2010/4/20 8:28 《現在地》
“それ” は、思いのほか近くに待ち受けていた。
私がレールの残る路盤に降り立ち、一瞬どちらへ行こうかを迷ったものの、すぐさま上流方向を先に終らせる事を決めて歩き出したら、すぐ目の前であった。
この旧線で出会った最初の隧道。
その思いのほかに、しっかりとした姿であった。
昨日と今日と、私はこの大井川鐵道井川線の沿線で、いろいろな探索を続けていた(昨日は【これ】とか)。
だから、この鉄道の“隧道”は、もうそれなりに見慣れたものになっていた。現役のものも廃止されたものも、いろいろ見た。
中でも昨夕に探索した旧第9号隧道のインパクトは非常に大きかった。
そして今度私の前に現れた廃隧道の坑門には、昨日の「9」と同じ位置に、「26」の数字がペイントされていた。
それ以外に装飾、あるいは情報と呼べるものは見あたらなかった。
第26号隧道の内部に目を向けると、敷かれたままの3本のレールが、緩やかに左へカーブしながら、見えざる闇の奥へ向かっていた。
今まで数え切れないほどの廃線の隧道を探索した記憶があるが、レールが敷かれたままというのは相当限られる。おそらく、両手で数えきれるほどだ。
さらに林鉄や鉱山関連を除いて、純粋な鉄道事業法に則った鉄道に限るならば、本当に希少と言えた。
水没前提で廃止された路盤からレールを撤去しなかった理由は、分からない。(誰か分かる方がいたら教えて下さい)
そして、この隧道は閉塞しているはずだった。
この情報も「新・鉄道廃線跡を歩く3」によるのだが、冒頭でも述べたとおり、この隧道を出た先にあるらしい新旧線分岐地点で撮影した写真には、しっかりとコンクリートで塞がれた旧線の坑口が写っていた。
だから通りぬけられる期待は全くしていないし、そんな隧道は、当然のように薄気味悪かった。
坑口部分だけは少し水が溜まっていたが、洞内は水が捌けており、レールがあるだけで、まるで現役の鉄道と錯覚するような光景があった! (ウヒョー!!)
もっとも、“現役の鉄道”といっても、一般的な鉄道ではなくて林鉄の隧道に近い感じを受けはしたが、それはやむを得ないことだろう。
まず、隧道が素掘であることが一般的な鉄道の隧道とは異なっていたし、断面の小ささもそうだった。
皆さまもおそらくご存知の通り、井川線は元々が国鉄標準の軌間1067mmではなく、林鉄と同じ762mmというナローゲージで始まった経緯があり、その後1067mmへ改軌されたが、トンネルなどの構造物に適応される構造限界は小さいまま据え置かれている。いま私がいる接岨湖畔の旧線は、昭和29年の開業当初から軌間1067mmだったが、その小さな構造限界に則った、ナローサイズの隧道なのである。
ゆえにこのサイズの隧道が、私にとって国鉄隧道並みに見慣れた林鉄隧道と見えてしまうのは自然な成り行きだった。
足元に目を向ければ、それは確かに林鉄のものとは見間違えるはずのない頑丈そうな「普通レール」がある。
いろいろな規格がある普通レールの中では、おそらく一番軽い(細い)部類には入るのだろうけれど、それでもしっかりとした違いが感じられる。
もちろん、枕木やその下にあるバラスト、そしてその両側にあるコンクリートの枠や側溝といった路盤の全体が、林鉄以上の丁寧さを持ってしつらえられていた。
これならば平成2年という年まで現役だったのも頷ける――
――というよりも、
実際に井川線に乗ってみれば分かるが、今でも接岨峡温泉以東の区間には、こんな感じの素堀隧道がごろごろしている。
だから、これは「井川線として見れば標準的な隧道」といえるのかもしれない。ただ、廃止されているのが珍しいだけで。
なお洞内は、素掘であるせいなのか、雨のせいなのか、閉塞しているせいなのか、湖が近いせいなのか、おそらくその全部のせいだと思うが、水気が多かった。
