2014/1/31 12:36 《現在地》
漁港を通りすぎると、いよいよ梶賀集落の中心の市街地に入り、道路の山側には隙間無く民家が連なっていた。
ここで特徴的なのは、ほとんどの家が道路より2〜3m高い地盤の上に建っていることで、そのために各戸玄関前には数段のコンクリートの階段が設けられていた。
これは、陸地全てを守る防波堤を作る代わりに、各戸の敷地を嵩上げしたものと考えられ、津波や高波、高潮などの海の災害から生命と家財を守る為の知恵であろう。
しかし、一般的には海から陸を守る設備としては防波堤が普通なのであり、梶賀になぜそうした“普通の防波堤”が作られていないのかは、分からない。
ともかく、そうした特異な景観が梶賀にはある。
上の《現在地》の地図もそうだが、普通の道路地図だと、この辺りの旧国道は至って普通の道路として描かれているのだが、実際にはガードレールや防波堤、転び止め、駒止めなど、いかなる転落防止施設も無い埠頭のような所を走り続ける状況であり、国道としては大変奇抜である。
梶賀の景観が普通でないから、ここが国道の終点になった…なんて事はもちろん無いはずなのだが、どういうわけか平凡な漁村ではなかった。
路傍の海が尽きて小川に変わると、間もなく旧国道はそれを渡る。
銘板などが無く、名前も竣工年も不明だが、結構古そうな橋である。
だが、ちゃんと国道が通りやすいように下流側の袂が隅切りされているなど、国道橋としての機能性を感じさせた。
そして、橋を渡りきった所が丁字路で、そこに首が取れてしまった「安全坊や」の残骸が立っていた。
旧国道はここを道なりに左折するのであるが、ここから先は“永久終点”などと私が勝手に呼んでいる、行き止まりの区間となる。
対して右折すれば、川沿いの道が山手に伸びており、300mほどで現国道へ出る事が出来る。
無論、平成12年にそれが開通するまでは、この右の道も行き止まりであった。
つまり、それまで梶賀は本当にどん詰まりの集落だったのである。
12:39 《現在地》
私は左折したが、右折すればどんな道かは、この写真でご覧頂こう。
集落の端から始まる急坂は、いかにもムリヤリに繋げましたという雰囲気が感じられる。
だが、現在はこの道が梶賀集落の表玄関となっており、バスなどの大型車以外は、わざわざ遠回りの旧国道を通る事はせず、この道から入っているようだ。
国道の計画変更がなければ、今でもこの道は、すぐそこで行き止まりのままであったろう。
一方、こちらは左折した先の旧国道。
どん詰まりの閉塞感のようなものは、一方が海に開けているのと、集落自体に活気があるように見えるため、特に感じられない。
ここに梶賀バス停があり、三重交通の路線バス「ハラソ線」の終点である。
地図の上では、あと150m足らずで旧国道は終点を迎えるはずだが、「通り抜け出来ない」事の告知もない。
現国道が開通する以前であれば、そういうものもあったと思うのだが、酷道的には少し物足りないか。
国道らしくないから酷道と呼ばれるのだが、ここは本当に国道らしくない。
典型的な酷道といえば、道の状況は国道らしくなくても、実際は国道であるため、
同じような見た目の他の道よりは交通量があるというのが定番である。
だが、この道は本当の意味で国道らしくないのである。
なにせ、すぐ先が行き止まりなので、交通量というものが極めて限られてくる。
“おにぎり”でもあれば、酷道界の一大名所たりえたかもしれない。
12:42 《現在地》
梶賀の湾奥をぐるっと一回りしてきて、南岸の集落の果てまで来た。
道路はここで終わりで、この先は漁港の埠頭である。
すなわちここが、国道311号がこれ以上伸ばされずルートを
変更してしまった、“永久終点”の地である。
……と、いうのは早計であった。
最後に私を喜ばせるものがあった!!
スポンサーリンク |
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
|
最初は終点と思った、道路の終わりの先にある漁港なのだが、
その敷地に入ってみると、山側に一旦は終わったと見えた道が、
再び始まっていたのである! 大変だ!
