道路レポート 鳩打峠の初代隧道捜索作戦 机上調査編

所在地 長野県飯田市
探索日 2019.04.02
公開日 2020.07.12


探索のまとめ… というか謎(1) 〜鳩打峠の道は4世代、その新旧関係は?〜

今回の現地探索で判明した鳩打峠頂上付近の道の状況をまとめたのが右図で、合わせて4世代の道があった。

現在使われている林道鳩打線が最も新しい第4世代と考えられる。昭和22(1947)年に全長305mの鳩打隧道が完成したことで、峠を初めて自動車が通るようになった。現在の利用度を考える限り、将来にわたってもこの道が鳩打峠の現道であり続けると思われる。

この林道以外で歴代の地形図に描かれたことがあるのは、レポート内では単に「古道」と表現した、第1世代の道である。これは徒歩道、よくても牛馬が荷を負って通れるくらいのいわゆる昔ながらの山道であり、両側とも素直な急坂で峠の切り通しを目指していた。

残る2つの世代は、今回の探索の主役となった初代鳩打隧道がある道(図の赤線)と、従来の古道の勾配緩和のために作られたとみられる迂回路(緑線)であるが、これらの新旧の関係は現地からは読み取れなかった。

普通ならば、大正初期に開削されたといわれる隧道ルートの方が新しく、第3世代だと判断するところだが、この隧道はたった3年ほどで廃絶したらしいうえ、伊賀良側は未成に終わったように見えたことなどから、逆のパターンも疑っている。
すなわち、せっかく掘った隧道が短期間で利用不能になったため、その応急的な迂回路として、あるいは2世代目の鳩打隧道建設の際の資材運搬などの目的をもって、古道の勾配をいくらか緩和した迂回路を開削したという説である。

この迂回路の正体は、現地探索で得た新たな謎だった。



探索のまとめ… というか謎(2) 〜日本最古の全面コンクリート隧道?!〜

今回の探索における圧倒的な最大成果は、極めて記録に乏しい初代隧道の実存を確認したことだ。
発見されたのは伊賀良側の坑口とそれに続く坑道で、坑内は10mほどで落盤閉塞していた。黒川側についても坑口跡地をほぼ特定できたが、開口部や坑門の遺構はなかった。全長は60〜70m(現トンネルの5分の1程度の長さ)と推定され、峠を約20m切り下げる効果(現トンネルは約70m)があったようだ。

隧道の構造については、伊賀良側の僅かな現存部分以外窺い知れないが、驚いたことに、そこには場所打ちしたとみられる継ぎ目の見えないコンクリートの内壁が存在した。しかも、側壁も天井アーチも両方である。

本編でも述べたとおり、場所打ちコンクリートで天井のアーチ部分を築造するようになったのは、大正時代後半以降というのが定説である。
例えば、土木構造物調査のバイブルである『鉄道構造物探見』(小野田滋著)には、最初に天井アーチ部分もコンクリートで建造された鉄道トンネルは、大正5(1916)年に建造された内房線の鋸山隧道といわれている、とある。

一般的に、かつて鉄道用トンネルの方が道路用トンネルよりも先進技術には長けていたが、道路用として知られている最古の総コンクリート造りトンネルは、大正10(1921)年に完成した徳島県牟岐町の松坂隧道(国道55号旧道)という説が有力だ。これは土木学会の『日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選』にも「現存最古の道路用コンクリートトンネル」という記載のされ方をしている。

しかし、これまで散々述べているように、初代鳩打隧道は、「大正の初め頃、峠より50mほど下ったところにトンネルをあけた事があった。然し地盤が軟弱だったことから、3年ほどで崩壊してしまい(伊那 昭和59年10月号より)といわれているものであり、この文章だけを素直に受け取るならば、完成は大正10年よりも古かっただろうし、廃止された時期でさえもそうではなかったかと思われるのだ。
したがって、私が目にしたコンクリートの巻き立てが、初代隧道の完成当初からのものだったならば、従来知られてきた記録を覆す最古の道路用コンクリートトンネルである可能性が高い!ということになる。

とはいえ、これは俄に信じがたいというのが私の本音だ。
正直、鳩打峠という辺鄙な土地に、国内最初級の先進工法が突然用いられるというのは、なかなか考えにくいことである。
何かバックグラウンドストーリーがあったならば、納得のしようもあるのだが……。
だがこれが信じがたいとなると、完成時期か廃止時期に関する従来の“唯一の情報”が不正確であるか、それともこれらの情報は正しいが、実は廃止後にコンクリートの巻き立てが行なわれた可能性(例えば復旧工事として)が疑われると私は思う。

以上が、現地探索から判明した隧道の構造に関する、重大な疑問点である。


【追記】 鳩が好きすぎるトリさん、早速見に行ってきたそうで   2020/7/27追記

鳩といえば鳥、鳥といえばトリさんというワケではないと思うが、私の友人の石井あつこ氏こと “トリさん”@kotokotobird) は、この鳩打峠の初回を公開した直後から、地味めな峠に眠る謎めいた隧道の虜になったようで、次回更新はいつかと連日矢の催促があったのだが、完結した数日後にさっそく現地へ飛んで隧道を見てきたらしい。しかも、1日目にちゃんと発見したにもかかわらず、なぜか翌日もまた見に行ったというから、完全にスイッチが入っている。
隧道に跨がって満悦の表情を浮かべた上記写真からも、愛しか伝わってこない。愛だ。

だが、彼女もベテランの域に入ったオブローダーである。ただ行ってきたで終わらず、私の持つ未解明領域に爪を立ててきた。いや、嘴で突いてきたか?
隧道発見の衝撃でアタマのネジが緩み、隧道の構造を調べるうえでの必要な観察と、観察すべき箇所の写真撮影をすっかり忘れてきた私に代わって、坑門と内壁の高精細接写画像を撮って送ってきてくれたのである。ありがてぇことに、さっそく画像をご提供いただいたので、本邦最古級のコンクリート道路隧道の可能性が取り沙汰されるその構造を、改めて観察してみよう。


私が見たときから半年ほど経過し、季節が違っているが、坑口はもちろん健在。私が見たときより笹藪から出ているのは、トリさんが刈り払ったわけではなく、身体を使って笹を寄せたからだそうだ。写真には、そうした雑務に身を捧げる同行者が写っている。

