道路レポート 林道鹿曲川線 第5回

公開日 2016.5.25
探索日 2015.4.23
所在地 長野県佐久市

「3K」の関門


8:00 《現在地》

路上を埋め尽くす大量の倒木、
雪渓のような巨大な残雪の塊、
残り「3K」の案内板、
はじめての隧道、 そして、
手作り感溢れる道路標識。

一斉に気になるモノが現れて、頭がてんやわんやになる。
遂にこの道の“本気モード”を引き当てちまったか?!
と、とにかく、見えているものを一つずつ確認しよう。

まずは、「徐行」という文字が赤ペンキで手書きされた、恐らく本来は黄色に塗られていただろうブリキの道路標識!
サイズが妙に小さく本来は目立たなそうなのに、現状の強制的に足止めさせられる状況と相俟って、不気味な存在感を醸していた。



手作り「徐行」標識の反対側に、もう1枚別の標識板が取り付けられていたのだが、こちらも当然のように手作りだった。

こちらは白地に黒ペンキで、警戒標識の「右つづら折りあり」と同じ形の矢印が書かれていた。
本来の警戒標識は四角い(菱形)だが、これは丸い。でも、伝えたい事は伝わってくる。
それより、ほとんど谷の方に向いてしまっていて、路外の崖に身を乗り出さないと内容を確認しにくいという状況が泣けた。

そもそも、これまで手作り標識なんて一つも無かったのに、なんで急に現れたのか。
そして、現れた場所がなぜこれまでで最大の“荒れ場”だったのか。
これはやはり、ここが現役当時から何かと手が掛かる“難所”だったことの現れだろうと解釈した。




ほんのちょっとだけ戻って、この“荒れ場”の全貌を改めて確認すると、戦犯が誰なのかは確定的に明らかだった。

今は水の一滴も流していない、左の小さな谷。

こいつがこの信じられないほど大量の倒木、…いや、流木を、路上に散乱させた元凶である。




お行儀の悪い“粗相の谷”の水は、もともと路上を流れるように造られていたのではない。上の写真の路肩側の擁壁にそれが見えるが、水は道路の下を直径50cm程の細いヒューム管で流される手筈であった。しかし、そんな狭い排水路が洪水で埋没するのは、難しくなかっただろう。

道を護る人間側にも難所という認識はあったらしく、この谷には2段の谷止工が手の届く範囲に築造されていた。より新しそうな上段のものに金ぴかの目立つ工事銘板があり、「平成8年度災害関連緊急治山事業」などと書かれていた。(下段の谷止工は読み取れず)
したがって、少なくとも平成8(1996)年までは、人がこの道路を維持するための飽くなき戦いが続いていたのである。
だが、現状は恐らく、大多数人類の撤退だ。



先へ進むためには、路上も路外も分け隔て無く横断的に埋め尽くしてしまった流木群を乗り越えて行くしか無い。

これまであった数多くの崩落や路盤の破損箇所は、どれも無理(&多少の撤去作業)をすれば四輪車も通れそうなレベルのものだったが、ここに来て一足飛びに、二輪車(バイク)であっても担ぎ上げられなければ通れない状況になった。
前に見たのは意志の弱そうな封鎖ゲートだったから、多くの冒険好きモーターサイクリストがここまでは来たと思うが、その多くが流木群の余りの嫌らしさに涙を呑んで引き返したものと推測する。

こう言うときに自転車の真価が発揮されるのだよ。
…などと、先へ進むことで後悔する可能性に目をは瞑り、我が世の春とばかりに欣喜雀躍、自転車を頭上に掲げるほどの勢いで突破した!

その寝不足の双眸が見据えるは、カーブミラーの中の隧道!!