再び始まろうとしている道の拡大図。
この、“何かしら確固たる意志を持っていそうな上り坂”が、結論からいえば国道311号の本当の“永久終点”だった。
しかもこの上り坂は、これまで紹介してきた「梶賀第1トンネル」や、“幻の海上橋”よりも一世代前の未成道だった。
ここはまるで、未成道と未成計画のバーゲンセール。
まさか酷道の終点に、こんなものまであったとは、大興奮である。
← 一般の交通は皆無なので許されるのだろうが、路上に船を係留するためのアンカーが突出しているのは、バイクとか自転車だと重大事故につながりかねない危険な罠だ…。
この第一世代の未成道については、この直後の梶賀集落での聞き取りで証言を得たのであり、少し話しが前後するのだが、ここでまとめておくことにする。
国道311号は、路線が指定された昭和45年当初から、この梶賀集落内が実質的な終点で、ここから熊野市方面へ車で通り抜けることは出来なかった。
そして、昭和61年の道路地図や、昭和60年に梶賀第1トンネルが完成している事からも分かるとおり、昭和50年代後半には3本程度のトンネルと1本の海上橋を中心とする、未開通区間を解消する新道の計画が進められていた。
だが、海上橋を含む新道計画の前にも、もっと低い規格の新道(第一世代)の計画が存在していたらしい。
おそらくは、右図に緑の破線で示したようなルートと想像される。
そして、梶賀漁港の南端に残されたこの上り坂こそ、最初の計画の名残りであるという。
残念ながら、この計画の詳細は分からない。
だが、地元には昭和40年代から既に熊野市へ通じる海岸道路を建設する計画があり、漁港の整備と合わせて将来の海岸道路の一部となるべく、その準備施設のような意味合いで、この上り坂を作ったということらしいのである。(国道指定後に作られたものかどうかも定かではない)
それでは、“上り坂”を登ってみる。
何ともいえない、この“やり遂げていない”感じ。
入口だけはコンクリート鋪装されているが、数メートルで砂利道に。
しかもその砂利が所々掘り返されて、桜か何かが植樹されていた。
このことからも、道として今後活用する予定がないことは明らかである。
だが、ガードレールの存在が、ちゃんとした道路として作られた事を隠そうとしない。
そして、今度こそ本当に終点。車道の終わり。旧国道の終わり。
道路はここまでしか作られなかったが、なおもその先へ工事用の
足場のようなものが続いていたので、自転車を残して歩いてみた。
車道の奥に続く、工事用足場のような仮設通路。
タンタンタンタンと、乾いた音を響かせながらタラップを行くも、
こういうものは本来、作ってから何年も使うものではないのだろう。
落ち葉の様子から、何年も放置されている様子だったが、
微妙に傾いていたり、踏むと沈み込んだり、様子が色々おかしかった。
そして、10mほど登ったところで、足場は終わっていた。
12:45 《現在地》
階段の先には急峻な山腹が海に面して広がっており、そこに若いスギが植えられていた。
僅かに踏み跡らしきものがあり、辿って行くも、これと言って景色に変化は現れず、道も消えてしまったので引き返した。
おそらく、この仮設の階段と踏み跡は、昭和5〜60年代の二度目の新道計画の調査通路だ。
すなわち海上橋の調査や、それに続く「第2トンネル」の調査のために作られたものであろう。
植林地へアクセスするために作られた階段にしてはゴツイし、ここは確かにかつての計画線にあたっている土地である。
ここにトンネルの導坑でも掘られていたら一大事だったが、後の聞き取り調査の結果を踏まえても、そこまでは工事が進まなかったようである。
ちょっとだけ道を踏み外した私が“上り坂”へ戻ってみたら、ちょうど梶賀湾の向こう側を三重交通の路線バスが走り抜ける決定的瞬間を目撃した。
1日4往復だけだから、これは確かに幸運であった。
いまバスが通っているのが、(前回紹介した)漁港内の一番狭いここである。
大きなバスのタイヤが路肩ギリギリを踏んでいるのがお分かりいただけるだろう。激萌えである。
“上り坂”から見る、梶賀湾対岸の道路たち。
実際はここまでしか道は作られなかったが、対岸に見える「旧旧国道」(次回紹介)のような感じの道が、この先に伸びていく可能性があったわけである。
そしてやがて、ここにはもっと高規格な道が必要だと考えた人々によって、新道は“生まれながらの酷道”を脱して、壮大な海上橋へと飛躍した。
しかし、その夢の海上橋計画は実現しなかった。
次回は、なぜ海上橋の計画が中止になったかもお伝えしたい。
“永久終点”紹介の最後に、下にある漁港からの“上り坂”の眺めを紹介したい。
未成道らしさがてんこもりの、なかなかいい眺めであった。
↓↓↓
熊野市境の峠へ、ここから登っていこうとしてたんだな〜。
ほんとこれだけの未成道だけど、色々想像させてくれる。
これが開通していたら新道の整備は遅れ、案外この道が現役だっただろうか…とか、
海上橋の新道が開通していたら、これが少しだけ伸びて海上橋の袂へ行けただろうか…とかね。
次回は、海上橋挫折のワケと、旧旧国道へ。