↑ということなので、探索を開始する!
もしこれが本当に旧道ならば、
“廃隧道”の存在が期待出来るはずだ。 …わくわく
という具合に入ってみたらば、その平場は良い具合に奥へ続いていた。
だが、谷栗トンネル脇の旧道と同じで、道としての設備は最小限度。
しかも前とは違い、今度は路面が未舗装である。
そのせいで確実に藪化が進行しつつあるようだ。
現道との接合部分は、ご覧のようになっている。
先ほど見た2本の橋もそうであったが、旧道は完全にどうでもいい扱いである。
だがこれは、言い換えれば旧道をいかなる用途にも活用していないと言うことであり、地図とあわせて考えると、これほど廃隧道が期待出来るシチュエーションもない。
道幅だけは、それなりに余裕がある。
林道は林道でも、幹線的な道であったことが伺える。
だが、何度も言うように保安設備的なものは、絶望的に少ない。
辺りは夕暮れの雰囲気に既に沈んでいて、背にした現道を通る車もまばら。
はるか崖下を流れる大井川も、数多くのダムに水流の大半を搾取され、静かに寝静まっているかのようだ。
まさに静寂の廃道である。
そんな中、枯れ草を踏み込み、小石を蹴る自分の気配だけが、妙に強く意識される感じがする。
私の下心に満ちた存在感を覆い隠すに相応しい“函”は、現れるだろうか。
現れたッ!
堂々たる廃隧道が現れた!
やっぱり、ありやがッたンだ!
18:11 《現在地》
こいつは、なかなかの完成度だ。
何がって言われても答え辛いが、林鉄の廃隧道を見つけてしまったような興奮がある。(余計に分りにくい喩えでスマン)
この隧道の“私好み”の部分をあげるならば、坑門が質素であること。
無駄なレリーフなどは不要!…と、断言したい。
そして単に質素であるだけでなく、美しい。
苔むした姿は情感に訴えて美しいものだが、このように廃トシテ自然の中に放置されつつも、なお人工物としての誇りを忘れていない、凜とした表情もまた美しいのである。
現役でないことは周辺の景色から明らかなのに、隧道だけは厳としてそこにある。
堪らない存在感だ。
それに、もうひとつ。
奥が見えないことの魅力… というか、これはもう、魔力。
例によって、私は隧道前から一旦離れる。
そしてまずはこの廃隧道を、外見から味わいにかかる。
現道からここに来るまで1分しか経っていないが、写真撮影もしなければ、それこそ数十秒で到達出来る至近である。
この写真に写っているのが旧道の全行程で、手前に旧隧道坑門が、奥に小さく現隧道坑門が見えている。
また、このように旧坑門の脇にもやや広い平場があるが、旧々道があったということではないようだ。
もとは林道であったので、木材を一時保管しておくための土場であったかも知れないし、単に工事に用いた敷地の跡かも知れない。
そしてこれとは別に、坑口前の道幅がやや広くなっているのは、隧道内で車の離合出来ないために待避スペースとしてのことだろう。
遠目にはまったく目立たないが、この坑門には扁額が存在している。
ちょうど坑口前に育った木がここを隠すように枝を伸ばしているうえに、ツタが大量に絡んでいて、写真では文字を判読することが難しい。
だが、私は執拗に立ち位置を変えながら、何とかそこに刻まれた文字を判読することに成功した。
市代隧道
昭和38年12月竣功
こう書かれていた。
意外性のある内容ではないが、この隧道が大井川林道時代のものであることが確定した。
それでは、洞内へ入ってみよう。
風と光がまったく感じられないのが、気がかりではあったが…。
ザッザッザッ…
え?
何でいきなり後ろ向きの写真なのかって?
いやぁ… そ れ は そ の …。
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残念ながら、
あまり、奥行きには期待出来無さそうだった。
中に一歩入って、目がその暗さに慣れはじめた途端、前方には閉塞壁らしき白い壁が、既に見えていたのだ。
地形図を見る限り、200mではきかない長さが期待されただけに、この光景はちょっと残念であった。
しかし、まだ閉塞が確定したわけではない。
どうやら、閉塞部分は単純な“壁一枚”というわけではないようだし、落盤などではなく、人工的に洞内で閉塞しているとしたら、その理由が気になるところである。
また、閉塞云々を抜きにした洞内の状態もレポートしたい。
写真で目に付くのは、天井から沁みだした地下水が内壁に描いた環状の模様だが、実際にはこんなに目立ってはいない。フラッシュ撮影のなせる業である。
むしろそれ以外の壁は、廃隧道とは思えぬほどに綺麗であった。
考えてみれば、この隧道は実質20年弱しか使われていないので、それも道理なのである。
そして、洞床は砂利敷きだが、既に轍の跡は残っていなかった。
ゴミなどはまったく見られず、未成隧道と言われたらそう信じかねない、虚ろな空洞のイメージだ。
坑口からも見えていた閉塞壁だが、それは進むほど段階的に断面が縮小していくという、異形に属するものであった。
まずは綺麗に内空の右側半分がコンクリートで充填封殺され、その数メートル先から右の壁が残りの空洞を圧迫しはじめ、最後は天井も上半分が切り詰められて、当初の8分の1以下になった空洞が最終最後の閉塞壁に向かっていくようであった。
この最初の半断面化から最後の完全閉塞までは、15mくらいの短距離の出来事である。
この奇妙な閉塞壁の意味は何なのか。
私には思い当たるところがあったが、とりあえず進めなくなるところまで進んでみよう。
いま私は、隧道閉塞への“第2段階”といえる、閉塞壁が右側から段階的に迫ってくる部分にいる。
何とも息苦しさを感じる場面だが、そのすぐ先にはさらなる狭隘を示す“第3段階”が迫る。
下の写真は“第3段階”のエリアであり、立って入洞するのがやっとという狭さだ。
沁みだした石灰分が、壁一面に水垂の模様を描いていた。
そしていよいよ最終的な閉塞壁に到達するわけだが、この段階に至ってもなお、僅かな隙間が残されていることに、私は想定外のロマンを感じた。
閉塞壁の右側がなぜか密閉されておらず、
手積みらしいコンクリート片の石垣(コンクリート垣?)によって塞がれていた。
…く .
