2014/6/2 11:23 《現在地》
下小屋集落跡を後にして、さらに下流へ進んでいく。
次の目的地は、中河内集落跡となる。
下小屋と中河内の間は、地図読みで約3.8kmほどの道のりがある。そこまで行けば、ようやく通行止区間を脱することが出来る、はず。
そんな訳で、再び下り基調の谷道を軽やかに漕ぎ始めた私だったが、下小屋から500mほど下ると突然路面が未舗装になった。
一番麓に遠い峠越え区間が舗装されているのに、この辺りが未舗装というのも少し不思議だが、実はこれ、谷から溢れ出た膨大な量の土砂で路面がすっかり埋め尽くされているのだった。舗装は埋没している。
道路台帳によると、この辺りで道はヨロイ谷という名の谷を横断しており、そこには「3号橋」なる長さ6.0m、幅3.5mの橋が存在することになっている。
が、私はその橋を見つけないどころか、谷らしいものにさえ気付かなかった。
おそらくそれは、不注意と言うよりも、ヨロイ谷が吐き出した大量の土砂によって、橋も谷も地形ごと埋め立てられていたのではないかと推理する。
ところで、ここまでの橋名に注目すると、7号、6号、5号ときて、4号を飛ばして、ここに3号橋があったことになる。
おそらく4号橋は下小屋橋に対応しているのだが、あの橋には名乗る銘板があったから、4号橋という名付けをされなかったのだと思う。
11:24
ヨロイ谷を離れると、速やかに路面は復活した。
ちょうどその辺りに、めちゃくちゃに破壊された「国有林看板」が建っていた(残骸があったと言うべきか)。
看板によると、この先は富山森林管理署が管理する小矢部国有林であるとのこと。おそらく下小屋集落の周りだけが民地で、外は国有林なんだろう。
11:25
ここにきて、はじめて小矢部川の流れている様子を直接目にした。
だいぶ前から道の近くを流れていたが、音はすれども見えざる存在であったのが、やっとの登場である。
川遊びに向いていそうな広い河原を持つ流れは穏やかで、険しい山峡の旅路にいくらかの弛緩した空気をもたらしたが……
このような広い河原が作り出される過程には、厳しい仕置きがあることを忘れてはならないと、この後まもなく悟ることに。
11:26
道の先の様子が、なんだかおかしいぞ。
この先、左の山手から、ガンド谷とニゴリ谷という2本の谷が並んで出てくるのだが、おそらくその後者が 大爆発 している……。
谷が大爆発ってなんやねんと思われただろうが、こういうことだ(↓)。
11:26 《現在地》
谷が吐き出した巨大な土石流で本来の道は完全に消失し、新たな道が土石流の上を強引に跨ぎ越えていた!
なんかもう、戦隊モノのロケ地みたいな風景である(わかるかな?笑)。
昭和の昔ならばいざ知らず、平成(探索当時)の県道の復旧方法としてはあまりにも雑というか、力技に頼っていて、むしろ頼もしさを感じてしまった。
私の立ち位置よりも手前から路面は完全に土石に埋没しており、おそらく200m近い道程が本来の座標から消失していると思われる。
この崩壊が、県道が長年不通である原因なのかは不明だが、本格的に復旧するとしたら、道そのものよりも治山工事が大規模なものになりそう。
土石流の上を無造作に横断していく道の姿。
これで県道だってんだから恐れ入る。
直に見たことはないけど、発展途上国の道路っぽい風景だ。
そして、土石流に押し出される形で川側に大きく張り出している道の様子。
本来の道は左の草地の土中に埋没しているようで、地形図の線形もそうなっている。
現在の道は河原に乗り込む形になっているが、護岸のようなものはなく、まさに応急復旧路らしい荒々しさである。
