切ヶ久保新道 第3回

所在地 群馬県みなかみ町〜高山村 
公開日 2007.12.18
探索日 2007.11.28

 切ヶ久保新道 その核心へ 

 海抜700m地点 峠まで残り?km


2007/11/28 14:04 

 切ヶ久保新道は、私にとって最も望ましい形で「現存」していた。
「現存」である。
現道ではないが、そこにはっきりと道があったということが分かる廃道。

 地図にない道を、地図に書き込みながらの前進。
推定される現在地は、海抜700m付近。
ここから峠までの距離は、直線で結べば僅か500mほどに過ぎない。
しかし、「高山村史」が教える峠の標高は830m。彼我にはなお130mの高低差がある。

 この先の道を、地図から少し想像してみる。
右の地図を見ると一目瞭然であるが、この山並みは峠のある稜線より北側・みなかみ町側には総じて急峻で、南側・高山村側になだらかだ。しかも、北麓は普通の山のように山頂に向けて徐々に険しくなるという感じではなくて、海抜650m以上で急に険しい。
そして、この上の海抜800m前後には、等高線5本が重なるように描かれる帯状の部分が存在する。

 それは、どう見ても断崖同然としか思えぬ等高線の束。実際に、一部は崖地の記号に変わっている。
しかも、この帯状の急傾斜地は東西に延々と続き、地図を見る限りでは、緩みを突けそうな“弱点”も見あたらない。
この急傾斜部には、これといってた名も付けられていないようなので、私は以後便宜的に、「切ヶ久保北壁」と呼ぶことにする。

峠へ向けて、新道は一体どんなルート取りをしていたのだろうか。
私の最大の注目は、そこだった。(峠に隧道があるという情報が元ネタだが、それ以上に興味深かった)


 二度目の石垣発見。
しかも、今度は前回よりも規模が大きい。
路肩に10mほどにわたって築かれており、その上に乗っている路盤は上り坂になっている。
写真は石垣を撮影したいがために、路面から斜面に体を乗り出して撮影したもので、手前に向かって路面が登っているのが分かるだろう。
石垣上部は崩れ落ち、残るのは基礎に近い部分だけだ。




 左に谷底と、その対岸に岩尾根を見ながら、序盤2回のヘアピンカーブ以降ほぼ真っ直ぐ登ってきた新道だったが、遂に谷に追いつかれてしまった。
ご覧のとおり、前回、杉の植林地の終わりで見たのと同じゴーロが、また目線の高さに。
相変わらず、沢に水はなく、ここには道などなさそうだ。
それに、今まで対岸だった右岸の岩壁は、ここでまた一段と背を伸ばしており、やはり届かない。
地形図ではこの岩山の上に道が通っていることになっているが、信じられない。ほとんど木も生えない岩尾根だ。

 それはともかく、問題発生。

我らが新道は、どこへ行った?



 これは行く手に立ち塞がったゴーロに立ち往生し、今来た方向を振り返って撮影したもの。
中央の窪地がゴーロとなった沢の下流方向で、右の切り立った部分が岩尾根。(右岸)
道は左の斜面を削って、ここまで付けられていた。
谷の隙間からは、寒々とした里の田やら、色褪せた感じの集落の屋根が見えたりした。緑色に見えるのは先ほどくぐってきた杉の植林地だ。

 ありがちな展開としては、ここで沢を跨いで、U字型にカーブして右岸岩尾根に食らいついていくのかと思ったが、とてもとてもそこは無理。

…どうやら、セオリー通りではなさそうだ。




 視野を広く持つ意味で、ゴーロを上流に少し遡ってみた。

経験上、このような沢底に道が作られることは稀で、ましてこの悪沢。
大雨が降れば、たちまちのうちに岩の駆け下りる濁流に変わるに違いない。路盤などひとたまりもないだろう。

さして期待もせず、歩幅大きめにガスガスと登っていく。



 ムム??


人工物発見…。

これは… もしや。  道 なのか?

発見されたのは、小さなゴムタイヤ一輪と、よく畳の縁に使われているのを見る薄い布地の紐。
なんだろうこれは?
この二つから連想するものは、畳を使った大八車?
正体はともかく、ここに車輪付きの乗り物が来ていた動かぬ証拠だ。




 !!

 なんと、普通に道はゴーロの中に消えていたらしい。

車輪の発見に力を得て、30mほどそのまま上流に進んでゆくと、ゴーロの底からおもむろに立ち上がって、右の林に消えていく道形を発見!