天井から滴る大量の水が洞内を水没させていないのは、単にそこが歩いていても感じられるほどにたっぷりとした上り勾配を持っているからだろう。
この第26号隧道の正確な全長は分からないが、地図から読み取る限り、おおよそ300mである。
井川線の隧道としては珍しくない長さだが、歩くには十分な長さだし、出口が見えない状況となれば、なおのこと闇が深く感じられる。
入口はカーブしていたものの、それは序盤だけで終わり、中盤の今は直線であった。
振り返ると、白い坑口が横の潰れた歪な形に見えていた。それもだいぶ小さく。
そしてこの素掘区間内に現れた待避坑(赤矢印)は、昨日の旧第9号隧道で見たものと同じように、コンクリートの擁壁をもって大仰に仕込まれていた。
待避坑は素掘ではいけないという、ルールがあるのだろうか。
さらに待避坑のすぐ先の左側の壁(黄矢印)にも、私を喜ばせそうなものが見えていた。
待避坑の中に置かれて(捨てられて?)いたのは、縦に真っ二つになってしまった距離標(の残骸)だった。
左側半分だけになっていたが、「1/2 14」の表示を読み取れた。
千頭駅を起点とした14.5kmポストであったのだろう。
なお、私は少し後の帰路にて、この待避坑の付近、ちゃんとした距離標を見つけて撮影している。→(写真)
往路で気付かなかったのは変だと思うかも知れないが、実際は写真で見るほど明るい照明で探索しているわけではないので、こうした見逃しは十分ある。
そして、この完全なキロポストを見つけたことにより、先に見た“半分になったキロポスト”が棄てられたものであったという推理を深くした。
続いて、向かって左の壁にあったものは、勾配標だった。
表示内容は、左側の羽根が「25」、右側の羽根が「6」で、羽根そのものの傾き方からも分かるように、ここで25‰の上り勾配が6‰の上りに変わることを意味している。
ダム湖に沈んだ旧線は、その大方のイメージの通り、下流から上流に向けて一方的な上り勾配であった。区間の最後となった隧道もまた、出口に至る最後まで精一杯上っていた。
そもそも、この第26号隧道が存在する位置は、長島ダムの満水位よりもだいぶ高いようである。
だから、ダムによって隧道そのものが水没したわけではなかった。
にもかかわらず廃止されたのは、新線位置との兼ね合いであったのだろうが、ルートの設計当時には活用の方策が考えられていたかも知れない。
完全に喫水線の下に行ってしまった遺構よりも一層もの悲しく感じられるのは、私だけではあるまい。
朽ちかけた勾配標が精一杯に持ち上げている羽根を見ながら、私はそんなことを考えた。
「マジかよ?!」
そんな声が出ていたかも知れない。
写真では少し分かりづらくて申し訳ないが、現場にはそれほどの衝撃があった。
隧道が更に狭くなっていた。
今までだって1067mmの軌間と釣り合わない狭さを感じていたのに、ここから先の狭さはもはや機械化された林鉄よりも小さく、おそらくは「林用手押し軌道」(森林軌道)と呼ばれるものに匹敵するのではないかと思った。
以前に誰かが、「井川線の車輌は、普通のナローゲージ(軽便鉄道)よりももっと小さい」などと言っていた気がするが、それは本当だったのだろうか。
とても驚かされた極小断面区間だったが、その有り様を観察していくうちに、それがどうやら、“苦渋の選択” とか “やむを得ず” といった後ろ向きなコトバの上に成り立っているものらしいと感づいた。
極小断面区間の壁はコンクリートの吹き付けによっていたが、その表面には他の部分には見られない格子状の凹凸が浮き上がっており、それは埋め殺された金属製のセントル(補剛材)によるものだと推測出来た。つまり、完成後に何らかの事情によって隧道の巻き立てを強化する必要が生じて、建築限界の限界まで断面を縮小したのではなかったか。
