2010/5/4(火) 14:17 《現在地》
すっごい、とんがり頭!!(笑)
千頭のマッターホルンかな?
「現在地」は、諸之沢のトラス橋から300mほど進んだところ。諸之沢停車場と次の小根沢停車場のだいたい中間、残り1km付近にいると思われる。
近づきつつある小根沢は、現在の(=探索当時の)地形図に描かれている寸又川沿いの徒歩道(=軌道跡)の終点であり、家屋の記号がぽつんと一軒だけ描かれていた。そのため、大樽沢や諸之沢より規模の大きな停車場だったのではないかという期待を持っていた。山中の一軒家とは、果たしてどんな場所に建っているのか。そもそも、現存しているのだろうか。どきどき、わくわく。
右の写真は、“とんがり頭”のすぐ先にあった、激しく埋もれた小規模な切通しだ。
これが視界を遮っていたので、乗り越えたときに一気に展望が広がった――
――ところに待ち受けていたのは、橋!
いまさら驚くような規模ではないことはすぐに分かったが、明らかに橋桁がない(落ちている)のが問題だ。
諸之沢の手前で、落ちた橋のために谷底へ大きく迂回させられた辛さ(体力的にも精神的にも)を思いだし、思わず表情が引き攣った。
頼むよ…、優しくしてよ〜。
今回は、なんとかなった。
岩肌の微妙な凹凸をへつることで、橋の向こうへと回り込むことが出来た。
大きな荷姿のせいで、狭い岩の縁を通過することは普段以上にリスクの高い行動になっている。だが、それをすることで10分からの迂回を省略できて、体力を消耗するアップダウンも避けられるとなると、見返りは小さくない。
ちゃんと見定めて、本当に危ないと思ったときには勇気を持って迂回を選ばないとな…。
ところで、私はここで(今回の行程で)はじめて、存置ロープを見つけた。
小さなコブがいくつもつけられた細めの白いロープが、谷の下りと上りにそれぞれ1本ずつ垂らされていた。
ロープはだいぶ汚れており、実際どの程度痛んでいるのかが分からなかったので、使用せずに通過したが、これまでも危険な場面は多くあったなかで、どうしてここに初めてロープが現れたのだろう。
いずれにしても、この橋が渡れない状況になってから通過した何者かの形跡であるのは間違いない。
【栄養ドリンクの空瓶】以来となる“先行者の痕跡”に、少なからず励まされた。
ものすごく巨大な岩が一つ、川中の島となって明るい日差しを浴びていた。
近づくことは出来ないが、どう見ても2階建一軒家くらいのサイズがある。
対岸の山肌に生えている木々のスケールと比べてもらえると、その大きさが分かるだろう。
この巨岩は、周辺の岩場と少し違った赤っぽい色合いをしている。
根拠はないが、対岸の諸之沢山の高所から転げ落ちてきたのではないだろうか。
さすがに川に流されるような大きさではないだろう。
しかし、こんな何千トンもありそうな大岩が山を転げ落ちるときには、どんな音や震動が生じるのだろう。
古来、“山中の怪異”と言い伝えられた……例えば天狗の仕業というような……ものも、その正体は自然現象であったというのは多いと思うが、この大岩もそんな物語を作っていそうだった。
これほどの大岩ならば、きっと林鉄で働いた人々の目にも止まっていたことだろう。
だからこそ、私もそこに何かを感じ取ってみたいと思った。
14:32
巨岩に最も近づく辺りで、軌道跡はこれまでになく深い切通しに入り込んでいた。
壁面には、朽ちた碍子が見える。
諸之沢以来、電信柱をひとつも見ていないが、このように沿線の崖や立木に直接取り付けることが普通であったのだろう。
なお、このような深い切通しを目にするたびに、かつては隧道だったのではないかという疑念がよぎる。
本線でも大間川支線でも明確に開削された跡と分かる隧道の跡をいくつも見ているだけに、昭和30年代に行われたらしき大改築(多くの木橋が鉄橋に置き換えられた)では、明確な痕跡を残していないものも含め、相当数の小規模隧道が撤去されたと私は考えている。
ある程度深い切通しは皆疑わしいというのが、私の気持ちだった。
14:34 《現在地》
深い切通しを過ぎて少し進むと、久々に広い河原を中軸とした見通しのよい谷になった。この踏破をなんとしても成功させたい私としては、こうしてしばらく安泰に進めそうな景色が現れてくれるのは、とても嬉しい。
