道路レポート 国道465号 黄和田隧道旧道 最終回

所在地 千葉県大多喜町〜君津市
探索日 2010.02.05
公開日 2023.08.30

 ヨッキれん、気持ちよくなる!


2010/2/5 9:48 《現在地》

地上(西口)へ戻ってきた。

今回の探索におけるメインターゲット、黄和田隧道の旧隧道を無事確認することが出来た。
おそらく昭和13年に廃止されていると思われる隧道だが、内部は意外に綺麗で、明治期の素掘り隧道がどのように建造されたかという技術的ヒントさえ、私に明かしてくれようとした気配があった。

比較的最近までは貫通していたような気配があったものの、東口を巻き込んだ大規模な山崩れは、今や坑口がどこにあったのかすら判別出来なくさせている。そのうえ洞内に流動性に富んだ泥を大量に流入させ、洞床を厚く埋め立ててしまった。幸いにして水は溜まっていなかったが、もう二度と本来の洞床を見ることは出来ないだろう。

自然洞穴さながらの姿で沈黙し続ける西口を後に、まだ探索していない君津市側の旧道を踏破してから現国道に降りようと思う。メインターゲットは終えているが、未知の区間を歩くのだから“消化試合”なんてことはない。凱旋気分で颯爽と行こう!

(→)
まずは少しだけ来た道を戻る。
登山道と旧道が重複している部分だ。
私は登山道からここへ登ってきたが、帰りは旧道をこのまま進むぞ。

先に探索した東側の旧道は、落石防止ネットの裏を歩かされることから始まり、その後も崩壊や現道の干渉が多くて距離の割りに思いのほか苦労させられたが、一方で想定(旧地形図)にない小隧道を収穫するという大成果があった。
西側区間は東側のように地形が険しくないので、刺激的なものはないかもしれない。長さも東側同様500m足らずだろう。
最終行程、スタートだ!




何の案内もない旧道と登山道の分岐を直進し、スギ林の林床に薄らと残る旧道に入る。
地形図に描かれている地形は正確で、全体が崖のようだった東側とは異なる、どこにでもある普通の傾斜の山だ。だからこそ植林もされたのだろう。

チェンジ後の画像は、分岐から少し進んだスギ林の中の旧道の様子。
この植林地は全く手入れされていない様子で、かなり荒れている。
倒木や落ち枝で道が分かりづらくなっている。

まあ、辿っているのは登山道ではなく旧道なので、勾配や線形に極端なものはないと分かっていれば、追跡は難しくない。
下り基調のトラバースを脳内で意識しながら、黙々と障害物を踏越えるだけだ。

登山道から分かれて、2分後――




9:51 《現在地》

ふわーぁ…

思わず気持ちの良いときの声が出てしまうほどの、素晴らしい道形が現れたぞ。

とても千葉とは思えない……などというある種の禁句が、
2年前の清澄で房総の山への侮りを捨てたはずの私の
脳裏に再び浮かんでしまうほどの、理想的な近代山岳廃道味を感じる。

50mほどの至近距離に現国道があり、実際は景色の印象のような奥山ではないが、良い雰囲気だ。




さらに少し進むと、谷側から明るい光が差し込んでいる場所があり、下を覗くと日陰の谷底を走る現国道の路面が見えた。
写真だと路面はほとんど黒つぶれしていて、その上に張られた電線だけがくっきりと見えている。
これにより、現国道と旧道の現在の近い位置関係が分かると思う。

この旧道の特徴の一つとして、現道との歴史の面での隔絶の大きさが挙げられる。この表現は意味が伝わりづらいかも知れないが、国道465号は平成5年にその名を初めて得たもので、その直前までは主要地方道市原天津小湊線であった。(そして今も同県道と国道の重複区間になっている)
ここまでなら少し古い地図を見れば観測出来るが、その前となると急に情報が乏しくなり、『道路トンネル大鑑』によって同書が編まれた昭和42年当時は主要地方道南総天津小湊線であったことが断片的に判明している。

さらに前となると、いよいよ探索前情報は皆無で、後の机上調査に委ねられたのだが、おそらく旧道や旧隧道が役目を終えた昭和13年以前の道は、現道である国道465号とは文字通り隔世の存在であって、これだけ隣接していながら道としての性格や整備の目的を共有していないことが想像出来たのである。こうしたことが“歴史の面での隔絶”であり、外形的な地形の険しさよりも遙かに机上調査を難しくする要素である。(机上調査の難航に対し予防線を張るヨッキれん…)



あっ! 懐かしい!

「SUNTORY BEER」という文字と一緒にペンギンのキャラクターが大きくプリントされたこれは、「サントリーCANビール」という缶ビールで、子供のころに実物を見た憶えがあるが、調べると発売は昭和58(1983)年のようだ。終売時期ははっきりしないが、アルコール飲料らしからぬ可愛いペンギンを採用して当時話題となったCMは、昭和60(1985)年まで放送されたらしい。

私が大人になってから、廃道でこの空き缶を目にしたのは、初めてではない。インパクトが大きいデザインなので、どこかでも見たという記憶だけはあるのだが、どこかは思い出せない。
仮にこれが1980年代のものだとしたら、登山者のポイ捨てだろうか。
(多分缶ビールとしては復刻していないと思う)
となると、その時期の登山道は、ここも通っていたのかも知れない。
眼下に道路を見下ろしながら、王様気分で一杯しゃれ込んだのかも。

捨てられたのに妙に陽気な空き缶をそこに残し、歩き始めるとすぐに……




9:52

切通し!

