2018/4/27 14:09
旧道北口より800mの地点まで来た。残り約400mである。
ここには、これまで登場していなかった丸形の覆道が存在していた。
この形の覆道はスノーシェルターと呼ばれ、豪雪地の山岳道路では決して珍しいものではない。地吹雪や雪崩を防ぐ効果があるが、後者については四角形の(ここまでよく見た形の)スノーシェッドの方が機能的である。
このスノーシェルター、雪国の山岳道路では今日もはや珍しくない構造物ではあるが、全国的に整備され始めた時期は昭和40年頃で(『日本道路史』に「昭和40年頃より徐々になだれ危険地点に柵やスノーシェッド(中略)スノーシェルターなど各種の防雪・防護施設が設けられていった」とある)、この道に存在していることは特筆されて良い。おそらく現役だった期間は10年に満たなかっただろう。
このような土木史的な珍しさもさることながら、景色としてのインパクトの大きさが凄かった。
少し離れて見ると、これは道路の一部と言うよりも、山中に置き去りにされた“謎の物体”の感じが強い。
構造物としては見慣れたものであるはずが、既視感がなかった。どこでも見たことがないと感じる景色は、経験を重ねるごとに減ってきているが、ここにそれがあった。
右の写真のように周囲の景色の中に置くと、誰もが頼りなさを感じるだろう。
これまで見てきた覆道達と較べても、あまりに短いし、なぜここにだけピンポイントに作られたのか謎だ。
そして、もしこれが全線を覆っていたとしても、安心にはほど遠かっただろうとも思った。
なぜなら……
造りが華奢だ。
もっと柱の太いスノーシェッドが軒並み崩壊している中で、こんなに支柱が細く見えるシェルターが良く耐えてきたものだと思う。
屋根に土を載せていないから自重が軽かったことや、アーチという構造自体の持つ強さが、見た目以上の耐久性を示した理由だろうか。単純に短かったこともプラスに働いているのだろう。
ちなみに、今日よく見るスノーシェルターの多くが、側壁の中ほどの高さまではコンクリートの頑丈な壁で構造されており、それと較べても華奢である。
また、設置後ここで大規模な土砂災害や雪崩が起きなかったことも確かだろう。それらに耐えられる構造物には見えないる。
ただし、こぶし大程度の瓦礫はたくさん襲ってきたようで、山側の付け根の部分からその落石が潜り込んできていた。
海側には柱があるだけで、壁板を取り付けていなかったらしいことも、興味深い。
景色を見せるためというよりは明り窓だったのだろうが、おかげで狭さの割りに圧迫感は少ない。
そもそも、こういう1車線幅のスノーシェルターは、あまり多くない。単線の鉄道用のスノーシェルターみたいだ。
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こんなぼろきれの鎧で、“クズレ”と呼ばれた蝦夷親不知の絶壁に挑みかかろうとは、笑止!
思わずそんな悪役じみた台詞が独り言になって出て来た。
朗らかな快晴であったことが、あらゆる道の必死さを、虚しく空回りさせてしまっているようだった。
こんな朗らかな春の日に、この道で死ぬなんてこと、想像が働きづらいのである。
いろいろと恵まれすぎていた。
ようはこのクズレの旧道、久々の来客である私には、特に「イージーモード」を用意してしまったらしい。
あっという間に通り抜けたが、その先もシェルター所在地と違いを感じない草の斜面に、“青空道路”が長々と横たわっていた。
完全に険しさの中枢を攻略し終えたらしく、あとはこの草むらを集落に向かってトラバース気味に下って行くのであろう。
構造物も、これで打ち止めと見える。
少しだけ早いタイミングで、攻略の成功を確信した!
