廃線レポート 豆相人車鉄道・熱海鉄道 大黒崎周辺 最終回

公開日 2016.4.28
探索日 2016.2.21
所在地 静岡県熱海市

現存する廃線跡の南端部


2016/2/21 12:18 《現在地》

戦慄を誘う謎の井戸を後に、さらに南へと向かって軌道跡を進むことにする。

この軌道跡に出会った地点からここまで、上部を並走する国道の間隔は徐々に狭まってきており、まだ見上げてもその路肩が見えるわけではないが、行き交う車の音はひっきりなしに聞こえるようになった。
このまま近付けば、私の前にどのような場面が登場するのかは、だいたい予想がつく。
それはひとことで言えば、良くない未来の予感だった。




ぬぅわ〜!!

いきなり、来やがったーー!!

井戸の地点から南に進むと、小さな尾根を回り込んだ辺りから猛烈なササ藪が始まり、それだけでなく、ここまで途切れず続いていた足元の平場が、無くなった。
これはいったいどうしたことだ。
地形はさほど急峻ではないので、頑張って藪を掻き分ければ、まだ進めるが…。



12:24 《現在地》

で、我慢して数十メートル進んだのだが…

これは、アカンです。

もう路盤がどこか分からないし、藪が半端なく濃いために、1m進むのだってえらく面倒だ。しかも、少し意地を張って進んだ所で、その目的となるような場所も無い。
せいぜい、路盤上(正確には路盤の延長線の斜面上)から見えるようになった、現国道の路肩が目的地となり得たのだが、ここから斜面を斜めに進んで向かうのは、藪を進む距離が長く余りに面倒。

結局、この辺りの路盤が斜面化して失われている理由は、関東大震災などの被災によるのか、国道の拡幅に伴う残土投棄の結果なのか、不明だが、国道に近付けば路盤が失われるだろうという“予感”は、現実になってしまったのである。
私は悩んだ末、少し引き返して斜面の藪の浅い場所から、国道へと脱出することにした。



12:28 《現在地》

おおよそ40分ぶりに、廃線の眠る森から、国道の喧騒世界へと復帰した。
現在地は大名ヶ丘バス停と大洞台バス停の間で、自転車を路肩に置いてきた“入山”地点から、国道を300mばかり南下した地点だった。
すなわち、私がこれまでに辿った軌道跡の長さも300m程度ということだった。

この写真に重ねて、非常に大雑把ではあるが、今回辿った軌道跡と、そこへの出入りに使ったルートを表示した。
山林や藪が濃いため、国道からではほんの少しでさえ、この斜面の中腹に幅2〜3m程度の軌道跡が存在する様子は窺い知れない。
そのうえ、国道は交通の流れが速く、交通量も多く、さらに自動車を停めておけるような場所もほとんどないため、軌道跡もあまり探索されていなかったのではないだろうか。

これで一旦、国道へと復帰した私であるが、自転車を回収しに戻る前に、軌道跡と国道がぶつかる地点を探しに、さらに南下してみることにした。



12:29 《現在地》

一旦国道へ復帰した地点から、100mほど南下したのが写真の地点である。
ちょうどこの辺りで熱海市内の大字が泉から伊豆山へ変わる。明治22(1889)年にこれらが合併して熱海町(後に熱海市)になる前には、泉村と伊豆山村の境だった。
しかしこれといった地形的特徴はない境界だった。

なお、この100m間は、国道の路肩から見下ろすと猛烈な笹藪斜面が海岸線近くまで続いており、とても踏み込んで軌道跡を捜索する気にはなれなかった。
だが、ここに来て再び森が再開し、踏み込める余地も出て来たので、そうしてみようと思う。
具体的には、この写真の少し奥の方で、路肩の二重になっているガードレールが途切れているが、そこから斜面を覗いてみることにした。




あった!!

