今年11月始め、『廃線隧道のホームページ』を運営される“しろ氏”より、興味深い情報のご教示を頂いた。
「みやま書房」が昭和43年に発行した『三国街道』なる本のなかに、群馬県北部の「切ヶ久保峠」というところに、明治7年に隧道が掘られたという記述があるというのだ。そして、現在はそこに車道らしいものはないという。
明らかに“明治廃隧道”を匂わせる情報。しかし、遠方のため自身では容易に調査できないということで、私にその貴重な情報を教えてくれたようだった。
自身にとっても初耳である切ヶ久保峠。そして隧道。
まずは国土地理院のサイトへ行き、地形図にその名を探した。
最新の地形図にも、切ヶ久保峠の名前ははっきりと記されていた。
現在の地名で言うと群馬県利根郡みなかみ町の布施(ふせ)地区の南方で、この峠を挟んで吾妻郡高山村中山地区に接している。
図中の切ヶ久保峠は、峠の南側に道が付けられていない区間が存在し、また北側の点線の道(徒歩道)は狭い尾根を伝うかなりの急勾配が想像される。峠に隧道らしきものも描かれておらず(もっとも、隧道の長さが10間といえば、すなわち18mほどだから、これでは地図に載りようもないか)、そこには今日的車道の姿からは大きくかけ離れた、杣道のようなものしか連想し得ない。
深読みすれば、「なぜ敢えてこの峠の名前が地図に残っているのか」という事に疑問を感じる。
近年、歴史有る峠の名前が地形図からどんどんと消されていると嘆く歴史愛好家が少なくない。事実、戦前と比較すると地形図中の峠の数は半分以下にも減っているのだが、なぜ、この切ヶ久保峠は名前が残されているのか。
道は片側しか描かれておらず、いまも峠として機能しているとは到底思えないし、国道や県道の不通区間にあたっているというのでもない。
実はこの峠、かつて江戸五街道に準じる重要な街道として勇名を馳せた「三国街道」のバイパスとして、明治時代には盛んに利用され、一時は国道にも指定された道だったのだ。
その重みゆえ、廃道となった今日でもまだ名が残されていると考えられた。
私はさらなる情報を得るため『東京都電子自治体共同運営サービス』を利用して、地元図書館から何冊かの郷土資料を手配した。地形図の記載は余りに頼りなく、行き当たりばったりの現地調査を躊躇わせた。
まず、しろ氏が教えてくれた「みやま書房」刊『三国街道』の切ヶ久保峠に関する記述を引用してみる。(p.201)
布施と中山との境界に聳える南山の切ヶ久保峠路を改修して人馬の通行可能にしたのは明治七年である。峠の頂上に十間程のトンネルを作り、幾重にもある谷から谷へは木橋や土橋をかけて立派な道路が完成、之を切ヶ久保新道と呼んだ。峠を下って上原に出て、それから布施宿に達した。中山宿より布施までの里程二里余である。
それは教えていただいた文章の通りだったが、この目で直にソースを読んでしまうと、ワナワナと奮えるような激情の湧きだしてくるのを抑えるのに苦労した。簡素な文章でありながら、そこが余計に真実みを感じさせた。明治の新道が、この山中に存在したのだ! 隧道と橋が!! うはっ!!!
さらに、かつての中山宿を擁した『高山村誌』には詳細な情報があった。それを元にして、切ヶ久保峠の盛衰を簡単に説明したい。
右の図はこれらの資料を基に作成した、切ヶ久保峠周辺の「三国街道」のルートである。
元々の三国街道は中山から不動峠(現在は金比羅峠と呼ばれる)を越えてみなかみ町(旧月夜野町)の塚原に宿を置き、そこから赤谷川沿いに遡って布施宿(旧新治村)へ通じ、さらに猿ヶ京番所を経由して三国峠へと通じていた。
戊辰戦争を契機に、より近道となる切ヶ久保峠が俄に着目されると、政府から地元住民に対し、それまで間道に過ぎなかった切ヶ久保通りの普請が指示された。これにより、明治7年、中山布施の村民達の手によって切ヶ久保新道、約8kmが落成した。以後、三国街道を通る人や物は公式のものも含めて多くが新道経由となった。
自力ではそれ以上の改良が難しいため、官費の補助によるさらなる改良が地元から度々陳情される。また、正式に三国街道(国道)を切ヶ久保新道経由とするための請願も続けられた。その成果が実り、明治15年群馬県庁から本道を12の工区に分けて本格的に改良する補助が下りた。その内訳として一部をあげれば、「橋梁 七箇所 平均幅九尺」「道路 五百五間 平均幅二間 九箇所」などである。
さらに、明治17年7月7日には、切ヶ久保峠が正式な三国街道(国道一等)に指定され、不動峠は廃道となった。
切ヶ久保新道は、国道になったのである!
