2010/5/4(火) 15:26 《現在地》
小根沢の廃宿舎をあとにして、隣にある複線以上の幅を持った路盤へ上った。
そこには、おおよそ100m以上にもわたって複線区間がまっすぐに続いていた。逆河内支線との分岐地点になっていた大樽沢停車場より、さらに大規模な構内である。
レールは残っていないが、数十本の枕木が路肩にいくつかの山を作って遺されていた。
右にスギの造林地があるが、そこに緩やかな凹地があり、河道跡である涸谷の上流側出口であった。
この広い停車場の一角に、半ば土に埋もれた1枚の標識板を、私は発見した。
半分しか見えていない状況でも、標識好きの私には、これが「ツルハシ」を描いた標識だということがすぐに分かった。それよりも驚かされたのは、標識板の鮮やかな緑色だ。
よく聞いてくれ!!
←この標識板は、
“森林鉄道”用の「工事標」だ。
……といっただけでは、私が感じた凄みが十分伝わらないかもしれないので、少し説明させてれ。
「工事標」は、【距離標】・【曲線標】・【勾配標】に続く、千頭林鉄で見つけた4種類目の正式な林道標識(=昭和32年に林野庁が制定した『標識基準準則』による林道標識)だ。
これまでたくさんの林鉄を探索してきた私だが、この「工事標」を見るのは初めてだ。
そして、『標識基準準則』では、森林鉄道と自動車道の両方に使われる種類の標識については異なる図案を用意していた。具体的には、【この表】のように、森林鉄道と自動車道の両方で使われる標識が12種類あり、それぞれ二つのデザインがあった。
右図は、森林鉄道用と自動車道用のいくつかの林道標識の比較だ。
森林鉄道用と自動車道用の図案は似たものが多いが、全体的に森林鉄道用の方が小ぶりで、省略されたようなデザインになっている。
そして、ここに挙げた6種類の自動車道用の標識は、いずれも旧制道路標識(一般道で使われた道路標識の旧式図案)に、大変よく似ている。というか、それを真似て図案化したのだろう。森林鉄道とは違って自動車道の林道は一般道とも接続しており、一般のドライバーが通行することがある。そのため、独自の標識では危険だと考えられたのだろう。
なお、森林鉄道であっても自動車道用の林道標識が設置されたケースもあったようだ。かつて探索した宮城県の定義森林鉄道では、【警笛標】と【速度制限標】を見つけているが、どちらも自動車道用の図案だった。(理由は不明)
さて、この図はモノクロだが、各部の塗色についても指定がされている。その配色はなかなかカラフルだ。
中でも、私がずっと前から気にかけていて、いつかは実見で確かめたいと思っていたのが、森林鉄道用の「工事標」にのみ緑の地色が使われていることだった。
現代の一般の道路標識では、緑色は一部の自動車専用道路にのみ使われている特別な色だ。そんな特別感のある色が、昭和30年代の林道標識のうち、森林鉄道に設置された「工事標」にも使用されていたというのは、なかなかに意表をついていて、レアリティも高い、興奮すべき事実だと思っていた。
だが、あまりにも発見に遠く、今回実際に発見する瞬間までは、掲載された図が実は間違っていて、本当は緑色ではなかったのではないかと疑っていたくらいだ。なにせ同じ「工事標」でも、自動車道用は他の標識と同じ青色であり、わざわざ森林鉄道用にだけ緑を用いる合理的な理由が何も思いつかないのだ。
だが結論を述べれば、
森林鉄道用の「工事標」は、確かに緑色だったのだ!(バーン!)