まさに、お誂え向きと声を上げたくなるほどの首尾の良さで、前と同じような“平場”が、国道の下、高低差にして僅か10mほどの所にピンポイントで存在していた。

さきほど辿るのを一旦断念した地点では、まだ高低差が20mくらいはあったように思うので、100mばかり目を離していた隙に、国道は下り軌道は上って、両者は確実に間隔を詰めてきた。

ただし、ここに見られる平場は、明瞭である割に驚くほどに短距離だった。
北側はすぐさま例の激藪斜面に飲まれていたし、南側も激藪ではないものの、急斜面に路盤は消えていて、辿る事は出来なかった。
というか、ここまで来ると国道の路肩から直接見下ろせる高低差なので、辿ってみようとは思わなかったというのが、より正確な表現である。



12:36 《現在地》

そして、それからさらに100mほど南下したところに大洞台(おおぼらだい)バス停があり、そこが軌道跡が国道と合流していた推定の地点である。
(どうでもいいが、このバス停のローマ字表記「OBORADAI」が、「OBROADER(オブローダー)」に見えて仕方なかったw)

結論から言ってしまうと、ここで合流していたという明確な根拠はない。
この上で紹介した平場以降(以南)では、国道の路肩下に軌道跡らしき平場が現れることなく現在地に至っており、これより南に進んでも同様である。

そんななかで、この地点を合流地点であると考えた根拠は、古地形図では稲村集落に入る前のこの辺り(大雑把だが)で、専用軌道が熱海街道沿いの併用軌道に変わっていることが一つと、微妙ではあるが国道の勾配がここで少し変化していて、南に向かって下り坂が続くことに変わりはないものの、それがここで一段緩やかになっているのである。
それはまるで、併用軌道区間に相応しい勾配のように見える。

とまあ、情けないくらい根拠は弱いが、“この辺り”で合流していたことだけは、『下田街道』の記事にある、地元の方の証言からも間違いないだろう。




《現在地》

大洞台バス停から400mほど国道を南下すると、稲村集落がある。
ここには人車鉄道時代には駅はなかったものの、軽便時代になってから稲村駅が置かれたという記録がある。
だが、国道沿いにも集落内にも遺構や案内板は見あたらない。いずれ、この辺りでは完全に併用軌道になっていて、
現在の国道の位置が、そのまま軌道跡でもあったと思われるから、遺構も残りようがない。

そしてこの先も併用軌道のまま、伊豆山の門前町を経て、終点の熱海まで、
あと3.5kmほど行程は続くのだが、本編で紹介する廃線跡は、ここまでとする。





現存する廃線跡の北端部


13:00 《現在地》

さて、実は探索の時系列に沿って見ると、稲村集落へ行く前に、もう一つ探索を行っていた。
それは、置き去りにしていた自転車を回収するために、最初に軌道跡を発見した入山地点へ戻った際の出来事で、一度は「大崩落」のため探索を断念していた“北側”への再挑戦をしたことであった。

……で、特に新たな成果がなかったなら、この部分のレポートは省略するのだが、実は成果があった。
だから、もう少しだけお付き合い願いたい。




で、これはレポートの第3回で見たとおり、“スタート地点”から少しでも北側に行こうとすると、即座にこのような大規模な路盤欠壊現場に行く手を遮られる。
足元は狭く悪く、下はほとんど絶壁のように切り立っていて、100mも下にある海岸線が、気持ち悪いほど直下に見えるのである。
それでも斜面には木々が生えているため、遠目には崖のように見えないのだが、滑落すればきっとただでは済まない。
しかも、目に付く範囲には“次の平場”も見えないので、それで一度は「リスクに見合わない」と、探索を断念したのだった。

だが、僅か1時間ほどの間に、私にはこの軌道跡に対するある程度の信頼と、既に成果を挙げたという精神的な余裕が生じてきた。
裏を返せば、今から多少無理をして、その結果が空振りであったとしても、それを許せるだけの精神的な余裕である。
そんな心境の変化から、「ダメだろうな」と内心は思いながらも、一応進めないことはない程度の崩壊斜面へ愚直に踏み込むという決断をしたのであった。



そして、その結果が…



13:07 《現在地》

ジャジャーン!

これは、良いんじゃないでしょーか!!

