金沢区朝比奈の“脅迫的な”市道 後編

所在地 神奈川県横浜市金沢区
公開日 2012.8.01
探索日 2009.9.28

金沢区の完全なる山岳道路


2009/9/28 11:14 《現在地》

爽やかな果樹畑を脇目に見てから1分後、道は再び急峻な地形に挑み始めた。

そして、それと同時に現れたのが、ガードレールだった。

しかも普通の見慣れたガードレールではなく、板も柱も普通のヤツより一回り小さいサイズだ。
支柱は白く、板は茶色だが、これも当初からそうだったのではなく、茶色は白い塗装が錆びて剥がれた色である。




私がこの規格のガードレールを見るのは、初めてではない
しかし、滅多に見るものでないのは確かだ。
現在も生産されているのだろうか?
これが新たに設置されているのを見た憶えが全く無いが、実は前時代の遺物なのではなかろうか。

そもそも、ガードレールというのは防護壁の一種の製品名であり、その目的は通行人や車が路外に逸走する事を防ぐ事にある。
そして、ガードレールの強度は道路構造令で定められており、JIS規格もある。

この場所のガードレールが小規格である理由は、主に二つ考えられる。
ひとつは、ここが自動車の走行を想定していない道路だったから、敢えて選んだという可能性。もうひとつは、これが設置された時期には、これが標準的なガードレールだったという可能性である。正解はおそらく前者だと思うが、なにぶん古い時代の道路構造物に関しては私の理解が十分でなく、正確な所は不明であると言わねばならない。




そしてこれは、

そんな小さく低いガードレール越しに見下ろした、路肩外の斜面である。

都会の山とは思えぬほどの急さが感じられよう。

で、この枝葉の向こうに明るく見えているのは何かというと…




―皆様の生活でした!


なんだかジロジロ見ているのが申し訳なくなるほど、一軒一軒の窓の形までよく見えちゃった。

この眺めと音により、“40%”くらいは現実の世界に引き戻された感じがした。



が!

依然として眼前の道路(市道)は、
厳然たる山岳道路風景を固持した。

まさに道は、前景と背景の二律背反世界にあった。




道は果樹畑以来再びの上り基調となっていて、左山右谷ならぬ左山右“住宅地”の状態のまま、自分自身はなお山中にあり続けた。
二つの世界を隔てるにはあまりに頼りなさげだったガードレールも、気が付けば本来の白さを取り戻しており、侮れない存在感を示し始めた。

それだけではない。ガードレールと崖が同時に現れ始めて以来の道幅が、自動車の通れるレベルまで回復していた事も、見逃さなかった。
路上に根を張る立ち木や、法面からの落石の堆積があるためにカモフラージュされてはいたが、生来の歩道には見えなかった。

さらに付け加えるならば、中盤の車道部分には濃厚にあった“古道らしさ”が、ここには感じられなかった。
今あるのは、明治以来の車道につきものといえる山腹をトラバースする形態の道。言い換えれば、高く険しい法面や、きり立つ路肩を特徴とする道である。

この道は、区間によって生まれた時代に相当の違いがあるのではないか。




11:17 《現在地》

ガードレールの出現から3分後、道は明るいところに一度出た(左側に尾根が近いようだ)が、直後にまた岩場のある山腹に戻った。

それだけならば敢えて写真を載せるまでもない通過地点だが、この一瞬森が途切れたところのさらに一瞬だけ大きく視界の開ける場所があったのだから、捨てては置けぬ。


ご覧頂こう。

その眺め。





これで“90%”、現実世界に戻された感じ。

しかし、人の叡智によって生み出された街が決して嫌いではない私は(人混みは苦手だが)、
この“屋根の海原”に対しても、遙かな山河を見晴らす時とあまり違わない興奮を覚えた。

それに、よく見るとこの景色からも地形の機微は失われていない。
総じて左側の方に緑の場所が多く見え、また微妙に高くもあるのだが、
それは三浦半島の脊梁山地が、なお関東平野へと延びている証である。

人の住む街は、つまらぬ平板でなどありえない… と、思った。




そして岩場再び (ガードレールは無くなった)。

しかも今度は、“木の根道”

いったい誰がどんな目的で歩いているのか知らないが、
“木の根道”が成立する絶妙な頻度で歩かれているようである。
(通行量が少なすぎれば藪となり、多すぎれば根は枯れてしまう)

さらにさらに、この場所が素晴らしいと思えるのは、左の法面が…




本格派 だった!

