空よりの帰還
8−1 記念碑 〜 那須見台
12:57
プレハブ小屋と寄り添う記念碑の前を、午後一時に我々は出発した。
「横川支線」を攻略した暁には再会も出来よう。
それを楽しみに、一時の別れだ。
何度も繰り返して書いたが、「天空街道」と私が呼んでいる塩那道路の最も特徴的かつ、圧倒的存在感を見せる5kmは、大変に惜しまれながらも、間もなく終わりとなる。
現在の標高は、1700m。
最高所の海抜1800mから殆ど下らず踏みとどまってきたが、いま正面に県境の男鹿岳(1777m)を見据え、稜線はその頂へと緩やかに近づこうとしているさなか、塩那道路は、ついに、戦意を喪失したかのように…、右へと流れ始める。
稜線を離れ、板室へと残り20kmの下り坂だ。
特に、前半11kmは一度も休まずひたすらに下り続けるという展開。
もう、下り始めたら、この高さには二度と戻れない。
どんどんと、稜線から離れ、間もなく、その姿を遠望することも難しくなる。
こんなに、離れがたいと思った峠は、初めてだった。
そして、そんな私の気持ちを推し量ってか、塩那道路には天空街道のラスト1kmに、殆ど名前だけで実のない「ひょうたん峠」と「男鹿峠」の塩那標識がある。
どちらも、峠と呼べるような地形ではなく、僅かばかりのアップダウンに過ぎないのだが、離れようとする我々を少しでも足止めしようとしているかのようで、それさえも愛おしかった。
ひょうたん峠の失われた塩那標識の支柱の傍に立つ、おそらく塩那道路開通当時の林野標識。
各地の山道や林道でお馴染みの、造林地の位置などを示した地図だ。
殆どさび付いており、その文字は読めない。
だが、一番読みたかった部分だけが、辛うじて判読できた。
堪らず、歓声を上げた。
部分拡大写真であるが、読めるだろうか?
そう。
「塩那スカイライン」の文字が、辛うじて読める。
その名前は幻。
いまや二度と表舞台に戻る可能性の潰えた、塩那道路の観光道路名。
赤茶けた一枚の畑違いな標識だけが、その名を今に伝え続けている。
もう、誰も呼ばなくなった、 その名を。
進路を緩やかに変えた道は、登ってきた道ほど変化に富んではいない。
あとはもう、板室に達するまでひたすらに、この尾根の右壁に張り付いて、徐々に高度を降ろして行くのみだからだ。
もし、逆から辿って登ってきたなら、かなりダルまっていたと想像できる。
そんな道だ。
廃道化工事の結果としてフトン籠が路肩に山と積まれた道は、やる気無さ気なガードレールと共に、このまま廃道になっても全く可笑しくないようなムードだ。
振り返ると、すでに天空街道が過去の物になってしまったことを知る。
あの稜線は、すでに遠かった。
下りは、堰を切ったように現れ始める。
塩那道路が板室へと下りていく道すがらずっと平行しているのが、木の俣川だ。
この川は、まるで塩那道路がそうであるように大佐飛山を回り込み、その西側で、塩那道路と同山の隙間の鞍部に端を発している。
そして、10km以上にも亘り、塩那道路とは高度差300mをぴったり維持しながら、並流し続けるのだ。
写真は、木の俣川の源流部の谷を跨ぎ見る、大佐飛山のそそり立つ山腹。
谷底から大佐飛山頂まで、その高低差は800mにも達しており、見ているだけでゾクゾクするものがある。
路傍に立つ、那須見台の塩那標識。
塩原からは32.6km地点であり、残りはついに20kmを切って18km台となる。
海抜は1300mと、稜線からたった4.5kmの道のりで、高度は一気に400mも下がっている。
この区間の写真が殆ど無いと思えば、そうかそうか。
立ち止まるのも億劫なほどに、猛烈な下り坂が続いていたというわけだな。
何か下るのが惜しい気がして、悶々と下っていたっけ。
ただ、この先も下りが長く続きすぎており、まあ、チャリので下り坂というのは得てしてそう言うものだが、印象は薄い。
8−2 那須見台 〜 貫通広場
13:24
←地図を表示する。
那須見台などと言っても、残念ながら那須方面の眺望は優れない。