これは、記録更新です。
この軌道跡で発見した石垣の規模の記録を更新。
井戸の所で見たものよりも、こちらがさらに大きい。
しかも、築堤としての路盤の見た目も、より鮮明だ。



実は、ここに至るレポートの過程は少し省略していて、件の崩壊地の突破には、7分ばかり要している。
距離的にも一呼吸で越える感じでは無く、50mくらいは全く根拠の無い斜面を水平移動した末の発見だった。
それだけに、この石垣を含む鮮明な築堤の発見は、非常に嬉しいものとなったのだった。

ところで、ある読者さんに教えて貰ったのだが、この鉄道に関する貴重な絵葉書を沢山見れるサイトがある。
それは『湘南軌道』さんで、そこに今回目撃した石垣と同じ積み方(空積み)の石垣が写る写真が何枚もある。
それを見ると、改めて、「ここがあの日本最古の伝説的な人車鉄道の廃線跡だったんだな」と実感出来た。




が、
“北側区間”での大きな成果と言えたのは、この石垣を持つ立派な築堤だけであった。

この発見に気をよくした私は、さらに徹底してトラバースを続けたのであるが、その先は手酷い崩壊斜面(←)と、路盤跡らしき平場(→)が、交互に現れるばかりで、これと言った大がかりな遺構には巡り会えず。



さらに進むにつれ、鞭である“斜面”の割合が増加し、飴である“路盤”は減少する一方だ。

苦し紛れに、藪の隙間より海上遙かに見晴らした初島の姿を往時の車窓風景に重ねて見たりしたけれど、その程度の事では苦闘を充足させるには至らない。
苦しい展開。
しかし、明確な終わりも示されないので、やめられない、とめられない。


しかも、遂にはこんなどこかで見たような猛烈な笹藪がはじまってしまうと、いよいよ私はこの探索を集結させる、そのきっかけを探すようになるのだった。

何 か 、 な い の か ?

苦しい闘いが、しばし続く。
というのも、この北側での探索は、南側での終盤のように、すぐ近くを国道が通っているという訳では無い。
むしろ、進むほど国道は離れていくので、斜面を強引によじ登って国道へ脱出するのも大変だし、来た道を引き返すのも苦しいという、二重苦なのである。

で、結局どうなったかというと…




13:40 《現在地》

大黒崎にある東熱海別荘地を目前に見通せるところまで、歩き通したのであった。
この写真の広い斜面を、別荘地側から見通したのが、第1回に登場し、絶望を感じた“あの写真”だ。
さすがに、この先は見ての通り猛烈なマント群落で、大黒崎まで路盤は現存しないから、潔く諦めることが出来た。

こうして、最終的にはスタート地点から北側にも300mほど探索したが、この間で明確な軌道跡があったのは100mほどだ。
半分以上は何も無い斜面や藪を掻き分けて歩いただけだったので、例の石垣がなかったら悲しかったかも。

とはいえ、このように頑張って歩き通したことで、大黒崎から稲村集落付近までの広範囲(約1km)にわたっての
軌道跡現存の有無と、その実際の状況を把握することが出来た。この区間については、満足のいく成果であったと思う。



その後、さらに数分の苦闘に耐え、頭上の斜面を強引に攀じ登って国道へ脱出。

今度こそ、大黒崎周辺での軌道跡探索を、完全に終結させたのであった。


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机上調査編  『なぜ、レールは残っていなかったのか?』 についての不完全考察


さて、今回の大黒崎周辺における一連の探索により、自身としてははじめて、豆相人車鉄道や熱海鉄道の(現在他に転用されていない専用軌道の)廃線跡とみられるものの実在を確認する事が出来た。

その広がりは右図に赤線で示した通りで、長さ500mほど。この路線の全長は25.6kmといわれているので、その2%以下であるのだが、全長の9割以上が併用軌道だったから、専用軌道区間自体がレアである。

なお、斜面に分け入るなどして廃線跡を探した範囲はさらに南北に広いが、確固たるものを見出し得たのが、この図の箇所ということである。後は、ただの斜面と区別がつかないか、別荘地などになっていた。

そして、確認が出来た廃線跡の状況は、事前に得ていた廃止時の経緯に関する情報――関東大震災で壊滅的な被害を受け、そのまま復旧されずに廃止となった――を裏付けるように、崩壊らしき断絶を挟んでいるほか、南北の末端部も斜面に消えるようで不明瞭だった。