ここに道があったことの名残を留めて草原に佇むシェルターに、別れを告げた。
路肩に見える白いものは、ガードロープの支柱だ。
離れれば離れるほどに、この構造物の存在は浮いている。
スノーシェルターという新たな設備の機能を確かめるために、試験的な目的で置いたのではないかということも考えたほどだが、見る人が見れば、この20mほどをピンポイントに守る合理性を説明出来るのか。
あるいはシェルターという名の通り、通行人が突然の吹雪などから身を守る場所として設置したことも、考えられるかも知れない。もちろん、車道としては冬季閉鎖であったろうが…。
ここまで1km足らずの区間は、本当に盛りだくさんで、非常に密なレポートになったが、ここで初めて普通程度の足進みが実現された。
今さらだが、自転車を持ち込まなくて正解だったとも思った。走れる場所は、健在の覆道内だけだったろう。
長閑な草道を平穏に下るだけになり、振り返る頻度が増えた。
少し進むごとに振り返り、未曾有の好体験をもたらした道と惜別した。
この遠望に、踏み越えてきた道が、圧縮されている。
見れば見るほど、ここに車が通れる道を貫通させようと考えた昔の人の度胸に、感心する。
私など、背後の崖にまず威圧されて、ここは通るべきではないと敬遠しそうだが、よくぞ立ち向かった。
しかも、短い隧道と短い木橋を1本ずつ、それといくつかの切通しという、案外に少ない構造物で通り抜けて見せている。
基本的に、崖錐斜面が崖下にずっと続いていることが、道を通す最大の拠り所になっていたが、
幅のある崖錐のどこを通るかは設計者の裁量であり、それがまた秀でていたように思うのだ。
ルートは単純ではなく、上ったり下ったりしながら、巧みに切り開かれていたと感じる。
終盤はこれまでと較べれば単調な道だが、なだらかでは決してない。
道形を埋める土砂崩れの跡が多くあるほか、路上が一面の草なので、なかなか速度も稼げない。
一番良い季節に歩いても、面倒な道だと感じた。
見える度に少しづつ近づく集落のカラフルな屋根を目指して、歩行に励んだ。
今までとは岩質が異なる真っ白い崖が現われ始めた。
と同時に、落石防止ネットが崖に掛けられるようになった。
今さら感があった。
とはいえ、このネットを先ほどの大絶壁に設置することはまず無理だろうし、仮に実行しても崩壊を防げるかと言われれば怪しい気がする。
崖の高いところは、シェッドとシェルターとお地蔵さまで守ろうという方針だったと思う。
14:21 《現在地》
北口より1km地点に到達すると、いよいよ虻羅集落と虻羅漁港が眼下に広がった。
標高も30mくらいまで下がっていて、あと一息だ。
虻羅という変わった地名は、かつてニシン漁に随うため移住してきた和人による命名で、ここにあった入江の波がとても穏やかで、海面が油のように見えたからだという説がある。
現に今日も虻羅漁港の港内は静まりかえっていたが、これは現代の巨大防波堤の賜物である。
ガサッ
ガササッ ガササッ
何かが近くにいる!
WARNING!!
突然、激しく緊迫した。
この5日間、ヒグマの活動範囲内で孤独な探索に勤しんできたが、遭遇回数はゼロ。
実際、この程度の回数で遭遇するなら、命がいくつあっても足りないだろうなんて思っていた。
でも怖いから、念のため、内地では持っていなかった熊避けスプレー&自動ブザー装置を準備した。
にもかかわらず、来てしまったのか?!
集落近郊であるから、少し前に自動ブザー(バイクのクラクション音)の吹聴を停止していたのだが、
手動モードで数回連続で鳴らした。けたたましい音で、近所迷惑ごめんなさい!
しかし、走り去る気配はなく、今もこの目の前の斜面から、ガサガサという音が聞こえ続けている。
間違いなく、何か獣が近くに居る!
お前かよ!驚かせやがって!
音の正体は、むくつけきホルスタイン柄ヌコだった!
そしてなぜかこのヌコ、大回り気味に私を迂回した後、私が踏み越えてきた廃道へ消えていった。
ヌコの目的地の詮索はさておき、冗談抜きで、嫌な汗が垂れたぞ…。
ヤツとすれ違ってから1分ほど進むと、集落端の家が間近に見えてきて、旧道がどうやって集落に呑み込まれていくかという最後の場面も見え始めた。
ここに至ってもなお路上に踏み跡がなく、これまで出会った通行人は1匹のみ!