どっから見ても、横浜市道には見えない…山岳廃道だ…。




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11:19 《現在地》

そしてさらに2分後、

元より小さな山だけに、景色は劇的といえるほどの早さで変化した。

次に現れたのは、岩場を切り出した小さな堀割であったが、ここは車道ではなくて“古道”らしく見えた。

地形図を見て、現在地を関東学院大学野球グラウンドの裏山と割り出した。
であるならば、今はまだ見えないものの、森の終わりはすぐそこである。

まるで時間が止まったようなこの森と道が、いったいどのように再び現実世界の風景となるのか。それが興味深かった。




だが堀割を抜けた直後、

少々興ざめのする形で、私の関心に答えが与えられた。

現実世界は、個人的に全く面白みを感じないネットフェンスを伴って、なかば強引に割り込んできたのだった。




フェンスは途中で現代的なデザインのものへ差し替わった。

路面もいよいよ明るくなり、フェンス一枚を隔てて現代人の息遣いが感じられるようになった。
いよいよ、本当に終りの時が来たようだ。




11:21 《現在地》

フェンスの終わりは、フェンスに守られていた建物の門だった。

ここは裏門らしく、表札のようなものは掲げられていなかったが、
立て札の署名から、これが「関東学院大学」の関連施設であることが分かった。





そして最後の最後に現れたのは、これまでの展開を全く無視する 階 段 だった。

ここまでの楽しく充実したサイクリングを真っ向から否定する存在とも取れるが、横浜横須賀道路の朝比奈ICの遠い眺めを励みにしながら、すぐ足元から聞こえる別の車音を目指して下った。



11:23 《現在地》

関東学院大学の前を通る2車線の市道がゴールだった。

こっちから見ると、自転車で入って楽しいような道には全く見えず、行き先の案内も無いから、街角ではいたって没個性の存在だった。

結局、“脅迫看板”のある入口からここまでは約1.3kmの道のりで、正味20分間のコンパクトな探索となった。
しかし風景の密度は高く、私が知らなかった横浜の一面をたくさん見る事が出来た。


…探索はこれで終りだが、あともう少しだけ語りたい。





これから、地形図を使ったタイムトラベルを行う。
各画像にカーソルを合わせると、それより一世代前の地図を重ねて表示する。
そして、おおむね10年で一世代としている。

左の画像は「平成初年代→昭和60年代」の変化を示している。
ちなみに平成20年代の現在と平成初年代との間では、あまり変化が無いので省略した(金沢母子寮の建物が消滅した事くらいが目立った変化だった)。

この「平成初年代→昭和60年代」の変化の主だったものは、ニュータウンの拡大に他ならない。
釜利谷南4丁目の住宅街(金沢文庫パークタウン)はこの時期に全くのゼロから出現したものだし、高舟台の住宅も大幅に増えている。また、関東学院大学もこの時期に出現した。
しかし、私が歩いた市道と周囲の山については、この時期に特に変化は見られない(いずれの地図にも市道は描かれていない)。



続いては、「昭和60年代→昭和50年代」の変化である。

私が千葉県に生まれ、次いで川崎に住み、さらには横浜市鶴見区に移住して鶴見川の河川敷を追い掛ける事を楽しみとしていたこの時期、鶴見から少し離れた金沢区内のこの地区では、朝比奈ICを中心とする交通の革新と、急速なニュータウン開発が同時に進行していた。

国道16号の一般有料道路として日本道路公団が建設を進めていた南横浜バイパスは、昭和54年に朝比奈IC〜日野IC間が開通し、その翌年に路線名が横浜横須賀道路へと変更された。
続いて朝比奈IC以南の建設も進められ、昭和57年に朝比奈IC〜逗子IC間が開通している。

さて、私が歩いた市道と周囲の山についてだが、この時期にも大きな変化は見られない。強いて言えば、西端の釜利谷の市道に合流する部分の階段は、この時期に釜利谷のニュータウン開発に伴って完成したと推測される。



