2014/1/31 12:29 《現在地》
前回最後にも書いたが、強調すべき事なのでもう一度。
右カーブトンネルの出口に直角左折という、危険過ぎる線形。
390mという梶賀第1トンネルの長さ分だけ続いてきた右カーブは、外へ出て30mほどの地点で、突如逆カーブとなっていた。
よほど車がオーバースピードでない限り、トンネル内からこのカーブを見てからでも十分に減速は間に合うが、しばらく国道らしい快適な2車線舗装路が続いていた矢先のことであり、しかもトンネルを出た直後という視力が低下した状況で遭遇するこの“逆カーブ”は、人の予測の裏をかいた危険な線形である事は間違いない。
もはや言うまでもないと思うが、前回スタート地点の旧道入口からこの逆カーブ地点までの約2kmが、現国道よりも先に計画されていたルート上の既設区間である。
梶賀第1トンネルの竣工年が昭和60年であったから、区間全体としてもその頃に整備されたものであろう。
だが、それからわずか15年後の平成12年には旧道となり、国道の指定も解除されてしまった。
写真には、「尾鷲市梶賀町」という地名が書かれた“補助標識のみの標識柱”が写っているが、まさしく「おにぎり」という本標識を取り上げられた後の虚しい名残であろう。
この初期ルート上には、ここから先にさらに梶賀第2、第3(もちろん仮称)のトンネルが計画されていたのであるが、第2トンネルの計画地はここからも見えそうだ。
正面の防護壁の向こうに見える、山の土手っ腹である。
しかし、そこへ行くためには、海を渡る巨大な橋が必要だったのであり…。
幻の海上橋。
それは、起工された様子がなかった。
防護壁とその上のガードフェンスを乗り越えて、直角カーブの先がどうなっているかを確かめてみたが、橋はおろか、橋台も作られてはいなかった。
したがって、どのような橋が計画されていたかを具体的に知る余地はない。
だが、幻の橋がある風景を想像する事は自由だ。
……想像に任せてみた。
梶賀大橋(仮称)の完成想像写真。
今まで当サイトでは、廃道となって失われ、消えてしまった道の風景を想像する事は日常的であったが、着工さえされずに終わった道路を具体的に想像するだけでなく、それを描いてみたことはあまりないと思う。
あくまで私の想像に過ぎないとお断りしておくが、これがなかなか楽しい思考実験であった。
さて、架橋位置は海上から3〜40mの高さがあり、これに適した架橋形式は限られてくる。
わが国の海上橋の例を拾ってみても、ほぼ間違いなくアーチ橋が選ばれただろうと思う。
また、橋の高さには余裕があるものの、海面は梶賀漁港の出入り口となる水路であることから、上路と下路の中間の中路アーチ橋を想像してみた。
橋の長さは最低300mは必要で、余裕を見て400mクラスの長大海上橋が計画されていたのではないか。
また、おそらくは橋上も熊野方向への登り片勾配になっていたものと思われる。
ここからも、梶賀集落の背後にほんの僅か申し訳程度に地上へ出て来ている現国道の橋が見えるのだが、約800mほど山側へずらしての再計画であったようだ。
これは梶賀集落に対する表と裏の位置関係での入れ替わりと思えるが、計画変更の理由については、後ほど梶賀で聞き取りをしてみようと思う。
それが単純に技術的な問題だったとすれば、梶賀第1トンネルの建設は三重県の大チョンボだった可能性もあるだけに、気になる所。
橋からの眺めも想像してみた。
といっても、何のひねりもなく、単に橋頭になるはずだった地上からの眺めである。
十字架形に枝分かれた広い海面を有する賀田湾だが、その湾口は幅1.2kmの幅しかない海峡で、それが目前に見えた。
熊野灘の外洋に面した海岸は、激しい風波のためことごとく絶壁になっており、全く人煙は稀だ。
この海上橋は、波はともかくとして、外洋の風ももろに受ける位置だったわけだから、海側には高い防風壁を用意する必要があったかもしれない。
ドライバーにとっては、トンネルを出た直後に猛烈な横風を受ける不利な道路位置である。
幸い、この地域は冬場でも路面が凍結することは殆どないが…。
海上橋にはこうした安全面でのマイナス要素はあるが、前回も述べた通り、そこからの眺めは山がちな風景が続く熊野灘沿岸のドライブに、一服の清涼剤となるものだった。