天然のバリケードを突破すると、直角カーブと坑門の横顔が眼前に。

ここはさすがに離合のために道幅が拡げられているけれど、嫌らしい線形の筆頭である。
カーブミラーを覗き込んで、対向車が隧道内にいないことを確かめてから進まないと、
サンデードライバーパパさんの面目丸つぶれ、気まずい言い訳タイムが漏れなく発生する。



装飾は扁額だけというシンプルな坑門が誘う闇の向こうに、まぶしい出口の光。
地形図でも豆粒くらい小さく描かれている隧道で、確かに現物も短い。
この鹿曲川線には全部で2本の隧道が描かれているが、その1本目がこれだ。
長さについての正式な記録も未見であるが、目測3〜40mといったところか。
照明設備もないし、それで事足りている。
有料云々を度外視すれば、林道っぽい普通の隧道に見えた。




扁額には、ギリギリ読み取れるくらいのかすれた文字で「鹿曲隧道」と記され、その下に小さな文字で「昭和三十八年三月竣工」とあった。

麓からここに至るまでに竣工年が分かる橋が2本有ったが、最初の山の神橋が昭和30年、次の嶽入橋が同33年と来て、今度は昭和38(1963)年である。
旺盛な林道工事が徐々に山上の世界を侵していく進捗が手に取るようではないか。
我がことのように良い気分だ。というか、紛れもなく我がことだった。



とても短いので、特に語る内容はないかと思った洞内だが、……うん、やっぱあるわ。

ボロボロだと言いたい。

まだ致命的な崩壊は起こっていないし、今ある沢山の亀裂がそれに繋がるものかどうかも専門家で無い私には分からないが、地下水の沁みだした小さな亀裂が狭い隧道の壁一面に浮き上がっている様は、異様である。

おそらく年の3分の1くらいは冬期閉鎖で(今は万年閉鎖中だが)、4分の1くらいは氷に閉ざされているだろう隧道だけに、氷柱の発生と融解の繰り返しが壁面の亀裂を生み出したのだと想像する。
土被りも浅いので、沁みだしている水は単純な地表からの浸透水だろう。もし2ヶ月早く来ることが出来たら、凄い氷柱御殿が見られたと思う。




壁の見た目がボロボロなのと関係があるのかどうか。
天井のアーチ部分からは、正体不明の鉄棒が無数に突き出していた。
外見的にちょっと痛々しいものがある。

照明や電線を取り付けていた跡にしては数が多すぎるし、NATM工法で使用されるロックボルトだとしても、それは通常露出しない。そもそも昭和38年当時の施工だとすれば、NATM工法は普及前である。
アーチ部分に何か補強のための細工(鉄筋)が仕込んである可能性が高いと思うのだが、だとすれば、この隧道は短い見た目以上に難工事だったのだろう…。

難工事だったに違いない!

だって、光に目が馴れると見えてきた外の世界が絶景だった!!





山で良い景色 ≒ 工事

というニアリーイコール式は経験則的に成立するはずで、この道も難工事だったはず。

…というような理論はさすがに大雑把すぎるかも知れないが、もうかれこれ3時間も前の出発直後に、
下界の平和な集落から見上げた目的地(大河原峠)が、ここでまた見ることを強制させられた位置に真白く鎮座するというのは、
晴れた日の富士山麓に居ることと同じくらい容赦がない、選択の余地を与えない、ある種の山の暴力だと思った。
(まあ、通常は富士山を見ても失うものは何も無いから良いんだけど…)

私は尻の下の自転車と、遠くの雪の白さを交互に見て、口を閉じるしかなかった。


そして、“閉口”といえば…



こっちも直角カーブだった…。

隧道自体は直線だったが、前後はどちらも直角。まるでクランクで、見通しは最悪だ。
それにやっぱりここは難工事で間違いない。この北側坑口の姿を見て、はっきり認識した。
切り立った巨大な一枚岩の中腹に隧道は穿たれており、迂回の可能性を感じられない地形だ。





最後の鹿曲川渡河地点へ


仙境都市まであと「3K」の案内板がある地点の前後約150mは、いま見てきたように本当に盛りだくさんであった。
だが、楽しいからといって、定住するという選択肢は無い。
通行を終えたら、先へ進むのみである。

色々と現れた後だけに、自転車に跨がって進める状況が続いてくれるか不安もあったが、幸いにして、そこまで酷くはならなかった。
私の理想の廃道は、まだ続いている。
乗れることに安堵し、なぜか感謝までしながら、息を上げて漕ぎ進んだ。




