切ヶ久保新道 最終回

所在地 群馬県みなかみ町〜高山村 
公開日 2007.12.25
探索日 2007.11.28

 最終章 

 北壁攻略の切り札 大桟橋



2007/11/28 15:11 

 切ヶ久保新道は、北壁と正面切って向き合い、そして乗り越えていた。
いつまでたっても高度を上げようとせず、ただ壁の底を伝うだけに見えていたのも、考えあってのことだった。
私には、それが読めなかった。

 北壁突破のために新道がとったルートは至って単純、かつ明快。

崖伝いにスロープ状の長い桟橋を設け、滝の落ち口で北壁が最も低まった部分に潜り込むものだ。
階段や梯子ではなく、牛馬も荷車も通るような勾配を実現するため、敢えて長い桟橋を設けたのだ。
単純で極めて直感的なルートだが、しかし、私はいままでこんな桟橋を見たことはない。(跡地を含め)
これだけ大きな高低差を、こんな手法で埋めて見せた道を、私は知らない。
もし現代ならば、ここに道を通そうとは考えないか、或いはループ橋、ループトンネルか。
ヒョロヒョロと岩盤伝いの桟橋を架けて登ろうとは考えまい。 なぜなら、落石が恐ろしいから。


 想像を絶する難工事であったはず。


 現場には、桟橋の橋桁はおろか、部材のひとかけらも残されてはいない。
この地形の険しさであるから、崩壊しすべて散逸したのだとしても不思議はない。
この橋の構造を推定する手掛かりになるのが、橋自体の存在を示す唯一の存在でもある、岩盤に彫られた幾つもの孔だ。

孔は最低でも4コ以上、等間隔ではないが、ある程度の間隔を空けて存在する。
そしてこれらの孔を結んだときに、馬頭観世音碑付近の地上と滝の落ち口付近とを結ぶ線が浮かび上がるのだ。
この一事を以て橋が存在したのだと結論づけるのは、通常であれば乱暴過ぎるかも知れない。だが、ここではもはや他の選択肢が排除され尽くしている。
関連する市町村史に本橋に関する記載は無く、具体的な設計は不明であるが、全長50m程度の桟橋が存在したことは疑いない。

孔はおそらく全て同サイズで、目測30cm四方くらい。深さは20cmに足りるかどうか。
右の写真がそのうち最も顕在なものであるが、孔の周辺の岩面が奇妙に平滑であることが分かる。
おそらくは、橋に干渉するような凹凸を削ったのではないかと思われる。
つまり、橋は岩盤に近い位置に近接して架けられていたのだろう。途中、何度かカーブもしていたことだろう。

橋自体の構造は想像が難しい。
重量的に木製であったことは間違いないだろうが、この孔に挿した横の橋脚のみで重量を支えられるとは思えないので、下にも橋脚を垂らしていた。むしろそちらが加重負担の中心であったろう。孔は、橋が横にずれないための支えであったと見た方がすんなり来る。
ただし、下向きの橋脚を支えていたような平坦部が地上に無く、橋脚を差し込んでいたような孔も残ってはいない。基礎自体が流出してしまっているのかも知れない。



 この“失われた大桟橋”は、その規模から考えても、往時にあっては相当に人目を惹く存在であったはずだ。
何ら記録が残っていないとは考えにくいので、今後も調査を続けたいと思う。


 ともかく、北壁攻略のルートはこうして特定された。


 となると…


上に行かねば。




 本来のルート(黄色いライン、点線は橋)を辿ることは出来ないので、なんとかべつのルートを見出して滝の上に登りたい。

そして、私はピンクの破線で示したルートにあたりを付けた。
一見すると、とんでもなく不可能な道に思われるかも知れないが、先ほどこの滝を横断したときには、多くのステップ状の凹凸が存在していて、直登はともかく、慎重にルートを選びながら上部を目指せるのではないかという直感はあった。
ただ、当初はそれをする必要はないと思っていた訳だが、滝の上こそ真のルートだと判明したのであるから、これは全力で登る価値がある。

 アタックだ!