これは意外なルート取りである。
現役時代も、きっとここは補修に手間がかかっただろうと思う。

予期せぬ意外なルートに驚かされるのも、明治以前の道の面白さだ。
しかし、比較的すんなりルートを見出せて助かった。もう午後2時をまわっているのだ。





 甦った道形は、今までで最も急な上り坂となって、再び杉林へ進路をとった。
そしてひとしきり登ると、再び進路反転のヘアピンカーブ。

写真を見ての通り、カーブを中心にものすごい急勾配となっている。特にカーブの内側は殺人級だが、ちゃんと外側に広いスペースを設けているから、何度か切り返せば軽自動車だって通れそう。






 地形図の点線は完全に無視して、独自路線で突っ走る頼もしい新道。
辺りに樹齢30〜40年の杉林が点在していることからも、昭和に入ってからしばらくまでは車も入っていた感じがある。
それが自動車であるかどうかは分からないが。

 背比べを続けてきた岩尾根は、谷の向こうでようやく“”に達したようで、その上に目立つ松が一本、飄々と立っているのが見えた。
直感的に「あそこへ行くのかな?」という感じがしたのだが、それは現実となった。




 しつこい沢だ。

再びさっきの沢が足元から食らいついてきた。
登っても登っても、沢はそれ以上の勾配で距離を詰めてくる。

そして、この3度目の遭遇もまた、道に無理なルート取りを強制していた。
というのも、この沢がぶつかってくる直前で、道は左の写真のように二手に分かれる。
なぜ二手に分かれるのかは分からない。その必要はないはずだ。
左の、平坦に限りなく近い道は、藪も浅くいかにも良道であるが、20mほど先で滝のような沢にぶつかって、完全に行き止まり。袋小路なのである。

となると、消去法で右の、異常に急坂で、その急坂ゆえ路面が雨水で流された、まるでボロ雑巾のような道を進まざるを得ない。
おそらくこれが夏場であれば右の道は藪に隠され、見出せず終わったかも知れない。
そのくらい、怪しい地点だ。




 いくら何でも酷い。

でも、現状は確かにこの勾配である。
他に擬定されうるルートはない。

 「インクラインかよッ!」

そう突っ込みたくなるくらいだ。




 うーん。
チャリを連れてきても、とても乗っては走れなかっただろう。この坂は。
どのくらいの勾配があるだろうか。
20%か、30%か。
前に福島の霊山で体験した、某腐れ県道と大差ない感じだ。
原敬さんは明治8年に、ここを馬車に揺られて?通過したのだろうか。
彼の行路が何によったのかは、実はよく分からないのだが。

 彼はそれでも、この道を「良道」だと言っていたのだから、明治初頭の日本の地方道というものが、一般にどれ程険しかったかが窺える。
それに、こんな道でも前に説明したとおり、明治17年ただ一年間だが「国道一等」だったのだ。




 殆ど勾配をゆるめぬまま道は右へ切れ、すぐさま左へ捻り込むようにッ! カーブ。

なんだか、この辺りは無理矢理臭がすごく強い。

歩きながら、「三島とは違うのだよ。三島とは」とか、わけの分からないことを口中で反芻している自分がいた。
でも、これも大好きだよ。
だって、峠の麓に控える布施と中山の村人達が協力しあって、おおかた自分たちの力だけで作ったのがこの道だ。
明治10年代にも500mほど手直しされているけれど、それとて官による工事ではない。




 路面に深く刻み込まれた二条の轍。
この一連の急坂区間となって急に鮮明になった。

元々の小さな轍に雨水が流れてこうなったのかも知れないが、やはり林業用のブルか何かが入った影響と考えるのがベターか。




 曲率半径3mくらいの、車道と考えれば滅茶苦茶なカーブが連続。しかも、その最中も勾配は殆ど緩まらない。
歩いている私以上に、道が喘ぎ喘ぎという感じ。
明治時代に制定された最初の「道路構造令」にさえ合致し得ない道だ。

 …でも、鮮明に残っている!




14:19 

 遂に勾配緩む!
そして、4たび、例の沢に合流。
だが、沢が遂に譲歩!

 道は、沢を何事もなく横切って(橋の痕跡はない)、進路をやや反転。
さきほど“一本松”が見えていた尾根に進路をとる。
最初の谷底で袂を分かって以来、地形図上の点線道と初めて接近することになる。

 それに、もうそろそろ峠が直に感じられてきてもいい距離になった。
現在の海抜は770m。峠へは直線距離でもう300m。







 沢の奥、峠の尾根を見上げてみる。
この道に入ってきて以来、初めて間近に見る主稜線。郡境の尾根だ。

 異様な岩の塔が ニョキッ!!!


  キリガクボ

 その名のイメージは、どんな景色?


 麓から眺めても決して見えない、峠の真実


 いま、すこしずつ見えはじめた気がする。





 次回、切ヶ久保北壁への突入!


     未知の峠行も いよいよ佳境!