廃道としては魅力満載どころではない稀に見る良物件だったが、それでも踏み跡が刻まれるほど人が訪れないところに、秋田と同じ空気を感じた。この時期に山菜採りの足跡もない点では、秋田以下かも知れない。
果たして、こちら側はどういう塞がれ方をしているのか、それが最後の注目ポイントだ。
こういう感じね。
申し訳程度になぜか最後のところだけ舗装がされていたが、その先の別の道にぶつかる直前には、動かす気の全くなさそうなバリケードが築かれていた。
そして、表へ回らなくても内容の予想が可能な道路標識も。
やはり、集落側も完全封鎖のようである。
とはいえ、ワルニャンに事欠くような厳重さはない。どちらかというと長閑。越えてきた道の厳しさと較べれば、平和すぎるくらい。
標識柱は錆びているのに、標識板だけ妙に綺麗だった。
意外にも最近になって更新されたものらしい。
当然、内容は予想通り「通行止」だったが、補助標識付きだった。
「通行止」に補助標識が付いているのもレアだし、その内容が「落石注意」というのも初めて見た。そこに、「落石のおそれあり」の標識デザインが小さく描かれているのが、可愛らしかった。
それにしても、
「落石注意」
見慣れた4文字に、これほど信憑性を与える“背景”が他にあるだろうか。
「通行止」にしても同様だ。
ここで封鎖されていて、背後にあの崖が見える。
あまりにも説明不要だった。
14:27 《現在地》
廃道区間を完抜達成!
北口から約1.1km地点である。踏破に要した時間は約1時間30分だった。しかしこれは相当のんびり歩いているので、ただ通り抜けるだけならば1時間も掛からないと思われる。
バリケードには、北海道開発局の函館開発建設部が設置した「侵入禁止」の看板があった。これが前述した「通行止」の標識に先んじて現われることで、物理と法律の二重封鎖になっていた。ヌコは人間のルールに縛られていないことがよく分かる。
そういえば、完全に今さらだが、序盤の【島歌隧道】が封鎖されていなかったことの“意外さ”に気付いた。
開発局は、旧旧国道の廃隧道はわざわざ塞がないくせに、旧国道の廃隧道はほぼ例外なく塞いでいる。
しかし、今回は旧国道にも関わらず、迂回困難な島歌隧道を塞がずに残してくれていた。
その差は何か? それは単純に廃止された時期が早かったからだろう。
旧道のラスト100mは、出発直後に虻羅トンネル南口から【覗き見た】、「町道虻羅港線」である。
この区間だけは、全く申し分なく活用されているが、舗装もガードレールも国道時代のものではなく、面影は乏しい。
この直後、虻羅漁港に停めておいた車を回収し、さらに自転車をも回収、今回の明るい探索を無事完了させた。
今回はとてもシンプルな探索であり、疑問点もさほど多くはなかったが、やはり現役時代の利用実態やエピソードが知りたいと思ったので、帰宅後に机上調査を行った。
最後は、机上調査編。
まずはいつも通り、集めた歴代の地形図を見てみよう。
右図は、大正6(1917)年版と昭和50(1975)年版の地形図の比較である。
だいぶ間が空いているが、実は昭和31(1956)年版も持っているものの、道路の表現が、大正の版と全く変わっていないので、省略したのである。
大正の地形図はレポート初回でも紹介しているが、改めて簡単に解説すると、海岸沿いに府縣道の記号が描かれている。このうち、虻羅より北側は全て「荷車を通せざる道」を示す片破線であるから、“非車道”だったように読み取れる。そしてこの表現は、昭和30年代の地形図まで全く更新されなかった。