 実際にへばり付いてみると、見立て通りこの崖には足場がたくさんある。
しかも、全て一枚岩であることが奏して、転び石を恐れる必要がない。
そのうえ、一枚岩の表面はザラザラしていて、良く足裏を支持する。

言うなればこの崖は、ステップのごく小さな階段のような感じであり、身体を崖に極力近づけ重心を低くして行けば面白いように登れた。
ただし、ステップ上の落ち葉を丁寧に掃き落とすことだけは忘れてはならない。



 もっとも、いよいよ滝の落ち口に近づけば、ご覧のとおり垂直に近い傾斜となる。

こうなると足場も減ってくるし、何より稼ぎ出した高度がそのまま恐怖として自分にのし掛かってくる。

この日は良く足場が乾いていて助かったが、少しでも湿っていれば登ることは難しかったろう。
そもそも、沢が少しでも増水すれば、これらのステップも波濤を散らすに違いない。

道というには甚だリスキーな、針穴のような通路であることは確かだ。





ともかく私は、この高低差15mほどの登攀を、無事やり果せた。



 滝の上 復活した峠路


15:14 

 滝の上。

やはり、道があった!

滝の落ち口付近には、岩場を削って作られスロープ状の道が、例の桟橋の始まりまで続いていた。

また、図中に○で囲った3箇所には、岩壁に見たものと同じ孔が穿たれていた。





 上の写真は、滝の落ち口より桟橋の入口へ続く道を振り返って撮影。
下から風が強く吹き上げており、それは頬が痛いほどの冷たさだった。
また、見下ろした崖の深さは「背筋が凍り付く」迫力で、ようやく攻略した北壁の大きさを反芻させられる。

 またここには、はっきりと岩盤を削って道を作った痕跡がある。
この道が出来るまでは、踏み込む術などまるでない絶対的な地形だったに違いない。
明治初頭にあって、良くこれだけの土工を成し遂げたものである。
驚くほか無い。




 そして崖の突端から、失われた大桟橋を振り返る。

足元は裸の岩場で、何も構造物が載せられていた痕跡はない。
飽くまで、この桟橋の痕跡は垂直の崖に穿たれた幾つもの孔だけなのである。

 明治15年の改良工事では、約1kmの工事区間内に橋梁が全部で7箇所あったという。
その位置などは記録が無いので分からないが、橋の平均の幅は9尺(2.7m)とされている。
ここにも、それらの橋のうちひとつ、ないし二つか三つかが存在したのだろう。

 崖をへつり歩くよりも恐ろしい、奇絶なる大桟橋が!



 大桟橋を後に、長かった膠着状態を脱し、いよいよ峠への道行きを再開する。

松の尾根からこの滝口まで、距離にして僅か300mほど。
だがそれは、山行が史上で最もアツイ300mだった。

 しばしは余韻にひたりたいところだが、時がそれを許さない。



 

 滝の落ち口の様子。

濡れている部分は滑るうえ、落ち葉に隠されているので、極力踏まないように気をつけた。
ここでの滑落は笑えない。

また、写真左端の岩場に、孔が写っている。
この孔が何を支えていたのかは不明だが、現状では谷底そのものを歩くことになるので、本来はここにも橋が架けられていた可能性がある。

この落ち口周辺の状況を動画で撮影しているので、ご覧いただきたい。
風の音に注目。残念ながらサルの声は入っていなかった。

北壁動画3




 そしてここからが、渇望の果てに辿り着いた峠への最終ルート。

この谷底から、再び道は峠を目指して這い上がってゆく。

既に道の痕跡は失われているものの、以前は両岸どちらかに沿って桟橋が架かっていたのだろう。
あの大桟橋を見た後ならば、どんなルートも容易に想定しうるのだ(笑)。





 滝の上 復活した峠路


15:16

 濡れた谷底を50mほど進むと、両脇を塞いでいた北壁の残党も消え、行く手にはいたって平凡な杉林が現れた。

この瞬間、私は峠への到達を確信した。
もう見えていた。杉林のむこうにたおやかな曲線を描くスカイライン。すなわち鞍部が!

これは、明るいうちに峠に立てそうだ。
心の中で密かにガッツポーズ。
序盤にあれだけミスをして大きなビハインドを背負った中で、さらに北壁での想像を超える苦戦。
重なる悪条件の前で一度は撤退を決心しただけに、この逆転は嬉しかった。


 北壁を振り返る最後の場面だ。
V字シルエットの谷の向こうは、すっぽりと空白。
空のほか、何も見えはしない。


 もし。


もしもこちら側から辿っていたとしたら…。

私は滝の落ち口に立ったとき、どう思ったろうか。


 たぶん、余りの景色に唖然としただろう。

桟橋の存在には気付いただろうけれど…、そこで絶望したかも知れない。
谷底へ向け滝を下るのはきっと、登る以上にハードルが高かったと思う。
撤収という結末も、あったかもしれない。