国道311号が国道42号に対する副の役割として生活道路を担っていることは前回に述べたが、観光道路としても高価値を目指すならば欲しい逸材だった。
現国道からは、あまり海が感じられない。
しかし、現国道も一度の挫折を経験しているだけに、なかなか根性を見せたトンネル特化な造りである。
なにせ、曽根集落から市境までの3.4kmのうち、7割を越える2.4kmがトンネルになっていて、「地上の物事には関わり合いを持ちません」と暗に主張しているようでさえある。
こんなに長いトンネルを新規に掘るんだったら、熊野古道の甫母峠の直下にそれより少し短いトンネルを掘れば(紀勢本線がこれに近いルート)8kmの道のりを一挙に2kmまで短縮出来たのだが、敢えてそれをしなかったのは、「国道311号は海岸を出来るだけ忠実に走り、沿岸の集落をひとつも取りこぼさない」という使命が与えられていたように思われる。
特に防災面から見たとき、集落内に国道の存在は心強い。いつか起きるといわれている南海トラフ巨大地震と巨大津波の襲来を見越したインフラ整備を感じた。
なお、後ほど紹介するが、現国道からちゃんと梶賀集落へのアクセスルートが用意されている。
その道が狭いため相変わらず路線バスだけは旧国道経由なのだが、梶賀集落への普通車でのアプローチは現国道でOKで、ちゃんと入口には青看もある。
道理で、旧国道は道が良い割に交通量が激少なのである。
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さて、旧計画ルートの既設区間の探索はひとまずここまでなので、
これからは、単純に旧国道の探索ということになる。
旧国道を通って梶賀集落から、それ以上道が伸ばされずに終わった“旧国道の末端”を目指そう。
“逆カーブ”で本線から追い出されると、道はそのままねじ込むような下りのヘアピンカーブに結ばれており、九十九折りに近い線形で一気に梶賀集落が待つ海面すれすれの高さへと下り始める。
土地が狭くかつ急傾斜なので、道も必死な感じだ。
一応まだ2車線を保ってはいるものの、トンネルまでのラグジュアリー2車線とは全く異なる必死2車線である。
本来旧計画ルートが開通していれば、ここは国道ではなくなり梶賀集落への枝道(尾鷲市道)となるはずだった区間であるから、それもやむを得ないのだが。
なお、正面奥に見える鋪装された狭い道は、梶賀第1トンネルの北口前で分かれた旧旧国道である。
そして、旧旧国道との再合流となる丁字路。
昭和60年までの旧旧国道は帰り道に探索したので、後ほどお伝えする。
旧国道はここを道なりに右折する。
まだ急な下り坂は続くが、ここで右折するということは、「梶賀大橋」の下をくぐるということになる。
次はその場面の想像図だ。
ここには、旧国道をまたぐ暗渠型の橋台を想定してみた。
その“幻のトンネル”の向こうには、いよいよ梶賀集落が正面に現れた。
決して無限にあるわけではない国道末端の集落だけに、いったいどんな場所かと、ここへ来る前からだいぶ興味津々だった。
陸地の果てを思わせるような、うらぶれた集落を想像したりもした。
だがその実態は、良い意味で想像を裏切ってくれた。
うらぶれているなんて、とんでもない。
輝く入江には数え切れない数の漁船が係留され、或いは港内に航跡を引いていた。
その海上に賑わいを裏付けるように、陸にもかなりの数の家並みが山肌を埋めて連なっている。
やはり、海が効いたか。
そんな実感を持った。
ここは確かに陸上としては僻遠な所である。
特梶賀第1トンネルが出来る前は、小中学校や役場の出張所がある賀田まで行くのでも6km近く離れていて、それも酷道だった。
だが、ここが山奥の僻村と異なるのは、古くから海路が開け、林業の他に漁業という生業を持つことが出来たことが大きいと思う。
これは海があればいいと言うだけでなく、遠浅の砂浜しかないような場所だと漁業は発達しにくいのであるが、ここは漁港として理想的に見えた。
また、忘れてはいけないのが、平成に入る前に果たされた梶賀第1トンネルの開通であり、これも集落の過疎化に対して効用を持ったであろう。
住民も「永遠に行き止まりの村ではない」と希望を持って生きてきたと思う。
酷道の末端として平成12年の現国道の開通を待たねばならなかったとしたら、もっと廃れていたと思うのだ。
12:34 《現在地》