寄り添う稜線が邪魔をしていて、那須山の方向は道路から見えないのだ。
写真は、路傍の豊かな森の紅葉の様子。
2005年はこれでも、紅葉の色が全般にやや冴えない年だった。
夏が涼しく、秋との気温差が少なかったせいだ。
那須見台の先も、眺望のあまり利かない下り坂がひたすらに続く。
路面状況は余りよいとは言えず、砂利道というよりは、ブルが均したまんまの土道の場所が多い。
連日工事車両が行き来しているようだが、このまま二度と一般車両には解放されずに、最後は土に帰っていくのだろう。
半日掛けて溜め込んだ位置エネルギーを、下り一辺倒の道に倣い運動エネルギーに変換しながら、労せず進む。
それにしても、所々にはちょっとハードな勾配が見られる。
おそらく、乗用車には易々とは上れまい。
そう言う部分はパイロット道路として建設された仮の道で、将来はもっと緩やかな道を作る予定だったのだろう。
私とゆーじ氏は、お互いの下り高速走行で邪魔にならないよう、やや距離を置きながらそれぞれのペースで下った。
私は、未だにちょっと命知らず気味に飛ばして歩いていたようだ。
それでも、子供の頃から見たら、全然大人しく走っているつもりだが。
ともかく、飽きるだけ下りは続く。
私は、久々に視界の開けた木の俣川の谷間を見たとき、思わず間の抜けたことを言ってしまった。
「おおっ、 遠くに道が見える〜 すげー」
となかんとか。
何がスゲーのかは、私にも謎だったが、条件反射的に、ずっと遠くに見えた山道を、なんとなくそう表現してしまった。
もちろん、それは他人行儀で無責任なリアクションだった。
しかし、実はここから見えている、あの
もの凄く遠い道は、
塩那道路自身なのである。
実のところはね。
暫く走ったときに、私は自分の誤りに気がつき、ゆーじ氏に気づかれないように一人恥ずかしがった。
下りに入ってから暫く走っており、もうそろそろ下界が見えてくるかななどと思い始めていた矢先だっただけに、まさか、あんな霞むほど遠くに、しかもかなり高い位置に、自分たちの行き先があるだろうとは、思わなかったのだ。
現実に、ここから見えた「灰色の法面の道」は、我々が6kmほど先に通過する事になる、「川見曽根」付近であった。
で、気がつけば「貫通広場」。
なんだかそそる名前のこの場所は、おそらく名前の通り、塩原・板室の両方から建設されてきた塩那道路が最終的に一本になった、記念すべき地点なのだろう。
塩原からは37.3km、板室からは13.5kmと、かなり板室寄りではあるが。
この辺りまで下ってくると、等高線に沿いつつ細かなアップダウンを繰り返すようになる。
しばらくは、海抜1200m〜1100m付近を維持する。
線形的にも、ひたすらに同じ様な景色が続く。
それは、山襞の凹凸に倣う、日影と日向の繰り返しである。
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8−3 貫通広場 〜 本部跡
13:57
←地図を表示する。
岩場を削って拓かれた幅4mほどの道が続く。
特に険しい部分にはガードレールが設置されていたりと、それなりの整備は成されている。
残念ながら、チャリで走って面白いと感じられる道では無くなってきた。
ここまでが、あまりに変化に富んだ、期待以上の道でありすぎたと言うこともあろう。
もう、淡々と淡々と下っては上って、また下ってを繰り返し、少しずつ、板室の終点に近づいていく。
画像にカーソルを合わせると変化します。
思い出されるのは、あの天上の道の美しさと厳しさばかり。
そんな寂しさを少しだけ満たしてくれるのが、塩那天空街道の、最後の“見返り”風景だ。
天空街道から離れ9km。
なんと、こんなところからも、あの稜線の道がまだ、見えていた!
そればかりではない、稜線から下りに下ったこれまでの道のりが、巨大な山並みのそこかしこに見えるではないか!
まるで、塩那道路の辿ってきた軌跡そのものが、山肌に化けているかのよう。
塩那のダイナミズムを、最後にもう一度感じさせてくれた…。 感激!