ここにも人の刻んだ頑張りの痕跡が。

こんな小さな枝谷にも、折り重なるように3段の谷止工が築かれていた。
取り付けられた銘板の内容を見るに、中央のものが最初に造られ、平成7(1995)年に追加で前後に築造されたようだ。
コンクリートの物量にものをいわせて谷を止める仕事ぶりは、まさに“執拗”という表現がぴったりである。
先ほどの“粗相の谷”の谷止工には平成8(1996)年の銘板が有ったが、その頃に大規模な山荒れを伴う災害が発生し、その復旧には膨大な労力が投じられたのだろう。
そして一度は立派に復旧したと思うが、それから僅か13年後の平成21(2009)年に再び封鎖され、現在まで閉ざされたままとなっている。
自然の猛威に反抗し続ける矢も尽きたという感じか。



あぅあっ!(泣)

ついに、進行を妨害する形で残雪が現れだした。

今回の分はまだ浅く、距離も短いので問題というほどでは無いが、はじめて雪を踏むことになった。
思えば最初に路傍に残雪の一塊を見つけた地点からは、既に2.5kmも奥へ進んでいる。標高も200mは登っている。
だから、こういう風に残雪が増えてくるのはやむを得ないと分かっているし、むしろ、良く保ってくれているとも思っていた。

ここまで、よく頑張った。だから、あと2〜3km。
せめて仙境都市までは、残雪に捕らわれず楽しみたいと願うのだ。
身勝手な願いとは知りながら、今がとても楽しいだけに、残雪という余計なものに邪魔されたくなかった。



残り「3K」地点から500mほど進むと、再び中規模の崩落現場が現れた。
法面が大きく崩れ、道幅の90%以上を塞いでしまっている。
脇には二輪車がすり抜けられる程度の余地があるが、四輪車の場合はどうやっても無理で、現に直前の路面には軽四輪車の泥色のタイヤ痕が、無念の二文字を描いていた。

しかし冷静に考えれば、ここに軽四輪車のタイヤ痕があるということは、先ほどの大流木地帯も越えてきたということである。
あの“粗相の谷”が粗相をしでかしたのは、結構最近のことなのかも知れない。
対して、この中規模の崩壊は古くからのものなのだろう。
もしかしたら、この道が封鎖されるきっかけとなった崩壊(の一つ)だった可能性もある。




右の谷筋に白く尾を引く連瀑が大音響で近付いてきた。
“廃屋”以来離れていた鹿曲川本流との再度の接近である。
林道も常に登りっぱなしで、さらに山腹を蛇行するなどして精一杯高度を稼いでは来たが、勾配に制限のない沢の追跡はやはり速い!
もう間もなく追いつかれそうだ。
そして、今度こそ最後の接近となるであろう。




鹿曲川を渡る橋より先に見えてきたのは、まるで尻に火が付いたような勢いで駆け登るガードレールの姿だった。

その血気盛んな様子にあてられ、少し慌てながら地図を確かめると、鹿曲川をこの後二度連続して渡った先の自分自身だと分かる。
あれこそ、山上都市へ登ろうとする者が、自らの汗で禊ぐ最後の行場とでもいうのだろうか。
ひと目見て、自転車にはキツそうだったし、面白そうだった。




さあ、鹿曲川本流4度目の渡河地点である。
その先には5度目の渡河地点も近い。

ここは谷底でありながら、標高1600mに届かんとする高所でもあるから、既に山上世界特有の空の近さと明るさがある。
渓谷を取り囲む岩場にも高山らしい常緑の針葉樹が点綴し、「春日渓谷」と名付けられた風光に趣を加えていた。

この道と共に人世に紹介された景観は、やはり道と共に人世より遠退いていく。
それが眠りというほど静かな環境でないのは、渓谷だけに仕方のないことであろう。




急に、やる気のなさそうな橋だ。

ここまで3度の橋は、どれも幅が広めで風格があったが、この橋は狭いし単調だ。
林道用の橋といえば普通こんなもんだが、まさにそれでしかない。
最初からこういう橋ばかりならば納得もするが、今までがなまじ立派だっただけに、大型観光バスには全く似合わない狭隘橋が特異に感じられた。
しかも銘板は1枚も無いから、竣工年はもちろんのこと、橋名さえ分からず仕舞いである。
もしかしたら、一度橋が流出して架け替えた可能性もあると思うが、証拠はない。