白い矢印は私が付したもので、ここに写る木柱のようなものの正体が気になって質問したが、これはただの倒木で、例えば木製シェッドの一部などではないという。

この坑口を現地で見たときの私は、これを継ぎ目のない場所打ちのコンクリートであると判断し、さらに隧道の内部にもこの壁が続いているとみた。

ただ、私の観察は短時間であり、後で検証出来る写真もほとんど撮っていなかった。
そのため、露出している坑門の先端がなぜゴツゴツしているのかという疑問が残ったし、実際にはコンクリートブロックや石ブロック造であるという可能性を否定しきれていなかった。


彼女たちは、坑門の材質を確かめるべく、まずは付着している苔をむいた! むきむき! そのまま全体をむこうとするものだから、同行者が途中で止めたとかそういう話も聞いたが(遺構の苔をむしるべきかどうかは、廃道界のキノコタケノコ問題である)、そうして一部が露出したのがこの画像だ。

坑門の表面に露出している材質は、確かにコンクリートのようである。
骨材である砂利がはっきり見えないのでモルタルかもしれないが、一般的に表面部分に骨材を露出させないのがコンクリート打設のセオリーであるから、直ちにどちらとは言えないが、いずれにしても、コンクリートブロックや石ブロックのような継ぎ目は見えないように思う。

チェンジ後の画像で白い石が一緒に撮影されているが、これは付近で採取された花崗岩の石片で、坑門と質感や模様が似ていることを示している。
骨材として現地採取の花崗岩の砕石を用いれば、このような質感になるだろうと思う。いわゆる山砂コンクリートである。

また、この坑門のコンクリート表面は平滑に加工されており、例えば落盤によって断ち切られた断面ではない。
しかし、アーチの天端付近には、ただの苔ではない明らかな出っ張りがある。
その造形は歪で、成型されたものとは断定が出来ないが、他の部分が平滑であるとすれば、ひときわ目立つこの出っ張りは、要石の名残かもしれないという、新たな仮説を持った。

本来、要石は組積造のアーチでのみ構造的な意義があるもので、コンクリートの場所打ちでは不要だが、戦前は意匠的理由からこれを設けたコンクリートトンネルも少なくない。もしこれが要石であり、かつ組積造ではなかったとすれば、これまでないと考えられていた装飾的要素を有していたことになる。


ところで少し脱線するが、こうした風化したコンクリートの構造判断を外見から行うことの難しさが分かる例を挙げておく。

右画像はみんな大好き、有名な万世大路にある2代目栗子隧道の山形県側坑口(2019年8月撮影)であるが、この昭和12(1937)年に完成したトンネルには完成当時、荘厳な石アーチを模した意匠が存在していた。
だが、模した意匠だと書いたとおり、本当は純粋な場所打ちコンクリートのトンネルである。

表面の風化が進行することで、画像の1→2→3のように外見が変化していく。(高解像度の元画像)
よく見ていただくと、表面が剥離した状態である2でもまだ継ぎ目の模様が残っているが、さらに深層部まで剥離した3でついに一様なコンクリートになっている。ここまで表面から5cmくらいは削られているとみられる。
通常、2のような状況であれば、内部まで組積造だと判断したくなると思うが、装飾用タイルや薄いブロックが用いられるなどの理由で、判断が難しいことがあるという例である。

そして、これとは逆のパターンもありえるだろうというのが、今回の難題なのだ。
つまり、見えている坑門に継ぎ目がないからといって、内壁が組積造ではないと断定は出来ない。


観察は洞内へ。

これが今回トリさんによってもたらされた最大の成果だと思うのだが……
現状見ることが出来る内壁は全てモルタルだった。

コンクリートとモルタルには、前者がセメント+砂+水+砂利(骨材)であるのに対し、後者はセメント+砂+水で構成されているという材料の違いがあるほか、一般的な施工方法にも違いがあり、前者は型枠に流し込んで成形することが多く、後者はコテで塗り込むように成型することが多い。

この施工方法の違いが、古いコンクリート隧道に普通みられる【実板の模様】が、ここに全くない理由であった。その一方、左官鏝(さかんこて)で擦った筋模様や、後から重ね塗りしたような凹凸は、ふんだんにみられた。
間違いなくこの隧道の内壁は、左官の仕事によって仕上げられている!


モルタルにはコンクリート以上にひびが発生しやすいという弱点があるのだが、実際これら写真のようなひび割れがところどころ存在している。

そして、この亀裂の隙間から、モルタルの厚みと、その裏側の状況が、僅かに見て取れる。
これらの写真とトリさんの見立てでは、モルタルの厚みは1〜2cm程度であり、その裏側には何かゴツゴツした“別の層”があるらしい。
モルタルという材質は平均するとコンクリート以上の強度があるらしいが、ひび割れが起こりやすいことと、強度を持たせるほど大量に使うとコストが非常に大きくなるという理由から、大きな土木構造物をモルタルだけで建造することは、まず行われない。したがって、このモルタルの裏側に別の壁があることは、間違いないと思う。

おそらくその“別の層”というのは、構造的な強度を持った内壁である。
整った坑道の形状からして、素掘りにモルタルを塗りつけただけとは考えにくい。
そうなると次なる疑問は、表面のモルタル層に隠された内壁の構造だ。


やはり、坑門のイメージ通りの場所打ちコンクリートによる内壁があるのか、それとも、隙間から微かに見えたゴツゴツな印象通りの石ブロックの内壁が隠れているのか。
この疑問は、残念ながらモルタルの壁の一部を破壊してみない限り、実地では確かめようがなさそうだが、さすがにそれは気が引ける……。

しかし、もし隠されているのが石ブロックの壁面だとしたら、私が現地で見つけた謎の石材(→)の正体が判明しそうで、それはそれで夢がある。

ともあれ、わざわざ内壁の表面にモルタルを塗って二層構造とした理由も謎である。
化粧目的か強度増強目的だろうが、モルタルを数センチ塗っても強度はそれほど高まらなさそうだ。


以上が、鳩が好きすぎる人から速攻でもたらされた写真を元にした、隧道の構造に関する私のアップデートである。
内壁表面がモルタルであることが確認されたことで、俄に、場所打ちコンクリート隧道ではなく、モルタルで化粧された組積造隧道である可能性が出てきたようだ。
ああ、どうせ設計図なんて残っていなさそうだから、モルタルの壁が自然に壊れてくれないかなぁ……。