そしてその原因はやはり、古隧道にとって宿命とも言える変状問題だったのだと思う。
私はこの狭小断面部に、変状測定用と思われる観測装置が取り付けられているのを確認した。
ダム湖の完成という隧道とは関係のないところの大きな運命とは別に、隧道そのものの強度にも大きな問題が生じている状況で、平成2年の最終日を迎えたのかもしれない。
狭小断面部は50mほどで終結し、もとの断面に戻った。
左の壁に先ほどまで見られなかった配線が増えているが、これは例の観測装置から、このすぐ先の待避所にあった電源(あるいは操作?)ボックスへ伸びていた。
こうした本格的な施工のお陰で、目に見えるような変状や亀裂は見あたらない隧道内ではあったが、既に入洞から10分を経過しつつあるなかで、未だ光のない洞奥へ進み続けているという状況は、ここへ至るルートが開放的ではなかったことや、天候の悪さなどの状況とも重なり合って、ますますこの隧道を畏怖すべきものに変えていた。
本来ならば出口へ向かうはずの歩行が、袋小路へと自らを追い立てているかのような違和感。
それはあり得ないことだと分かっているはずなのに、突然に湖の水位が増えて、私が帰るべき唯一の入口を冒すのではないか…。そんな妄想すら覚えた。
水の滴る音しか聞こえない洞内の底知れぬ闇を、1本のマグライトだけを頼りに切り開いていく。
その光が照らし出す場所は常に一面だけであり、フラッシュ撮影の写真のように、視野の全てが同時に見えるわけではない。
だからこそ、洞床に転がった動物の骨を見たときは、ハッとした。
天井に沢山のコウモリ達が巣くっており、洞内にも一応の生物相を与えてはいたが、それとは別の動物…それも死骸を見ることには、あまり慣れていない。
否が応でも“死”を連想させる発見は、ちょっと嬉しくない。
更に進むと、再び隧道のカーブが始まった。
入口付近と同じ左向きのカーブで、付近の待避坑に曲線標を、壁にも同様の意味を持つ表示を見つけた。
「R:70」は曲線半径70mを、CやSの数字はそれぞれカントとスラッグの大きさを示している。
廃線跡で曲線標を見ることはよくあるが、ここには敷かれたままのレールもあるから、その気になれば実地的に数字の内容を確かめる事も可能だろう。
カーブが始まった辺りで、
私は “不思議なもの” を見て足を止めた。
前方に 光が……… 見える?
右の写真は、同じ位置に立ってフラッシュ撮影と、灯りを消して撮影したものだが、後者には点のように小さく丸い光が見える。
当然、肉眼でこれが見えた。
隧道内で光が見えたのは、普通ならば歓びだろう。
だが、今回に関しては「不思議」だった。
なぜなら、この隧道には出口が無いと思っていたからだ。
それに、あの光の見え方はどうだ? あまりにも小さい=遠い?
既に入口から250mは歩いているはずで、地図を見る限りは、出口がそんなに遠い(=隧道が長い)わけはないのだが…。
私は一体、何を見ている?
苦心の痕再び、といったところか。
物々しい、…いや、毒々しい風合いのセントルが、今度は裸で現れた。
さらに漏水も相当激しく、雨降るが如き洞内は湿度が振り切れて、先が見えにくくなった。
相変わらず、出口の光は点のようであったが、
結末は思いがけずに――
レールが、剥がされている?
いや、ここのレールは敷かれたままなのだが、どこか別のところで剥がされたレールが、重ねられている。
さらに奥を見ると、同じように剥がされたらしき枕木が、キャンプファイヤーよろしく櫓(やぐら)になっていた。
また、そんな剥がされたレールに混じって、大量の犬釘が捨てられていた。(→)
これは、明らかに“線路撤去”の情景?!
