2010/4/19 10:15 《現在地》
やって参りました。
県道77号寸又峡橋の旧橋「寸又橋」の左岸橋頭でございます。
なんか向こう側から覗いた時よりも谷が広く、つまり橋が長く感じられるのだが、それでも対岸の橋台は小さな岩尾根上に設えられていて、可能な限り短くしようとした努力を感じる事が出来る。
なお、背の高い橋台の形状から、本橋は上路のトラスであったと断言して良いと思う。
トラスや吊橋でなければ、この長さの谷を橋脚なしで渡りきる事は難しいだろう。
右岸橋頭から河原に下りる道がある。
この道も先ほどチェックはしたが、レポートでは省略した。
しかし、改めて左岸から見ると目立っているので、無視出来なくなった(笑)。
寸又橋右岸橋頭の丁字路には2枚の青看が存在しており、いずれも県道を通行する人のためのものである。
寸又峡温泉方向から橋を渡ってくると、正面に掲げられているのが左の青看だ。
島田と千頭までの距離を書いているが、前者は県道上の青看としては異例な遠い目的地表示である。
しかし、大井川沿いに展開する紆余曲折の激しい県道や国道を知れば、この距離も納得出来るだろう。
そして反対の千頭方向からは、この一目的地の青看が案内する。
だが、kその下には遙かに大きな「林道一般車両通行禁止」の看板が幅を利かせている。
現役当時、とりあえずこの青看まで来て安堵するドライバーは多かったことだろう。
折からの秘湯ブームと「金嬉老事件」の影響からか、昭和末期には東海地方を代表する秘湯の温泉場として人気を博した寸又峡温泉だが、実際に訪れる人の多さに交通の整備が全く追いついておらず、多くのサンデードライバーやマイホームパパを悩ませた事が想像されるのである。
さて、そろそろ“第2ステージ”を始めるとしよう。
まだこの旧道は始まったばかりである。
これから先は、寸又川の左岸沿いを進む。
いま、対岸の中腹を横切るラインが見えるが、あれは県道との合流地点を目指して下ってくる寸又川右岸林道である。
この先のキーワードになりそうなのは、『記念誌』にあった「冠水区間」という表現だ。
しかし、現在のところ道と寸又川水面との比高は10m近くあり、幾ら増水しても冠水しそうには見えない。
また、探索時点で『記念誌』を未見であったため、現地で特に意識して観察した訳ではないことも申し添えておく。
…なんて言ってる傍から、道は下って行くぞ。
橋から100mほど進むと、ちょっと凄いことになってきた。
何だ、この道。
どうして、ガードレールを付けないんだ?
ドライバーの運転技術を信頼(過信)しているのか?
本当に平成3年まで、こんな道を観光客たちが大勢行き来していたのか?
随分と、スパルタなんだな。
ここで対向車のバスが現れたら、どうしてたんだろ?
見たところ、100mくらい先のカーブまでは全く待避出来そうなスペースもないし、エスパーでもなければ、カーブの先を見通すことは出来まいに。
運否天賦か?
そうだ、やっぱりそうだ。
この道が何かに似ていると思ったんだが、それは堤防だ。
なんか、作りが河川や海岸の堤防にそっくりじゃない?
特に、コンクリート舗装の所が。
現在の河床の高さを見る限り、俄には信じがたい部分もあるが、どうやら“冠水区間”は、この辺りから始まっているようだ。
“冠水区間”の詳細について、前・本川根町長佐藤正美氏の回顧を、『記念誌』より抜粋して転載しよう。
毎年のように襲い来る台風、そして大洪水。洪水の度に、粟代橋から寸又橋に至る道路は、きまって水没する。(中略)
増水時には必ずといっていヽ程道路は水没し、寸又峡温泉との往来は、遮断される。一旦水を冠ると、路敷は洗われ、特に舗装して無い頃は、路盤の岩がきり立って、水がひいても使用出来ない状態が続いた。(中略)鉄筋を入れてコンクリート舗装をしてからは、減水して路面に陥没等の障害が無い限り通行出来るようになった。
洪水、交通止めを何回となく繰返し、その都度、県土木の人達にご足労を煩し、何度となく陳情を重ねた結果、工法としては嵩上げか、トンネルかの議論となり、結局嵩上げしても河幅が狭くなり、現場の状況からトンネル案と決定し、現在は素晴らしい二車線道路の開通を見たのである。
やはり間違い無い。
「堤防みたい」に見えるのは、水を被っても洗掘されないよう、鉄筋コンクリートによる特殊舗装を施してあるからで、これは実際の堤防と同じ工法である。
ただし、もう一つの特徴である「ガードレールが存在しない件」については、洪水で壊されないために予めそうしていたのか、廃道後の洪水で破壊された為なのか、不明である。
さて、この奇妙なスパルタンロードだが、まだしばらく続くか否か。
次のカーブを曲がれば、その答えも得られるだろう。
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続いてるなー。
もうしばらく、コンクリート舗装のガードレール無しが続くようだ。
おい、俺。
先、見てるか?