資料調査編 峠の背景解説 〜伊賀良・清内路両村にとっての鳩打峠〜

現地調査は大きな成果をもたらしたが、上記のような謎や、【石材らしき謎の散乱物】の発見など、新たな疑問も生じさせた。
謎の解明には机上調査が必要だ。
というわけで、現時点では次のような資料を調査済みである。

【主な調査資料】
・伊賀良村史 ・伊那路を描く.1 伊賀良 ・笠松大平山四区山誌 ・清内路村誌 ・島村文集「伊那の山河」 ・月刊「伊那」バックナンバーの一部


「伊那 昭和59年10月号」より

これらの資料の多くに、鳩打峠に関する記述があって、峠がどのように活用されてきたかたかということや、戦時中に(現在使われている)隧道が建設されたことなどが出ていた。
だが、初代隧道に言及していたのは、伊那史学会の月刊誌『伊那』の通巻677号にあたる昭和59年10月号「ふるさとの峠特集(1)」に収録された平沢秀明の署名がある鳩打峠の記事だけだった!

探索の原点であり、現在までに確認されている唯一の隧道言及資料である同資料の記事を、改めて“全文”引用してみよう。
初回にも引用したが、その時は隧道と直接関わる部分の外を一部省略したが、今度は全文だ。
残念ながら初代隧道について直接記述した新たな資料が発見されない以上、峠に関する様々な記述に目を向けて峠の全体史を知覚することで、その中の失われたピースとなった隧道を浮かび上がらせる努力をするよりないであろう。
したがって、読者諸兄の期待を裏切り、この調査では隧道に関する決定的な新情報はひとつもない。これは将来の新たな情報を得るための土台作りである。

(以下の引用のなかで薄文字の部分は初回で引用した繰り返しとなる)
鳩打峠      平沢秀明
伊賀良地方と清内路方面を最短距離で結ぶ峠道として、古来から往来があり、鳩打林道の開通によって大平とも自動車で短時間に交通が可能になった。
 ♪ 峠越ゆれば黒川狭霧 濡れたつつじのしおらしや
の伊賀良音頭にある「峠」は、この鳩打峠のことである。伊賀良方面から鳩打峠を越えて下ったところに黒川が流れており、この冷たい水で咽喉をうるおして、清内路方面へ行ったものである。旧制飯田中学校に在学していた伊賀良地区の生徒は魁龍団という同好会を組織していたが、毎年夏休みになるとテントや鍋、釜、食料を肩にかついで峠を越し、黒川のほとりで何日かキャンプをしたものであり、悪童どもの懐かしい想い出の地となっている。
むかしは伊賀良方面でとれた米などを馬に積んだり、背負子という力のある人足が背負板に付けて清内路に運び、帰りに炭や材木などを積んで里の方へ持って来た。古老の話によると、朝露を払って揚げ荷をし、夕べに星をいただいて帰り、清内路との一往復がほぼ一日行程だったという。(つづく)
「伊那 昭和59年10月号」より

民謡に謡われているというのは、かつての伊賀良村の住人にとって鳩打峠の存在がいかに大きかったかを窺わせる記述だ。
そして、村の子どもたちが峠を越えて黒川でキャンプをしていた時代が「いつ」なのかは明示されていないが、旧制中学校は昭和22(1947)年の学校教育法施行以前のものであるから、彼らが越えたのは現在の鳩打隧道ではないはずだ。初代隧道を潜った可能性があるし、そうでなくても、【峠の切り通し】に立った彼らの脳裏に、足元に眠る廃隧道が浮かぶことがあっただろう。“悪童”の遊び場になったことも想像に難くないのだが……。
こうした経験者が地元にある可能性が高いことは、現地で聞き取り調査をするうえでは期待が持てるだろう。

(つづき)
峠から200mほど下ったところに立派なトンネルがあき、往来が容易になったが、大正の初め頃、峠より50mほど下ったところにトンネルをあけた事があった。然し地盤が軟弱だったことから、3年ほどで崩壊してしまい、鳩打林道の整備と高度利用にはトンネルを掘らなければ駄目だ、ということから昭和18年に計画され、19年に現在のトンネルが開通した。
今では鳩打峠は「信濃路自然遊歩道飯田ルート」の一部として、飯田高原から4.9km、高鳥屋山から1.9kmの地点として、自然愛好家に親しまれている。昭和19年から同30年前半までは、大瀬木や竜丘の財産区関係者が、大瀬木の牧平地籍に番小屋を作り、行先や人馬、車の種類などによって通行料を徴収していた。いまこれを知る人が段々と少なくなって来た。
「伊那 昭和59年10月号」より

建設された林道鳩打線が、昭和30年代初頭までは、地元財産区が料金を徴収する有料林道であったという新情報だ。
このような料金の徴収は、建設費を償還し、あるいは維持費を確保するために、受益者負担を求めるという法的な根拠を持って行なわれたものであり、このことから、大瀬木や竜丘の財産区が林道の管理者ないしは管理者から委託された存在だったことが分かる。
一方で、初代隧道については、誰が計画し、資金を出し、工事を進めたのかなど、背後関係は全く不明である。このことも今後解明すべき大きな謎だ。


続いて紹介するのは、北方他三区財産区議会が昭和38年に発行した『笠松大平山四区山誌』という資料で、発行者はおそらく前記した通行料金徴収の当事者の一員であったと思われる。
本の内容は、伊賀良側から見て隧道を越えた先に広がる黒川流域の山林管理に関するもので、この区域の山林経営の根幹的施設である鳩打林道の建設についても、当然誌面を割いていた。
やはり、初代隧道に関しては触れられていなかったが、林道建設の背景が参考になったので、抜粋して紹介する。

鳩打林道の開通
山を買うなら道を買えといわれているように、どんな山林資源の豊富な美林を抱えていても、山出しの悪いところでは、どうにもならないものである。笠松山区山を通って大平街道に連絡する林道を開けようと計画をたてたのも、こうしたことからで、鳩打林道も今では大型トラックが、通行出来る立派な林道ができているが、此の林道が開通するまでには、大へんな経費と、関係担当者の並々ならぬ努力によったものである。 (つづく)
「笠松大平山四区山誌」より