余談だが、「旧制道路標識」としてひとくくりにされる昔の道路標識にも様々な種類と世代があり、中には緑色の地色を持つものもあった。
詳しくは、dark-RX氏の旧標識データベースを見ていただきたいが、昭和25(1950)年3月に改正された総理府・建設省令
『道路標識令』で、以下の6種類の道路標識が、緑色の下地色で登場している(これらはすべて「指示標識」に分類されていた)。
だが、これらの“緑”の道路標識は、昭和35(1960)年12月に『道路標識令』が廃止され、新たに総理府・建設省令『道路標識区画線及び道路標示に関する命令』が制定されると、そこでは「規制標識」に区分され、下地色も青に変更された。
これ以降、一時的に道路標識から緑色は一掃され、再び緑が登場するのは、昭和38(1963)年7月の府省令改正で高速道路関係の「案内標識」に用いられるようになってからである。これが定着し、現在では緑は高速道路のシンボルカラーという印象を持つ人も多いだろう。
まとめると、昭和25年から35年までの10年間に設置された道路標識の中には、緑色のものが少数存在していたのである。
ただ、残念なことにこの6種類の“緑”の旧制道路標識の現存例を、私は知らない。
今回見つけた緑色の「工事標」にしても、あくまで(旧制の)林道標識であり、旧制道路標識というものではない。
もしあなたが緑色の古い標識を見つけたなら、ぜひご一報いただきたいのである。
それにしても不思議なのは、上で見たとおり昭和25〜35年の「工事中」の道路標識は緑色だったのに、昭和32年に林野庁が制定した自動車道用の林道標識「工事標」は、道路標識の「工事中」と同じ図案を採用しながら、なぜか下地色は緑でなくて青だった。当時既に林野庁は知っていたのだろうか。間もなく一般道の道路標識の配色が変更されることを。
以上で説明は終わり。
個人的には林鉄から脱線したつもりはないが、多くの読者様にとっては、そうではなかったかもしれない。
でも許してほしい。
いつ見つかるのか全く目処が立たない状況のなかで、それでも林鉄へ行く度に頭の中には置いていた“緑”の標識を、ついに発見した。その興奮と喜びは、私にとって本当に大きなものだったのだ。
写真は、発見の興奮冷めやらぬまま振り返り、発見現場の全景を撮ったものだ。
停車場の構内に本当に何気なく落ちていて、しかも半ば埋まっていたのだ。遠からず、完全に埋もれてしまっていたことだろう。
正直、持ち帰ってどこかの博物館に手渡したい気もしたが、特別な場合以外は持ち出しをしないポリシーに従って、そのまま……にするとまた埋もれてしまいそうなので、少しだけ目立つように置いてきた。
だから、きっと今も残っているはずだ。
南諸之沢(仮称)の複線部でも見たコンクリート製の小さな標柱が、ここにもあった。
四面に「空図/公/頭123/山」と刻まれているこいつの正体は、前も書いたように、空中図根点の標柱である。
前の標柱との違いは、「頭123」という数字で、前は「頭130」だった。
なお、今回はこの標柱だけでなく、根元にもう1枚、見慣れないブリキ製のプレートが落ちており、そこには「(空中写真測量) 図根点見出標 東京営林局」という文字が書かれていた。
これらはセットで設置されていたものなのだろう。
以上がこの清閑の地、小根沢停車場跡での発見だった。
15:25
現在時刻午後3時半。前進を決断するには、微妙な時刻だった。
小根沢停車場の長い複線部の終わりに待っていた荒い切通しを前に、突然冷静になったように足を止め、沈思黙考へと陥る私がいた。
これは根拠などない“勘”だが、このタイミングで居心地の良さそうな“寝床”を見つけたのは、いわゆる巡り合わせではないのか。
そんな幸運を蹴って進むのは、不吉なのかも……?
……いや、さすがに非科学的すぎる考えだな。
もっと論理的に考えよう。
ここを蹴って進んだ場合、次に屋根付きの寝床にありつける可能性が高い場所は、粁程図で約2km先にある大根沢停車場付近になるはずだ。
大根沢は、林鉄時代の多くの記録に名前が出てくる千頭奥地における最大の事業拠点であり、小根沢以上に多くの宿舎が残されている可能性が高い。
ただし、絶対ではない。大根沢には(小根沢とは違って)現在の地形図に一軒の家屋すら描かれておらず、もしかしたら大規模故にもっと綺麗に撤収している可能性もある。
地形図に関わる不安は、もう一つある。
大樽沢からここまでは軌道跡に沿った一本の破線道(徒歩道)が描かれていたが、この先はそれがなくなる。
これまでだって道は完全な廃道状態だったのだから、それが描かれなくなっても状況など変わらないかもしれないが、もっと荒れている可能性もあった。
まあ、このまま進めば遠からず答えは出るわけだが。
仮に、大根沢へこれまでと同じくらいのペースで進めたとしても、その到着は日暮れ間近の午後5時半から6時頃になるだろう。
もしそこに寝床になる建物を見つけられない場合、そのまま、タープと薄い寝袋だけで野営することになる。
今、私の周りに明るく広がる見慣れた山野。
それが私を捉えたまま、徐々に闇へと覆われていく場面を、想像する…。
その闇はずっと深くなり、真の闇夜が10時間以上にもわたって続くことを、想像してしまう……。
……… ………
……… ………
‥‥‥ ‥‥‥ ‥‥‥
やめだ!