小根沢という大きめの支流との出合が、次の目的地である小根沢停車場の擬定地であるが、どうやらそこまでは比較的に緩やかな地形が続いていそうである。
ほっとしたこともあってか、急に懐かしい気分が沸いてきた。
新たに視界の中央を占めるようになった大きな山の姿に、思いがけない長閑さを感じた。地形図によれば、この山は頂上に1843.8mの三角点を乗せた無名峰で、小根沢と大根沢という寸又川の二つの支流の分水である。谷底から250mほど高い位置を左岸林道が横断しているはずだが、ここからはもっと上の方しか見えない。その姿が、とても穏やかだった。
なんとなく、あの山の麓には小平野があって、そこに水田や集落がありそうだ。実際にそんなものはないはずだが、ありそうに思えた。深山らしくない、しかし実際にはとてもとても山の深い景色だった。南アルプスの中でも“深南部”と呼ばれるこの地域の“らしい”風景だと思った。
そしてこの景色が、一人になってから常に私の心の一番大きな部分を占めていた遭難への恐怖心を、だいぶ和(やわ)らげた。
気軽には撤退できない状況での探索には大きなプレッシャーがあった。それゆえ、今日は日が昇る前からずっと気を張って動いていた。その反動だろうか、午睡の気分が高まる時間になって不意に現れた景色の緩まりに、張り詰めていた緊張の糸がついに切れてしまった。
また、ここでの私の安堵感は、途中で仲間の撤退という大きな想定外があったものの、それでも半日以上を無事前進できているという自信から来るものでもあった。命をコインにオブローディングというゲームのプレイヤーになった私は、実際にチャレンジするまで難度の明らかでなかった千頭奥地というこのステージで、今のところはよく戦えているという自負があった。
路盤近くに勢いよく流れ落ちる滝を見つけて、不足し始めた飲み水を補給した。「南アルプスのなっちゃん水」ゲットだぜ!
14:46〜15:00 《現在地》
複線だ!
単なる広場ではなく、諸之沢以来の明確な複線の幅を与えられた路盤が、明るい新緑の林床に緩やかなカーブを連ねていた。
ここが、小根沢停車場の跡だろうか?
その可能性はあるが、地形を見る限り、地形図に“一軒家”の描かれている場所には、まだ達していない。間もなくだと思うので、そこまで行ってから改めて判断したいと思う。
ここには複線以外の施設らしいものは特に見当たらないが、路肩に連なる玉石練り積みの擁壁が美しかった。
また、林鉄廃止からは半世紀以上を経過しているにもかかわらず、広い路盤の一部は崩土や落ち葉で隠されることなく、バラストらしき玉砂利を露出させていた。
枕木やレールを敷き直したら、すぐにも運行が再開できそうに見えた。素晴らしい保存状態である。
こんな場面にますます緊張を解かれてしまった私は、突然地面に座り込むと、水上がりで蒸れきった靴を脱ぎ去って、足を伸ばして横になった。
そして、食事のために口を動かすということもなく、ただ倒れて目を瞑り、耳に渓流の音を通すだけの時間を過ごしていた。
突然のエンストのような行動。これは緊張感云々もあったが、単純に蓄積していた疲労のせいだったかと思う。
今朝4:30過ぎに出発して、既に10時間余りを、大きな荷物と平らではない地面と一緒に過ごしている。
この間には、自転車で18kmと、徒歩で5kmを進んでいた。
ただただ奥へ奥へ、いずれは同じ距離を引き返さなければ生きて戻れないことを忘れてしまったわけではないのに、必死な顔で進んできた。
足に痛みはないが、ずっしりと全体を締め付けられるような重さと、親指の裏に微かな電気が走るようなイガ味を感じた。
前者は筋肉痛、後者は靴擦れの初期的な前兆だった。
この日初めての肉体との労使交渉は、10分ほどボケッと過ごしたことで妥結した。
靴紐をしっかり結び直して歩き出すと、複線区間はすぐ終わって、もとの単線に戻った。
再び地形が険しくなってきたように見えるが、小根沢の出合は、もう遠くないはずだ。
この再出発から7分、おおよそ200mほど歩いたところで――
今までにはなかった感じ…、穏やかだ。
渓流の音が少しだけ遠く、森っぽい。
そして、どことなく核心的な雰囲気を感じる。
前方に見えるのは、涸れ沢を跨ぐ築堤か? 堰堤みたいな細長い石垣が見える。
建造物 !!