チェンジ後の画像は、土石流の元凶となった谷(ニゴリ谷?)の様子で、大量の砂防ブロックが堰のように積み上げられているのは崩壊後の処置だろう。もっとも、これが道路管理者の関与したものであるかは不明だ。国有林側の復旧事業のような気がする。だって、県道への対応が雑すぎる気が(苦笑)。
11:27
“爆発している”ニゴリ谷を乗り越えると舗装された路面が現れたが、水捌けがよほど悪いようで、長い距離が泥濘んでいた。
だが泥濘には以前にも増して多数の轍が刻まれていて、下界へ近づくにつれて関係者?の往来も確実に増えていることが窺えた。
と、ここで路傍になんの脈絡もなく1本の標柱を見つけた。
「塩硝の道 中河内へ」と書いてある木製標柱で、情報が乏しく由来は不明だが、県道が一般に開放されていた当時の「歴史の道」ブームにあやかろうと地元で整備したものだろうか。
思えばだいぶ長い距離を峠から進んで来たが、途中、不動滝の(行けば死にそな)展望台らしきものぐらいしか観光的アイテムは見ていない。
ここは遊び半分に通れるような県道じゃねえから、サンデードライバーなんてまっぴらお断りだぜって、そんなイメージ。ワル県道である。
11:28
そのまた直後、すっげー久々! おそらく峠を越えてから初めて、デリニエータを目撃した。
しかも、ちゃんと「富山県」と書いてある富山県道御用達のデリニエータ。
実はここだけ道が少し広くなっていて、しっかりとしたコンクリートの護岸が造られていたので、この県道の中では珍しい改良済み区間なのだろう。
それで真っ当な県道よろしくデリニエータなんかも整備してみたのだと思う。
……本当にここだけね。
激レアな拡幅済区間の先に見えてきたのは、小矢部川本流を堰き止める砂防ダムの姿。
ここまで轟轟と盛大な水音が届いているから、かなり大きそうだ。
上流の河原がずっと広かったのは、この砂防ダムの仕事ぶりも大きかったのだろう。
肝心の県道については、砂防ダムに辿り着く前でまた大量の土石に呑み込まれていたが、やはり豪快に乗り越えていた。
そして……
11:30 《現在地》
峠から約7.2km、標高480mの地点にて、巨大な砂防ダム「下小屋堰堤」に到達した。
取り付けられている銘板によると、昭和42(1967)年既設の堰堤を平成19(2007)年に補強竣工したものらしい。
探索時点の7年前に完成した新しい構造物とのことで、これより先の区間は、道路状況のさらなる改善に期待ができそう。
砂防ダム地点より上流を振り返って撮影した。
ブナオ峠の鞍部は山の影に隠れて見えないが、そこから峰続きである石川県境の残雪多き山陵(加越山地主稜線)はよく見えた。
五箇山と金沢城下を結んだ塩硝街道は、ブナオ峠だけでなく、この山脈をどこかで越える必要があった。
前述した倉谷峠などいくつかのルートがあったが、メインルートは刀利ダムに沈んだ刀利より横谷峠を越えるもので、現在の県道10号金沢湯涌福光線もその近くを越えている。
過去を振り返り終えたので、砂防ダムを越え次のエリアへ前進だ!
11:31
なんか、谷の空気が変ったな…。
次回、小矢部川渓谷の核心、 長 瀞 峡 。
2014/6/2 10:56 《現在地》
ここまで、不動滝などのある源流部を除けば、険悪さからは縁遠い広く明るい渓流を見せていた小矢部川であり、そのため下小屋という桃源郷のような村落を育みもしたのであったが、その下小屋から次の中河内集落へ向かう道のほぼ中間地点にある下小屋堰堤を過ぎると、率爾に谷が深くなる。
これは単純に大きな堰堤を過ぎたことで堆積による河床の上昇分が排除されたせいもあるが、両岸の地形も複雑な出入りの少ないシンプルな急斜面に置き換わりつつあり、河川の強い浸食作用によって両岸が深く鋭く削られた峡谷、いわゆるV字谷の地形を見せ始めたのである。