つまらない想像は、やめにすべきだ!
探索は慎重であるべきだが、臆病者には決して手懐けられない成果もあるはず。
それが、私の知る廃道。
ここで前進をやめて、本来の到達目標地点からは2kmも足りない小根沢での泊まりを選べば、当然それは明日の行程に響く。
すべての終点である「柴沢」までたどり着けないという悔しすぎる決着や、無理にたどり着いたとしても、明後日にはじめ氏が待つ下界へ約束通り下山できなくなる恐れがある。
最悪の場合は遭難“騒ぎ”になりうる。それはオブローダーとしての半死に等しい痛恨事だ。優しいはじめ氏なら、私が明後日の深夜までに戻らなかった時点で遭難を届け出るかもしれないと思った。(余裕を持ったリミットの時刻を決めておくべきだと後悔したが、後の祭りだった)
小根沢停車場を通過。
切り通しを抜けると――
架かってる橋キター!!
15:30 《現在地》
千頭林鉄での充実した遺構密度からすれば、この程度でも久々と言っても良いかもしれない。
諸之沢のトラス橋以来1.3km、約1時間半ぶりとなる、“現存橋梁”との遭遇となった。
橋は支流の小根沢を一跨ぎにするもので、長さは短いが、近寄ってみると、遠目で見た印象より遙かに高さがあった。
橋の上にはこれまでと同じようにレールと枕木が残っており、渡り方もこれまでのPG(プレートガーダー)橋と同じだ。
だが、この橋の形式はPGではなかった。
千頭林鉄では初めて目にする、“Iビーム桁橋”だ。
PGは複数の鋼鉄製の板材(プレート)を組み合わてI形断面の主桁(ガーダー)を作るが、Iビーム桁は工型鋼というはじめからエ形(I形)に形成された鋼材(Iビーム)を主桁とする。形は似るが異なる形式の橋だ。後者の方が製鋼技術としては高度であり、PGには明治生まれもあるが、Iビームは昭和以降が大半である。
また、この橋の今までにはない特徴として、橋の上に1本のワイヤーケーブルが置かれていたことも挙げられる。
このケーブルの両端は両岸部のレールに固定されており、おそらく歩行者が安全帯を利用するための固定ケーブルと思われる。
林鉄が廃止された後にも、この橋には安全帯を着用する人々…林業関係者…の頻繁な利用があったようだ。
そして、このIビーム桁には製造銘板が取り付けられていた。
本日3枚目の銘板である。内容は次の通り。
これまでの2枚との違いは、製造年が「昭和30年」から「31年」になっただけだ。
林鉄自体の廃止が昭和43年だから、たった12〜3年しか林鉄橋としては使われなかったことになる。従来の木橋を置き換えて架設された“永久橋”としては気の毒過ぎる短命だが、昭和30年頃はまだ関係者にも林鉄という“種”の寿命は、あまり意識されていなかったのか。
さあ、それでは渡ってみよう。
今日はこれよりも規模の大きな橋をいくつも渡ってきたので、さすがにもう慣れている。
だいぶ前からずっと連れている木の棒を軽い支えに、スタスタと良いペースで橋の中央付近へ。
眼下を流れるのは小根沢だ。
間もなく寸又川の本流に合流する流れは、支流といえどもなかなかの水量であり、作り上げた谷も深く鋭い。
狭い峡谷に支流と本流の渓声や瀑音が混ざり合って騒々しく、谷を抜ける冷たい風、薄暗さと相まって、気圧されるような緊張感があった。
なお、2.5kmほど上流で左岸林道もこの沢を跨いでおり、順調に進めば明後日の朝に通るはずだ。
これは同じ橋上からの下流側の眺め。
すぐ先に落差5m程度の立派な滝があり、奥は両岸の1枚岩が垂直に切り立った、いわゆる回廊状の急湍になっている。
100mほど下流で本流と合流するはずだが、谷が狭く見通せない。
本流は支流より格段に水量が多いため、谷底を下へ削る浸食力(下刻力)も段違いに強い。そのため合流地点の直前で、支流は極端な急傾斜となって本流へ落ち込む形になるわけだ。
堂々たる一大景勝だが、未来永劫ここが一般の観光対象となる日はこないだろう。
15:32
無事渡り終えた、小根沢橋梁(仮称)。
こちらから見ると、長さの割に高さがあることがよく分かると思う。
特にIビームはPGより桁の丈が小さいので、相対的に橋自体の高さが際立って見える。
とびきり険しい谷をスリムな桁が一跨ぎにしている姿は、素直にかっこいいと思えた。
そして、素敵な橋を渡ったご褒美なのか。
思いがけない発見が!!