まず重要なことは、林道鳩打線は徹頭徹尾において、伊賀良村近隣の人々が黒川上流の大平方面に所有していた山林を管理経営する目的で開設されたものだという点だ。
旧来の鳩打峠が伊賀良と清内路を結ぶ生活道路であったこととは、目的も目的地も変化しているのである。
そして気になるのは、これより古い初代隧道の計画が清内路と大平のどちらを志向していたかであるが、それについての言及はない。

右は昭和27年の地形図だ。実際には当時既に林道鳩打線が大平の近くまで完成していたはずだが、地図内では旧態依然である。
この図を見ると分かるのだが、林道が大平へと通じる以前から、伊賀良から山を越えて大平へ向かう道が別に存在していた。
「笠松峠」の注記がある標高1271mの三角点を越える小径記号がそれで、同書の上記引用とは別の箇所に、「戦時下の混乱期にも学校、青年会等を動員し、笠松峠を越えて日帰りに大槙、大沢奥石など植林した」という記述があるので、伊賀良大平間の林業用通路がここにあったことは間違いない。しかし、笠松峠は鳩打峠より100mほど高いうえ、見るからに車道ではない線形だ。植林には使えても、伐出には別の道が必要になったはずである。



(つづき)
この鳩打林道は昭和8年に片山均村長時代に林道伊賀良、清内路線として出発したのであるが、この林道は、昭和8年6月から同11年までに、伊賀良村大字大瀬木字井ノ口原から、字内畑まで1520mの開設ができた。
更に昭和19年9月29日には、その工事を進めることになり長野県の県費補助を得て3170mを飯田の請負人清水松太郎に請渡し、隧道の設計は村内大瀬木の木下作治の設計になったもので、この工事は丁度戦争苛烈なときであったから、関係部落の人達から一般勤奉隊が出動し、昭和22年3月末日迄に鳩打のトンネルを経て、大持、二の沢まで10680mを完成した。
「笠松大平山四区山誌」より

林道鳩打線の計画のスタートから、大部分が完成するまでのことが述べられている。
注目すべきは、計画のスタートが昭和8(1933)年であって、当時は伊賀良清内路線という路線を考えていたことだ。この時点では、目的地は大平ではなかったようだ。

そして、この年にさっそく工事がスタートし、大瀬木の字井ノ口原から字内畑という地点まで、1520mが作設されたとある。
後者の位置は不明だが、距離的には【林道の最初のヘアピンカーブ】の辺りと思われる。(林道下に【謎の碑】があった辺り)

しかし、なぜかそこから工事は長く停滞したようで、再度着工したのは戦時中の昭和19年であったという。そしてこの時点では既に、林道の目的地は大平方面になっていた。
なぜ停滞し、目的地の変更があったのだろう。
はっきりしたことは分からないが、県費補助が出ていることから、木材の戦時増産を目的とした林道工事が想像されるところであり、おそらくこの目的により合致する目的地として大平が選ばれたのだろうと思う。
ともかく、昭和8年当時は、鳩打峠越えの目的地はやはり清内路とされていたようだから、これより古いと思われる初代隧道についても、高確率で清内路行きを指向していていたと考えられる。

また、『伊那』の記述通りに、大正時代に初代隧道の建設と失敗の出来事があったとたら、続く昭和初期に同じ峠を目指した林道工事で、そのことを念頭にしないことは考えにくい。
もし初代隧道の時代に伊賀良から隧道までの車道が開通していたら、改めて井ノ口原と内畑の間で林道工事を進める必要はなかったように思われるし、やはり大正時代の工事は伊賀良側において大部分が未成だったのではないか。

また、これは真っ向から『伊那』の記述と食い違うが、初代隧道の建設は大正初期ではなく、昭和初期のこの林道工事の一環だったのではないかという説も考えた。
この説だと、オーパーツじみたコンクリート内壁の疑問は解決しうるが、さすがに根拠不足であり、牽強付会の誹りは免れないだろう。



大正時代以前の鳩打峠で、何が行なわれていたのかを知りたい。
この疑問に答えてくれたのが、昭和48年に伊賀良村史編纂委員会がまとめた『伊賀良村史』である。
伊賀良村は昭和31(1956)年に周辺の町村と共に飯田市の一部となっていたが、旧村区域の地誌として刊行されたため、大いに参考になった。

鳩打線改修をめぐって
里道鳩打線は三州街道の中村・大瀬木から西に向かい、鳩打峠を越えて清内路村に至るものである。この線は清内路を経て西筑摩郡で大平線に合する、郡内の枢要路線である。
(つづく)
「伊賀良村史」より

明治22年の町村制施行によって伊賀良村が誕生して以降、枢要里道と称される村内の重要路線が認定された。
里道鳩打線も、この時に認定された伝統ある枢要里道のひとつで、下伊那郡伊賀良村の三州街道(仮定県道、現在の国道153号)から分岐し、鳩打峠、同郡清内路村、清内路峠(現在の国道256号)を経て、西筑摩郡吾妻村で大平線(仮定県道、現在の県道8号飯田南木曾線)に達する、単独で木曽山脈を横断する長大な路線だったらしい(右図の太い赤線)。
既に述べたとおり、現在では鳩打峠と清内路の間が廃道状態だが、認定当初の里道鳩打線は、現代の国道256号に相当するような下伊那郡内の幹線路線と見なされていたようである。
それだけに、早い時期から改修工事が計画されていたらしく――

(つづき)
この路線の改修については、明治33年2月、大瀬木・中村両区会で決議し、村会の同意も得て翌年二月県郡費補助を申請した。
これが34年に採択されて、35年度から三ヶ年計画で工事に着手した。工事は大瀬木区が主体で行ない、区内191人から700円の寄付金(人夫出勤二三工分も含む)も集まり、工事開始当初は順調に進んだ。しかし道路潰地問題がこじれて、区内の協調結束が乱れ、工事は暗礁に乗り上げることになった。 (つづく)
「伊賀良村史」より

とても興味深い内容だ。
県や郡の補助を受けた鳩打峠の改良計画が明治34年に採択され、35年度から3ヶ年計画で着工したものの、潰地(つぶれち)の問題で暗礁に乗り上げたという。