切り立つ岩を割って道を通した、文字通りの切通しだ。
あとほんの少し山が高ければ、隧道を選択していたと思われるソリッドな険しさがある。なんとも絵になるワンシーン。

切通しも隧道に負けないくらい大好物だ。それもこんな廃道として過ごした時の長さを忘れさせるほどの綺麗な切通しは最高だ。
隧道内部より遙かに強い風化に晒され続けている地上で、よくぞこんなに綺麗に残っていた。全く崩れておらず道幅も狭まっていない。

感激、感心しながら、強い陰影を作る切通しを通り抜けると、再び薄暗いスギ植林地が現れ……、




9:53 《現在地》

今度は、切通しと対になるかのような、小築堤があった。

絵になる切通しとは違い、路上にもスギが植えられているこの道路遺構は一見してとても地味なのだが、個人的にとても驚かされた発見が、あった。
矢印の位置に、注目だ。
(チェンジ後の画像は、反対側からこの小築堤と切通しのコンボを振り返って撮影した)




私が驚いた小築堤での発見とは、これだ!(→)

石垣が積まれていたのである!

……ふ〜〜ん。 だから?

私の前フリに期待していた読者諸兄は、このあまりにも平凡な苔生した石垣にがっかりしたかも知れないが、房総半島を含む千葉県の古い道では、他の都道府県には珍しくない現地調達石材による石垣が実は珍しい。
皆無というわけではない。現地調達らしき石垣が沢山ある廃道もあるし、廃道ではない集落内などでは石ブロックを使った石垣や塀もたくさんある。ただ、人家の近くにあるものは、その多くが外から購入した石材や、鋸山周辺のような県内の狭い範囲で産出した房州石が多いと思う。

土木工事中にその辺の地山から取り出した石を、少し整形して石垣に使うことは他の地方で普通に行われたが、房総半島ではあまり行われなかった。
これは、千葉県をして「石無しの国」と呼ばしめるほど、火成岩のような硬質の岩石に乏しく、ほとんどが新生代以降に海底で堆積した軟質な堆積岩よりなっていることによる。千葉県を“隧道王国”たらしめている最大要因である泥岩も砂岩も全て堆積岩である。(房州石は凝灰岩であり、これも堆積岩の一種だが、火山灰由来なのでいくらか堅牢である)

この石垣を見れば明らかだが、路面を下から支える構造物としては心配なほどボロボロに風化して苔が生えている。ほとんど土化してしまっているようだ。隧道は一枚岩の中を掘り進めるので、表面が風化しても全体が脆くなるわけではないが、石垣のように小分けにして使うことに泥岩や砂岩は全く向いていないのである。同じ理由で、砂利としても使えなかった。

石垣や砂利として利用出来る石材が現地でほとんど得られず、他県より購入しなければならないことは、千葉県の道路を整備するうえで非常に大きなハンディキャップであった。これだけ山があり谷が深いのに、谷を越える石垣を満足に作れないのはいかにも不利だし、それゆえ道は山に寄り、隧道に偏重したところもあったかと思う。

千葉は「石無しの国」であることを、道路整備の点から最初に問題視した人物は、初代千葉県令の柴原和(しばはらやわら)ではないだろうか。
彼は県令赴任直後の明治8(1875)年に著した『県治方向』の中で、「道路修繕ノ事」として、道路事業の根本となる県内の地質を、「全地一挙石アル無シ是ヲ以テ修繕ノ工事他ニ倍蓰ばいしスルモ其工挙ル少ナク」と、堅牢な石がないために他県の数倍の労力を費やしても道路整備の成果が上がらない」ことを嘆いている。

私は昔これを読んだときに衝撃を受けたのだ。千葉県には石がないのかと。そんな県があったのかと。そして、そのことがどれだけ道路を不利にするのかということに純粋な興味を引かれた。
だからこそ、ここで何気なく現れた明治のものらしき石垣に驚くと同時に、触れば崩れる土のように脆くなったその姿に、改めて当時の不利な環境の中で土木事業を完成させた人々への畏敬を覚えたのだった。

なお、千葉県が石無しの県としての不利を託ったことは明治期だけでなく、その後もずっと継続した。
例えば戦後間もない昭和27(1952)年に発行された『房総の自然誌 : 地理学的考察』も、「房総を全く「石無しの国」にしている。若くて、軟弱な地質は河谷地形に影響し、また河川に砂礫を堆積しないために道路工事、その他土木工事、日常生活に砂利・石材をすべて他県に依存しなければならない結果となっている。県下の道路改善が、産業に観光に緊急を要する問題であるに拘らず、未だ遅々として進展を見ないで一般に悪道とされている理由もここにある。」と述べている。

今日の他県と比べて恥ずかしくない千葉県の道路網の完成に費やされてきた関係者の努力の大きさに改めて敬意を傾けたい。
そんなことまでも、この溶けかけた石垣は、私に思いを馳せさせた。



思えば、最近は毎回のように何かしら古い道路に関するウンチクを垂れているな。
このレポートの中なら、横井戸、五角形断面の解説、そして「石無しの国」について。
いずれも探索中に興味を引かれた事柄であり、だからこそ写真を撮っており、帰宅してから調べて成果を交えてレポートに入れ込んだわけであるが、ただ道路の現状を知りたい人にとってはなんとも余計な枝葉が多い常緑闊葉樹のようなレポートになっている自負はある。今さら悪びれるつもりはない。これが山行がだぞ。苦笑。

どうでもいい話をしたということは、この探索は最後の山場を越えたということだ。
道形としては鮮明で辿りやすいが、薄暗い植林地に埋め尽くされた面白みのないところをしばらく行くと、写真左奥の青っぽい現道のアスファルト路面が見えてきた。
この見え方は、もうかなり近いし落差も小さい。合流は間近であろう。