この青っぽいブリキ板は! →
もしや?!
う、 裏返してみるぞ……ドキドキ
キタァー!!!
警笛標(森林鉄道用!)
小根沢停車場構内で発見した“工事標”に続く、森林鉄道用林道標識の発見だった。千頭林鉄だけで、本日5種目目の林道標識。今まで10年探して見つからなかったようなものが、今日だけで次々見つかりやがるのだから、 た ま ら な い !
かつて見た【定義林鉄の警笛標】は“自動車道用”のデザインだったが、今回は正真正銘の森林鉄道用。これで本当に自動車道用と森林鉄道用の2種類のデザインがあったことも確認出来た。
ここはちょうど橋の袂である。鉄道運転シミュレータゲームの「電車でGO!」では、しばしば橋の袂に警笛ポイントがあったが、林鉄にもそれは当てはまっていたのだろうか。
15:35
小根沢を渡ると、今度は良い感じに石垣が残る、長くて浅い掘り割りが待っていた。
写真は振り返って撮影。写真奥のすぐ先にさっきの橋があった。いかにも鉄道廃線っぽい風景である。
なお、中央とその手前の路肩に見える木材片は、枕木だ。
向かって右側の路肩外側に大きな谷が存在するが、この谷は予想に反し、寸又川の本流でも小根沢の谷でもなかった。
谷を覗いた私は、意外な景色に驚いた(驚いてばっかりだ)。
その大きな谷には、全く水が流れていなかった。
単なる渇水ということではあり得ない。
対岸の遠さは、これが水涸れのする小支流などではないことを物語っている。
先ほどの小根沢どころか、普通に本流と匹敵するくらいの広さと深さを持った、本物の谷。
どうやらこの谷の正体も、小根沢停車場を取り囲むように刻まれていた涸谷と同種の旧河道跡、死河川であると考える。
軌道跡は緩やかにカーブする深い涸谷に沿って、本流方向へ向かっていく。
改めて、小根沢周辺で見つけた二つの涸谷の位置関係を見てみよう。
この図の通り、小根沢出合の南側と北側に一つずつ河跡地形の涸谷があるが(図の範囲外だが、小根沢の上流にも顕著な涸谷地形が見られる)、これらは小根沢に分断された一続きの谷というわけではないようだ。
というのも、二つの涸谷の標高には差がある。南側の谷底は寸又川の河床よりも20mも高いが、北側の谷底はそれより遙かに低く、寸又川とさほど差がないように見える。
また、谷の幅や険しさからくる印象も、だいぶ違っている。
おそらく、南側の涸谷は小根沢の旧河道で、北側の涸谷は寸又川の旧河道ではなかろうか。
教卓からは遠い世界にあるが、なかなかに興味深い地形だと思う。
15:38
涸谷に沿って進むと、路盤を完全に埋め尽くす大きなガレ場があった。
山の遙か上手から雪崩のようなガレ場斜面が走っており、路盤を悠々とのり超えて、そのまま涸谷まで注いでいた。緩傾斜なので突破自体は難しくない。
膨大な崩土が幅の広い涸谷のほとんど全幅を埋没させていたが、そのせいで見通しが良かった。
涸谷の先100mほどの位置に、青黒い水の流れが見えていた。
音はずっと聞こえていたが、久々に見る寸又川の本流だ。
間もなく軌道跡もあの本流沿いに戻るのだろう。
“本番再開”の予感がする。
小根沢に甘やかされる時間が、終わってしまう。
あの明るさが、谷が広くて空の見える本流の証しだ。
軌道跡は、次のカーブで本流沿いに出る。
15:41 《現在地》
本流沿いに復帰。
ぶるっ と来た。 良くない予感がする。
栃沢(軌道終点)まで あと3.8km
柴沢(牛馬道終点)まで あと12.2km
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