崩して奥を確かめたいッ…!
が、流石にやったら取り返しがつかないか…?
いや、少しだけだったら… ちゃんと元に戻すから……。
がらっ…
ウオッ…!オッオッオッ…
石壁の向こうにも、多少の空間が秘められていた。
だが、それも“茶色っぽい何か”で遮られている…。
茶色っぽい何かの正体は、コンクリートの表面に木片を貼付けたようなものであった。
しかもこのコンクリートの表面は微妙にカーブを描いており、大きな弧の一部であるように見えた。
もう、お分かりだろう。
市代隧道は、途中からその進路を現在の市代トンネルに譲る形で閉塞していたのだ。
これは過去に探索した栗子隧道山形側坑口や、白石隧道西口などと同じような新旧隧道の位置関係である。
したがって、旧市代隧道の痕跡として残っているのは、これまで見てきたわずか50m程度の廃坑だけと言うことになる。
建設途中は洞内分岐が存在していたことになり、なかなかレアなケースである。
なお、旧市代隧道については、『森林開発公団十年史』に次のように記載されている。
「昭和38年度において市の瀬隧道280mを掘削した。(中略)本林道工事に当っては破砕帯という地質の悪条件もあって再三の大崩壊で工事も困難を極めた。」
市の瀬隧道は市代隧道の誤りと考えられ(大井川林道には他に隧道は無い)、その長さが280mであったことが分るのである。
続いて市代トンネル内部を確かめるが、こちら側には特に旧隧道との接続の痕跡は見られない。
ただ、市代トンネルは南口から70m程度で右に20度ほどカーブしており、その先は出口付近まで長い直線が続く。
新旧地形図の対比から言っても、このカーブが新旧隧道の接続地点であったことは間違いないと思われる。
コンクリートの壁一枚を隔てて、真っ暗な廃空間が接している…。
それを想像するだけで、なんかワクワクするではないか。
続いて市代トンネルの北口にやってきた。
レリーフなどの飾り付けのない、シンプルな坑門である。
また、この北口もカーブの途中にあるのだが、付近に旧道や旧坑口は見られない。
おそらくこのカーブは、大井川林道時代からあったのだろう。
これで大井川林道時代に端を発する、一連の旧道探索は終了である。
最後にこの坑口の目と鼻の先にある、長島ダム(平成14年完成)を見て終わろう。
18:23 《現在地》
長島ダムの【堤上路】は一般に開放されており、普通車は自由に通行する事が出来る。
ただし県道接岨峡線はこの直前で左に分岐し、わざわざ大井川の谷底を橋で渡ってから、堤上路の対岸に合流するようになっている。
長島ダムが完成するまでは、もちろん堤上路も無かったので、谷底経由のルートを通っていたのである。
また、堤上路のはじまりのところ(右の写真)で、湖畔に沿う狭い道が分岐しているが、これがダム建設以前から存在する大井川林道である。
大井川林道の入口は、ご覧のように簡単なロープゲートで塞がれている。
また、だいぶ薄汚れた「一般車両通行止め」の案内板も設置されている。
大井川林道の全長は14355mと記録されており、起点の渡谷橋からここまでが約3.5kmだから、この先にまだ10km以上も続いている。
そしてそこは今も生粋の林道として、他のどんな道にも犯されずに生き長らえている。
もはやそこはオブローディングではなく、私の原点である“山チャリ”の舞台にこそ相応しいが、県道が出来るまでは接岨峡方面(というか梅地集落ひとつだが)の生活道路として使われていた時期もある。
翌朝からじっくり探索したので、いずれ紹介出来るかも知れない。
最後に一点だけ訂正。
このレポートの初回で、大井川林道が大井川全体筋の生活道路であったという旨のことを書いたが、少し正確ではなかった。
というのも、ちょうど関連林道として大井川林道が大井川左岸沿いに建設された(昭和35〜40年)のと同じ頃に、反対の右岸沿いに国有林林道である栗代林道が敷設され、当然右岸沿いの集落にとっては、この道が唯一の生活道路となったのである。
具体的には、地図中にも見える平田(ひらんだ)な犬間(いぬま)などの集落は、県道接岨峡線が開通するまで、栗代林道を用いていた。
大井川林道を生活道路として利用出来たのは、この地図の範囲よりもさらに上流の左岸にぽつねんと存在した梅地集落(県道接岨峡線の終点)くらいであった。
よって、大井川林道が生活道路としての利用が多かったとは言えない。
以上をお詫びのうえ訂正したい。
(情報を下さった「井川線を20年近く撮り続けている鉄ヲタ」さん、ありがとうございました!)