一帯の海岸地形全体の印象は、急斜面である割には大木が多く茂り、比較的に安定した様子が見て取れた。それだけに、この地の路盤をかくも激しくつき崩したのは、数百年に一度という程度の大地震だったのかもしれない…という想像が現実味を持つ気がした。近年の新たな崩壊らしいものがあまり見られないのも、そう考えた根拠である。

もっとも、ここの廃線跡がとても荒れている本当の原因は、全く明らかではないというのが正直なところである。
天災というだけでも、90年以上昔の関東大震災以降、伊豆半島を大きく揺るがした地震は昭和初期の北豆地震ほか何度かあったし、大雨や台風災害にともなう土砂崩れもあっただろう。また、人車鉄道との同衾時代を完全に忘れたかのように自動車が幅を利かせるようになった熱海街道…現在の国道135号が、廃線跡のすぐ上部で路肩の拡幅を伴いながら度々拡張されてきた影響や、海岸線への有料道路建設の影響なども無視できないと思う。さらに廃線跡の一部では、後年に石切場が活動したような形跡さえあった。

私は敢えて何度も、本編レポート及びその元となった探索の最中に、「純然たる廃線跡」という表現を用いた。
それは自身を鼓舞する目的を多分に含んだ表現であったが、現実には「純然たる」は無理のあることで、90年を越える長い期間を様々な攪乱要因に任されていたものの適切な表現は、あくまでも「廃線跡」でしかなかったといえる。
それでも、ここは廃線になった以降に、他の9割の区間のように「道路として」利用された可能性は低いとみられたし、廃止直後の状況のまま放置されていたような区間が確かに存在していて、それが私を大いに喜ばせたのであった。



ところで今回、廃線跡で見つけた遺構としては、築堤や切割などの土工そのものを除けば、石垣くらいのものであった。あとは井戸の存在か。

これらの発見物に、レールや枕木は含まれなかった。


今回撮影した写真の1枚。この場所は廃止後に何ら転用された形跡がないのに、レールや枕木の類は一切残っていなかった。不思議である。

↑ いやいや、それは当たり前でしょ! 驚く場所じゃない、という突っ込みが入るかも知れない。

古今東西、一般の旅客用鉄道の廃線跡にレールが残ったままになるケースは限定的(例えば廃止でなく休止のまま現在に至るなど)で、レールや枕木は基本的に廃止後真っ先に撤去されるものである。産業用鉄道(林鉄や鉱山鉄道)はその限りでもないが、豆相人車鉄道・熱海鉄道は歴とした前者であった。
そのうえ何度も書いたとおり、廃止は遙か昔の大正時代のことである。

だが、それを理解した上でもなお、私にとって、この専用軌道区間内の廃線跡に一切のレールが残骸さえ残っていなかったという事実は、その理由を真剣に考えたくなる程度に、不思議な事であった。

基本的に、廃線跡にレールが残っていない理由というのは、それが廃止後に人為的に撤去されるからである。それ以外の理由としては、自然に風化したり災害で流出したりということもあるだろうが、これらの場合も、ある程度まとまった区間内のどこにも残骸がないというのは不自然だ。やはり、人為的に撤去されたと見るべきなのだろう。

だが、これも何度も書いていることだが、この路線が廃止された経緯は…

大正12年9月1日午前11時58分突如発生した大地震は東京はじめ関東地方に大被害を与えた。この関東大震災は、熱海軌道組合にも壊滅的な打撃をもたらした。真鶴、湯河原、熱海の各駅はいずれも倒壊し、線路も全線各区にわたり崩壊、埋没し、復旧の見込みは全くたたないほどの甚大な被害であった。同年9月25日営業廃止願いを提出し、翌13年3月26日豆相人車鉄道の開通以来、幾多の話題を生んだこの軽便鉄道は、29年にわたる歴史にその幕を閉じた。 『静岡県鉄道軌道史』より引用

…というようなものであり、この記述が全てであれば、本区間のレールは撤去されずに残っていたとしても、何ら不思議ではないと思えるし、私自身、この廃線跡でのレールの発見を全く期待していなかったといえば嘘になる。

無論、この路線の大半の区間を占めていた併用軌道区間であれば、そこが道路として復旧された際にレールも撤去されたと見る事が出来るが、今回探索したような専用区間内では、震災による壊滅後に、わざわざレールを撤去する工事を行ったのでない限り、レールが残っていても不思議では無かったはずだ。(まあ、実際にそうだったら、不思議でないかどうかを別にして「奇蹟的な発見!」と持て囃されただろうが(笑))