下小屋や中河原といった廃村になって久しい地名と共に、現在の地図には名前が記されていないが、ここから中河内付近までの小矢部川は長瀞峡(ながとろきょう)と称される。
景勝地として紹介している書物も多くあるのだが、本県道しかアクセスルートがないために、現状はどこかで通行止の柵を越えない限り近づけない存在になってしまっている。
その核心部へ踏み込む前に、南砺市文化芸術アーカイブズの長瀞峡の解説を引用し、概要情報を共有したい。
長瀞峡
小矢部川が中河内で曲流する地点から上流の下小屋に向かう約2kmの深いV字谷をいう。ここ一帯は、新生代の古第三紀、およそ6000万年以前に火山活動で噴出した流紋岩質火山砕屑岩類を主体とする「太美山酸性岩類」が分布し、福光地域では最も古い地質である。
市指定文化財(記念物・名勝) 指定年月日:昭和34年11月5日
11:33
これより始まる名勝の風景を楽しみたいところだが、外に気をとられて足元をおろそかにすると、死ぬ危険がある。
路面に看過できない大きな亀裂が生じており、その谷側の路面は10cmほども陥没していた。
ここまで踏み込んでいる自動車たちは無造作に踏んでいるが(そうしないと通れない)、私だったらゴメンである。特に雨天時には絶対に(自動車で)通りたくない。
11:34
路肩陥没地のほんの少し先には、ガレた斜面から大量の落石が路上に散乱している現場があった。
通れる通れないで言えば通れるけれど、このような状況のまま交通を解放することは、現代の道路管理者は絶対にしないだろう…。
逆に言えば、ここまでも無数にあったこのような崩壊の現場を全て(完全ではないまでも)手入れしてからでなければ再開通の日は来ないと思われ……、それってもう無理じゃねって、正直思ってしまったのである。
長い封鎖期間の間に荒れてしまったであろう現場が、本当に無数に存在した。
道を封鎖することこそ、最も手っ取り早く確実に道を荒す方法だと思う。
これまた上の写真のすぐ先で、すっげーーーーー久々に道路標識を見た!!
特に珍しい標識ではないのだが、道路標識を見たのは、探索スタート直後以来ではないだろうか。
探索中に(道路標識の少ない道で)標識を見るとだいたい撮影するのだが、この道で撮った写真には本当に標識が少なく、久々に見つけて嬉しかったから、ここは何枚も撮っていた。重ね重ね、珍しい標識じゃないのに。
標識とか、ガードレールとか、デリニエータといったものは、落石防護柵なんかと同じく道路の安全装備であり、無くても通ることはできるかもしれないが、その手厚さが道路としての安全性や、利用者の感じる安心に直結する。通れるならなんでもいいなんていうドライバーは、そうはいない。
思うに、この県道の整備水準は、最低限の舗装がされた辺りで止まっていて、しかもそこから長期間の封鎖によってだいぶ後退しているというのが現状だろう。
現状から、現役当時の道路の状況を想像することは出来るが、これは本当に厳しい県道だったと思う。難路だ。
そして、そんな難路から見る地形の険悪さも、クライマックスを迎えつつあった。
11:36
対岸、もの凄い一枚岩の大岩壁が屏風のように連なる姿が見えてきた。
V字谷の急峻さと、多発する雪崩によって、地表に樹木が根付くことが出来ないのであろう。
私の記憶に鮮烈に刻まれた森吉奥地を彷彿とさせる光景であった。
県道がある左岸は、対岸に比べればまだ穏当だが、それでも車1台の道幅だけが生存できる世界の全てであって、V字谷の特徴である直線的な峡谷ゆえ、恐ろしく狭い道のずっと先まで見通せてしまうのが、なんだか悪い夢の中に登場する逃げ場のない道のようだった。悪夢だったら対向車が来そうだが、本当にここで来てしまったらどうしていたんだろう。“醒めて”逃げることが出来ないのに…。 どうしてたの?