9:59

それからすぐに、道は全く姿を消してしまった。
道が行くべき進行方向には、密に灌木を茂らせた古いガレ場のような斜面が見渡す限り広がっていた。
物理的には無理矢理横断出来ると思うが……

チェンジ後の画像のように下を見ると、すぐ足元まで現道が迫っており、下り続ける旧道が現道に合流する場面は、現道側からも観察出来ると判断した。
一決、旧道を離脱して道なき斜面を数メートル下って現道へ。



10:00 《現在地》

この落石防止柵の隙間から出て来た。にょろり。

隙間は通路として用意されたものじゃなさそうだが、あって良かった。(なかったら出られなくなっていた)

で、旧道が最後に消えていったガレ場の方向を見てみると……




なんもねーわ。

国道も、ガレ場を抑えなければならないから、落石防止柵で山側の守りを固めており、それは奥に見える黄和田畑集落外れの県道分岐地点まで続いていた。
国道側からはいくら探しても旧道の分岐はなかった。
旧道の最後は、この柵の裏側でガレ場に埋め立てられているのだろう。おそらく“点線”のあたりにあったかと思う。

終わってみれば、隧道2本を柱に見どころの多い、探索的には優秀な旧道だったが、現国道からその存在を視覚出来たのは本当に最初の【落石防止ネットの裏の平場】だけだったことが、地味に衝撃である。
ここまで分かりづらい、見つけづらい旧道は珍しい。
旧道は石尊山の登山道とほんの一部重なっていたのだが、旧道の存在がマイナーなために、登山道の間近に口を開ける【旧隧道】を発見した登山者も、それを旧黄和田隧道と考えなかったのかもしれない。
そんなこともあって、峠の旧隧道の東側にもう1本存在していた今回の【第一隧道(仮称)】発見を、ずいぶん遅延させてきたように思う。


そんな私好みのドマイナー旧道の歴史を、ぜひ紐解いてみたいと思ったのだが……




 机上調査編  “旧道”の歴史を探るが、どこにも人の気配が、ない……?


現地調査によって、右図に示した位置に旧道を発見し、そこで2本の隧道と出会った。
立地的にこれが現在の国道465号の旧道にあたることは明らかだが、現道が国道に指定された平成5年よりも遙か前に役目を終えていた旧道であり、いつ、誰が、どのような経緯で整備した道であるかという旧道の素性については、現地調査で手掛かりがほとんど得られなかった。

唯一、発見された隧道の断面が明治期に整備された房総半島内の隧道でしばしば観察される五角形断面であったことから、同様に明治期の隧道であることは推測されたが、これについては探索前から明治39年の地形図に隧道が描かれていることを把握しており、新発見ではない。確認といった方が良いだろう。
他にも事前情報として、『道路トンネル大鑑』に掲載された現道の黄和田畑隧道のデータや、歴代地形図などもあったが、これらはレポートの冒頭で紹介済なので、ここで復習はしない。

探索後、旧道の素性を調べるための机上調査を行ったが、とても難航した。
そもそも、未だに“この道”とばかり呼んでいることからも察せられるかと思うが、この旧道の峠には固有名らしいものが見つからず、せいぜい現国道の隧道名である黄和田隧道があるが、その名前さえも現地には表示されていないために、一般に認知されているとは言いがたく、検索には使いづらい。

普通なら、「○○峠の旧道」というような表現でピンポイントに対象を絞り込めるだろうが、「黄和田隧道の旧道」というワードで世界を検索しても、せいぜい我々のような者の探索記録くらいしか見当らず、この旧道の素性に関する情報を得るには、もっと総当たり的に、面的に、様々な情報を探っていく必要があった。ゆえに時間と労力を要し、最終的に人の助けも借りた(後述)。
そのうえで、旧道について判明した情報は決して多くなかった。

それでは、机上調査編スタート。





『千葉県史 第1編 明治編』より

右図は、昭和37(1962)年に千葉県が発行した『千葉県史 第1編 明治編』に掲載されている、「明治初期の街道・支道と陸運会社設置箇所」の図である。
地名がある地点に、現在の郵便局に近い存在である陸運会社が設置されており、全国と結びついた国営的な運送業務を行っていた。
原図は「明治14年実測千葉県管内実測図」とのことだから、明治14(1881)年当時の県内の主要な道路網(逓送路)を網羅している。

一際太く描かれている実線は「街道」であり、半島内においては、海岸部を周回する現在の国道127号(房総街道)と128号(房総東街道)だけがそのように描かれている。
内陸部の道路は全て点線の「支道」とされている。

「支道」はそれなりに密に内陸部を縦横しているが、今回探索した区間に道はない。
今回探索した道をこの地図に当てはめれば、「蔵玉村」と「中野村」を最短距離で結ぶ位置なのだが、そこに道は描かれていない。
あくまでも道のありなしではなく、陸運業務に用いられるような幹線道路の有無を示す地図であるが、明治14年頃の整備状況を知る手掛かりにはなろう。

これとほぼ同じ時期に、現地を詳細に描いた“地形図以前の地図”が存在する。
これまでもいくつかのレポートで登場しているが、迅速測図という、明治13年から19年にかけて関東周辺など一部地域で整備が行われた2万分の1の大縮尺の地図である。
次はそれを見ていただく。



@
迅速測図
A
明治36(1903)年
B
地理院地図(現在)