故に、帰宅後の机上調査は、現地の探索で私が個人的に最も疑問を感じたこの点――なぜレールは残っていなかったのか?――に絞って行った。


…のであるが、現状の結論として、この疑問の答えは分からなかった。
状況証拠的に考えれば、やはり震災後に撤去工事がなされたのでなければ、現状を説明出来ないであろう。
だが、 いつ誰がなぜ、どのように撤去工事を行ったのかという疑問は解消できなかった。

よって本稿は、不完全な机上調査により判明した、疑問解消のヒント程度にはなるだろう、いくつかの資料の提示に留まっている。
幸いにして、この“愛された鉄道”についての資料は比較的多く存在していて、私など及ばないほど熱心に研究されている方が大勢いるようだ。他力本願を適材適所という表現で誤魔化すのは恥ずかしいが、私は嶮しい現地の探索をして現状ある遺構の報告を少しだけ頑張りましたので、私の疑問の解消を引き継いでくれる方の出現を願っている。




1. 関東大震災の被災現場写真からの考察

熱海鉄道(と当時呼ばれていた軽便鉄道)が、関東大震災によって壊滅的な被害を受け、そのまま一度も運転再開がなされないまま、地震の25日後に休止届けを出し、翌年正式に廃止されたという事実は、本鉄道に関する多くの文献に記載されているとおりである。

だが、詳細かつ具体的な路盤の被害記録や、被災後の措置についての記録は少なく、探索前は未発見だった。
このことは、当時この熱海鉄道の替わりとなるべく、盛んに建設が進められていた国鉄熱海線の被害状況が、国鉄により詳細にまとめられた復命書などから明らかになっているのとは対象的で、国鉄熱海線の開通により確実に廃止が決まっていた熱海鉄道の最末期に漂う、ある種の諦観を感じる気がするのであるが、それさえも想像でしかない。

当時の熱海鉄道を巡る状況を整理してみると、小田原〜真鶴〜熱海間の豆相人車鉄道は、明治40(1907)年に改軌のうえ動力を蒸気機関車に変更した熱海鉄道へと改称されていたが、さらにこれを置き換える国鉄熱海線(国府津〜小田原〜真鶴〜熱海)の建設が大正初期にはじまると、熱海鉄道の経営陣は即座に全線の営業権を国鉄に売却し、同時に設立した熱海軌道組合が国鉄に代わって国鉄開業までの暫定的運行を行う体制となっていた。そして大正11(1922)年に国鉄の国府津〜真鶴間が開業すると、熱海鉄道(=熱海軌道組合軌道)はその並行区間を廃止し、震災当時の営業区間は、残る真鶴〜熱海間だけであった。
要するに、関東大震災によって廃止された熱海鉄道の区間は、真鶴〜熱海間のみである。
それ以外の区間は、震災の前年に既に廃止されていた。

このような状況を念頭に、震災直後に熱海近辺で撮影された被災現場の写真の中に、熱海鉄道の線路が写っているものが無いかを探してみたのである。
関東大震災の被災写真は数が多いが、こと熱海近辺でかつ熱海鉄道が写っているものとなると、それなりに簡単では無かった。




『静岡県の土木史』(昭和60年/五月会刊)より転載。

この4枚の写真は、『静岡県の土木史』という本に掲載されていた、関東大震災による国道135号(熱海街道)の被災現場写真であり、詳細な撮影日は不明であるが、何れも苛烈な被害の状況を見て取ることが出来る。

いずれも現在の熱海市内で撮影されたものであるが、オブローダー的にひときわ目を引くのは、右上にある隧道が写っている写真であろう。
この明治生まれの石積みの隧道は、ご存じの方もいると思うが、現在も市道(旧国道)として現役な観魚洞隧道だ。(現在の写真)
端正なあの隧道に、このような苛烈な被災の過去があったというのは驚きである。

…とまあ、話が脱線してしまったが、この4枚の写真のうち、熱海鉄道と関係があるのは、下の2枚である。
下の2枚の撮影地はそれぞれ、「熱海市伊豆山東谷」「伊豆山弁天平」と書かれているが、これらは下の地図に示した辺りのことだろうと思われるのだ。




