形図にも徒歩道として表記が残っていた稀少な区間だけあって、幅広で歩き易そうだ。いいぞ。
傍らの木立にピンクテープが取り付けられているのも見つけた(矢印の位置)。
この辺りから右へ涸れ谷をさらに登って、ドノコヤ沢の奥地、芦安鉱山跡からドノコヤ峠を越え芦安村へ通じた古道があった。それはここの林鉄が廃れただいぶ後まで登山道という形で存続したようだが、現状は未確認である。
私が知る限り、最近芦安鉱山跡を訪れた全員が、こちらではなく芦安側から峠越えで到達しており、こちらから到達出来るのかは不明だ。ピンクテープがあるくらいだから、行ける人は行けるのか…?
話の焦点を林鉄に戻すが、現在地は、この軌道上の奈良田橋左岸を0kmと仮定した場合(つまり奈良田橋からの距離)の2.8km地点付近である。
そしてこの先、探索上の最大の区切りというか、軌道跡を辿った先で素直に他の道路へ脱出できる唯一の地点である夜叉神隧道西口直下(今日辿り着ければ万々歳な目的地)は、推定10.6km地点付近である。
つまり引き算をすれば、ここから夜叉神隧道西口直下までの軌道跡の推定長は7.8kmである。
ここに、山行がの長編探索ではお馴染みの残距離表示を採用すると――
夜叉神隧道西口直下まで(推定)7.8 km
――となるし、さらにその先、この林鉄の終点で、明日の探索の最終目的地までの距離となると――
軌道終点深沢の尾根まで(推定)14.2 km
――という、まだまだ到達への現実味を感じない大きな数字になってしまう。
まあ、このうち終盤の5kmは現役道路なので、だいぶ探索しやすいはずだが、それでも遠いことに変わりはない。
しかも今から少しの間、これらの残距離を増やすことに時間と体力を費やしてしまうのだから、正直、心穏やかではない。
……四の五の言わずにさっさとやろう!
6:01
(←)
軌道跡到達地点で7分ほど休憩の後、再出発してまもなく、大きめの切り通しが現われた。
軌道跡到達地点のこちら側は、地形図から完全に抹消されている道であり、800m先で絶対進めなくなる結末が分かっている道でもあって、やはり初っ端から荒廃していた。
この感じは、まさに6年前に探索した全区間の平均を思わせる。何とか歩いては行けるが、いっときも油断は出来ないだろう。
(→)
路傍の眼下には、50分前に別れを告げた県道のすぐ先辺りの道がよく見えた。
この辺りの軌道跡は、谷底からおおよそ60mの高さにあり、対岸の県道とは40mくらいの落差がある。
県道がある谷底辺りは、まだ朝日が届かず寝静まっているが、同じ斜面のずっと上の方は、ドノコヤの山越しに射し込んだ日差しを浴びていた。
果たして私がいる西向きの峡壁に日差しが入り込むのは、いつだろう。まだ当分先なのは分かるがな…。
6:04
普段の探索よりも遙かに身軽な状態(リュックを負ってない)を生かして、普段の1.5倍速くらいの足早ペースでぐんぐん進む。
路盤はほぼ水平だが、ほんの少ーしずつは下って行くので、これも歩速に少しだけ加えられる。
順調なペースで進んでいたが、やがて小さな崩壊現場にぶつかる。
おおよそ45度の斜度を持つ崩壊斜面が、道を10mくらいにわたって切断していた。
黒っぽい色が周囲に際立って見えるのは、現在進行形で頻繁に崩れている土砂面だろう。落葉が堆積する暇がないということだ。
もっとも、ここには鮮明なケモノ道が横断しており、“山行が的”の難度評価は安定のレベル1(平易)。
こういう軟らかい土に埋れただけの斜面なら、もっと角度がきつくてもザクザク踏み越えられるぞ。 (油断はダメだけどな)
6:06
さらに2分後に現われたのが、この場面。
うん。
レベル2(注意) といったところだな。
前のところと同じ色をしているが、今度は浅いところに堅い岩場が埋れていて、踏むべき場所、踏めるコースはかなり限定されている。
もっとも、ルートの捜索に悩ましいところはなく、素直かつ素直に足を運べば良いのだ。
この際、滑り落ちたら危険であるというのは、難度に加点しないことにしよう。どこで落ちても落ちたら一緒だ。死ぬ可能性が十分ある。
ポンポンPONと、身軽な動作でこれもクリア。
どんどん行くぞ。
6:10
(←)
再び前方に切り通しが見えてきた。
岩場を四角くスパッと割ったような姿をしており、規模はさほどでもないが、私好みな姿である。
もう少し深かったら問答無用で石門状のミニ隧道になっただろうな。
さっさと通り抜けて先へ進もう。
だがその考えは、たちまち実現不可能に。
なぜなら――。
6:11 《現在地》
初・枕木発見だ!