続いて、「昭和50年代→昭和40年代」の変化である。

この時期の変化は、10年間の出来事とは思えぬほどに盛大である。

高舟台のニュータウンがゼロから忽然と出現し、釜利谷の造成も急ピッチである。
そして、昭和40年代の地図には、私が歩いた市道の一部が初めて出現する。破線の歩道として。

さらによく見ると、高舟台の開発によって、道を取り巻く地形自体に大きな変化があった事も読み取れた。
ちょうどそれは、このあたりの出来事である。
その詳細は、下の小さな地図を見て欲しい。




この小地図の変化が言わんとしているのは、昭和40〜50年代に進められた高舟台の開発に伴って、市道がある山の北面が大規模に切り開かれ、道が土崖の記号と引き替えに消滅したという事だ。

しかし、現実には道は消滅してはおらず、この道に付け替えられたのだろう。
このことこそが、現場で感じた違和感(この区間は他の区間と年代が違う気がした)の正体だと思う。
(前後は車道でないにもかかわらず、将来的に車道網に組み込む可能性を含め、付替道路は車道の規格として作られたのだと思う。)



今度は20年の時間飛行で、図の体裁も大きく変化する、「昭和40年代→昭和20年代」の変化をご覧頂こう。

この期間の変化は、20年分であることを差し引いて考えても、劇的といわねばならない。
はっきり言って、地形以外は何もかも変化しているように見える。

特に道路網の変化は大きく、相武トンネルの開通(昭和19年)と朝比奈切通の新道開通(昭和31年)がよく目立つが、私が探索した市道の正体も、この時代まで遡る事で初めて見えてきた。

この山道は今回探索した区間が全てではなく、三浦半島の尾根伝いに日野(港南区)や鎌倉方面へち通じる“古道”の、ほんの入口にあたる部分だったのである。



左図はまとめとして、平成10年代から大正初年代までの変化をGIFアニメで表示している。

今回探索した市道の由緒は、少なくとも大正時代には存在し、昭和20年代まで確実に存続した壮大な尾根道の一部であった。
現地で古道らしい風景が随所に見られたのも、大いに納得出来るのである。

そして、今回の時間旅行の最後のピース…近世以前の状況を物語っているのは……

あの入口にあった鼻欠地蔵だろう。

地蔵の傍らにあった「案内板」の文章を改めて読み返してみると、終盤に次のような記述があったのだ。



― 江戸時代の地歴が書かれている「新編鎌倉誌」には、この地蔵について、武蔵国と相模国の境界にあることから「界地蔵」と言われたこと、この場所から北へ向かう道は釜利谷や能見堂へ通じたことが書かれています。
 また、地蔵の前の道は、六浦道と呼ばれた金沢と鎌倉を結ぶ、中世からの大切な道であることから、この地蔵が交通の要所に祭られ、広く人々の信仰の対象となっていたことがわかります。

このことは、横浜金沢観光協会のサイトにある「鼻欠地蔵」のページにより詳しく記述されている。

この尾根道は、10km以上の距離を南北に縦貫して描かれており、今日の横浜横須賀道路の前身であったと考える事が出来る。
古道のないところに高規格道路なしと言われる事があるが、横横道路もその例から漏れないようである。



私が「尾根道」とした古道の正式な名称だが、「白山道」と呼ばれているそうだ。
「六浦道」から鼻欠地蔵のところで別れ、山を越えて称名寺(鎌倉時代からある金沢文庫)へと至るという、鎌倉時代前半に海沿いの道(瀬戸橋)が開通するまでの極めて古い時代の幹線道路だったということで、学術的にもたいへん貴重なものとされている。

…小さな追記欄に押し込むには申し訳ないくらいの大情報である。
読者さまの情報提供により追記 2012/8/1


いつも以上に狭い範囲の時間旅行は、いかがだっただろう。

たった1枚の看板の唆(そそのか)しから始まった何気ない市道探索だったが、風景も歴史も思いのほか濃厚で、大満足だった。

観察への意識さえあれば、都会も山も変わりなく道は “深い” のだということを実感した小探索と評価したい。