この新道はなかなかの良道であったらしく、明治8年にここを通過した若き日の原敬は、「原敬日記」のなかで切ヶ久保新道について
路曲折多く殆ど絶して又通じ或は橋梁を架し、或は隧道を通じ、道路甚だ嶮なれども、頗る奇絶なるを以て過る者其嶮を覚えず
などと述べている。
…原さん、「すこぶる奇絶なるをもって」って、どういう意味? “奇絶”ってさ、何がそんな凄かったの??
その真実の意味を知るのは、現地踏査を待たねばならなかった。
切ヶ久保新道は、いまから約133年前に開通し、その10年後には国道に昇格した。当時の国道は今日のように数もなく、利用者の集中も激しかったから、街道沿いに立地して陸運や客商売で生計を立てる村々にとって、国道指定は最大の喜びであった。
しかし、切ヶ久保峠の国道としての寿命は、余りに短かかった。
国道昇格の翌年の明治18年、かねてから上越間の新国道という重い使命をもって建設が進められていた清水越街道が遂に開通し、三国街道は県道へ降格してしまうのである。切ヶ久保新道が国道として過ごしたのは僅か1年足らずだった。沿道の住民は挙って国道復活への陳情や請願を行ったが、国策の前に抗し得なかった。
明治27年にはさらに県道からも転落し、以後、道の維持管理は沿道村々の手に委ねられ、切ヶ久保新道も自然と廃道の憂き目を見たのだった。
開道わずか20年の生涯であった。
しかし、ご存じの通り、清水越街道もまた短命な国道であった。
厳しい自然環境や他の道路との競争のみならず、鉄道の台頭(信越線や上越線)もあった。
そうして清水峠が廃れると、再び三国街道に日の目があたるようになる。
大正10年に三国峠は、念願の県道復活を果たした。さらに昭和9年、国道9号に指定された。
だが…。
中山の人々は、その喜びとは無縁に過ごさねばならなかった。
大正・昭和と県道、そして国道に復帰した三国街道。
しかし、その実際のルートは、それまでに巨額を投じて建設された「清水越街道」を大部分利用した、折衷案であった。
すなわち、渋川〜沼田〜後閑は清水越国道ルートを利用し、後閑から布施までは明治18年に赤谷川沿いの「黒沢八景」に開削された「黒岩通り」を利用した。そして、布施より北で本来の三国街道に合したのである。このルートが、新たに「新三国街道」として整備されることとなった。
昭和32年、既に「一級国道17号」と名を変えていた道に待望の三国トンネルが開通し、名実共に上越間の幹線となったのだった。
取りのこされたのは旧三国街道の宿場町、中山地区。
明治後半から大正、そして昭和20年代まで、長く南北の交通路から取りのこされ停滞を余儀なくされた。それは、宿場として栄えた村が街道を失ったゆえの悲運だった。
昭和23年、当時の高山村長は周辺町村に働きかけ、かつての三国街道を新たな県道「下新田渋川線」として指定させることに成功(現在の路線名は「渋川下新田線」)。ようやく、旧三国街道に新たな時代が訪れる。周囲に広大な牧場を控えて、子持山や小野子山を望む観光地となった中山峠はいち早く改良され、昭和40年代にはバスも通るまでになったが、中山から北に利根郡境を越える部分は長い間不通区間となっていた。結局、かつて覇権を競った不動峠でも切ヶ久保峠でもない「赤根峠」が開削されるに及び、県道はようやく全通した。そこに近年、赤根トンネルが開通し、幹線道路として面目を躍如している。
しかし、現在の県道は不動峠にも増して大きく東に迂回している。本来ならば三国街道の“本道”たる切ヶ久保峠が県道に指定される筈だったのだろうと思われてならない。
赤根峠開削前に書かれた村史も、「やがての将来に、利根郡界以北も開さくされ利根郡の布施まで、自動車の通る大道となり、この路線が開発され、真の幹線道路となってこそ、先覚者の完爾として瞑黙する時であろう」と結んでいる。
なぜ切ヶ久保峠は復活しなかったのか。
ここで終わればただの歴史サイトになってしまう。
当然現地踏査を実施する。
机上調査は幸か不幸か完全にはほど遠いもので、例えば穴の開く程に眺めた新旧の地形図とも峠に隧道を描かず、そこになんら原敬を“奇絶”せしめた風光を予見することは出来なかった。
そもそも、存在する地形図で最古のものであっても、この道が国道から陥落して久しい時期のものである。
私は、現地で正しいルートを見出せないのではないかという不安を抱えながら、現地へとむかった。
上越国境線が初雪を頂いてやや経った、11月23日のことである。