切り通しの入口にあたる路盤上に、見つけたのはたった1本だけだが、敷かれたままの枕木が原型を止めていた。
枕木は偵察探索でも見つけておらず、一連の軌道跡で初めての遭遇だ。
いうまでもなく木製である枕木は、廃止が早い廃線跡では見つかりづらいアイテムだ。鉄のレール以上に風化しやすく、両方とも放置された状況だと、大抵先に枕木が消失する。
まあ、総合的にどちらが稀少かと問われれば、廃止時に積極的に撤去されることが多かったレールということにはなるだろうが、昭和20年廃止の林鉄跡であれば、やはり枕木現存は貴重な発見といえるだろう。
で、それだけで終わらないところが偉いところ。うん偉いぞ。
このたった1本の枕木から“アレ”を探すことを、私は怠らなかった。
“アレ” = 犬釘発見!
ここで重要なのは、犬釘が枕木に刺さった状態のままで発見されることだった。
それも1本だけではダメで、両側のレールを支えていた2本共が、刺さったまま発見される必要があった。
右側の犬釘は即座に確認できたが、左側は枕木ごと腐葉土に埋没していて、掘り返す手が緊張で震えた。それほどまでに、ここでの犬釘の有無は、この枕木の正体を推し量るために重要だった。
……もう皆様お気づきだろう。
私のこの執念じみた犬釘捜索の念頭にあったのは、あの【謎の車軸】に他ならない。
ここで枕木に固定されたままの、左右両側の犬釘を確認できれば――。
そして、左右両側の犬釘の間隔が計測できれば、右図のような位置関係から、この枕木に固定されていたレールの軌間を、かなり正確に推測することが可能なのである。
ここで、軌間762mm(林鉄)か、軌間610mm(鉱山鉄道?)かを計ることが出来れば、早川林鉄が廃止された後に、この路盤を別用途で再利用した鉄道が存在したと判断できるはずだ。
果たして、運命の“左の犬釘”は…………
あった!
いまだかつて、犬釘1本にここまで夢中になったことはなかったな(笑)。
土に長らく埋れていたせいで、この部分の枕木は朽ちて痩せ細り、
犬釘の歯槽膿漏が進んでいたが、本来の位置に固定されたまま残っていたのは、大金星!
犬釘単体の写真を撮影するのも忘れるほど興奮して、早くもメジャーを当てているが……
運命の計測結果は――
(…もし762mm対応じゃなかったら、記録未発見の鉄道の発見になる…)
測定完了!
枕木に突き刺さった状態で残っていた2本の犬釘の間隔は、おおよそ670mmであった。
なお、本来、1本の枕木に使われる犬釘の本数は4本である。
右図のように、レール1本ごとに2本の犬釘を使って固定する必要があるためだ。
だが、私が見つけた犬釘は、2本だけだった。
これは、レールを撤去する際に、最低2本の犬釘は外す必要があったためだろう。
犬釘の“頭”の向きで、それが右図のA・B・C・Dのいずれの位置にあったものかを判断できるが、今回はAとDの2本が残っていたようで、計測したのはおそらくAD間の長さである。
それが670mmという数字だった。
明らかに762mmよりも小さいことがポイントだ。
この枕木に設置されていたレールの軌間は、610mmの可能性が極めて高い!
左図は、先ほど発見した車軸から計測したバックゲージと、ここで発見した枕木の犬釘間隔から、共に軌間610mmのレールの存在が推定されることを示した模式図だ。
先の車軸の発見地は、現在地より見て300mほど北側のスギ林内で、アレはおそらく、直上の路盤から何らかの事情で転げ落ちた車軸が、そのまま放置された状況だったのだと推測する。
車軸と枕木という二つの発見が、事前情報には全く無かった未知の軌間610mm軌道というワードで結ばれたのである。
昭和20年に早川森林軌道が廃止された後、何らかの目的で、わざわざ異なる軌間のレールを敷き直して、この路盤を利用した何者かがいた!
右の地図は、ここまでの発見をまとめたものだ。
610mm車軸と610mm枕木は、図中の位置にそれぞれ発見された。
そういえば、6年前の偵察探索でも、1本だけ6kg/mレールを発見しているが、あれは林鉄か、林鉄廃止後の転用軌道か、どちらに由来するものだったのだろう?