東谷も弁天平も、いずれも現在の熱海市伊豆山の熱海街道沿いの地点である事は確定しており、東谷ついては同名のバス停が存在しているので、位置の確度も高い。
対して弁天平という地名は見つけられなかったが、伊豆山稲村の南の海岸に弁天岩と呼ばれる岩礁があり、この辺りに弁天平もあったのではないかと想像している。
いずれにせよ、2枚の写真は伊豆山地内の熱海街道沿いで撮影された写真で、高確率で(今回探索した)専用軌道区間内ではなく、熱海街道との併用軌道区間内である。

そしてこのうち、弁天平の写真には写っていないものが、東谷の写真には写っていた。



『静岡県の土木史』(昭和60年/五月会刊)より転載。


東谷の被災状況を撮影した写真には、路盤上に2本のレールが写っている!

現在の東谷附近は、このように著しく市街地化しており、震災当時とは全く様相が異なっているが、道の位置自体は現在と変わっていないはずである。
なお、奥の方に白く見えるコンクリートか煉瓦の土台のようなものの正体は不明だ。建物の基礎だろうか?



『熱海市史 下巻』(昭和43年/熱海市刊)より転載。


こちらの写真は『熱海市史下巻』に掲載されていた震災復旧工事の模様で、熱海市内のどこで撮影されたものであるかは不明だが、おそらく熱海街道の伊豆山附近ではないだろうか。
周りの地表にほとんど草木が見えておらず、山腹の崩れ方も凄まじいものがある。
そして、この写真にも、レールは写っている!
路上で働く人々の足元にご注目頂きたい。路肩に近い辺りである。

ここは道幅が広いので明らかに併用軌道の区間だと思うが、これがレールだとしたら、平らな路面にそれが半ば埋もれるように残っている路上で、人々が一生懸命に復旧作業を行っている風景である。


とはいえ結局のところ、私が探索した専用軌道区間内の被災写真が未発見である以上、併用軌道区間の被災写真を眺めても、余り意味はないのかも知れない。
廃止後に併用軌道区間のレールが撤去されるのは、余りにも当然の帰結だからだ。


本レポート公開後、さらに資料を見つけたので追記する。
国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている『震災五十八景』という、大正13(1924)年に出版された書籍で、内容は関東大震災の被災風景の詳細なスケッチである。
ここに、被災した熱海鉄道の路盤を描いたものが、3枚も収録されていたのである。
収録されている順(おそらく北から南の順)に、説明文と共に引用する。

 大名ヶ崎
大名ヶ岬は日金山の支流岩戸山の海に流れ落つる尖角である、湯河原から吉濱に一里近く歩てい(ママ)、そこから汽船に乗ると、約一時間で此岬を右に見て熱海へ着く。熱海から海岸を伝うて門川に出る立派な縣道が出来かかってゐたが、山崩れの為に滅茶滅茶になってしまった。近く初島を眺め遠く大島を見て、此辺の沿岸が風景の最も良い所である。

大名ヶ崎とは、現在の地図に大黒崎と書かれている場所を指しているようだ。明治29(1896)年の地形図では、そのようになっている。

そして説明文を読む限り、この禿げ山のように殆ど木の生えていない急な山腹に、熱海街道(現国道)があったようである。
しかし、どこが道なのかよく分からないほどに、一面の崩壊斜面のようになっている。

眼下の斜面に、転落しかかったプレートガーダーのようなものが見えるが、もしそうだとしたら、そこは熱海鉄道の路盤なのだろうか?
そして、スケッチをした画家本人の立ち位置は、熱海鉄道よりも上部を通る縣道こと熱海街道、現在の国道であろうか?
だが、これまで私が目にしたことのある熱海鉄道の写真には、橋にプレートガーダーを用いていたようなものは全く無かったはずだ。橋は基本的にみな木橋と思っていた。
果たして、この写真に写る謎の橋のようなものの正体は、なんなのだろう?