今回探索したのは、地図中の「クズレ」と書かれている周辺で、「虻羅」から「亀岩」付近までだ。
途中に隧道や覆道は描かれていないが、「ヅ」の字の左側には小さな橋の記号が見える。
これは立派な石造橋台を持っていた【木橋】の位置である。
また、このクズレの海岸を迂回する道が、虻羅からクズレの上の山を越え島歌川河口へ通じる小径(徒歩道)として描かれていることに気付く。
海岸沿いの道が整備される以前の道のようにも思われるが、どうだろう。
昭和50年の地形図では、既に昭和47年開通の虻羅トンネルが開通しているために、今回探索した道は旧道化し、早くも徒歩道の表現に落ちぶれている。
だが、区間の途中に3本のトンネルが描かれている。
いずれも現地には長い覆道が存在している場所なので、覆道をトンネルとして描いてしまっているようだ。
本来なら覆道のような構造物は「建物類似の構築物」という別の記号で表現されるはずだが、そうはなっていない。また、短い【島歌隧道】は、一番北側のトンネル記号の一部に吸収されてしまっている。
地名についても、「クズレ」の文字が消えて、区間内に他と区別する名前は与えられなくなった。
しかし、後の版でこの地名表記が復活し、現在の地理院地図にも継承されている。
もう一つの名とされる「蝦夷親不知」は、歴代の地形図に描かれたことはないようだが、主に市販の道路地図に観光名所を示す記号と一緒に描かれている。
当地が辺境であったからだろうが、地形図は更新頻度が少なく、大正時代から昭和50年代までの道路状況の変化を読み取ることは困難だった。そこで次に航空写真の比較を試みた。
右図は昭和22(1947)年版と昭和51(1976)年版の比較である。
この比較により、昭和20年代以降には道の位置が変化していないことが分かった。
しかし、前者にはまったく覆道はなく、短い島歌隧道(これは昭和2年竣工というデータが『道路トンネル大鑑』にある)以外は、全て野天の道であったことが分かった。
なんという大らかさだ! まったく守りを捨てている!
地形図は更新されなかったため、ずっと非車道のように描かれていたが、実際には昭和20年代には既に車道が開通していたことが分かった。
ならば、いつ車道は開通したのかということが次の疑問となる。
一応、可能性が高いと思われるのは、島歌隧道の竣工年とされる昭和2年頃であるが、はっきりした記録を求めて、次の文献調査に取り組んだ。
江戸時代の探検家松浦武四郎は、幕末の安政3年(1856)年に幕府の命を受けて蝦夷地探検を行い、「東西蝦夷山川地理取調図」としてまとめた。
この中に瀬棚から茂津多岬を目指し陸路を歩いた記事があり、当時の「クズレ」を通過した貴重な記録であるので紹介しよう。
引用元は、時事通信社刊『蝦夷日記(下)』で、[ ]は同書による注記、( )は原書の注記である。
“高十五六丈の崖海中に突出す”
1丈は3.03mなので、15〜6丈とは45m〜48mである。
現地よりもいささか控えめな数字にも思えるが、アブラからレタリ(自転車をデポしていたすぐ先にある島歌川河口の白岩集落のこと)の区間を指しており、13〜4丁(1.4〜1.5km)という距離と照らしても、「クズレ」を通行した記録に間違いない!