 北壁の底から這い上がってきた小さな沢と道が、杉林の薄暗い林床に続いている。
倒木が目立ち、余り手入れがされている様子はない。

 もはや、ウィニングランが始まっているのか。
地形には険しさの欠片もない。
確かな足取りで、峠を目指す。




 さらに進むと、谷は楓葉形に広がり終わる。

道は谷を捨て、正面の斜面に電光形の坂道を彫って最後のスパートにかかる。

長かった登りもこれで最後。
北壁の大桟橋で肝を冷やした明治の旅人たちも、ここまで来て安堵したことだろう。
私も同じだ。



 …なんか。  もう忘れてたよね。

隧道があるかどうかなんて…。

でも、もう答えは半ば分かっていた。この杉林に入った時点で、ピンと来た。




 一段目の登り。

前方には、西日が漏れ出る峠の鞍部。
隧道があるならば、あの凹みの底に違いない。

峠は本当に間近だが、最後は少しだけ気を保たせる。

もう一段、九十九折りがある。




 とてもなだらかな道。

路面を見ると、なんと玉砂利が敷いてある。
今日使われているような砕石を使ったチャリではなく、林鉄でバラストなんかに使われている小粒の川砂利だ。
砂利舗装の存在は、そのまま車輪付きの乗り物が通っていたという事実に結びつく。

これは、おそらく明治15年の改良工事によるものだ。
当時の記録に「砂利敷 百六十間 平均幅八尺 四箇所」というものがある。




15:27 最終カーブ。

 この次のカーブを曲がれば、正面に峠が現れる。
隧道があるか否かが、まもなく明かされる。

私は歩幅を抑えて、一歩一歩を噛み締めるように進んでいった。

一歩ずつ、周りが少し明るくなる。






切ヶ久保峠到着


隧道は、開削されていた。


杉林に入った時点で、鞍部から漏れる西日の明るさは際だっていた。
その、U字型に切り込まれたシルエットが、遠くからでもはっきりと見て取れた。

隧道が既に無いことは、予感していた。




 切ヶ久保隧道跡


15:28

 序盤に手痛い道間違いがあったが、もしそれがなければ、左の図のような径路で峠へ来たことになる。
そしてこれが、地形図にも記載の無かった切ヶ久保新道の、本当の道筋である。
今も昔も地図に描かれている尾根渡り点線道は、結局峠に至っても合流せず、或いは合流したにせよその分岐に気付かなかった。
あの北壁に対し、徒手空拳で挑む初代・切ヶ久保道が現存する可能性は、極めて低いだろう。

 峠は、地形図上で海抜850m。「高山村誌」によると830mとある。
いずれにしても、出発地みなかみ町布施河原からは約3km、高低差350m弱の上り坂だった。
衝撃的だった北壁の光景に印象が集約されてしまったきらいはあるが、総じて興味の深い道筋だった。
特に、道路の中央に大きな松が並んでいる「松の尾根」の景色は、一種独特の清浄感が忘れられない。
神域の如し緊張感と、安らぎが同居する光景だった。
そこから、北壁の口腔へ入り込んでゆく場面の緊迫感もまた、素晴らしかった。
そもそも、地図にない道を辿るということが何よりも意義深かった。
お陰で、全く疲労というものを感じることなく、峠に立つことが出来た。

チャリを連れてきていたら北壁で断念していただろうし、徒歩なのも正解だった。


 この旅は、最終的に布施河原に停めてきた車に戻らねばならないので、行程はまだ長い。
日暮れを越えてもしばらく続くことは間違いない。
しかし、歩くべき行程はあと僅かだ。
チャリのデポ地まで、推定される直線距離が約400m、高低差70mほどである。
この区間、なぜか地図には記載がないのだが、北壁を突破してきた道を思えば、「なんとでもなる」ような地形だ。




 切ヶ久保峠の頂上は、自然の鞍部をさらに10m以上も人工的に掘り下げた、深い掘り割りとなっていた。
その断面はちょうど隧道を逆さにしたような半円形を成し、縦断形もまた弧状をなしている。
掘り割りの長さは50m近くもあるが、そのうちでも私が辿り着いた北側寄りが最も高く、そして、ここは地面が不自然に盛り上がっていた。

 …まるで、崩落した跡のように。

そして、なぜか朽ち木が二本、その土砂に半ば埋もれるようにして立っていた。
右の写真に写っているものはそのうちの一本。



 立った朽ち木だけではなく、他に太い角材も何本か、土砂の山の中から頭を出している。
そのうえ、一部には釘が残されたままになっている。
この鞍部の、掘り割りの底に、何らかの木造構造物が存在していた。