 新親不知  伊豆山附近
伊豆山から門川にかけては、根府川附近に次ぐ山崩れ乃至大小岩石の転落が甚だしいので、土地の人が此辺を新親知らずと命名している。断岩絶壁の上から熱海軽便鉄道のレールが針金のようにブラ下り、海中に電信柱が立ってゐるような奇観を呈し、一歩踏み外そうものなら忽ち石を転がすように海へ辷り落ちるので、危険いうべからざる状態である。それは文章よりも此絵の方が、より能く説明するであろう。

これはひどい有り様だ…。

…今回探索した場所の中に、とても路盤があったとは思えない場面が多く含まれていたのも、納得出来る惨状である。
そして、レールは放置されているように見える。これを後日、わざわざ回収しただろうか…?

なお、伊豆山附近の海岸道に、今は消えてしまった「新親不知」という名称がかつてあったことが判明した。しかしこれはおそらく、観光的意義を多分に狙って付けられた、明治以降の命名だろう。
わが国の交通の“嶮”の代名詞的存在として北陸にある元祖「親不知子不知」の存在が、北陸線の建設などを通じ、広く知られるようになってからのことと思われる。
あるいはここでは、同じ静岡県に属し東海道に近い、“東海の親不知”に対する「新」だったのかもしれないが。



 伊豆山附近  熱海軽便鉄道
伊豆山は熱海の北半里程の海岸で、浪打ち際に石を畳み落舎が設けられてある。湯は懸崖中腹の岩礁から走り出るので走湯の名がある、此所も御他聞に洩れず、殆んど全滅の姿で復旧は容易なことでない。熱海軽便鉄道の線路は一ヶ所として満足な所がない、復旧は到底六ヶ敷い、或は最うそれ切になるかも知れない。

「熱海軽便鉄道の線路は一ヶ所として満足な所がない、復旧は到底六ヶ敷い(むつかしい)、或は最(も)うそれ切(きり)になるかも知れない。」

はい、予言を頂きました。まさにその通りになってしまった。

しかし、この絵を見ていると、今から90年以上も昔に書かれたようにはとても思えない気がしてくる。
なんというか、「ボクの考えた最強の廃線風景」といった風情がある。
当時こんな発言をしたら不謹慎極まりなかっただろうが、壊れた人工物が放つ如何ともしがたい悲愴の“美”の存在を、彼ら、危険を冒してまで現地を歩いた画家達は、放置をしておけなかったのだろうか。
私の夢の中にも良く出てくる、夢の中の廃線探索風景だよこれは…。

このレールたちも、後日には綺麗に撤去されたってことなんだろうか……?





2. 当路線の廃線跡からレールが発見された事例が存在した!

結局、記録が残っていない(あるいは私がその記録を知らない)というだけで、専用軌道区間内においても、廃止後にレールの撤去が律儀に行われたのであろう。
状況証拠からそう考えるしかないというが、現状での(余り面白くも無い)結論だが、その一方で、やはりレール発見の可能性もあったのではないかと思わせるような記録も存在している。

それは、本鉄道専門の市販された書籍としてはほとんど唯一と思われる『幻の人車鉄道―豆相人車の跡を行く』(平成12年刊/伊佐九三四郎著)の中に、非常に刺激的な廃レール発見譚として収められているのである。
私はある読者さまからの情報提供により、探索後にこの本の存在を知り入手したのであるが、そこに掲載されている2枚の写真を引用しよう。



『幻の人車鉄道』(平成12年刊/伊佐九三四郎著)より転載。

同書によると、これらの写真のレールはいずれも、神奈川県湯河原町の門川附近(今回のレポートの起点となった地区だ)で発見・保管されているものであるという。
このうち、“(上)”の写真のレール断片は人車鉄道のもので、大正14(1925)年に町道の橋の架け替えを行った際、コンクリート内に骨材として(鉄筋代わり)人車鉄道の廃レール12本を使用したものが、昭和50(1975)年に再び橋の架け替えを行った際、発見されたものであるという。

一方、“(左)”の写真のレール4本及び金属製枕木は、それよりも遙かに“私にも可能性のある”方法で、発見されたものだった。
こちらは地元の人が戦前に、みかん畑の下の斜面の“軽便道”と呼ばれる崖が崩れたとき、出土したのを偶然に持ち帰ったもので、レールは長さ五.五メートルの直線レール二本と、同三メートルの曲線レール二本、それに枕木に使われた鉄板五枚。レールはポイント附近のもので、本線とみられる直線のレール幅から軽便鉄道のものだが、ポイントから分かれた曲線のレールは、レール幅が六十一センチであることから、当時は使用されていなかった人車鉄道のものであるというのだ。胸熱!