当時あの崖は、“ウエンシンラ”というアイヌ語で呼ばれていたらしく、その意味するところが私には少しだけ分かった。
“ウエン=悪” である。
格闘ゲームの名作『サムライスピリッツ』の登場人物であるアイヌの戦士ナコルルが、己の戦う相手を“ウエンカムイ”(悪神)と呼んでいた。
残りの「シンラ」が何かを調べる以前に、先住者にとっても、あそこが“悪地形”と認識されていたことが十二分に伝わってきた。
で、「シンラ」だが、アイヌ語地名解説のバイブル、明治24(1891)年に出版された永田方正著『北海道蝦夷語地名解』に、後志国瀬棚郡の地名として「ウェンシララ」が出ている。
これが正しい表現らしく、解説は以下の通り――
悪岩。
このどストレートなアイヌ語地名が、いつの間にか日本語地名の「クズレ」になり、「蝦夷親不知」とも呼ばれるようになったのだろうと想像出来る。
さて、武四郎の探検記に話を戻すが、当時の道が「クズレ」をどの位置で通過していたのかは、残念ながらよく分からない。
嘉永2(1849)年に崩壊した巨大な落石の隙間を飛び越えたり、刎ね潜ったりして通過したというのは、なんとなく中腹の崖錐斜面にある旧道よりもさらに低い、【海岸線】スレスレを通過した印象も受けるが、果たして……。
右図は、同書附属の肉筆による絵地図の一部である。
彼は運上屋(松前藩の交易拠点)があったセタナイ(瀬棚)からこの日の歩行をスタートし、地図中の地名アフラ(虻羅)を経て、モユワ(藻岩岬)手前のヒヤ(美谷)まで歩いている。いまの国道だと約12kmの行程だ。これに1日を要したうえに、この日の最後にこんな言葉を記していた。
翌日はスツキ(須築)まで行き、その先のモツタ(茂津多岬・狩場山)を越える陸路がない(文化(1804-1818)の頃に一度路を造ったがすぐに廃道になったと記述)ことを確かめて、その翌日に舟でセタナイへ戻っている。
以上の松浦武四郎による探検記により、幕末頃にはこの地方の海岸沿いには多くの和人集落が存在していて、荒れた岩道とはいえ、瀬棚から須築まで一応は陸路が存在していたことが分かった。
しかし、古名「ウェンシララ」こと「クズレ」の古道が、どの位置にあったかはについては、はっきりしなかった。
明治維新後しばらくの間、北海道は国が設置した開拓使(明治2年〜15年)によって行政が行われていた。
開拓使の強力な権限によって札幌をはじめとした開発拠点都市が整備され、函館と札幌を結ぶ札幌本道などの幹線道路整備も進められた。
後に国道229号となる江差と小樽の間の海岸路線も、函館〜札幌間を日本海沿いに結ぶ、全長493kmにも及ぶ西海岸線という幹線道路に組み込まれた。
しかし、路線名が与えられただけで全区間の整備が行われたわけではなかったようで、開拓使時代の西海岸線の実態がいかなるものであったかを、大正14(1925)年に北海道庁がまとめた『北海道道路誌』より、瀬棚から茂津多岬を越えて島牧村にかけての区間について抜粋して紹介しよう。
実は武四郎が探検した翌年の安政4(1857)年には、茂津多岬を越える“狩場山道”の開削工事が行われ、開通していたのだが、非常に険しい山道であったため往来は少なく、開拓使の世の中になってからも、大多数は海路で往来していたのだった。
虻羅の「クズレ」に関しても、この時期に西海岸線として大々的に改良されたという記録は見たらないのだが、唯一この時期の道路整備の記録としては、平成3年刊行『瀬棚町史』の「入植当時の道路」という頁に、次の記述を見つけた。
これだけの記述であり、おそらく別に出典がありそうだが、残念ながら判明していない。
ただし、美谷は虻羅から5kmほども離れているので、これは今回潜った島歌隧道の開削に関する記述ではないと思われる。
これについては後述するが、一帯の海岸線にはかつて非常に多くの小隧道が存在しており、島歌隧道も特別の存在ではなかった。
ただ、陸路で美谷へ入植しようとすれば、必ず瀬棚から虻羅の「クズレ」を通って行くはずであり、もし美谷に隧道を掘ったのなら、瀬棚から美谷までの海岸線の道路整備が先にあったのではないか?……ということは考えられていい。