なお、引用元ではこのあとに、村内の紛糾具合について長い記述を行なっている。
反対する地主たちが、私権を無視して工事を進めた責任を村当局に問う態度に出たことで区長や村長は辞任することとなり、警察権で工事を強制的に停止することや、私権保護願いを司法に訴えるなどしたそうだ。その結果――

(つづき)
全線10里440間(40880m)のうち、改修工事は第1年度分起点より1255間(2282m)の改修を終えたままで一時中止となった。
この問題は多分に感情問題もまじえ、大瀬木区が上下に分かれて争う形ともなり、影響は村内にも波及し、政党的にも政友・憲政両派に分かれて争う基となるなど、村政の上に長く跡を引いた。
「伊賀良村史」より

誰かを不幸にしたくて道路工事を始めたわけでは決してないはずだが、鳩打峠の最初の改良計画は、村の風土に長く禍根を残すような問題を引き起こしてしまったという。現代社会でもしばしば争われる道路用地問題が、まだ未熟だった明治の道路法制のもとで平和裏に解決されることは残念ながら難しかったようだ。

右写真は大瀬木区の現在の風景。この地区の上下が鳩打線改修を巡って長く対立したという。

この計画は頓挫に至った模様で、『村史』にもその後の事情は述べられていない。
しかし、全長41kmにも及ぶ里道鳩打線の全線を一挙に改良しようという大きな試みが、明治期に村、郡、県を巻き込んで企てられたことは、この路線の伝統的重要度を物語るものであり、続く大正時代に先進的な隧道工事がここで企てられたとしても、そのことへの“違和感”はだいぶ薄れたように感じられる。



最後は、峠を越えた先にある清内路村(現在の阿智村清内路)の記録、昭和57年に発行された『清内路村誌 下巻』の記述を紹介したい。

国道256号線の元道
明治22年町村制が施行され、山本村(現在の飯田市)との連合村から分離、独立自治体として現在の清内路村となった頃の重要な道路は、「伊那街道清内路道」(注 梨野峠越え)と鳩打峠を越えて伊賀良・飯田方面に至る線と、清内路峠を経て木曽方面に通じる俗称木曽街道及び上清内路滝ノ沢より南沢を経て木曽方面に通じる古道であった。当時は、阿智村(当時の会地村)との交流は少く、道路も極めて悪く通行する人も稀であった。
「清内路村誌 下巻」より

清内路村でも村制施行にともなって枢要里道の認定があり、『伊賀良村史』に出ていた里道鳩打線がここにも出ている(下線部)。
これに加えて、梨野峠と南沢峠の道を重要道路としていて、村の四方に峠道が通じていた(図の太線)。
現在の国道256号の径路にあたる、会地〜清内路間の黒川沿いの道路は、明治40年代の改修工事で誕生したもので、当初は梨野峠を越えていた。

明治20年代当初、清内路村では山本村と協力して山本〜梨野峠〜清内路〜南沢峠〜中津川に至る山本中津川線の早期改修を郡役所や県議会に陳情していたが、会地、智里両村の猛運動などの事情から20年代後半にこれを撤回し、会地〜清内路〜清内路峠〜吾妻の里道大山線(現在の国道256号)を新たな改修路線として定めた。しかし山本村の妨害により問題がこじれ、明治40年にようやく工事に着手できた。

清内路村としては里道鳩打線は常に2番手以下の存在だったのか、積極的に改修を計画した記述は見られないが、上記の里道大山線の完成を伝える文脈に、次のように鳩打線が登場する。

なお、下清松山と上清カサゴヤ間は郡里道鳩打線として工事が進められた結果、会地村から大山(著者注:清内路峠のこと)までの全線が改修整備されたのは大正3年3月とされているが、完成したのは大正5年に至っている。
「清内路村誌 下巻」より

里道鳩打線と里道大山線は上清内路と下清内路間が重複しており、ここは前者の名目で工事が行なわれていたとある。
このことから、清内路村内でも(伊賀良村では頓挫した)里道鳩打線の工事が行なわれたことが分かる。その時期は、別のページに「改修は伊賀良街道の一環として行われ、大正初期に改良されたものである」とある。
鳩打峠の頂上で、人知れずコンクリート隧道が建設されつつあったとされる“大正初期”に、清内路村内でも新道が整備され、鳩打峠と並ぶ同路線内のもう一つの難所であった清内路峠の改良が完成しているというのは、果たして偶然の符合なのだろうか。

大正11年、ようやく会地・大山線(従来の里道大山線、現在の国道256号)が県道に昇格した。付馬によって米などの物資を移入し、木炭を移出していた梨野峠越えの里道は次第に利用しなくなった。いわゆる駄馬移送はこのほか鳩打を越え、南沢を越えて湯舟沢・中津川方面に至る里道・古道もあった。
「清内路村誌 下巻」より

会地〜清内路〜吾妻の全線が大正5(1916)年に開通し、新たな木曽山脈横断道路である県道会地大山線が誕生した。
もともとこの地方にはいくつかの木曽山脈横断径路があり、古代東山道が越えていた神坂峠や同様に古いとされる南沢古道に加え、江戸時代宝暦頃に大々的に整備されて栄えた大平峠越え大平街道があったが、明治以降に改良が進んだ清内路峠が次第にメインルート(国道)の座を勝ち取った。中央自動車道の恵那山トンネルは神坂峠を潜っている。
鳩打峠も、これら複数の峠道の相剋する狭間で、幾たびか整備が企てられてたが、最終的には林道という局部的な目的に専念するようになったようだ。

県道会地大山線の整備によって、大正後半以降、旧来の梨野峠、鳩打峠、南沢峠などは次第に裏道となって廃れていったが、その後再び頻繁に利用された時期があるという。それは――

きびしい食料統制のために、主食に窮した村人は、生きるために統制の網を避けて、梨野・鳩打越えに物資交流を行なわざるを得なくなった。夜半急坂で荒廃した険路を木炭を背負い、峠を越して米作農家を探り、米と交換しては夜帰村する。統制の農作物を生活物資に換える。生き続けるためには仕方がなく許される行為であったが、幾人かの違反が摘発されている。
当時、県道は木炭自動車が統制物資を乗せて走り、間道を古来さながらに人の背によってヤミ物資が動いたのである。
「清内路村誌 下巻」より