あれマジか。
ヤバくないか。
やばい……。
酷い…。
これは、酷い。
右岸林道から谷底が白く見えた原因は、
川原の白さ“だけ”じゃなかった。
山の斜面も、白かったんだ…。
orz_
うお〜!
先が気になって、目の前の景色が目に入らない!
前方の有り様が“あんまり”であるため、正直、こうして写真を撮って記録を残してはいるが、この場面の印象が全然無い。
気持ちが完全に前方の風景に奪われてしまっている。
だから、まるで他人が撮ってきた写真にするようなコメントしか思い浮かばないが、ここの路盤が洪水に洗われることが度々あるというのは、間違いない事実のようだ。
鉄筋コンクリートの特殊舗装で盤石になったかと思えば、実はそんなこともなく、廃道後は補修されないまま何度も洪水を浴びていたら、こんな無惨な状態になってしまったのだと思う。
ここには、半ば路肩のコンクリート擁壁(舗装路面と同じ高さだったと思う)に埋没したような多数の駒止が残っており、林道時代から県道時代にかけて、これでもある程度の改築が施された様子が窺える。
10:23 《現在地》
ここは朝日トンネル北口から旧道を600mほど進んだ地点で、だいたい旧道の中間にあたる。
『記念誌』に全く記述が無い事から見て、大崩壊が発生したのは朝日トンネル開通後なのだろう。
「現道嵩上げ案」か「トンネル案」で悩んだ末の「朝日トンネル(トンネル案)」らしいから、う〜〜ん!
トンネル案を選んだ人々は、先見の明があったと言わねばなるまい。
もし現役当時にこの崩壊が起きていたら、大変な惨害になっていたかも知れないし、運良くそうならなくても、長期間の通行止めは免れ得なかったろう。
それにしても、凄まじい規模の崩壊だ。
尾根から谷底まで、山の斜面全体が瓦礫に変わってしまっている。
もともと地上に生えていた木々は、残骸を含めほとんど見あたらないが、これは地表が表土と一緒にまるごと滑り落ちてしまった為だろう。
この規模の崩壊があったとなれば、幾ら幅広の寸又川とはいえ、堰き止めてしまうほどの土砂が雪崩れ込んだと思われるが、現場には何らかの疎水工事が行われたような気配は見られない。
渓相に関しては至って平穏に見え、これまでと特に違いはないのである。
(こうした山体崩壊によって、川原を白く見せる膨大な土砂が供給されたという点で、関連性が深い光景ではあるが)
外見上、「誰も知らないうちに旧道が大変な事になっていた」というだけの光景だが、本当に現役時代に起きなくて救われたと思う。
なお、過去に私の行く手を脅かした大崩壊は多くあったが、規模だけで言えば、これは松の木を凌駕し、日原旧道に次ぐものでは無いだろうか。おそらく“山行がナンバー2”クラスの大崩壊である。
何も無理に突破する必要は、全くない。
この旧道は、反対側からもアクセスが可能だと思う。
しかし、「挑戦してみたい」という気持ちが勝った。
それにここは、落石に巻き込まれさえしなければ、さほど危険ではない。
万が一滑落しても、下は穏やかな渓流であり、擦り傷ぐらいで済みそうだ。
ぶっちゃけ、川原に沿って歩いて行けば、突破自体は難しくないとも思う。
ある意味、絶好のトレーニング・スポットではないだろうか。
だから、今回は出来るだけ河床へ降りず、自転車同伴でのトラバースを行いたい。
いつか現れるだろう、さらなる難所を突破するために、備えたい。
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