私の中で、これらが失われた隧道の痕跡なのではないかという、そういう思いが深まる。

私が知りうる隧道の僅かな記録は、「全長10間(約18m)、明治7年竣工」というものだけ。
その後どうなったのかを知るために、今日ここに来たのだった。




 そして、これがもう一本の立ったままの朽ち木である。

こちらはもう明らか。

隧道の内壁に沿って設置されていた、支保工の柱材にしか見えない。
風が吹き抜ける掘り割りの中にあって、このひょろっとした体でよく持ちこたえてきたものだ。
しかし、ほぼ完全な形で残された柱は、もはやこれ一本のみ。
これが倒れてしまえば、もはやここにあった明治隧道を証言するものは消えてしまう。

県内でも、いや日本中でも有数の古隧道の、残された僅かな痕跡である可能性が高いだけに、このまま消滅して行くのは惜しい気がする。




 これが、「切ヶ久保隧道」の跡地だ。
いま初めてそう呼んだが、名前は他に考えられまい。

ご覧のとおり、完全に掘り割りとなって安定している。
当初隧道が掘られたというのも、不思議な感じがする。
そもそも、僅か18mの隧道である、いま写真に見えているこの範囲で収まるような隧道だったろう。
おそらくは土被りの殆ど無い、今日雪国の峠でよく見られるような峠のスノーシェルターに近い存在だったのかも知れない。
掘り割り全体の長さから見れば、この18mというのは短すぎると思う。
現に、隧道が消えた今日も、問題なく通路として機能しているのだから、隧道は徒花に終わった可能性が高い。

しかし、一部分とはいえ隧道のものと思われる支保工が残されていたことは、近年の拡幅などによる開削ではないと考えられる。
自然に崩れていって、支保工だけが残り、かつ安定した幅広い掘り割りに変化したのだろう。



 掘り割りは、峠の頂点からさらに南側へ長く続いている。
残りの部分には支保工の残骸もなく、当初から明かり区間だったようだ。
ここだけは、今日の自動車道並みに幅が広い。
しかし、戦後の県道が結局この峠を選ばなかったのも頷ける。
おそらく建設事務所の職員も現地踏査に来ただろうが、あの北壁を見て、車道は無理だと判断したに違いない。
北壁の下まで一気にトンネルで貫けば可能だろうが、なまじこの南側が緩斜面であるために、そのトンネル長は2kmとかになりかねない。
もし国策で清水峠が拓かれず、明治以降もここがずっと三国街道のままであったなら、今日、そのようなバイパスを車が行き来していたとしても不思議は無いが…。



 いたって閑散とした峠だが、支保工という嬉しい発見の他にも、私を迎えたものがあった。

写真は、朽ちて倒れた標柱の一部。
ヶ久保峠」「高山…」「南…」「昭和50年3月」などの文字が見えるが、下部が消失していて読めない文字も多い。
しかし、“切”ではなく“霧ヶ久保”と書かれているのは初めて目にする。
高山村ではそのように書き表していたのだろうか。赤谷川沿いの河谷に位置する布施も、山間盆地である中山もともに霧がよく発生する土地であるから、この字もまた相応しい。“切り立った崖の”切ヶ久保も捨てがたいものはあるが、いずれにしても、よい名だ。



 もう一つ私を出迎えたのは、サルたちだった。

私が最初に掘り割りに入り込んだとき、頭上から一斉にキッキキャーキャーの大合唱。
「キター」などと言っているのだろうか。
掘り割りの上を見上げれば、まさにニホンザルの群れがこちらを見て騒いでいる。
しかし、私が構わず隧道の遺構探しに夢中になっていると、やがて口数が減ってきて、そして、やがて散っていった。

写真は、サルものを追って撮影。尻だけ写った。




 切ヶ久保峠掘り割りの全体像。峠より南側は雑木林が広がっている。

 隧道は、いったいいつ頃まで存続していたのか。
先ほどは、自然に崩壊したのではないかと、そう書いたが、そうでない可能性ももちろんある。
その憶測の手掛かりとなるのは、「高山村史」の記述である。
明治15年の切ヶ久保新道改良工事にあって、改良を受けた全長約1kmの工事内訳に橋7箇所などとあるのだが、隧道とはひとつも書かれていない。
しかし、「道路掘下 二十五間 平均幅一丈 一箇所」の記録がある。
もしかしたら、この時点で隧道は早くも、掘り割りに変わったのかも知れない。
明治8年にここを通った原敬が、「隧道があった」と日記に書いていることとは矛盾しない。
支保工が残されていることを考えれば、自然の崩壊と見るのが最も自然な感じはあるが。