「三度坂」の塩那標識を過ぎると、その名の通り、上り返しが始まる。
ただし、それは僅かな距離で再び下りの大いなる流れに呑まれて終わる。
立ちはだかる岩場を砕き、幾つもの切り通しを交えて、捻り込むように道を穿った。
いまもって安定せず、重機の入らざるを得ない岩場。
まるで賽の河原の石積みのように、終わりの見えない、誰の為とも分からぬ、維持管理が続けられてきた塩那道路。
しかし、それもついぞ終わりが見えてきた。
「廃道化」という県の決断が、この塩那に、長らく失われた安穏をもたらす日は、いずれ来るだろう。
「見晴台」の塩那標識のカーブからは、木の俣川の対岸の黒滝山が小気味良いほど一望の下に納まった。
黒滝山(1754m)は、大佐飛山から連なる、やはり人の立ち入らぬ山だ。
この塩那道路さえなければ、山頂を蹂躙された鹿の又岳も、間近に見えた日留賀岳も男鹿岳もみな、同じように人跡稀な山並みだったに違いない。
このように、ただの林道にしか見えぬ場所もある。
かと思えば、右の写真のようにがっちりと固められた路肩が現れたりもする。
お金がなかったのか、パイロット道路だからなのか、どうにも規格の定まらぬ塩那道路であった。
何故立っているのか分からないような場所にも、塩那標識がひょっこり立っていたりもする。
例えば、この岩場は「ダルマ岩」の標識がある。
また、すぐ傍には何の変哲もない岩場に「熊の穴岩」や「石楠花岩」などの地名もある。
まあ、労せず下れる我々には無意味に思えても、20kmも上り続けなければならない逆からの登攀者にとっては、こんなちょっとした標識でさえ心の拠り所になるかも知れない。
実際、板室側から入る方が、我々のように塩原側から入るより高低差も天辺までの距離も短いが、景色の変化がやや乏しいことから、疲労度は板室側の方が大きいかも知れない。想像の域を出ないが。
塩那道路ではここにしかないかと思われる、珍しいコンクリート吹きつけの壁。
廃道化工事の一環なのか、ただの吹きつけではなく、わざと植物が根付ける隙間を格子状に設けた吹きつけとなっている。
それにしても、塩那道路の51kmの全線の中で、我々は一体何回稼働中と思われる工事現場を通ったのだろう。
県では、対応の定まらなかった塩那道路について、年間3000万〜4000万の経費を掛けて道路維持を続けてきたというが、栃木県民の血税を20年も吸って吸って吸いまくって、結局は土に帰ろうという塩那道路も、なかなか薄情なやつだ。
ゲートだ!
塩原側の3番目のゲートを突破して以来、33kmぶりのゲートである!
しかも、なぜかやる気無さそうに開いている。
あんなに緊張しながらゲート破りをして突破してきたのに、これで板室側のゲートがこれ一箇所だけだったら、笑える。
ともかく、このゲートを過ぎて100mほどの地点が、「本部跡」の塩那標識が立つ広場だ。
そして、この広場「本部跡」こそが、随分前にこのレポでも書いている、「県道として整備されることが決定されている板室側の区間(8.7km)」の終点である。
つま〜り!
この開放されているゲートこそは、板室側の県道終点となる“予定”の場所だ。
予定と書いたのには、理由があって、
まだ県道としての整備工事が、ここまで届いていないのだ。
塩原側の工事が、万全に近い形ですでに完了しているのとは、対照的だ。
さらにこの話には続きがある。
昭和57年の整備計画(中間36kmは建設休止、塩原側7km、板室側8.7kmそれぞれは県道として整備する)において一度は、板室側8.7kmの整備区間(この整備というのは、幅5.5mの2車線舗装路ということだったようだ)の終点に指定され、ここには「深山園地」と言う公園を建設する予定だった「本部跡」なのだが、その後6.6kmほど作ったところで、工事が止まったままになっていたのだ。
おそらくは、予算の都合だろう。
なにせ、ありもしない公園のために、行き止まりとなる定めの道をわざわざ整備するような無駄に、そうそう予算が下りてたまるかってんだぃ。
で、平成13年頃から再び塩那道路の処遇について様々な議論が交わされ、結局中間部分の廃道化が決定されたことは何度も書いたとおりなのだが、そこで、未完成だった板室側の2.1kmについても、延長と道路規模を縮小することが決定されたのだ。
延長は400m短くなり、幅も1車線に改められるという。
話が長くなったが、その結果として、「本部跡」は今後の塩那道路については何の意味もない、廃道区間の一部という位置づけに格下げとなったのである。
ちょうど本部跡は小さな鞍部にあり、静かな森の公園を整備するにはうってつけだったのだろうが、その目論見は消えた。
そうして、新しく終点となる予定なのが、この「川見曽根」の塩那標識に近いあたりの、小さなピークである。
数年後には、計画通りなら、ここまでは車で来れるようになるはずだ…。
いま現在は、まったくもって、将来公園が建設されるようなムードもなく、何の面白みもない場所なのだが…。
もう、いい加減にしたら?
塩那道路の失敗を隠そうという魂胆の見え透いた、無駄な追加投資は。
イイじゃん、全部廃道にしたらさー?
なんで、こんな中途半端な場所に
公園を新たにわざわざ作ってまで、生きながらえさせようとするわけ?
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