11:38
対岸巨大スラブを正面に臨む。
向かって左側に支流の大やさき谷が口を開けているのが見える。
ここから下流1kmほどが、長瀞峡の核心部である。
11:38
どんなベテランのドライバーでも緊張を余儀なくされる、崖に渡されたタイトロープのような一本道が続く。
引き続き対岸には猛烈なる大岩壁が偉容を誇っているが、脇目を振っては命を危うくする道路である。
こんな険しい谷間を、昔の人はどうやって通っていたのかと思うが、実はそうではないらしい。
この谷沿いの道は、下小屋集落のところでも少し触れた昭和10年開通の林道以来のもので、古道は前回登場のニゴリ谷辺りから山を登り、越戸(こえど)峠と呼ばれる尾根を越えて、ほぼ最短距離で中河内へ通じたそうだ。200mを越える高低差を持つ大登坂路だが、このような危険な峡壁を横断するよりはマシだったのであろう。
この辺りの道は峠から長した続いた下り一辺倒ではなくなり、微妙に登り返す場面もあった。
現状の管理不行き届きから来る荒れ方を除外しても、近年まで一般に開放され、実際それなりの交通量もあった県道としては、稀に見る厳しい道に見える。単に地形が険しいだけなら比肩する県道は多くあるだろうが、前述の通り、この道路は安全設備が全般的に脆弱過ぎる。
ガードレールというものがほとんどなく、なんなら上平側には多くあった駒止さえ、福光側では稀である。
この写真の場所には本当に最低限度といった感じで、車輪止めに毛が生えた程度の地覆があるが、風通し良すぎだろ!
お陰で県道上がそのまま長瀞峡展望台として機能しているような有様である。
勝手なイメージだが、チベット辺りで隊商の車列が行く山岳街道の風景を連想した。
また、道路標識が現れた。谷側に傾いているのが気持ち悪い。
内容はさっきと同じ警戒標識の組み合わせで、設置方向は私の順路方向である。
が、はっきり言って、ここにはこんな薄っぺらな標識よりも、待避所を、それが無理ならせめてカーブミラーが欲しいところ。
どちらもないので、もし出会い頭に対向車が来たらいったいどこまでバックせねばならなくなるのかと、考えるだけでも胃が痛くなりそう。
この強烈なタイトロープ、いったいどこまで続くのか。
11:40 《現在地》
下小屋堰堤から約1.4km(峠から約8.6km)進んだ地点で、ようやく一息つける広いスペースが現れた。
待避所というよりは駐車スペースを兼ねた広場になっていて、谷側にはじめて目にする大きな案内板と、あとちょっと不穏なものを感じてしまうが、幌を被ったバイクが1台止まっていた。
案内板は古い擬木コンクリート製で、「とやまの名水 長瀞峡 遊歩道」の文字と共に簡単な地図が描かれていたが、消えかけていて内容は判別困難。
ここが長瀞峡と呼ばれる名勝であることは既に説明した通りだが、県道が通れた時代に観光化が企てられた名残である。
しかし、看板の様子からも察せられることだが、ここにはもはや“遊歩”の許されそうな空間はない。
そもそも、遊歩道というのがどこにあるのかが、私には分からなかった。(地形図にも描かれてないし)
普通に考えれば、看板の脇辺りに遊歩道があるだろうと思って斜面を覗いてみたが……
一歩も踏み出せねーぞ! 道から出たら死ぬぜこれ…。
だいぶ前の不動滝でも、見えている展望谷へどうやって行くのかが分からなかったが、ここでもまた、あるとされた遊歩道へどうやって行くのかが分からないとか、どうなってんだこの辺りの観光地は。
おそらく、遊歩道が目指しているのは谷底の小矢部川なんだと思うが、ほぼ真下にさんざめく紺色の水面までの落差は60〜70mもあって、とてもじゃないが道なしで下れるとは思えない。
樹木のせいで谷底を見通しづらいが、身を乗りてなんとか撮影したのが、これらの写真だ。
いまいる広場の下流方向を撮影した。
壮絶なV字谷の底には、滝と深淵が交互する回廊状の流れが横たわっている。
ほんの数キロ前まで、【こんなのんびりした川】だったのに!!
一方こちらは、同じ場所より眺めた対岸上部の大岩壁だ。
圧巻の自然美だが、私にとっては道路の関与が全くないと分かるので、安心して(他人ごとで)見ていられる。
もしあそこに道があるとか言われたら、悪夢でしかない。
長瀞峡……、観光地としてはもう終わってしまった存在っぽいが、なかなか凄いところだと思った。
そんな感想を抱きつつ、デポされた謎のバイクに別れを告げて、前進を再開する。
11:45
引き続き、荒れた激狭の舗装路が続く。
路肩に大きく陥没している部分があったが、補修もされずそのままだ。
もし路体全部が谷に落ちてしまったら、この道はいよいよ高難度廃道として界隈に恐れられるようになるだろうな。
それはそうと、さっきの長瀞峡の広場の時点で、峠から8kmを超えていた。
今は9kmに迫ろうとしているが、確か峠から8.0km先の中河内までが全面通行止区間という規制内容じゃなかったっけ?