 掘り割りを出ると、道は奇麗に二つに分かれた。

 と 

どちらも、下っていく道のように見えたが、道の程度は似通っており、どちらを選んでよいか悩んだ。

 また、この分岐は峠前の広場にもなっており、片隅に切断された木製電柱があった。
北壁を越えて電線が通じていたのだろうか。
おそらくそうなのだろう。
他に、茶屋などの施設があったかどうかは、資料不足で分からない。




 出迎えの松



 結局、最初は右を選んでみたものの、50mほど進んでも下らないことから疑心暗鬼に陥り、引き返して左へ向かった。

結果的に、これが正解であった。
右の道は、稜線に近い位置を東へ続いているようだったが、行方は分からない。



 松の目立つ雑木林を、2度ほどヘアピンカーブを交えて下っていく。
峠の向こうに較べれば道幅もたいそう広く、至って良好な道である。
車道としても十分通用すると思われるが、現在はそのような使われ方をしていないようだ。
一面に落ち葉が厚く堆積しており、車通りはおろか、人が出入りしている感じもほとんどしない。



 やがて沢筋に近づくが、谷のような険しい地形はなく、むしろお盆の底のような沢だ。
ここにはたいして広くない植林地がある。
道は真っ直ぐそれを突っ切り、さらに下流へ向かう。



 植林地を抜けると、また雑木林。
少し路上の藪がうるさくなるが、時期がよいので気にならない。
あとは、どこで車道に下りれるかということだけが気がかり。



 余りに呆気なく車道に合流した。
しかも、奥の松は見覚えがある。
なんと、寸分の狂いもなく、チャリをデポしておいた松の広場に脱出したのである。

 峠を発ってからここまで、要した時間が僅か9分。
地形図に道が描かれていない理由は分からないが、ほとんど藪もなく、その気になれば車でも峠まで入れそうな道だった。



 これが、切ヶ久保峠への高山村側の入口である。
夏場は藪で見えなくなりそうだが、位置的には林道のカーブの外側という目立つ場所である。



15:40 無事にチャリを回収。

硬くて冷たいサドルの感触も、このときばかりは嬉しい生還の実感そのものだった。
そして、さっそく下山を開始する。
ここから麓の中山集落までは3kmほど、延々下りベースであるから気持ちも楽だ。

そこから先はまた、この北山の山並みに立ち戻り、県道が選んだ赤根峠(海抜830m)を攻略し、スタート地点に戻らねばならないが。
(しかも、赤根峠には新しいトンネルがあるのに、敢えて旧道を利用した。夜だったのでレポートはない(笑))



 峠からここまでの道のりは楽そのもの。
この短い区間に点線の道ひとつ描かれていたら、もう少し人に知られた場所になって俗化していただろうから…国土地理院グッジョブ。



 半日前に車で通った道を反対側からなぞる。

写真は、下りの途中にある分岐地点で、ここに大正時代の追分石がある。
どちらへ行っても、ちゃんと麓に降りられる。
切ヶ久保新道として利用されていた道は、おそらく左だ。



 人里が近づき、高台の上に畑が現れる。
太陽は既に地平線に隠れていた。
この時間帯にまだチャリを漕いでいるというのも、なんか久々な感じがする。最近は、目的地付近を比較的ピンポイントで走って終わることが多い。
達成感と寂寥感の混ざり合ったような、一種独特の感覚が懐かしい。
そして、愛おしい。




15:57 中山集落に下山。

ここに下る直前で、散歩中のおばあさんに逢ったので、開放的な気持ちになっていた私は思わずチャリを停め「切ヶ久保峠を越えてきたよ」なんて自慢してみた。
すると、私が想像する以上に驚いてくれた。
聞くところによると、いつ頃まで通れていたかさえ定かではないのだという。
あの大桟橋が落ちてから、誰も寄りつかなくなっているのかも知れない。

 峠からの道を下りきって、別の村道に突き当たるここにも、大正時代の道標が立っている。

北 

霧ヶ窪
峠ヲ越エ

新治村ニ通ズ

道標は健在だが、車社会の今日、石の標識に注目するドライバーはいない。空気に等しい存在だろう。

傍らには小さな神社があり、旅人たちが峠の無事を祈願したのかも知れない。
私もまたその例に倣い、日暮れ後の旅に備えた。




 短命におわった幻の国道「切ヶ久保新道」は、奇岩の森を褥(しとね)に、再びの眠りに就いたのであった。