なんとなく新しい印象を持った覚えがあるが、それだけを根拠にすれば、転用軌道か?
もしそうだとすると、軌間610mmの転用軌道が走った区間は、ドノコヤ沢付近から下流側へ、奈良田橋付近にまで達していたのかも知れない。
軌間610mmという数字からは、右図に位置を示した芦安鉱山との関連性も強く疑われるところだが、果たして……?
正直、謎は深まる一方だ。
この軌道のことをもっと知りたい。
だがそのためにいまできることは、少しでも多く進むことだけだろう。
再出発!
6:16
枕木の発見で5分ほど費やし、いまは再出発直後である。
枕木はその後続々と現れ始めた……ということは起こらなかった。
あの1本の枕木も、切り通し直前の路盤が奇跡的に状態が良かったために残っていただけで、全体的には荒廃が進み、堆積物によって本来の路床が埋れているところばかりだ。
仮に枕木の撤去がされていなかったとしても、発見するためには相当念入りに掃除しないとならず、タイムリミット的に現実的ではなかった。土中で土と同化してしまっている可能性も高いわけで。
そして、いま直面している新たな問題は、いよいよ軌道跡を取り巻く地形の状況が、6年前の撤退地を彷彿とさせるレベルにまで悪化してきていることだ。
特に、このすぐ先の場面が、切れてて、ヤバそうな気がする……。
6年前の「落ちたら死ぬ」撤退地を思い出させる雰囲気があるぞ……。
頼む〜。ここは越えたいー!
なぜなら、
この先に隧道がある気がする!
偵察探索では、2km足らずの探索範囲内で、2本の隧道を発見した。
そこに隣接する今回の探索範囲にも隧道があっておかしくはない。
さっそくのお出ましなのではないか。
だが、行けるかこれ?!
難易度判定は、レベル3(危機)。
そこには案の定、路盤を切断してしまっているクレバスのような小谷があった。
内部に土の堆積はほとんどなく、単純に岩の出っ張りを上手く足場と手掛かりにしながら、落ちないように、越えるしかない。
偵察探索では、大量過ぎる落葉で細かい起伏が隠されていて、とても苦しめられたが、今回は大丈夫だ。
おかげさまで、実際に小谷へ入り込む前に、どこに足を乗せられそうかを考えられるのは、有り難いことだ。
ただ、行ければそれで良いというだけではないことには、要注意だ。
必ず引き返してくることになるはずで、しかもここを通る以外の引き返し方は、地形的に考え難い。
だから逆方向からも無事に越せるようでないと、ぶっちゃけ詰みだ。(笑い事でなく)
6:18
突破ルートのイメージが掴めたので、突入開始!
まずは、この岩に右足を乗せて……。
よし、大丈夫だな。
それから左足も乗せて、次は右足からそろそろと谷底へ降りていく……。
こんなふうに、独り言を呑み込みながら、一挙手一投足を確かめるようにじっくりと進むのが、私だけではないと思うが、危険箇所突破行動時の癖になっている。
6:20
越えたー!
平凡な感想を繰返し述べても仕方がないと思うので、回数は自重したいが、
やはりここは、本日初めて特筆したくなるレベルで、怖かった。
しかも……、今は正直考えたくないけど、遠からずここを戻らないと行けないんだよな…。
こっちから見ても、随分と恐ろしげだ……。願わくは、頑張った分に見合ったご褒美が欲しいけど、
この先にあるのは本当に隧道だろうか。もし隧道だとして、貫通しているのだろうか…?
……いろいろと、とにかく気の休まる暇がない……。
この感じ、やはり間違いなく隧道があるな!
小さいとも大きいとも言えるような岩尾根が、この先を遮っている。
周囲の山々の大きさと比べれば、これはとても小さな地形なのだが、
隧道なしでは越せなさそうという意味では、身に余る大きな地形だ。
この貫通に、先を見ることが出来るか否かを、完全に委ねざる得ない展開。
もうこの先は、せいぜい300mほどで、前回の偵察探索の断念地点である。
隧道が通れなければ、前回の断念地点へこちら側から近づく術は、ない。
6:22 《現在地》
いつ何時でも嬉しい、隧道発見!
一連の探索では通算3本目の隧道発見。本日としては1本目。
しかし、これまでの2本にも増して、禍々しい雰囲気の坑口だ。
入口が崩土によって埋れかけているところまでは良いとして、
洞内にも自壊の気配がある!