それも、かなり大きなものが二棟並んでいる!
きっとこれだ! 間違いない!
【地形図】に今もなお描かれている、“小根沢の山中孤立家屋”。ついに捉えた!
建造物の出現、そして特徴的な地形。
この場所こそ、千頭起点31.9km、小根沢停車場と思われる!
先ほどから見えていた堰堤のようなものだが、それはまさしく涸れ谷を横断する、石垣の築堤だった。
見事に残っている。
線形的にも、これが林鉄の本線であるのは間違いない。
だが、築堤には入らず直進する道もあった。
こちらも軌道跡と同じくらいの道幅があり、まるで支線のように見える。だが、小根沢に支線があったという記録はない。
また、行く手に目を向けると、かなりの急勾配である。
荷物を残して、少しだけこの脇道に入ってみた。
すると、100mも行かないうちに、鉄道らしからぬ急勾配になった。
やはりこれは、軌道の支線ではないようだ。
だが、道形としては非常に鮮明で、幅員もある。ただの歩道とは思えない。
この道の正体は、いくつか考えられる。
まずは、軌道と同じ時代に活躍した木馬道の可能性。
周辺の地形はこれまでになくなだらかで、現在いる涸れ谷を中心としたすり鉢状の斜面が、鬱蒼とした森になっていた。そして、この森にはかつて大規模な伐採が行われた形跡があった。木馬道を敷設して軌道付近へ集材するには、うってつけの地形と見える。
もう一つの可能性として考えたのは、この道が約400mの高低差を開けて並行する左岸林道へ通じる、軌道跡と林道の連絡車道ではないかということだ。
そして、私としては、この説の方がありがたい。
出来ればお世話になりたくないが、これから先の軌道跡をどうしても進めない状況になった場合、唯一のエスケープルートが左岸林道である。
しかし、探索を始めてからこれまで、左岸林道へアクセス出来そうな場所は全くなかった。そのことを私はずっと不安に感じていたのだが、もしここに左岸林道へ到達できる道があるのであれば、大きな精神的支柱になる。
……とはいえ、実際にこの道がどこへ繋がっているかを確かめる時間的・体力的余力はない。
私は早々と脇道を切り上げ、分岐地点へ戻った。
15:11
こちらは築堤の先へから続く本線、私が進むべき道だ。
築堤は狭いが、路肩をコンクリートで固められた、しっかりとした作りである。
そしてその先には、再び複線らしき広幅員の路盤が見えていた。
そんな路盤の下には、川に面して先ほど遠望で覗いた二棟の建物が、静かに並んでいる。
一方、路盤の山側には、これまで軌道沿いでは決して見ることのなかったスギの人工林が、こんもりとした小さな山を覆っていた。
複線路盤に造林地、そして宿舎らしき複数の建造物!
まさに、林鉄停車場のジオラマめいた景色。
レールこそ見られないが、昔日の匂いと林鉄の世界観に満ちた、濃厚な空間。たまらない!