……まあ、今さら良いけど細かいことは。
中河内には確かに近づいてるし、このまま前進すれば決着が付くだろう。
そんな気持ちで巡り合った、この次のカーブだった。
11:47 《現在地》
唐突に、閉じたチェーンゲートと遭遇!
乗り越えて反対に回り込むと、「この先 あぶない 入ってはいけません」とだけ書いてあった。
設置者や、その主旨は不明。
ここは峠から約8.8kmの地点だが、これが中河内側の県道封鎖地点であろうか?
思っていたよりも随分と簡素だ。
しかも、どちら側からここへ辿り着いてもUターンできる道路幅がない。
県道の封鎖地点としては、やはり少々違和感がある気が。
が、ともかく、峠頂上の不動のバリケードを突破してから2時間47分ぶりに、一連の封鎖区間の終わりかも知れないゲートを超えた!
11:47
チェーンゲート通過と同一時刻(秒しか進んでいない)に、コンクリートの法枠工の一画に設えられた石祠と遭遇。
その内部に4体の小ぶりな石仏が並べて置かれているのを見た。
ブナオ峠は歴史深い街道という話しだったが、路傍で石仏を見るのは、西赤尾を出てすぐの【切り通し】以来であり、ビックリするくらい久々だった。
また、この長瀞峡に道が出来たのは昭和初期の林道整備以来のことで、古道はここを通らなかったはず。
ここにあるものは全て昭和以降の石仏なのか、それとも古道から移設したものなのか。由来は必ずしも明らかではない。
右端の一体を除いては。
4体のうち、右端の1体のみ、由来書きが台座にしたためられていた。
以下がその文章だ。
南无阿弥陀仏
花田真佐夫
下村 明正
昭和四十六年十月
二十三日夜間ラリー
にて転落死亡す
合掌
これまで、路傍に立つ慰霊碑は本当に数多く見てきた。
その多くは、不幸にして走行中に落石などの道路災害に巻き込まれての事故死(災害死)とか、道路工事や整備作業中の事故死(殉死)に関わるものであった。
慰霊碑が設置される事故のほとんどは、亡くなった方に大きな過失が無いと想像されるものか、或いは犠牲者が多数に及んだ場合である。
が、本碑にある「夜間ラリー中の事故死」というのは、初めて見るケースだった。
夜間ラリーと書いているが、公式な大会のようなものではないと思う。そうであれば大会名や主催者名も書かれるだろう。
おそらくは、公道レース行為(走り屋行為)中の事故死ではないかと思う。
我が国における公道レースブームは過去に何度もあり、昭和40年前後は若者を中心にカミナリ族の存在が知られていた。
もし、この事故が現代の話として報道されたら、きっとヤフ●メには自爆だとか自業自得とかの心ないコメントが溢れるんだろう。
技術の不足とか、無謀さで命を落としたとしたら、確かにそれは勿体ないし本当に残念なことではあるのだけど、私をひき殺したのでもない彼らを冒涜する気にはならない。
だって、碑文の文字の明らかに不慣れな不揃いさとか、こんな場所なのに生花が手向けられていることとか、ギリギリ封鎖の外側にあることとか、彼らを大事に思う人の存在がはっきりと感じられるんだもの。
それに私も、万が一事故を起こせば自業自得といわれそうなことを、たまにやっている自覚があるからな。
祠の前のここから落ちたんだろうか……。
まず即死は免れなかったと思われる地形だが、ギャラリーや仲間が近くにいて発見されたのだろうか。ケータイもない時代で通報も大変だったろうな(そもそも圏外だが)。
人里に遠く離れた険しい県道の利用にまつわる一節として、あまり記録されることのない物語を伝えるこの石仏の存在は、とても印象に残った。
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