この内容が、清内路側の村史に鳩打峠が登場した、時系列上の最後だった。

太平洋戦争中の鳩打峠では、過酷な労働によって全長300mを越える大トンネルの建設が進められていた。
その間隙を縫うようにして、幾人もの村人が越えたという旧峠のすぐ下に、打ち捨てられた小さな隧道が……、あったはずだ。
既に埋没していて彼らの目にはつかなかったのか。

平和なキャンプ旅行の中学生たちも、命を必死に食いつなごうとした買い出しの人々も、時代をそれほど違わずにここを通っている。
彼らは、隧道を、見たのか、見ていないのか、それさえも分からない。

鳩打峠自体は語られていて、今も明るい自然歩道が通過している。
だが、初代隧道に関することだけこんなに記録が乏しいというのは、何か尋常の感じではない。
それこそ、何か目に見えない記憶の統制が働いていたのかと疑いたくなるほどだが、昭和59年の『伊那』にポロッと零れ出てきたのも不思議である。著者平沢秀明氏の個人的記憶による記述だったのか……?

ともかく、現地にはオーパーツのような構造を持った初代隧道の遺物が確かに存在していて、何者かによって作られたことは間違いない。



現地調査の結果生まれた疑問点の多くは、未解明のまま残っている。
現状で分かることは、鳩打峠の利用目的や路線の性格が、時代によってダイナミックに変化していたこと。
大きな土木工事が行われる歴史的な下地があり、幾たびか改良が企てられていたこと。
こうしたことが理解されたので、具体的な初代隧道建設の記録を解する下地は得られたと思う。

あとは、このマージナルの領域にズバリ切り込む決定打となる情報が、どこかに存在してくれていて、そこに辿り着けるかだ。
とりあえず、本編末尾で述べたとおり、鳩打隧道黒川口〜清内路間の追加探索を計画しているので、これに合わせて現地での机上調査を行いたいと思っている。
読者諸兄からの情報提供にも期待している。


【追記】 初代隧道の竣工年や、建設に関わった人物が判明!   2021/10/14追記

最終回の公開から1年3ヶ月が経過した2021年10月、地元にお勤めのぼぬ氏@Bonu18656039より、初代隧道の竣工年を含む重要な新情報が寄せられた。
しかも情報は単純な竣工年のみでなく、鳩打峠に2世代の隧道(現在使われているのが2代目)が建設された背景についても、これまで私が想定しなかったような“思いがけない事情”があったことを教えてくれるものだった。

まず新情報の出所は、過去に使われていた郷土学習用補助教材(いわゆる副教材)だという。
これは間違いなく私が調べていない資料だとすぐに思った。
タイトルは『ふるさと飯田の自然 社会科資料』といい、昭和52年3月初版昭和56年9月再版の飯田市教育委員会が発行したものだった。

飯田市の子供たちが郷土の歴史を知るために使う教材に、私が飯田市史を含む十数冊の文献にあたったにもかかわらず、結局は『伊那 昭和59年10月号』の数行の記述しか見つけられなかった鳩打峠初代隧道に関する記述があったというのか!と驚いた。
おそらく年配の市民でも大半が知らないような内容を、子供たちに供せられていた……。  英才の2文字が脳裏をよぎった。

私のくだらない感想はこれくらいにして、実際の内容の紹介に移ろう。
いきなり隧道の話が始まるのではなかった。
隧道の話は、「地域開発と水の利用」と題された章にあった。
ここでは同章の第1節、「地域開発に役立った沢城湖」から読み進めてみよう。
章題から分かるとおり水利がテーマになっているのだが、実はここに、鳩打隧道の関わりがあったのである。参考となる地図を用意したので、読みながらご確認下され。

@ 水不足になやまされた伊賀良

伊賀良地区の開発は、用水の確保に最大の努力がはらわれたと言っても決して言い過ぎではない。長い年月にわたる人々の努力が実って完成した用水のうち、代表的なものとして伊賀良井と沢城湖とがあげられるが、伊賀良井は既に述べられているので、ここでは沢城湖の開発についてのべることにする。
伊賀良地区は、木曽山脈のふもとから東へ扇状地、段丘と続く地形のため、ここに住む人々は農業用水はもとより飲料水にもこと欠くありさまであった。この地方に降る雨の量が少ないというのではない。事実、伊賀良の西方には笠松山や高鳥屋山といった山々を、さらにその奥には降水量の多い山地をひかえている。ところがこの山地の間には断層が通っているために、豊富な水を集めた黒川は南の清内路や阿智方面に流れてしまい、伊賀良をうるおすのは笠松山などの東側の斜面の水だけにすぎない。それだけに、この豊かな黒川の水を何とかして伊賀良の方へ引いてきたいという願いは、はるか江戸時代の昔から人々がいだき続けていたのである。

『ふるさと飯田の自然 社会科資料』(昭和56年再版)より

どうだろうか、ここまでの話から、鳩打峠の隧道開削に結びつく流れが見えてきただろうか。
ポイントは、伊賀良村の西部には黒川(天竜川支流阿智川の支流)という水量豊富な川が流れているのに、同村の集落や耕地との間には鳩打峠のある山脈(木曽山脈前衛の稜線)が横たわっているために、豊富な水を利用できない苦悩にあった。

さて、次の項でついに鳩打峠の隧道の話題が登場するので、注目していただきたい。

A 夢がなかった黒川の利用計画

黒川の水を伊賀良に引こうとする計画は、すでに江戸時代の初期にあったが、村同士の利害関係からたち消えに終わった。幕末の頃には、大瀬木村や山本村などの六ケ村が、梨子野山にトンネルをほって黒川の水を引き、畑を田に変えたり山林を開田しようとする計画を立て、藩のゆるしを得て工事に取りかかろうとしたが、ちょうど明治維新となる実現できなかった。
また明治や大正時代にも、引水計画や発電所を作り村営による電気計画も立てられたが、これもいろいろな事情で実現されなかった。
ところで、黒川の支流である清水沢というのは、鳩打峠をこえたすぐ右側にあり、鳩打峠にトンネルをほりさえすればすぐに水が引ける位置にある。
大正元年に、大瀬木の矢沢文太郎という人が峠に短いトンネルをほり
……

『ふるさと飯田の自然 社会科資料』(昭和56年再版)より

 !!!  唐突に、キタッ!