……これは正直、貫通してるかが心配だ……。
振り返ると良くないね。
越えてきたばかりの難所が見せる重圧が、ハンパない。
なんか来たときよりも難しく見える。たぶん、弱気の虫がそう見せている。
あっ!!
うわぁ……涙
ん? この大きな岩の左奥に入れる……?
瓦礫の隙間の奥に空洞が!!!
2017/4/13 6:24 《現在地》
どりゃーーー!!!
身体をねじッ ねじッ
捻じ込んでやったぜッ!
隧道内部に空洞が現存していることを、崩落した岩の隙間に突っ込んだ頭で理解したとほぼ同時に、私はその岩の隙間に身体を捻り込みはじめた。
そして、数秒後に私はその発見した空洞へ到達!!
隧道内部への侵入に成功したのだったが……
あッッ!!!
みんな喜べ! 俺大喜び!
貫通してるぞ、この隧道ッ!!!
空洞へ入ると同時に、私の目は、暗闇の中に灯る朧気な白い光を確かに捉えた。
それはヘッドライトの光を向けても確かにそこに灯り続けていて、この満身創痍としか言いようのない、極めて酷い状態の隧道が、それでもまだ貫通していて、私を通り抜けさせてくれることを理解した。
これは本当に有り難かった!!
周囲の地形の状況からして、短い隧道でも、通り抜けられないと先へ進めない可能性は高い。
頑張って迂回できる可能性があるとしても、通り抜けるよりも遙かに多くの時間と体力を消耗することだろう。
素直に(素直かこれ?)通り抜けられるのは、本当に有り難かった!!
隧道も俺の探索を応援してくれている!
が、本当に酷い状態だな、この隧道は……。
これは振り返って撮影した“入口”だが、マジぐっしゃり逝ってる。
辛うじて、上の端っこのところに外の光が見えるけれど、それも直接外が見えるのではなく、反射光が灯っているだけだ。
そんなところを、私は夢中ですり抜けてきた。(そして帰りはまたここを…)
それをあまり怖いと感じないのは、穴に対する感覚麻痺もあるだろうが、基本的に、お外の方がよっぽど怖い場面ばかりだからな、早川は。
仮に天井が崩れてくるリスクがあるとしても、外にだって落石はあるのだし、地面があるだけよほどマシだと思ってしまう。
皆もそう思うよね?!
支保工の残骸とみられる朽ち木の柱が、崩土の壁に背を圧されながら、1本だけ立ったまま残っていた。
ただでさえ、トロッコを走らせるにはとても狭い隧道に、支保工まで設置してあったのか……。
言葉が悪いが、こんな貧弱な林鉄をどれだけ長く山の奥まで完成させても、その輸送力は雀の涙でしかなくて、ほとんど使い物にならなかったんじゃないかと、そう思ってしまう。
もはや隧道というよりも天然の洞窟のように見える、極めて荒廃した洞内の様子。
崩れていない場所はなく、もともと狭い洞内がさらに狭くなっている。
壁面の大部分は鉄錆の色をしていて、この手の岩は大抵脆い。
実際、手で触れて力を込めると細いところがパキリと折れるような、ガラス質の岩だった。
フォッサマグナという日本最大の断層帯の周辺に大量に分布する、土木工事の天敵である破砕帯が、この隧道の貫いている岩盤の全てではないかと思う。
建設当時は、路盤を伸ばすことが至上命題で贅沢を言ってられなかったのかもしれないが、隧道向きの地質じゃない。数年しか使われなかった(使えなかった)としても、やむを得ない。
ケモノのように、出口から這い出す。
爽快な気持ちよりも怖さが勝った。
くり返すが、外の方が圧倒的に怖い。これは大袈裟でなく、外へ出ても、2歩目を踏み出せる地形とは限らない。
隧道の長さは、崩れている部分を含めて、おおよそ15mくらいだった。
これまたとても短い隧道。6年前の偵察探索で2本見つけて、今日これが1本目の隧道だったが、どれも狭く短く、そして崩れていた。
でも全て通り抜けできたのは、ツイていた。
普段から探索中に多くを望んでいる自覚はあるが、今日と明日だけは本当に1日中ツキっぱなしというくらい運が上振れしてくれないと、この探索はたぶん成功しないだろうからな。(下振れしたら死ぬだろう)
6:26 《現在地》
よっしゃ! いけるぞ!