門川附近で“発見”されたレールはまだあり、別の方が海岸に落ちていたものを戦前に(中略)拾ってきたというレールについて著者は、五.五メートルのレール(接続用のボルト穴が両脇に二個ずつついている)が完全な姿で一本あるほか、ポイント部分らしいレールがあり、下に鉄板がついているので、その溶接部分に合わせて計ってみたら、ゲージが二フィート(約六十一センチ)ちょうどだから人車であることが確認された。それを海岸から拾ってきたとすると、千歳川の対岸あたりになるだろうか。千歳川を渡ると道は上りになるが、やがて今の道より左手に入って急崖の腹を行くようになる。土地の人が「軽便道」といっているあたりだが、軽便に切り換えるとき枕木だけは残して新しいレールを敷き、古いレールやポイントを脇へ置いておいたものが、関東大震災で軽便のレールもろとも海岸へ落下したのではないか。としている。

さらにまた別に、軽便用のレール(一六ポンド)と思われるものも一本残されている。(中略)今から四十年ほど前に台風で土砂崩れがあり、そのときに海岸から発見されたものだというという記述もあった。

繰り返すが、これらは全て関東大震災により廃止された真鶴〜熱海間の熱海鉄道のうち、特に門川(湯河原)周辺での発見例である。
同書には他の地区でのレール発見例はほとんど記載されていないが、門川周辺にのみ多数のレール発見譚があり、その多くが、地中から“出土”しているというのだ。

そして今回私が探索したのも、まさに門川から伊豆山にかけての区間の“軽便道”である。
正直、この写真や本文を目にした時は、自身が確かに“奇蹟的な発見”の近くにあったという実感を得て、震えが走ったのを覚えている。

私は見つけられなかったが、今回探索区間内の崩土中などに、今でも人車や軽便のレールが埋もれている可能性が、十分あるのではないか!
私が踏みしめた地面の下にも、それは、眠っていたのではないか。
現在まで廃線跡の全線にわたって徹底的な発掘調査が行われたという記録は見あたらないのである…。また、『幻の人車鉄道』でさえも、今回発見した廃線跡については特に記述が無かった。これは十分にレール発見の可能性があるのではないか……。
ちなみに、過去の発見は多くが新聞記事にまでなっているようなので、次に発見した誰かも、新聞デビューを果たせるかも…ね(笑)!


そして最後になったが、この『幻の人車鉄道』が記述する震災による熱海鉄道の終焉は、それまで見ていた他の資料のどれよりも詳細だった。
少し長くなるが、これを引用して本稿を終えるとしよう。

大正十二年九月一日の大地震で、門川―伊豆山間五.四キロは復旧不可能なまでに破壊された。九月二十一日付で神奈川県知事、静岡県知事を通じて鉄道大臣へ営業廃止届を提出したのに対して、熱海線建設事務所が、全線調査のうえ復旧可能なら真鶴―門川間と伊豆山―熱海間を事務所の手で復旧したいと申し出ている。
結局このプランが実現しなかったのは、被害甚大であったことを物語っているが、とくに門川―伊豆山間が壊滅的だったといわれている。外されて風雨にさらされていた人車のレールと毎日列車が走っていた軽便のレールが、立木や土砂もろとも断崖から海岸めがけて轟音を立てながら落下する光景は、想像するだけでもすさまじい。


ああ――、 確かにそれは凄まじい鉄道最期の風景だ。

そして、私はその無惨な残滓を目にした。

忘れられた存在は、国道や有料道路という繁栄する道路たちの隙間に、ひっそりと眠っていた。

今の大黒崎周辺は、歩みを止めることが難しいただの通過地点なのかもしれないが、その秘めたる価値が少しでも伝わったならば嬉しい。




なお、本レポートの作成において、『自転車放浪記 (足柄縣ブログ)』の管理人BAZU氏にご協力を頂きました。ありがとうございました!