切ヶ久保新道 第2回

所在地 群馬県みなかみ町〜高山村 
公開日 2007.12.16
探索日 2007.11.28

 出現! 切ヶ久保新道 

 正しき道へ


2007/11/28 13:41 

 これが本来来るべきだった、切ヶ久保峠への登り口(前回までの地図の「A」地点)である。
この「南面林道」との交差点よりも峠側には、地形図にも「切ヶ久保新道」と思われる点線道が峠まで描かれており、これは歩く上での明確な指針となる。
最初からここをスタート地点に選んでいれば、あんな迷いもなかっただろウニ!

…ともかく、1時間余りをロスしてしまったとはいえ、今度こそ「正しい道」だ!



 左写真は、私がルートミスのため明るいうちに辿れなかった上原集落への道。
その距離は約300mで、途中はずっと杉林の荒れたダートだった(倒木多数)。

 そして右写真が、切ヶ久保峠への入口。
高低差は約200m、距離は地形図上の読みで約2km。
これでは単純に計算しても平均勾配10%だから、とても明治の新道という感じではない。まるで登山道だ。
最初、地形図に道を見たときからずっとそう思っていたが、こればかりは実際に行ってみないと何とも言えないものがある。

 なお、左隅に写っているものは林道のキロポストである。(はじめは切ヶ久保峠への距離でも書いてあるのかと思った)



 100パーセントとは言えなかったが、この道が行くべき道に違いないという自信はあった。
入口には、何一つ“歴史の道”を感じさせるものは見あたらなかったけれど、そもそも南面林道は切ヶ久保新道とは100年も時代の違う道だ。
その交点に何も無いことは不思議ではない。
そうではなく、リカバリのため南面林道を300mほど歩きながら、地形図に描き出された景色との照合を図っていた。
そして、ほぼ間違いなく、この地点こそが入口であると確信できたのだ。

 あとは、この道をどこまでも行くのみ!!




 鉄塔の巡視路として使われていた先ほどのミスルートとは、早くも違う光景が現れた。

 廃道である。

葉の落ちたこの時期だからこそ、さしたる苦労もなく前進できるとはいえ、浅い溝になった路上には枯れ枝や灌木が大量に蔓延っている。
きっと、真夏ならば泳ぐような藪になっていたことだろう。

 はっきり言って面白みのない景色だが、己の“期待感”が研ぎ澄まされて行のを感じる。
研がれ、磨がれ、そして尖ってゆく期待感。
期待の先にあるもの。 それは、廃道としての切ヶ久保新道…。普通の登山道になんかなっていたら、自分的にはアウトだった…。

だが、尖った期待感は折れてしまいやすいのも事実。
すなわち、これがただの造林作業路の廃道だったという、そんな大チョンボも隣り合わせなのだ。



 林道から200mほど淡々と消化したところで、行く手に鬱そうとした杉林が出現。
その入口付近に立つ「南山国有林」の看板(写真左)と、明治のものと思われる古い境界標(写真右)。

 舞台は、再び沢筋へと展開してゆく。
私は小さく折りたたんだ地形図のコピーを左手に握りしめ、それをこまめに確かめながら、二度と過ちを繰り返さぬように歩いていった。




 水の流れていない沢。
茶碗を伏せたような幅広い沢底に、如何にも人工的な杉の木が植わっている。
道はその杉の木立を縫うようにして、自然なカーブを重ねながら、奥へと続いていた。

 その林床は毎年降り注ぐ杉の枯れ枝で茶色く覆われているが、その中に点々と、苔むした同じような大きさの岩が散在している。
沢全体が、繰り返された落石の末に、ここまで埋め立てられたらしかった。

 そして、この大量の岩塊をもたらした岩の主は、すぐそこまで迫っていた。





 おお…


独りでなければ、私ははしゃいでいただろう。

スゲー スゲー! と声を上げて。


 な、 なんだこれは……。

秋田の山では、東北の山の中では、今まで見たことのない岩壁…。

険しいといえば険しいが、しかし何か艶めかしいような。
しかも、なぜか私を誘うように四角い穴まで開けて…。

15:53



 こういうとき、比較対象になる人が写真に写っていると良いのだが、今回は岩の手前に生えている杉の立木でサイズを推し量ってもらいたい。
大きさが、感じられるだろうか。
薄暗い杉林の底、未知なる道を探す過程で、こんな景色を目の当たりにしてしまった私が、ハテナ顔でしばし立ち尽くしたのは言うまでもない。

この、兎の糞のような形の濃灰色の岩。
一つでビルの3階くらいの高さはある。
だから、その背後の階段状の岩山など、下から天辺まで20mは余裕である。
幅はそれ以上で、“屏風”というにはいささか不格好ではあるが、切り立った岩場が沢の右岸に沿って(すなわち道の左側に)、30mくらいも続いていた。

 沢底から立ち上がる異様な姿の岩稜。

それは、切ヶ久保峠が麓へと垂らした糸なのだった。
旅人を峠へと、“すくいあげる”ための糸。

…すくなくとも、地形図上においては…




 左の図の通り、地形図に描かれた点線の道は、間違いなくこの岩稜の上を伝っている。
しかし、私がいるのは、いまだ沢の底…。
またしても、道間違いなのか?!