隧道の外に待っていた道は、歩くのにはなんら問題がなさそうだった。
助かった。
これでいよいよ、6年前の最終到達地点「【落ちたら死ぬタオル】」の地点まで、残り100mか150mくらいまで迫ったと思う。
正面に見える対岸の尾根の形には、見覚えがある。
たぶん間もなく、路盤はこちら岸の尾根の先端に到達して、そこで左カーブを迎えるだろう。
そのカーブのたぶんすぐ先が、6年前の最終到達地点だ。
そこまで辿り着けたらようやく、本当の意味で、この林鉄の遙かなる終点を目指すという今日の探索が始まる気がする。
そうそう。
忘れちゃいけない。
これが私の出て来た穴だ。キノコさえも生え出てこない、ヨッキ生え穴。
中から見た印象以上に小さな穴で、次の崩れ方一つで完全に命脈が尽きそう。
ほんと開いていたのが奇跡みたいだ。
反対側の入口もそうだけどね。
案外、奇跡なんかじゃなくて、人間ではない利用者がちゃんといて、自然に埋まる度に、彼らが前足とか後ろ足で掘り返してくれているのかも知れないな。
険しい山中にある軌道跡がケモノ道として盛んに利用されている状況は、しばしば感じるところである。
「隧道を人が潜り抜けたのはいつ以来だろう」、なんて考えながら、久々に安心して歩ける感じの広めの道を進んでいくと、間もなく思いがけないものを見つけた。
地面に落ちていた1枚のプレート。
「鰍水線 第八号 昭和60年10月 山梨県企業局」と書いてあり、文字だけ違う同じものを各地で見た記憶がある。
こいつの正体は、鉄塔巡視路の道標だと思う。
遅くとも昭和60年頃までは、この道が鉄塔の巡視路として利用されていたのではないだろうか。彼らのが早川流域で利用している巡視路のハードさは、現役とされる道でもとんでもないものがあるから、ここも使われていたとしても不思議はない。
右の画像は、平成26(2014)年発行の地形図と、最新の地理院地図の比較である。
前者には、確かに現在地である尾根の上を越える送電線が描かれており、これが鰍水線といったのだろう。
だが、最新の地理院地図だとこの送電線は削除されており、実際にこの数年間で撤去されたのか、実はもっと前に撤去済みだったのかは分からないが、巡視路として軌道跡を利用する理由はなくなったことが分かる。
こんな景色の所を、かなりのハイペースで進んでいく。
眼下には、50m以上の比高を持って臨む早川渓谷。その谷底に近い対岸に、先ほど通ったばかりの県道が、廃道のように静まりかえって横たわっていた。
路上に見えているのは、その名も放水路隧道の姿だ。
軌道と県道は同時に利用されたことがない、完全排他の関係だった。
奈良田よりも下流については、軌道のレールを撤去して整備したのが県道であり、現在地を含む奈良田橋以奥でも軌道廃止後に県道が作られたのは同じだが、早川を挟んで別々の岸を行く完全な別ルートとなった。しかも上流へ行くほど高低差が増していき、やがて300mを越える。
6:30 《現在地》
尾根に到達した!
本日、初めて軌道跡に到達した地点から約800m、起点方向に戻った。
またこれは便宜的扱いだが、奈良田橋に軌道の0kmポスト(起点)を想定すると、
そこからちょうど2kmの地点と推定される尾根でもある。
そして私にとっては、6年前の偵察探索で撤退を決めた際に、
目視すれども辿り着けずだった、因縁の地。
この尾根を回り込めば――
――こんな感じの鬼気迫る岩崖が現われて、
この先はすぐに――
来た。
6:34〜6:39
ここが、6年前の最終到達地点の彼岸だ。
6年の間に、新たに向こうの突端に辿り着いた人は、何人だろう。
いたからなんだとか、いないからどうしたということもないのだが、
辿り着いた奴らとはきっと、早川被害者の会で盛り上がれるな。
6年で、何か景色が変わることもなく、相変わらず、
ここは無理だとひと目で分かる“キレ”っぷりだった。
でも、いまはいい。
こんな場面と、今日新たに進む所で出会ってしまったときが問題なんだよなぁ…。
あまり期待は出来なさそうだけど、こういう場所がもう二度と現われないことを願うしかない。
5分間休んでから、もときた方へ歩き出す。
6年前に辿り着けなかった、この路盤を踏みしめた時が、
本当の意味で、偵察探査に連なる“本探索”のスタートだと思った。
だからこれを表示しておく。
大きな数字で、失礼しますよ…。
(本日最終目的地)
夜叉神隧道西口直下まで(推定)8.6 km
(明日最終目的地)
軌道終点深沢の尾根まで(推定)15.0 km
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