幅3mほどの無名の橋を渡り、久々に左岸の土を踏む。




橋を渡ると、すぐに屈曲して高度を稼ぐ。
このカーブは小半径かつ急勾配で、さらにすれ違い出来ない狭い橋に繋がっている関係から、十分過ぎるほどの道幅を持たせられていた。
思い出したかのように有料道路ぶりやがるのが、憎たらしく愛くるしい。

なお、ここの路上に大量の砂利が積もっているのは、決して未舗装なのでは無くて、この舗装路から溢れてきた砂利だった。
舗装路から砂利が溢れる?!
と驚かれたかも知れないが、そうとしか言いようが無い状況だった。

次の写真は、このカーブを別のアングルから撮影したものである。
私が声を上げ、半笑いでなじった道の姿である。
ここは楽しかった。




舗装路面が、メッキョメキョ…。

これ、薄いアスファルトの簡易舗装路面の亀裂から流れる水が浸透し、
その下にある砂利の層を、片っ端から下へ押し流していったものと推察する。

酷い。

今までも兆候を感じさせる場面はあったが、ここに来て一挙に病症が破裂した感じ。
路上に散らかった流木やら、デカい石塊やらの存在が、私のこの推測を裏付けている。
ここまで滅茶苦茶にされたら、鋪装なんてない方が手入れはしやすいだろう。まさに、台無しだ。



そしてそのまま、壊滅的状況の舗装道路が伸びている!

これまで多種多様な廃道の風景を目にしてきたが、
壊れっぷりの分かりやすさとしては上位に入る、インパクトがある。
鋪装はあるのに、自転車になんてとても乗れない状況。一見無事に見えるところも、実際はそうでもない。
ひときわ目立つ、道路中央の巨大な亀裂のような凹みは、その左側が地すべりしつつあるのかとも疑ったが、
左右の路面に高さの差が見られないので、やはり単純な流水と洗掘による陥没なのだろう。

この光景は、普段利用している山岳道路が、どれほど周到な手入れにより維持されているかを物語っている。



流水の影響が少なくなる上流ほど、路面の状況はマシになっていた。
そしてその鋪装がやっと快復した向こうに、見えてきた“緑のアイツ”が。

最初に「10K」で登場した序盤こそ、たまに「1K」単位で飛ばすこともあったが、
近頃は皆勤賞で登場している。完全な一本道なのに、なんの必要があろうかと思える頻度だ。

でも、やっぱり、必要はあったんだろう。

だって、こんな道を案内無く(もちろんカーナビも無い時代)走っていて、
この先に「都市がある」
と、揺るがず信じ続けられる人の方が少ないはずなんだ…。

普通なら1kmおきに不安になり、もしかしたら心折れて引き返しかねないと、
関係者がそう心配していたからこそ、こんなに沢山案内標識を設置したのだろう。



立派な“都市”の案内標識とは対象的な、手作り感溢れる“白看”が出現!

下の方の地名は今日の私には無関係なので、とりあえずいくら遠くても他人事で構わないんだが、一番上の大河原峠って、そんなに遠かったか?!
都市まで行ければ結構すぐだと思っていたのだが、想像以上に遠くて、想像妊娠的に足が腫れそうだ。

(しかも質の悪いことに、やっぱりこの大河原峠への距離は過大だったという…(苦笑)。実際は7.5km程度である。どこかほかの場所から移設されたのか? 罪深いぜぇ…。)




おそらくだが、この道でお前を見るのも、あと1回だけだろう…。

あと、「2K」。

出発から3時間半が経過しているが、遂に近付いてきたと思える数字だ。

しかし、実感は数字だけだ。
あと何Kと出る度に、私の中の都市という言葉のイメージと、その場所の風景の間に重なる何かを探してきたが、結局一つも見つけられていないばかりか、最近はますますギャップが激しくなっている感じがある。
せめて高原的な風景に出会えば納得も行くが、今はまだ、ただ高い山というだけで、高原的とは無縁の景色である。




あと「2K」で、劇的に変わるのか。
それとも、変わらないままに“都市”は始まるのか。
こんなにカウントダウンにワクワクしたのは、いつ以来だろう。

この看板の15m先に、通算5度目で最後の鹿曲川本流渡河が待っていた。




8:37 《現在地》

い や 、

これは渡渉ですよ…。

徒渉で都市! (アハハ…)




仙境都市まで あとkm