清水沢という、今まで意識したことがなかった沢の名と共に、矢沢文太郎というこれまた初めて聞いた人物が登場し、彼の行った仕事が……、大正元(1912)年に峠に短い隧道を掘ったこと!

鳩打峠に、現在使われている昭和の隧道以前の隧道があったという情報だけでも、これでやっと2件目の文献を見つけたというような稀少さなのに、工事者と竣工年というこれまで不明であった重要情報が2つ一挙に判明した!!


……この先、同書にはさらに鳩打峠の隧道開削に関する記述が続くのであるが、実はこの副教材として平易な表現で書かれた資料には、元になったより詳細な記述を持つ文献が存在していたことが、ぼぬ氏の調べによって判明している。
したがってここからは、ソースとなった(より詳細な)文献の記述を追いかけようと思う。

で、その文献のタイトルだが、『伊賀良村史』である。
いがらそんし、………………そう。 この文献、私の机上調査ですでに読んでいるし、追記前の本稿にも何度も登場している。
恥ずかしながら、私の調査に見落としがあった。
同書の第4章にあたる「井ぜきと水利」の第2節「黒川の水利計画」というところに、以下の内容は含まれていた。
完全に言い訳だが、交通について触れている章の内容ではなかったので見落としたのだ。(言い訳の上塗りだが、私はこの本を実物ではなく国会図書館デジタルコレクションの図書館送信サービスを利用して秋田県立図書館内にある閲覧専用PCで読んだのだが、通信環境の問題なのか1ページ送るのに数秒かかるため、実物の本のように全ページに目を通すことが利用制限時間的に現実的ではなかったのである…)

ともかく、ぼぬサマサマということを唱えながら、ありがたく、見落としていた内容をここから補完させていたく。
では、少し先ほどの副教材で紹介した部分と被るが、清水沢が登場するところから引用を始めよう。
用意した地図画像もご一緒にどうぞ。

五 清水沢の引水実現と沢城温水溜池

黒川本流の水利権は(昭和11年に)矢作水力発電会社の手に帰したが、その支流清水沢についてはまた格別な関心が以前から持たれていた。
清水沢は鳩打峠を越えた直ぐ右側の沢で、その名の如く豊富な水が四季を通じて流れ出ていた。この水は鳩打峠に少し墜道を掘ればこちらへ引ける手近な所にある。大正元年、里道鳩打線を改修したとき、大瀬木の矢沢文太郎は峠に短いトンネルを掘った。彼はそのとき清水沢の水を引くべき地点の目じるしを石に刻み将来に備えた。

『伊賀良村史』より

副教材よりも少しだけ詳細に事の次第が述べられている。
初代隧道の建設はやはり大正元年で、里道鳩打線の改修の一環であったという。
この里道鳩打線については『伊賀良村史』のほか『清内路村誌』などにも登場しており、木曽山脈を横断する道路として明治35年頃から沿道各村で改修が行われたが、伊賀良村では用地問題で紛糾して沙汰止みになってしまったと出ていた。だが、大正元年に伊賀良村内の鳩打峠に隧道を掘る工事が、この里道改修の一環として行われたというのは、新情報である。

大瀬木の矢沢文太郎なる人物の正体は、調べても分からなかった。
だが、彼は大志を抱いた人物であったらしい。
彼が主導して峠に初代隧道を掘った(と取れる表現がされている)のみならず、彼は伊賀良の人々が昔から望んできた黒川水系からのトンネル導水への先鞭を付ける意味で、“清水沢の水を引くべき地点の目じるしを石に刻み将来に備えた”というのである。

この目印を石に刻む行為が具体的にどのようなものであったか。目印石を置いた位置。目印石が後にどうなったか。
この3点は語られておらず不明だ。また、私が現地でそのようなものを見た記憶も、残念ながらない。もしも現存が確認できれば、素晴らしい歴史の証人だと思う。
なにより気になるのは、目印石が置かれた位置だ。
清水沢の水を引くという目的を考えれば、初代隧道の高さではあまりに高いので、現在使われている2代目隧道の西口付近ではなかったかと思う。

初代隧道の工事には、鳩打峠に導水トンネルを貫通させるための試工事的意味合いが込められていたのではないだろうか。
峠を僅か十数メートル掘り下げたにすぎない初代隧道の存在意義を理解するためにも、これは納得しやすい説だと思う。


初代隧道に関する同書の記述は、残念ながら以上で終わりだ。
建設された時期と主導したと見られる人物の名前が判明しただけで、隧道のその後については、副教材にも村史にも書かれてはいない。
だが、鳩打峠の開発を巡る記事はさらに続く。

昭和19年、鳩打線を林道として改修するにあたり、峠に300mのトンネルを開いた。そのとき、設計者木下作治は矢沢文太郎の故知をうけついで、清水沢の水を引けるようにトンネルの勾配を東への一方勾配にした。ここに清水沢引水の現実的基礎工作が出来た。

『伊賀良村史』より

現在の鳩打隧道が昭和19年に完成したものであることは、これまでいくつかの資料によっても述べられていたことだ。
だが、設計した木下作治氏が、このトンネルの勾配を東へ下る、土木用語でいうところの片勾配としたことは、初情報である。
通常、峠を越すトンネルの多くは、中央が高く両側が低い拝み勾配で建設されることが多い。その方が両側から掘り進める際の排水や排土に便利だからだ。
だが、鳩打隧道は峠をくぐる300mという比較的に長大な隧道でありながら、東下りの片勾配になっていたというのである。

現地探索で私はこの隧道を歩いて通過しているが、勾配について特段の関心を払った記憶はなく、申し訳なく思う。
現在のトンネルは見るからに普通の古いトンネルで、水路を兼ねんと画策されたものとは思わなかったが、このような歴史的背景を持って掘り抜かれていたとは……!
鳩打林道の開削は、大戦中に県の補助を受け、勤労奉仕に頼って成し遂げた大工事であり、あくまでもその名目は大平方面からの林産物の輸送にあった。だが、設計者は銃後の故郷の安定に資する秘策を、この隧道に仕込んでいた。これぞ真の郷土愛の為せる技ではなかったか。