@明治13〜19年に描かれた迅速測図と、すでにレポート冒頭で紹介したA明治36年地形図B地理院地図の3枚の地図を比較する。

@迅速測図に、今回の道は描かれていない。

だが、今回探索した道よりも北側で峠を越える別の道が描かれており(青線)、これは後の地形図からは完全に抹消された古道とみられる。特に路線名の注記はないが、当時制式されていた地図記号の「村道」として描かれていた。またこの道とは別に、今回探索した道により近い位置に、黄和田畑の村と石尊山の頂を結ぶ「騎小経」の記号もある(緑線)。こちらは一種の参道だろうか。

迅速測図は後の地形図と異なる図式(凡例)を持っており、道路については「国道・県道・里道・村道・騎小径・徒小径」という6段階の描き分けがあった。
明治9年の太政官布達によって、道路を「国道・県道・里道」という3種類に区分することが定められたが、村道以下はこれらの指定からは漏れた道であろう。その中でも重要と見られるものを地図執筆者(陸軍)の考えから区分して「村道」とし、そこから漏れた小径のうちさらに騎乗のまま通れるものと通れないものを区分したようである。したがって現在の道路法の道路種別としての「村道」とは無関係である。

@明治13〜19年頃には今回探索した道はまだ整備されておらず、近くに別の古道があったが、A明治36年までの間に、今回探索した道が隧道とともに整備されたと考えられる。

余談だがAの図の下の方の県道にも隧道が描かれている。これは“黄和田畑隧道”で、明治29(1896)年の完成後、改良を受けながら今なお県道81号の隧道として【活躍中】である。(訂正:数年前にルートが切り替わり廃止済)

なお、Aの図は今回探索した道を「里道(聯路)」かつ「荷車が通れない区間」として表現している。
「聯路(連路)」は、これも明治9年の太政官布達によって定められていた【里道1等】数区を貫通しあるいは工区より乙区に達するもの【里道2等】用水堤防牧畜鉱山製造所等のため該区人民の協議によりて特別に設けるもの【里道3等】神社仏閣及び田畑耕耘のために設けるものの区分のうち、里道2等に相当する道とされる。

ただしこの里道の区分は、実態としての道路整備にはあまり反映されなかったといわれる。というのも、里道の区分は明治9年当時施行されていた大区小区制を前提とした内容だったが、同制度は明治11年の郡区町村編制法によって廃止され、新たに “県>郡(区)>町村” という新たな地方自治の枠組みが作られたことで、道路についても実態上は事業主体別に “国道>県道>県郡費支弁里道>里道” の4種に区分されるようになっていった。
後者2つはともに里道であるが、県費や郡費によって補助(支弁)される重要な里道は、町村費だけで整備される里道と区別して、特別に県費支弁里道、郡費支弁里道あるいは、“枢要里道”と呼んだのである。

この“枢要里道”という言葉は、この後でまた出てくるので記憶しておいて欲しい。




『君津市史 通史編』より

平成13(2001)年に君津市が刊行した『君津市史 通史』から、いくつかの重要とみられる記述を見つけ出した。

右図は市域内にあった近世の主要な街道の位置を示したもので、久留里藩の城下町であった久留里を中心に、東西南北へ放射状の路線網が通じていた。
今回探索した場所に○印を付けたが、そこに道は描かれていない。描かれていないが、すぐ傍に「清澄道」がある。

清澄道は、久留里城下と太平洋岸の天津の湊を結んだ街道で、日蓮ゆかりの聖地である清澄山への参詣路として最も栄えた街道だった。黄和田畑村の隣の蔵玉村には藩の公道としての宿場も置かれていたという。
一連のルートを現在の道路に対照させると、国道410号、465号、県道81号を乗り継ぐ経路である。

この『市史』には、「房総半島を南北に貫く街道が政治の道で、東西に貫く街道は生活経済の道である」という至言もあった。
なるほど、半島の付け根にある千葉やその先の江戸(東京)との政治的繋がりから、河川に沿って南北に走る道が政治の道となる一方、山を越えて隣ムラ、そして海へ通じる東西方向の道は、炭や塩などの生活必需品を得るための暮らしの道であったのだろう。

ならばこそ、為政者による道路整備もまずは南北を優先したに違いなく、このことは現在の半島内の国道の路線網をみても、南北方向の路線(127号、128号、297号、410号)より東西方向の路線(409号、465号)が全般的に若いことから見て取れる。
今回探索した山の中の東西連絡道路が、半島道路網の中での重要度を認められるには、少しの時間を要したのである。



『君津市史 通史編』より

右図は、『市史』に掲載されていた「市域を通る県道・枢要里道一覧」だ。
典拠として、明治39年及び41年の『君津郡郡勢一覧』を挙げている。

これを見ると、現在の市域内に、明治39(1906)年時点で、県道が5路線、枢要里道が20路線あったことが分かる。
ちなみに県道の中にある「天津・久留里線」が、近世の「清澄道」である。明治末頃にはいち早く県道に昇格していたことが分かる。

注目すべきは、枢要里道の中にある(大)田代・黄和田畑線」だ。

黄和田畑は、今回の探索した旧道の西端にある君津市内の集落だ。(位置)
一方、田代ならぬ大田代(おおただい)は、大多喜町にある集落で、ここ(位置)にある。後で何度か出てくる小田代(こただい)もすぐ隣だ。

いずれも地名としてはそれなりに広い範囲があるので、厳密に両者を結ぶ経路は一つと定まらないが、圧倒的に今回探索した道である可能性大だと思う。そのうえ、路線の長さは1里となっているが、現在の国道465号の黄和田畑〜大田代間が約4kmであり、これも符合する。