町史以外の有力な情報源としては、平成2年に北海道道路史調査会が刊行した『北海道道路史』(全3巻)という大作がある。
第3の『路線史編』に、明治33(1900)年に島歌郵便局が札幌郵便局に提出した「電信事務開始調査事項調書」という資料が収録されており、次のように、当時の島歌付近の交通の様子が窺える内容である。
「鳥道」という言葉の意味は、国語辞書によると、鳥しか通わないような険しい山道とのことで、瀬棚から「クズレ」を越えた先にあり、反対側も茂津多岬に遮られている島歌の地が、陸路でも海路でも不便な土地であることを訴えている。開拓使が定め、その後身である北海道庁(明治19年〜昭和22年)にも受け継がれていた「西海岸線」だが、当時は依然として歩行にも事欠くような、武四郎が探検した時代とあまり変わらない状況だったようだ。
さらにこの資料を補足するように、『北海道道路史』の本文にも次のような記述もあった。
ここにも、先ほどの町史の記述に通じる、明治20年代の村民主導のトンネル開削のことが出ている。
町史も参照する別の一次資料がありそうな気がするが、まだ発見できていない。
しかし、この時期に開削された隧道は1本ではなかったらしく、そうすると今回見た島歌隧道の由緒に関わってくる可能性も高まり、大いに気になるところだ。
しかしともかく、今回歩いた道が「クズレ」に整備された経緯については、明治期はおろか、大正時代から昭和に至っても、断定的な記録を見つけることは出来なかった。
『道路トンネル大鑑』に、島歌隧道の開削年が昭和2年として記録されていることや、昭和22年の航空写真には既に車道の姿が見えているというような、断片的情報から想像するよりないようだ。
断片的な情報ということならば、町史からも別の収穫を得られた。
昭和4(1929)年に初めて須築の地に駅逓所(えきていじょ)が設置されたという記述があった。
駅逓所も北海道の独自制度で、明治5(1872)年にスタートし一部は昭和30年代まで存続した。そこは旅人の宿泊施設であると同時に、郵便物の逓送(隣の駅逓所までの継ぎ送り)といった通信業務も行われていたのだが、昭和4年に須築に駅逓所が設置されたことは、この時期に須築までそれなりの陸路が到達していて、交通量があったことが窺われる。(しかし須築駅逓所は昭和13年に廃止されている。利用者が少なかったのだろう)
また、車道整備の時期をより具体的に想像しうる情報が、『道路トンネル大鑑』にあった。
同書には、昭和42年末現在に瀬棚町内の国道229号に存在した隧道が、島歌隧道を含めて、右図の通り15本記録されている。
いずれも全長7〜34mまでの短い隧道だが、幅員と高さは3m以上あるので、車道用と考えて良い。
その竣工年度に注目すると、最も北側(須築側)にあった「美谷第10隧道」が昭和18(1943)年と最も遅く、南側から数えて5番目の位置にあった島歌隧道の昭和2年竣工から、概ね北へ行くほど遅くなっていく傾向が見えるのだ。
島歌隧道よりも南にある4本の竣工年は記載がなく不明であるが、瀬棚より美谷・須築方面の海岸道路は、昭和2年の島歌隧道の貫通以降徐々に整備が北上していき、昭和18年までに美谷へ到達したと理解される。(なお、須築への到達はさらに後だと思われるが、詳細はこちらのレポートに譲る)
明治22年に美谷に開削されたといいうトンネルが、これらに含まれるのかなど不明点もあるものの、今のところは工事の記録が見つからないというだけで、昭和初期には「クズレ」を貫通する車道が整備されたと考えて良いだろう。
そして、美谷までの道路整備が昭和25年の時点で一応完成していたことを裏付ける記述が、町史にあった。
函館バス北桧山営業所の運行開始日が掲載されており、瀬棚から島歌および美谷への開通が、共に昭和25(1950)年となっていたのだ。(須築までの延伸は昭和46年)
昭和25年からは、路線バスも「クズレ」の旧道を通っていたのである!
