これから、地形図を使ったタイムトラベルを行う。
各画像にカーソルを合わせると、それより一世代前の地図を重ねて表示する。
そして、おおむね10年で一世代としている。
左の画像は「平成初年代→昭和60年代」の変化を示している。
ちなみに平成20年代の現在と平成初年代との間では、あまり変化が無いので省略した(金沢母子寮の建物が消滅した事くらいが目立った変化だった)。
この「平成初年代→昭和60年代」の変化の主だったものは、ニュータウンの拡大に他ならない。
釜利谷南4丁目の住宅街(金沢文庫パークタウン)はこの時期に全くのゼロから出現したものだし、高舟台の住宅も大幅に増えている。また、関東学院大学もこの時期に出現した。
しかし、私が歩いた市道と周囲の山については、この時期に特に変化は見られない(いずれの地図にも市道は描かれていない)。
続いては、「昭和60年代→昭和50年代」の変化である。
私が千葉県に生まれ、次いで川崎に住み、さらには横浜市鶴見区に移住して鶴見川の河川敷を追い掛ける事を楽しみとしていたこの時期、鶴見から少し離れた金沢区内のこの地区では、朝比奈ICを中心とする交通の革新と、急速なニュータウン開発が同時に進行していた。
国道16号の一般有料道路として日本道路公団が建設を進めていた南横浜バイパスは、昭和54年に朝比奈IC〜日野IC間が開通し、その翌年に路線名が横浜横須賀道路へと変更された。
続いて朝比奈IC以南の建設も進められ、昭和57年に朝比奈IC〜逗子IC間が開通している。
さて、私が歩いた市道と周囲の山についてだが、この時期にも大きな変化は見られない。強いて言えば、西端の釜利谷の市道に合流する部分の階段は、この時期に釜利谷のニュータウン開発に伴って完成したと推測される。
続いて、「昭和50年代→昭和40年代」の変化である。
この時期の変化は、10年間の出来事とは思えぬほどに盛大である。
高舟台のニュータウンがゼロから忽然と出現し、釜利谷の造成も急ピッチである。
そして、昭和40年代の地図には、私が歩いた市道の一部が初めて出現する。破線の歩道として。
さらによく見ると、高舟台の開発によって、道を取り巻く地形自体に大きな変化があった事も読み取れた。
ちょうどそれは、このあたりの出来事である。
その詳細は、下の小さな地図を見て欲しい。
この小地図の変化が言わんとしているのは、昭和40〜50年代に進められた高舟台の開発に伴って、市道がある山の北面が大規模に切り開かれ、道が土崖の記号と引き替えに消滅したという事だ。
しかし、現実には道は消滅してはおらず、この道に付け替えられたのだろう。
このことこそが、現場で感じた違和感(この区間は他の区間と年代が違う気がした)の正体だと思う。
(前後は車道でないにもかかわらず、将来的に車道網に組み込む可能性を含め、付替道路は車道の規格として作られたのだと思う。)
今度は20年の時間飛行で、図の体裁も大きく変化する、「昭和40年代→昭和20年代」の変化をご覧頂こう。
この期間の変化は、20年分であることを差し引いて考えても、劇的といわねばならない。
はっきり言って、地形以外は何もかも変化しているように見える。
特に道路網の変化は大きく、相武トンネルの開通(昭和19年)と朝比奈切通の新道開通(昭和31年)がよく目立つが、私が探索した市道の正体も、この時代まで遡る事で初めて見えてきた。
この山道は今回探索した区間が全てではなく、三浦半島の尾根伝いに日野(港南区)や鎌倉方面へち通じる“古道”の、ほんの入口にあたる部分だったのである。
左図はまとめとして、平成10年代から大正初年代までの変化をGIFアニメで表示している。
今回探索した市道の由緒は、少なくとも大正時代には存在し、昭和20年代まで確実に存続した壮大な尾根道の一部であった。
現地で古道らしい風景が随所に見られたのも、大いに納得出来るのである。
そして、今回の時間旅行の最後のピース…近世以前の状況を物語っているのは……
あの入口にあった鼻欠地蔵だろう。
地蔵の傍らにあった「案内板」の文章を改めて読み返してみると、終盤に次のような記述があったのだ。
― 江戸時代の地歴が書かれている「新編鎌倉誌」には、この地蔵について、武蔵国と相模国の境界にあることから「界地蔵」と言われたこと、この場所から北へ向かう道は釜利谷や能見堂へ通じたことが書かれています。
また、地蔵の前の道は、六浦道と呼ばれた金沢と鎌倉を結ぶ、中世からの大切な道であることから、この地蔵が交通の要所に祭られ、広く人々の信仰の対象となっていたことがわかります。
このことは、横浜金沢観光協会のサイトにある「鼻欠地蔵」のページにより詳しく記述されている。
この尾根道は、10km以上の距離を南北に縦貫して描かれており、今日の横浜横須賀道路の前身であったと考える事が出来る。
古道のないところに高規格道路なしと言われる事があるが、横横道路もその例から漏れないようである。
「六浦道」から鼻欠地蔵のところで別れ、山を越えて称名寺(鎌倉時代からある金沢文庫)へと至るという、鎌倉時代前半に海沿いの道(瀬戸橋)が開通するまでの極めて古い時代の幹線道路だったということで、学術的にもたいへん貴重なものとされている。
…小さな追記欄に押し込むには申し訳ないくらいの大情報である。
いつも以上に狭い範囲の時間旅行は、いかがだっただろう。
たった1枚の看板の唆(そそのか)しから始まった何気ない市道探索だったが、風景も歴史も思いのほか濃厚で、大満足だった。
観察への意識さえあれば、都会も山も変わりなく道は “深い” のだということを実感した小探索と評価したい。