この表を最初に見つけた当時、地図と地名を一つづつ対照させながら地道に調べたのだが、この15番目の「枢要里道 大田代・黄和田畑線」に行き当たったときには電撃が走った。
これだ! ついにあの旧隧道が建造された当時の路線名に辿り着いたぞ! と。
しかも年代的にも、明治36年の地形図に(建造に大きなコストを要する)隧道が描かれている道と、明治39年時点で里道の中でもより格上の枢要里道であった道は、綺麗に符合するように思われたのだ。

ここで一度は、やったぜ! ってなったんだけど、よくよく考えれば、ただ路線名が分かっただけなんだ。
最初はそれさえ分からなかったので、大きな前進であることは間違いないが、探索直後の2010年当時も、そしてこれを書いている2023年現在の今もなお、この「大(太)田代・黄和田畑線」という道路名で検索しても、どこも一つもヒットしない(涙)。まあ、このレポートを書いた後は1ヒットはするようになるだろうが…。
路線名が分かれば芋づる式にいろいろな情報に辿り着けると期待していたのに、そういうことはなかった。
明治期の枢要里道の一路線名はマイナー過ぎたのである。現代人がこれを知覚したこと自体が初めてのことかも知れない。市史の編集者だって、誤字っているくらいだから、多分詳しく見てないぜ…。

というわけで、その後いろいろな文献を千葉県内の図書館から当時の自宅の最寄りの日野市立図書館へ取り寄せて机上調査に邁進したのであったが、結局たいした成果が得られず、2年後の2012年10月、ついに自力の解決を断念し、千葉県立図書館のレファレンスサービスに調査依頼をすることにした。
それなりに長文を書いた調査依頼内容を一言にまとめた表題は、「国道465号の旧トンネルが建設された経緯を調べています」である。

2週間ほどで待望のご返答をいただいた。
そしてそこには、私が喉から手を出すほど(妖怪!)探し求めていた新情報がいくつもあった。さすがは調査のプロ!
ここからしばらくは、レファレンスで文献を紹介していただいた新情報をお伝えするぞ!




『大日本国誌 上総国 第1巻』より

『大日本国誌 上総国 第1巻』に、関係のありそうな内容があると教えて貰った。

明治政府が主体となって明治5(1872)年に編纂事業を始めた『皇国地誌』は、全国府県から提出された原稿を元に全国を網羅した地誌を整備する目論見だったが、明治17年に事業中止となり、刊行は「安房国」の1冊に終わったうえ、集められた原稿の大半は関東大震災で焼失したが、様々な事情から余所に移されて焼失を免れた原稿もあり、これを昭和時代にゆまに書房が復刻し刊行したものが、『大日本国誌』各巻である。
したがってその内容は、府県が明治10年代に調査して報告したものであり、これまで紹介した資料より少しだけ古い時期のものである。

うち本巻『大日本国誌 上総国 第1巻』は、旧上総国の区域内について千葉県が報告した一部であり、「道路 附橋梁・渡済」の章に、旧上総国内を通過する仮定県道と里道が列挙されている。なお、旧上総国内に国道はなく、仮定県道とは国の認定を受けない仮の県道である。県道の路線を国が認定する制度は旧道路法施行時まで名目だけで終わったので、それまで全ての県道は“仮定県道”だった。

仮定県道は全部で6路線(房総街道、房総東街道、房総中往還、上総中往還、茂原道、東金道)で、里道は27路線が列挙されている。そしてこの17路線目に、右画像の……「蔵玉ヨリ大多喜一宮道」があった。

続く解説によると、この道は望陀郡(後の君津郡)蔵玉村より大田代村(この間に「石尊山有り」との注記あり)、中野村、大多喜村、大上村を経て長柄郡一宮町に達する路線で、チェンジ後の画像として現在の地図上におおよそのルートを表示した。

この内容が収集された正確な期日は不明だが、前掲した迅速測図と同じか少し前の内容と見られる。
路線が黄和田畑村ではなく蔵玉村から始まっているのは謎だが、そこから大田代村へ出る区間は、おそらく迅速測図に描かれていた「古道」のルートだったと思う。大きな橋や隧道があるとその記載もされているが、本路線上には橋はあっても隧道の記述はない。このことからも、今回探索したルートが整備される前の内容だと判断出来る。



さらに、『千葉県報 明治42年10月』に含まれる「千葉県告示第三百一号」に次の内容があることを教わった。

市原郡明治村から高滝村、白鳥村を通って夷隅郡老川村、君津郡亀山村大字黄和田に至る道を仮定県道へ編入。

『千葉県報 明治42年10月』「千葉県告示第三百一号」より

市原郡明治村が、現在の市原市牛久周辺にあった。また同様に高滝村や白鳥村も現在の市原市内であり、養老川沿いである。そして夷隅郡老川村は現在の大多喜町の大田代周辺にあった。君津郡亀山村大字黄和田は現在の君津市黄和田畑と考えられる。
これらをまとめると、右図に示した長い経路が、明治42(1909)年10月に県道として千葉県の認定を受けたということだ。

おそらく、明治39(1906)年の時点で県道の1ランク下の枢要里道だった大田代〜黄和田畑間の道路(今回探索した区間を含む)が、さらに昇格して県道になったとみられる。
それも房総半島の中央部を南北に半分ほど貫く長い県道の一部となったのだ。
近世以前はあまり重要視されていなかった大田代と黄和田畑を結ぶ東西方向の山越え道が、『君津市史』が示唆していた“政治と結びついた南北方向の道路”に組み込まれたためなのか、俄然、成り上がり始めている感じがする。