ところで、開拓使時代に、国道でも県道でもない「西海岸線」と呼称されていたこの道の変遷についてだが、明治40年の北海道庁告示によって仮定県道西海岸線に改めて認定を受けている。
続いて大正8年に旧道路法が制定されると、同年内に北海道の特例である北海道道路令が発令され、府県道に相当する地方費道と、郡道相当の準地方費道が道内に認定されることとなった。極めて長大だった仮定県道西海岸線も実際の重要度に応じていくつかの路線に分割されることになり、大正9年4月1日に瀬棚周辺の海岸道路は準地方費道江差岩内線に認定されている。
したがって、島歌隧道が開削されるなど、おそらく「クズレ」の車道が整備された時期は、準地方費道江差岩内線と呼ばれていたことになる。
再び路線名が変わったのは昭和22(1947)年で、またしても道独自の道路制度として1級2級道路制が開始されたのに合わせて、4月1日付けで2級道路1号線に認定された。
だがこの路線名は短命で、昭和27(1952)年の道路法公布によって道独自の路線認定制度が撤廃されると、昭和28年5月18日に2級国道229号小樽江差線の指定を受け、初めて国道になった。その後昭和40年に法改正で一般国道229号に改名され現在に至っている。
町史に道路整備のまとまった記述があるのは、戦後からだ。特に国道に指定されて以降は、次のように明瞭な記述がある。
昭和45(1970)年という年がターニングポイントで、古来から陸路不通の難所だった茂津多岬にトンネルを掘る工事が始められると共に、虻羅トンネルの掘削が開始されている。
しかし、それ以前から美谷〜須築間の国道の建設が進められていたらしく、もし須築トンネルを建設した工事車両や資材などが陸路輸送であったなら、「クズレ」の旧道を通っていることになる。
……木橋とか、通れたのだろうか?
もしかしたら、重量物は海上輸送であったのかもしれない。
“S41.2.19 落石多く通行止め 瀬棚の元浦―美谷間”
「クズレ」の道路整備についての町史の記述は、これまでに述べたもので全てだが、このほか、わざわざ「奇岩と絶壁」というタイトルの節を設けて、町内にたくさんあるそれらについて解説していた。
そこに、「蝦夷親不知」の項があった。全文を転載する。
そしてもう一つ、この同じ節の「窓岩」の解説文にも、「クズレ」と関係する記述があったので、引用する。
この「大小20のトンネルがあった」という記述は重要で、前述した『道路トンネル大鑑』では15本だったから、5本も差がある。
原因は二つ考えられており、大鑑がデータを取った昭和42年3月末時点で既に廃止されたものが含まれているのではないかということと、大鑑は(当時の国道が通じていた)美谷までしか数えておらず、その先の藻岩岬周辺にあった人道隧道群を記載していない(少なくとも3本は現存する)ので、そこでも差が生じている可能性大だ。
そして、「クズレ」周辺にトンネルが集中していたという記述も、気になるところだ。
現在では、覆道はたくさんあるが、トンネルは島歌隧道1本があるだけだ。
町史は、覆道もトンネルと見做している可能性もあるものの、初期はもっと多くの隧道があったのかもしれない。
旧道上にはいくつか大きな切通しがあった(【ここ】とか【ここ】)が、昭和22年の航空写真撮影以前に、これらが隧道だったとしても不思議ではない。
今回の調査では「クズレ」旧道の現役時代を撮影した写真や動画の発見には至らなかったが、今から30年近く前にここを探索したレポートが発見された。
レポートが収録されていたのは、北海道新聞社が平成4(1992)年に刊行した『忘れられた道――北の旧道・廃道を行く』という本で、著者は堀淳一氏。
堀淳一氏(1926-2017)は、今日の私が行っているような、近代以降に由来する旧道や廃道を探索して紹介することについての第一人者である。
1970年代から物理学者としての著作と地図研究家としての著作を重ねていた彼が、昭和59(1984)年に出版社の「そしえて」から刊行した『忘れられた道 旧道の静寂・廃道の幽愁』は、80頁ほどの小さな本であるが、全国各地の旧道・廃道の踏破を主題としたものであり、おそらく最初に「廃道」というタイトルを用いた紀行書であった。最晩年まで継続的に北海道などの旧道・廃道・廃線探索について発表を続けられ、私の友人である石井あつこ氏(トリさん)もよく彼が主宰するコンターサークルを一緒に歩き、親交を温めていた。