道路沿いは急傾斜地であるにも拘わらず、数軒の渡船屋さんが集落から溢れ出たように建っているのが、まるでお客を先取りしようと競うみたいで面白かったが、それを過ぎて少し行くと、いよいよ集落の地平に下り立った。
第1トンネル出口から約400mの地点である。
そしてそこは、本当の意味での集落の入り口を思わせる梶賀神社の宮前であった。
集落の元気度と歴史の両方は、そこにある旧村社格の神社の現状を見れば分かるというのが持論だが、その点で梶賀神社は素晴らしかった。
境内が綺麗に清掃されて整っているのは無論のこと、江戸時代の銘が入った寄進物の灯籠や古碑が点在しており、その由緒を感じさせた。
だが、なによりも目を引いたのは、境内の石段と石垣の素晴らしさだった。
石垣、石の参道、そして石段。
どれも土木構造物として見れば、丁寧かつ精緻な仕事ぶりが極まった逸品で、さすがは神聖な境内だけあって、普通の道路上にはまず見られないほどの上出来ぶりだった。
おおよそ現代では大都会の中心に鎮座していることが多い屈指の大城郭であるとか、大神社にも負けない仕事ぶりを感じたのである。
帰宅後にこの村の由緒、特に「石」の仕事ぶりが気になり、「角川日本地名大辞典」を調べてみたところ、やはりただ者ではなかったことが分かった。
ここは近世において梶賀浦と呼ばれた、紀州藩の捕鯨基地として大いに栄えた村であったうえ、江戸中期の明和2年(1765年)には、浜中村(現:和歌山県海南市)長保寺にあった紀州家歴代墓所築造のため、当地の御影石を廻船で運び出したというのである。
暇な人は地図で見て欲しいが、海南市は紀伊半島の西海岸のかなり北の方にあり、海路なら200km以上は離れている。
そんな遠くのお殿様に目を付けられるほどの銘石と、おそらくは石工という技術集団が、この辺りに根拠していたものと思われるのだ。
ちょっと!!
これは、酷道的にどうですか?
かなりポイント高くないッスか??
何がって、この国道らしからぬ線形ですよ!
一見すると、道路はここが終点で、その先には駐車場と漁港があるだけに見えるだろう。
そして事実、この港の中を通行しない限り、その先にある集落の中へ進む事が出来ない。
この駐車場のような場所を、どういう風にライン取りするのが“正しい国道”なのかは全く分からないが、確かにここが旧国道だったのである。
なお、ここにバス停がある。
「神社前」というバス停で、「ふれあいバス ハラソ線」の路線となっている。
ハラソ線という名前が変わっているが、おそらく梶賀集落に伝わる奇祭ハラソ祭りにかけての事だろう。
そしてハラソ線の終点はここではなく、この次の「梶賀」バス停である。
つまり、毎日4往復の路線バスも、この先の奇妙な旧国道を通行している。
駐車場のような、漁港のような、それでいて旧国道でもあるこの場所では、平和すぎる午後の時間が過ぎていた。
村のオヤジたちが、地べたに腰を下ろしての絶賛酒盛り中であった。
もちろん、今日は平日だ。
きっと、豊漁だったんだろうなぁ。いいなぁ。
そして、微笑ましい極め付けの酷道へ。
なんという所を通るか!
完全に漁港の専用道路にしか見えない。
部外者立入禁止でも不思議はない風景だ。
今までたくさんの酷道を見てきたが、こういう場所を通るのは初体験である。
ここにはガードレールなんていうものは無いので、普通の道に較べれば相当危険である。
晴れた日中はまだ良いが、嵐の夜であっても、ここを通らねば集落から出入り出来ない状況だったのだ。ほんの十数年前まで。
公道としてのせめてもの良心。
それが護岸の端に点々と取り付けられた、小さな反射鋲であった。
…これだけである。
ここで対向車など来たら最悪なので、そうならないよう、この区間に入る前に遠方確認は欠かせない。
そして、ここで振り返ると梶賀港の前の海を一望出来るのであるが、
このまっさらな風景にも、書き加えてみたいと思わないか?
幻の海上橋の壮大な姿を。
独断と偏見で、書き加えてみました。 ↓↓↓
中路アーチを赤く塗ったのは私の趣味で、このインパクトには賛否両論があるだろう。
まあ、どんな橋を架けたにせよ、梶賀漁港の風景が相当様変わりしていたことは疑いがない。
あなたなら、どんな橋を架けますか?
次回は“永久終点”へ。
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