 マテ、この岩稜の上の道…。
原敬をして「奇絶」と言わしめるものはあったかも知れないが、果たしてそれは良道たり得たものだろうか。
彼はこの峠の感想として、「嶮を覚えず」とも言っているのだ。

 私はこのとき思った。

切ヶ久保新道は、地形図に描かれていないのではないか。




 地形図の裏切り… 真路現る!


13:54

 この身を引き寄せる重力さえ感じさせるような巨岩の群れ。
これを横目に、なおも私は沢底の微かな轍をなぞる。
相変わらず大量の岩屑が森の地面に散乱している。

 さらに進んで行くも、すぐに沢底は無数の岩塊に覆われ、道の形を失った。
谷は真っ直ぐ続いているが、ここから一気に傾斜が増しており、ここに道をとるというのは余りに不自然だと思われた。
やはり、稜線の上が正解だったのか…。

 辺りに別の道がないかを、くまなく探してみることに。




 うっひょー!!
有りやがった! 道!


 私の前に(というか背後に)現れた、次なるルートは、
完全に地形図とは別!

 これを「最高の展開」と言わずして、なんて言おうか。

歴代の地形図に一度として描かれることがなかった切ヶ久保新道が、

 いま、私の前に…!




 谷底をヘアピンカーブで脱出した道。
それが取り付いたのは、左岸の斜面。
明らかに、地形図上に張り付いた点線とは、谷を挟んで反対側。

 こういった迂回はむしろ、馬車も通る新道であるなら当然の勾配緩和策!




 峠にむかう未知の峠道。

楽しすぎるー!

もう、こんなに谷底から離れた(右)。




 遂に出現。

“明治道”の華!!

石垣。


路肩に、モルタル未使用、自然石使用の積みっぱなし石垣が出現。
規模はごく小さいが、いよいよ明治新道にあるべき光景が出そろってきた。




 私の追求に、

道はいま、ひとつずつ、

言葉を、漏らしはじめた。


2段目のヘアピンカーブ…。

いずこへ誘う、この道は。



 はじめに谷底で見立てたとおり、この谷の断面はお椀を伏せたような形をしているのだった。
登れば登るほど斜面は険しくなっていた。
岩稜である対岸は言うまでもなく、道の取り付いているこの右岸も、谷底で見たような大岩が多数、法面に露出しはじめた。



 この道の、かつて有していたもう一つの役目の証。

根元から切断された木製の電柱の跡(左)と、散乱した碍子の破片である(右)。

このあとも、所々で切断された電柱は目撃された。
おそらく、いまの高圧鉄塔が遙かな架空を通過する以前から、峠を越える電線があったのだろう。




 先ほどまでのつづら折れの道は、眼下の斜面下、樹幹の屋根に隠された。
道は、なおも谷に沿って、ほぼ真っ直ぐ、峠のある南方を目指す。
谷の向かいには、こちらに負けじと育つ岩尾根の姿。

 おいおい地形図よ。

 本当に、あの尾根の上に道があるのかい?

それって、やっぱり明治7年にこの新道が開通する以前からあった切ヶ久保峠道なんだろうな。

とてもじゃないが、徒手空拳で歩ける道ではないと思う。
あの、切り立った岩尾根は。



 流石に廃道。

荒れていると言えば荒れている。
しかし、不快な荒れ方ではなく、それほど身の竦むような危険箇所もない。
それでいて、谷は深いし見晴らしも上等。
なにより、未開拓。

 言ってみれば、これは私にとって最高の道。

その気になれば、チャリを連れても登れたな…。
少しだけ後悔しはじめていたけれど、峠に立つまで油断は出来ない。





 現在地は、右の図の通り。

 そして、眺めは上の写真の通り。

 歩きながら、何十メートルおきに胸ポケットのペンを取り出しては、地形図にマッピングして進んでいた。
立ったまま書いたものだから、ミミズの這ったような、見窄らしい黒インクの線である。
だが、その線のなんと誇らしいことか!!
いつも私の探索を左右し、空の上から採点してくる地形図サマに、今日は一発お返しをしてやれそうだ。

 そして、実際に探索中に描いたラインを元にして、右の地図の赤線は書き込んでいる。
どの程度正確であるかは、私の測地眼を信じてもらうより無いが、そう大きくは違っていまい。

 この等高線からは、険しく、しかも複雑に浸食された斜面が、峠までずっと続いているように見受けられる。
まだ先は長い。
いったい、新道はどんなカーブを描き、どんなテクニックで峠に辿り着こうとしているのか。


 地図にない廃道を辿る楽しさは、 うーおーー!!