枢要里道としてはわずか4kmだった道が、30kmを越える県道の一部に組み込まれただけでも大出世であろう。しかも、明治10年代には良くても里道か、あるいは里道でさえない道だったのだから…。

また、この県道昇格に関連して、千葉県議会史 第2巻には、明治40年12月18日の県議会で多数の枢要里道の県道編入に関する意見書が可決されており、その中に本路線が含まれていることを教えていただいた。
この資料については、現在では国会図書館デジタルコレクションで公開されているので確認したところ、「市原郡明治村地先八幡舞鶴間県道ヨリ分岐シ高瀧村里見村白鳥村夷隅郡老川村ヲ経テ安房郡天津町ニ至ル枢要里道ヲ県道ニ編入ノ件」を見つけた。
この時点では、終点は亀山村黄和田ではなく、さらに南下して安房郡天津町となっているが、亀山〜天津間は古くからの清澄道としてすでに県道の認定を受けており、そのため新たな認定は明治村から亀山村までの区間になったものと考えられる。


レファレンスでは、このほかにもいくつかの文献についてご教示いただいたが、重要な内容は以上である。
また、調べたが情報がなかった【文献のタイトル】『上総国町誌』『大多喜町交通小誌』『夷隅風土記』『千葉県史 明治編』『千葉県史 大正・昭和編』も教えていただいたが、そのうちのいくつかは私が既に空振りを演じていた資料だったので、本当におつかれさまでしたという気持ちになった。

こうしてプロの調査員の手によって、里道(明治10年代)→枢要里道(明治39年以前)→仮定県道(明治42年)と路線が昇格していったことが判明した。
だがその一方で、私が探索した隧道を含む、土木工事に関わる記述内容は全く見つからなかった。
これについては、明治36年の地形図に隧道が描かれているという事実を踏まえて、明治20〜30年代に枢要里道として君津郡や夷隅郡が郡費もしくは千葉県が県費の補助を与えたうえで整備したと推測することが現時点の精一杯である。

今後、新たな文献が発見されることを期待しよう。



一旦ここで区切ったが、この道の歴史は明治期に終わったわけではない。確実にその後の時代を生きている。
続いては、大正時代の物語だ。
これについては多少自分でも調べることが出来たが、レファレンスが次のことを教えてくれた。

『千葉県報 大正9年4月』に含まれる「千葉県告示第九十号」に、次の内容があるという。

府縣道ノ路線左ノ通認定ス

(中略)
十號 千葉天津線
 起點 千葉郡千葉町
 經過地 千葉北條線重用市原郡八幡町二於テ分岐同明治村同白鳥村夷隅郡老川村君津郡龜山村
 終點 安房郡天津町
(以下略)

『千葉県報 大正9年4月』「千葉県告示第九十号」より

これは、大正8(1919)年に公布され翌年施行された道路法(旧道路法)による最初の千葉県道の認定である。
このとき1号から143号までの路線が認定されており、第10号が県道千葉天津線だった。

右図を見てもらえば一目瞭然、超絶長い路線になった!

当時の中央集権的な路線認定手法もあって、起点は一気に県都千葉郡千葉町(市制施行は大正10年)となった。起点より市原郡八幡町(現在の市原市八幡)までの短距離は(当時の)県道6号千葉北条線と重複するが、そこから先は全て単独の路線(あるいは格下の路線の重複を受ける側)となって半島中央を南北に縦貫、太平洋岸の天津町へ至る、全長60km以上の長大な路線となった。

当時まだ半島内に国道はなく、二桁県道は事実上、半島内における道路網ヒエラルキーの頂点であった。
我らが黄和田隧道(旧隧道)は、この栄誉に浴したのである。
単純な格付けとしては現在の国道の方が上と思うかも知れないが、465号なんていう末席に近い国道なんかよりも、千葉県道10号千葉天津線は遙かに威光を放っていたはず、周辺村々へ向かって!

千葉方面から天津へ向かう経路としては、近世以前から久留里経由が主流であったが、この大正9(1920)年の県道認定によって、新たに市原経由のルートが重視されるようになった模様だ。
従来のルートも同時に県道久留里天津線として認定はされているものの、路線番号は遙かに遅い123号だ。
ただ、このときに、単純に久留里経由より市原経由が近いということ以外の逆転の理由があったかは定かでない。

千葉天津線
(中略)白鳥村より本郡に入り老川村葛藤小田代筒森の三部落を過ぎ君津郡に出づ本郡延長一里三十町なり。

県道千葉天津線という長い路線については、国会図書館デジタルコレクションを検索すれば上記の引用箇所を含め大小様々な文献がヒットする。
が、路線が長すぎるがゆえか、やはりここでも今回探索した区間に限定したような言及は、全く見つけられない。整備の記録がまるでない。
玄関口まで上がり込んで何度も戸を叩いているのに、中で誰も応えてくれないような悲しい手応えだ。

『千葉県統計書』大正9年版昭和15年版で千葉天津線の平均幅員を比較すると、2.5mから4.5mへ大幅に広がっているので、着実に道路整備が行われていたことは窺い知れるのであるが、個々の場面が描かれていないのは如何ともしがたい。
そして、このように情報を全く得られないうちに、『道路トンネル大鑑』が黄和田隧道の竣工年として記している昭和13年になってしまう。なってしまった。

全長のデータから考えて、『大鑑』にある黄和田隧道は2代目(現在使われている隧道)である。
この昭和13年という数字についても、未だに『大鑑』以外の傍証を一つも得られていないことは不服だが、おそらくこの時点で明治以来の初代隧道(2本)および一連の旧道は、石尊山への登山道や、炭焼窯の仕事道のような役割だけを残して、県道千葉天津線からは退いたと考えるべきだろう。