『忘れられた道』の探索日は不明だが、刊行時期から考えて平成初年頃であろう。
すなわち、旧道化から15〜20年が経過した状況であったとみられるが、右の写真から明らかなように、既に盛大に廃道化していた。
探索時期の違いのせいだろうが、この場面に関していえば、30年近く経過した「今回」の方が、藪が浅く歩き易そうである。
しかし、圧倒的な高度感のある岩場の印象は変わらずで――
――と、キャプションで述べられている通りである。
このように背丈に勝るイタドリの生い茂る廃道風景がいかにも北海道的だということを私が知ったのは、この約1ヶ月後に、再び渡道して探索した時のことであった。
『忘れられた道』の探索は、私とは反対で、虻羅漁港からスタートして北上していったように読み取れる。
左の写真のキャプションは、「覆道また覆道」という極めて短いものだが、実はこの覆道と覆道の間には、今回私が最も興奮した“木橋”が存在していたはずだ。そして右を見れば荘厳な滝が落ちていたはず。
だが、キャプションにも本文にも木橋と滝は現われない。
道内在住の著者にとって、どちらもあまりに見慣れていて特筆するほどのものではなかったかもしれないが、木橋は、写真の通りの猛烈なヤブのために認識がされなかった可能性もあるかもしれないし、また橋と分かっても、今のように一部の桁が抜け落ちていなければ、木橋には見えなかったかもしれない。滝についても、夏場には枯れていたかも知れない。
いろいろなことを想像させてくれる写真だが、矢印の位置に標識柱が2本立っていることも、地味に時間の経過を教えている。今は右側のものだけが残っているのだ。また、地味ではない変化として、手前の覆道はもう倒壊していて入られない。
さらに進み、地蔵が近くにあった(これも記録にはない)切通しを過ぎると道は下り始め……、そこがこの写真の場面だ。
今回、全線を歩いてみて、最も荒廃を感じたのが、ちょうどこの辺りだった。
断続的な覆道が全て倒壊し、大量の落石に埋れているものもあった。
ここでは廃道化した後も頻繁に落石が発生し、また海岸にも近いことで、路肩崩壊も多発したようである。
役目を終えて打ち捨てられた覆道たちが、現道からも集落からも見えないこの海岸に身を寄せ合って、険しくも美しい風光に慰められながら、静かに倒壊の日を待っていた。
私が見た景色は、全てが終わった後に近いような印象だが、もし廃道にも“旬”というものがあるならば、30年前はよりそれに近かったろうと、これらのとても美しい写真を見て思う。
紹介する最後の写真は、島歌隧道の姿だ。
本編でも述べたとおり、ここの今の姿は、誕生の時間に還っているように見える。
素掘り隧道の姿は、おそらく昭和初期に誕生したときから変わっていないが、昭和40年頃になって道路の安全性が真面目に議論された結果、継ぎ接ぎに現われた覆道だけが、まるで時計の早回しのような早さで斃れていったのだ。文明の利器の代表のように考えられている鋼鉄も、原始の素材である石と較べれば、儚いものらしい。
堀氏はこのように当区間の廃道を総括していた。
同書にはこのほかにもいろいろな場面の“30年前”が掲載されているので、機会があればご一読いただきたい。
知りたいことは、まだまだあるのだ。
途中にあった【お地蔵さま】のこと、印象的な木橋の名前がなんであったのか、覆道はいつどういう経緯で整備されたのか、どれほどの難工事の末に開削されたのかなど、全て語られる価値があることだと思う。
しかし、いまある手掛かりから分かったことは、ここまでだ。
最後に、町史の記述でいちばん気に入った言葉を、もう一度記して終わりたい。
“景勝というよりは天険である”
探索前、「クズレ」と「蝦夷親不知」という二つの異質な地名の同居を見た瞬間から、このことを考えた。
そしてそれは、現地へ入り、レポート1枚目の風景を目にした時点で、確信へ変わった。
あれほどの風景が、観光地としては少しも公開されていない理由は、上記の一文に集約されている。
廃道の周りには、こういう天険である景勝が多くあって、忘れられていることを、よく知っている。
それらに赴き、最後の一人になるかもしれない“記録者”となること。
それが私の廃道探索の目的であり、そこは20年変わっていない。