右は、小根沢停車場付近の拡大図だ。
路盤や建物、その他いろいろなものの位置関係を整理しておきたい。
この小根沢停車場の地形だが、現在はスギの造林地になっている、涸れ谷に三方を囲まれた比高10m程度の小山の存在が特徴的である。
この地形、おそらく大昔の川の跡と思われる。
河川の流路変更に伴う河跡地形が、狭隘な寸又川の峡谷底においては稀な平坦地を生み出したのだ。
そして、山のプロたちはこうした地形的な好機を見逃さず、ここに軌道を敷き、駅を置き、小屋を建て、植林をして、最大限に活用していたのである。
それでは、定番の建物探訪と参りましょう。
廃墟趣味はないつもりだが、林鉄の仕事ぶりと関わるものがあるかもしれないとなれば、話は別である。
南側(下流側)の建物へ近づいてみると、真っ先に目に飛び込んできたのは、玄関前の一角に山積みとなった大量の一升瓶だった。
林鉄探索では、こうした宿舎の周辺で大量の一升瓶を目にすることがしばしばある。だが、このことから単純に、「山で働く男たちの数少ない楽しみは飲酒であった。彼らは驚異的なのんべえだったのだ」とするのは、少し乱暴だ。なぜなら、一升瓶には、肉体労働の必需品である飲み水を入れるという役割があったからだ。「なっちゃん」などない時代の話である。
が、限度がある。水を飲む一升瓶なら再利用出来るはずであり、こうも大量の一升瓶が持ち込まれた理由は……、ちょっと言い逃れの出来ないような数だった。
なぜか扉のない玄関から、お邪魔しまーす。
一見すると、ボロボロに荒れ果てているように見えるが、壁板がボロボロなだけで、柱や床までゆがんでいる感じはしない。窓のガラスも大半ちゃんと残っているし、天井もほぼ完備されていた。
そしてなにより、得体の知れない生活感とか、獣の気配とか、不潔な感じがあまりしない。
どうしてこんなに壁が剥がされまくっているのかが分からず、そこはちょっと不気味だが(まさか夜になるとクマが…)、全体的には清潔感すら感じられる廃屋だった。
何でそんなことを気にしているのかと言えば、今回は荷物軽量化のためにテントを持って来ておらず、出来れば屋根のある建物を借りたいと思っていたからだ。
そして、ここは高望みをしなければ、及第点をあげてもいい雰囲気だった。
……現在時刻は、午後3時をまわっている。
日没は、6時過ぎ。
今日の本来の目標地点の大根沢までは、あと2kmという状況。
…うん、悩ましい。
もぬけの殻と呼ぶにふさわしい状況だった一棟目をあとに、隣のもう一棟へ。
まずは軌道跡側から見た全体の外観だ。
今では懐かしさを感じる「安全第一」の看板が、良い味を出している。
この時間帯は綺麗に西日が射し込んでいて、寸又川対岸の春色をした山肌をバックにすれば、ちょっとした旅宿のような風情がある。いかにも鮎がうまそうな宿だ。
これでちゃんと窓がはまっていたら、言うことない。
南側にある玄関へ来てみると、ちゃんと戸が閉まっていた。
一棟目より程度が良いかもしれない。
また、この玄関の周り(赤と黄色の矢印の位置)には、次の画像で紹介する二つのものを見つけた。
ひとつは、「国有財産標識」というもの。
国鉄時代には、駅舎などにも似たようなものが取り付けられていた覚えがある。
国有林にある様々な林業施設は、その多くが国有財産として管理されていた。
こうした宿舎をはじめ、各種林道(もちろん森林鉄道の車両も)や集材機などの機材も皆、国の財産だった。
ここで見つけた財産標識は、残念ながらほとんどの文字が消えてしまっていたが、取得年月日の欄には、昭和32年の文字が見て取れた。つまり、林鉄時代の建造物であることが確定!
また、名称(用途)の欄には、「千頭林〜」の三文字から始まる10文字前後の文字列が見て取れたが、読み取ることが出来なかった。「千頭林鉄〜」だった可能性も。
そしてもう一つは、表札のように掲げられた、「火元責任者 川村相市」の木札だった。人の来ない場所に残された人の名って、なんでこうも寂しいんだろう。
……お邪魔しまーす。
その後内部を探索したが、残念ながら、大樽沢の宿舎で見たジンクロのような、
林鉄時代のアイテムを見つけることはなかった。
しかし、これらの小屋は、思いのほかに居心地が良かった。
ここで一泊するのが良いのではないか。
そんな風に後ろ髪を引かれながら、外へと戻った。
それから、宿舎を見下ろす複線路盤、すなわち小根沢停車場内に入った。
また、標識を見つけたようだ。
が、
緑だ。
これは地味に大発見かも! ↓↓
次回、解説から!
栃沢(軌道終点)まで あと4.1km
柴沢(牛馬道終点)まで あと12.5km
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