しかし、当時の道路の状況を知る手掛かりがここまで乏しいとは、本当に難航ムードだ。
もちろん、同年代同地域の別の道に関する言及から、この道のことを想像してみることは出来るのだが、出来れば当時のこの道に関する直接の記述を見つけ出したい…。


やっと一つだけ見つけ出した。
これは千葉県立図書館にも蔵書されていない資料だから、レファレンスでも判明しなかった。
国会図書館デジタルコレクションのデジタルデータが全文検索可能になったことで、探索から十何年も経った最近ようやく発見した文献だ。

日本山岳案内 第十集』は、鉄道省山岳部が昭和16(1941)年に発売した戦前の著名な登山ガイド書のシリーズで、本巻は房総と筑波周辺がテーマである。石尊山も採り上げられており、次のような記述がある。

(石尊山の)北方は黄和田畑部落から小田代部落に通ずる道があり、この道は石尊山と大福山に連なる山陵を横切っている。

『日本山岳案内 第十集』より

ここに言及されているのが、今回探索した旧道か、あるいはその新道として昭和13年に整備された道かということになる…。昭和16年が取材時期であれば後者と思われるが、取材は数年早い可能性も。……なんてことを考えながら続きを読んでいくと、はっきりした。


『日本山岳案内 第十集』より

亀山より黄和田畑を経て

両国駅―(房総西線廻り約1時間40分)―木更津駅(乗換)―(久留里線約1時間10分)―上総亀山駅―(30分)―折木沢―(20分)―蔵玉―(30分)―黄和田畑―(15分)―隧道―(約30分)―石尊山頂上 費用1円65銭(両国駅―上総亀山駅)

(中略)
黄和田畑部落の民家を外れて直ぐに三辻に出る。真直ぐに行くのは天津街道であって、左に入っていく一寸広い道は朝生原方面の養老川沿いの村落に至るものである。此処で左に折れて進む。この辺りから東南方には茅戸の山腹を距てて、中腹一帯が針葉樹林に覆われた石尊山を見る。窪地沿いの道で左に大福山から降って来る径を合わせて崖を過ぎると、隧道に出る。石尊山へはこの隧道入口の右手前についている径をとるのである。真直ぐに隧道を潜って行けば筒森部落を経て、小田代、朝生原に至るものである。(以下略)

『日本山岳案内 第十集』より

下線部分が、今回探索した旧道と重なる部分だ。その内容から、本の取材が行われた時点ではまだ新道に切り替わってはおらず、今回探索した峠の隧道も現役であったことが、「石尊山への登山道が隧道の前で右に分かれる」という記述の内容からはっきり分かる。
もっとも、取材時期が明確ではないので、『大鑑』が誤りであるという証拠にはならない。むしろなんとなくだが、取材が昭和13年以前だったという可能性の方が高い気はする。

一緒に掲載されている地図にも峠を貫く短い隧道が描かれているが、隧道を含む一連の道が登山道同然の点線で表現されているのは、あまり整備された道ではなかったということなのだろうか。路線名としては格上を手に入れた千葉天津線だが、やはり利用者の動向としては依然として、途中まで鉄道も利用できた久留里経由の久留里天津線が優勢だったということなのかもしれない。

ほかにもこのような登山ガイドの年式が微妙に異なるものを探して調査すれば、新道へ切り替わった時期を知る手掛かりが得られるかも知れないが、今のところこの1冊以外見つけられていない。
新道への切り替えという、道の歴史における最大のイベントに関わる発見があまりに乏しく悲しいが、次にこの道の歴史として見つけられる情報は、戦後、昭和27(1952)年に現行の道路法が施行された後のことだ。
しかもまた断片的な情報である。



昭和33(1958)年度に発行されたこの文献に、一般県道三島大多喜線という現在は存在しない道路名が記載されている。
そしてこの道こそが黄和田隧道(もちろん既に旧道ではなく現道だ)の新たな主になっていた。

昭和27年に現行の道路法が施行されると、直ちに全国の国道網が刷新された。続いて県道は、都道府県によって数年のズレがあるが、概ね昭和29年から34年の間に旧法時代の県道網が解体され新たな路線網を認定している。
千葉県もこの時期に県道の刷新が行われているが、大正9年以来の由緒ある県道千葉天津線と同様の経路を持った長大な路線は認定されなかった。
代わりに黄和田隧道の区間については、新設の(一)三島大多喜線に組み込まれたようである。これは当時の君津郡清和村三島と夷隅郡大多喜町を結ぶ新たな東西方向の路線だった。

この変化は、黄和田隧道がそれまでの南北方向の幹線道路から、東西方向の幹線道路へと立ち位置を変えた出来事のようにも捉えられるが、この県道時代に具体的にどのような整備を受けたかは情報がない。

そして昭和40(1965)年になって新たに認定されたのが、『大鑑』にて黄和田隧道の路線名として登場する主要地方道南総天津小湊線である。
市原郡南総町(牛久)を起点に天津町へ至る路線で、一度は廃止された府縣道千葉天津線の大部分が再び一般県道よりも格上の主要地方道として甦った形である。
このときに黄和田隧道は(一)三島大多喜線と(主)南総天津小湊線の重複区間となり、実質的に後者の区間となった。
なお、(主)南総天津小湊線は後に路線名のみ変更されて現行の(主)市原天津小湊線となるが、その時期は判明しなかった。