それにしても、村史にある「故知をうけついで」という表現はいいな。故知……とてもいい言葉だ。我々の探索も故知を掘り起こすものでありたいもの。


矢沢文太郎が啓(ひら)き、木下作治が拓(ひら)いた清水沢導水路としての2代目鳩打隧道が、実際に水路として活用された経緯が次に述べられている。

敗戦直後第1回公選村長となった片山卓は、おりからの食糧不足対策として、麦田の耕作を容易ならしめるため、清水沢の引水を考えた。この水を本沢川―茂都計川へ引いて、同水系流域大瀬木・中村・三日市場の水田140町歩の灌漑用水補給にあてようというのである。
清水沢は黒川水系に属するから、水利権は日本発送電会社(矢作水力発電会社その他を統合した会社)にある。片山村長は当時平岡にあった同会社天竜支社へ何回も足を運んで交渉し、ついに清水沢の一部水利権譲りうけを実現した。同沢毎秒1立方メートルの水(実際上同沢の全水量)を、毎年6月10日から7月末日まで引用する許可を得た。これには黒川水源地域はほとんど伊賀良村民の所有山林で、この治山治水。山林緑化のために村民が努力しつつある実績が物を言ったのである。
水利権獲得を機に伊賀良村西部水利組合を組織して、昭和23年6月、「河川引用工作物設置並ニ川敷占用許可願」を県へ提出、翌年許可を得て引水工事にとりかかった。

『伊賀良村史』より

私が探索の最序盤、伊賀良の集落から林道鳩打線を登っていく際、茂都計川の対岸に見た【古びた水路】を覚えているだろうか。
あれを見たとき、私は単純に茂都計川の水を引用するものだと考えたが、実際は鳩打隧道をくぐって山向こうの清水沢から引水するための施設だったのか。
今さらながら、あれが数年越しの伏線だったのかと驚いている(笑)。

ここからは、2世代の鳩打隧道の話からは離れていくので概要を紹介するに留めるが、水利権を得て工事を始めようとした矢先に、県の耕地課から、水を一旦貯留して太陽光で温めてから利用する温水溜池の築造が推奨されたのだという。そうして県の補助を受けて誕生したのが、現在ある沢城湖だったのだ。湖の築造を含む全工事は昭和33(1958)年5月に完成し、77000立方メートルの水を貯留して利用することができるようになった。
昭和40年代以降、沢城湖は観光地としても着目されるようになり、さまざまな開発が行われ、伊賀良地区の新たな顔となったのである。

こうして、矢沢氏、木下氏、片山氏、その他大勢の関係者が繋いだバトンが、見事伊賀良の土地を潤したのだ。


現在も沢城湖は農業用温水溜池として利用されている(ニュースに老朽化対策が出ていた)。
しがたって、鳩打隧道も水路としての機能を維持しているものとみられる。
現在の洞床には蓋をされた小さな側溝が両側に存在するが、舗装の下に水道管が埋設されているのだろうか。

情報提供者のぼぬ氏が、現在のように綺麗に改修される以前のトンネルを歩いた記憶を語って下さった。

私たちの年代は高校時代に強歩大会で2代目の鳩打隧道を通過しています。
記憶をたどると、両脇の側溝に蓋がされておりませんでした。
また、灯りになるものが一切なかったため、行燈を通路の中央に置いていました。
結構水浸しで靴が濡れるの嫌だなと思った覚えがあります。
また、今回のこの情報で沢城湖が人口のため池だったことを初めて知って驚いております。
小学生の頃遊びに行ったことがあるのですが、ボートやらなんやらで大変にぎわっていました。
あの頃が最盛期だったようです。今は寂れて見る影もありませんが。



これまで謎だった初代隧道建設の時期と経緯を明確にし、かつその意義についても重要な示唆を与える新情報だった。
また、2代目隧道が有する林道として以外の重大な意義についても理解することが出来た。
情報提供、ありがとうございました!





もう一つ追記があるぜ!

2021年1月に、読者のまるはち氏からお送りいただいた内容だ。
なんでも、大正14(1925)年に出版された『下伊那郡地質志』という文献にも、初代隧道に関する記述が見つかったというのである。
同資料は国会図書館デジタルコレクションで公開されていたので至急確認した。



『下伊那郡地質志』より

鳩打峠は茂都計川の上流を遡り、帰路は鳩打線新道をたどれり。
(中略)
鳩打峠には今隧道開鑿せられたれども岩質脆弱乃ち崩壊しやすき角閃黒雲母花崗岩と、領家片麻岩と交雑せるを以て、墜道上部の墜落甚だしく修理に困難しつつあり。
峠の新道は茂都計川の左岸の山腹を曲折して下る、(以下略)

『下伊那郡地質志』より

この本の著者は複数おり合作だが、引用したページの著者はおそらく北原實氏という旧制飯田中学の教諭とみられる。調査時期は大正11年に始まっているので、同年代の状況が記されているのだろう。

彼は、伊賀良の麓から茂都計川の渓流を遡って峠に至り(ここに「中略」とした詳細な地質の観察がある)、初代隧道を目撃して言及している。
完成から10年ほどしか経過していなかったはずだが、“墜道上部の墜落甚だしく修理に困難しつつあり” と……。

彼はこの崩れゆく墜道内部でも地質の観察をしているように思うが、現存している洞内は、閉塞部の土砂の壁を除けば覆工があり、地盤を目にする場所はない。
これには2つの可能性が考えられる。
当時、隧道が全体的に素掘りであったか、現在崩れて進めなくなっている奥部に素掘りの部分があったかだ。
おそらく後者だと思う。

おそらくは将来の導水トンネル実現へ向けた試験的掘鑿の意味を持っていた峠直下の初代隧道は、この地の地質が侮りがたいということを、故知として、後世に伝える結果となったに違いない。
この『地質志』の記録は、初代隧道が短期日で消失したことを物語る、非常に貴重なミッシングピースを提供してくれたといえる。

著者は、峠からの帰路において、「鳩打線新道」を通っている(そこでも「以下略」とした地質の観察がある)。
彼が通ったのは、大正元年に隧道と同時に改修された里道鳩打線であろう。
添付されている手書き地図を見ると、その経路は現在の林道と大きくは違わないと思うが、私が現地で【行き止まりと判断した】先に、実は道が続いていた可能性を感じさせるので、再調査が必要かもしれない。
彼は鳩打峠で写真も撮影してくれていたが(チェンジ後の画像)、残念ながら隧道は写っていないようである。


情報提供、ありがとうございました!