――近かった。
8:42 閉塞地点(隧道東口)に到着! 《現在地》
私が騙された光の正体… もう、お分かりだろう。
遙か遠くの出口の光と思ったものの正体は、
間近にある小さな出口(というか孔)から漏れる光だったのだ。
まんまと騙された。
私はこんな思いがけない結末と、ゴールに達した安堵のために、
――吹き出してしまった。
ひとしきり笑ってから、改めて眺めてみると、変わった閉塞地点だと思う。
右側の巨大なバットレス(支え壁)が一番に目を引くが、これは現在線がすぐ近く(壁の向こう)にあるために、閉塞時の補強として設置したのだと判断した。
そして他にもここには、“謎のもの”が、いくつかあった。
閉塞壁で見かけた変なもの、その1――
―― 高野沢橋梁 と書かれた板きれ。
おそらくこいつは、構造物標というものだと思う。
JRの線路では見かけないが、かつての林鉄では、橋やトンネルなどの構造物に、その名称や位置(キロ程)を記した標識(構造物標)を置く決まりがあった。
まあ、実際にはあまり置かれていなかったようで、林鉄跡で現物を見た憶えはほとんど無い(千頭林鉄のここで見ている)が、千頭林鉄と関わりが深かった大井川鐵道でも、構造物標が使われていたのだろうか。
もしかしたら、過去の遺物として貴重な発見かも知れない。(この橋がどこにあったかは不明)
閉塞壁で見かけた変なもの、その2――
―― 植木鉢 (何か植えられていた形跡あり)
直径25cmほどの立派な植木鉢で、中には何かの枯れた茎とともに肥料や土が残っていた。
こちらは、いよいよもって全く正体不明で、さすがに鉄道と関係があったとも思えないのだが…。
何者かが、僅かに外光の入り込むこの空間に息づいて、外の世界を窺いながら、ひっそりと一皿の植木鉢を育てていたのだとしたら(そしてその育ったものと共に居なくなったのだとしたら)、これはちょっとしたホラーである。
自分の変な想像に、ブルルッ!
私は今、外の光を顔に浴びられる場所にいるのに、長い闇を背負っていて、生還のために絶対にそこを通らなければならないという、まるで檻の中に居るような状況だった。その闇に、植木の主が…? ほら〜。
ここから出してくれぇ〜!
…… な ん て 、 な。 冗談だ。
直径25cmほどの真円の孔は、50cmほどの厚みの向こう側に、生きた線路を見せてくれた。
でも、なんかテレビ画面の向こうのように、現実感がなかった。
視界の奥に見えるのは、きっと第27号隧道というのだろうな。
私が居る隧道のネクストナンバーで、同じ時に生まれた、しかし平成2年に決定的に運命を別った、隣り合う存在なのだ。
孔の見え方からいっても、旧線の道床よりも、新線の道床は1mくらい高いようだった。
この最後の“手が届きそうでいて届かない”一場面だけでも、ダムに沈んだものと、それを克服したものとの差が、象徴的に現れているように感じられたのだった。
私は、そんなに長い間、ここで外の光を眺めたわけではなかったが、
いざ帰るべく振り返った瞬間には、目を覆われたような闇の濃さに思わず息を詰まらせた。
これは、外光に目を慣らしてしまった故の小さな弊害だった。
第26号隧道の探索を終了。
この日の午後のことだが、少し線路沿いの山野を跋渉して、塞がれた新旧線分岐地点に地上から接近してみた。
左に見えるのが新線(現在線)で、右が旧線の第26号隧道東口である。
私が洞内閉塞壁の控え壁を見て予想したとおり、新線は旧隧道の断面に一部干渉していた。
そして、1m程度新線の方が高い位置に道床を持っていた。
それにしても、わざわざこの坑門を塞いだ理由は何だったのだろう。
ここを塞いだがために、接岨湖畔の旧線アプローチは困難度と大いに高めてしまった。
そんなことは廃線探索者だけの都合かも知れないが、ここを塞ぐ前に旧線上の線路を撤去して持ち出さなかった理由は、やっぱり謎である。
この写真は、同上地点から逆方向を向いて撮影した「第27号隧道」――
――のつもりが、新線切り替え時に番号を変更したらしく、新線上にあるトンネルの通し番号である、「第24号隧道」へ改められていた。
まだ若さを感じさせる23号と、廃止された26号、そして元27号だった24号とが、決着のついた三角関係を振り返るように無言で向き合う。静かな雨が一番似合う、そんな新旧線分岐地点だった。
次回は、湖畔の廃線を更に辿る。
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