ところで、本編冒頭で紹介している『平成16年度道路施設現況調査』では、黄和田隧道は昭和49(1974)年に竣工したことになっている。
実際は、昭和13年竣工の現行隧道の拡幅整備がこのときに完成したものと解釈している。つまり昭和49年の再整備は、主要地方道時代の出来事となる。例によって具体的な整備の記録は皆無であるが……。

昭和40年以降の黄和田隧道は、主要地方道と一般県道が重複している区間であると同時に、東西方向と南北方向の幹線道路が共有することで、交通の要衝としての価値を一段と高めたと想像出来る。
しかし、なかなか大規模な改修が行わることはなかった。そのせいで、2023年現在においても黄和田隧道の前後では土砂崩れのような災害が多発しており、連続雨量150mmの事前通行規制区間にもなっている。酷道とまではいわないが、決して満足な水準で整備されているとはいいがたい。

ここまでの歴史を見る限り、特に軽んじられているようにも見えない黄和田隧道の区間の整備が、現代においていまひとつ進んでいない背景には、かつての千葉県の長期計画の挫折があるように思う。

上に掲載した3枚の地図は、いずれも『千葉県土木史』に掲載されていた、昭和48(1973)年、昭和61(1986)年、平成3(1991)年の長期計画における道路網計画だ。
いずれも「○印」の位置に今回の探索区間がある。

まず昭和48年の図だが、黒色は既存の主要な道路網を表わしており、黄和田隧道は千葉と天津を結ぶ重要な道路上にある。
注目すべきは、半島を横断するように整備が計画されていた房総スカイライン有料道路である。当初の計画では房総スカイラインは清澄山を横断し勝浦に達することになっていたが、実際は自然保護運動の高まりによって挫折した。実現していれば清澄山の山頂付近で現在の県道81号と交差することになっただろう。

次に昭和61年の図だが、房総スカイラインの東半分が挫折したことで、新たに鴨川有料道路を整備して鴨川と結ぶことになった。この変更により半島中南部を東西に横断する道路の計画はなくなり、その影響かは分からないが、黄和田隧道も重要な路線にあるものという認識ではなくなっている。

だが、平成3年の図になると一転して再び黄和田隧道を通る道が描かれている。
そしてこれが本計画の3年目にあたる平成5年に国道465号へ昇格した道路である。
当然、千葉県からの猛烈なプッシュがあってこそ、国道へ昇格出来たのである。

ここには示さなかったが、房総スカイラインの計画は昭和30年代の長期計画から既に現れており、千葉県にとっては長らくこれが半島中南部の横断道路の本命だった。
だがこれが予想外に挫折したことで、一時的に横断道路計画は手薄になった。それからようやく気持ちを切り替えて猛運動の末にやっと平成の世に生まれたのが、本邦屈指の継ぎ接ぎの国道465号である。


@
平成5(1993)年
A
昭和40(1965)年
B
昭和33(1958)年
C
大正9(1920)年
D
明治42(1909)年
E
明治39(1906)年
F
大日本国誌

黄和田隧道を語る上でのファイナルプレイヤー、満を持して登場する一般国道465号は、平成5年4月1日に誕生した。

総延長120kmあまりのうち、3分の1は既存の国道126号、国道127号、国道128号、国道297号、国道410号などとの重複区間であり、残り約80kmの実延長についても、(主)大多喜大原線、(主)大多喜君津線、(一)三島大多喜線、(主)市原天津小湊線、(主)君津丸山線、(主)君津天羽線、(主)木更津富津湊線という、7本の県道の一部ないし全部をつなぎ合わせて作られている。まるでフランケンシュタイン博士の怪物のような路線である。

この路線の整備は千葉県肝いりの「さわやかハートちば5ヶ年計画」の一つの目玉であり、どうにか国道の指定を受けることは漕ぎ着けたが、これだけ継ぎ接ぎされた路線に、例えば「○○街道」のような1本の道路としてのアイデンティティがあるはずもない。それはこれから長い年月を掛けて作り出していくものだろう。

右図は、ここまで取り上げた7世代の時層を切り替えて表示出来るようにしてある。
これだけ並ぶとなかなか壮観だ。まるで黄和田隧道を核として千葉県の道路網が変遷してきたような錯覚さえ覚えるが、もちろんそれは錯覚で、実際は逆で、むしろ翻弄されている。
それゆえ、時代によって東西の路線になったと思えば、南北の路線に鞍替えし、あるいはその両方を兼ねたりしている。
路線名だって何度も何度も変わっている。

こんなに安定しないから、隧道が整備された経緯なんていう本当は語り継いでいきたい話が、定着しなかったのかもしれない。
あるいは、私がただ振り回されただけで、ちゃんと調べるべきところにはまだ情報が残っていてくれると良いのだが…。
足かけ10年以上も調べ、複雑な路線の消長についてはレファレンスの手伝いもあってほぼ突き止めたものの、結局、隧道や道路に汗した人々の姿がまったくといって良いほど見えなかったところは、少しばかり異様な感じさえ覚えるのだが……、そろそろ終わりとしよう。


最後になったというか、ほんといい加減最後にするが、現在使われていてだいぶ老朽化が進んでいる黄和田隧道も、ようやく新世代の整備が近づいている。
千葉県は現在、筒森バイパスの整備を進めており、完成すれば黄和田隧道は新トンネルへ切り替わる。
2023年現在は、最終工区である黄和田隧道前後の整備が進められている模様であり、完成時期は明示されていないが、遠からず完成するだろう。
ちなみに筒森バイパスの事業着手は昭和54(1979)年とのことであるから、これも主要地方道時代からの長い宿題だった。