強引にイった!
新車、一発目の転落劇であった。
意外にこの落差は大きく、担いだまま下ろうとすると足元がおぼつかなかったのだ。許せ。
私は、林道の路肩下4mほどの廃道敷きへと着地。
いよいよ県道701号最後の区間が、最高の雰囲気で始まった!
道の作り自体は今までと大きく違わない。
あまり手入れのされていない印象の杉植林地の底に、浅い掘り割り道が続いている。
だが、そこには一切の轍、踏み跡も見られない。
林道によって寸断されたため、ここだけが人の目から遠ざかってしまったのだろう。
“走れる場所”に対しては貪欲なオフローダー達も、ここにはまだその毒牙を伸ばしてはいない。
地図にない道の面目躍如たる光景だ。
これでも、図面上では現役の県道701号なのである。
これが登りであったり、長距離が想定される場面であれば、こんなに楽しんでいられないだろうが、今回は気楽だ。
せいぜい500mも行けば、起点に辿り着けるハズ。
“忘れられた起点”へ続く“忘れられた区間”、その第一の反転カーブが現れた。
小さな沢に行く手を遮られ、やむなく切り返す感じである。
そして、カーブの先に…
切り返した先も、同じように林間の浅い掘り割り道が下っていた。
が、その傍らに…
!
なんて柔らかい景色なんだろうッ…
これはまさに街道の雰囲気だ。
現役の県道でありながら利用者皆無の現状は、“忘れられた街道”を現出せしめた。
県道701号、地味に美味しいぞッ。 癒されるぅ〜。
どう見ても、街道だ。
「街道調査報告書」持ってこい!! って感じである。
ところで、地元に詳しい読者さんからこんな情報をいただいた。
この県道の前身である「坂本道」の歴史はとても古く、表玄関となる子易口(現在の県道611号「大山板戸線」)が開ける前から大山参道として使われていた道だそうである。
また、その起点も秦野どころではなく、足柄峠を越えて遙か駿河の国にあったのだという。
歴史の中で利用度を徐々に減じてきたこの道の「指定区間」は、最初は県境(国境)を越えるほど長かったものが次第に短くなってきたのだと考えられる。
ただの石祠だ。
普通は路傍に見付けてもチラ見程度だが、廃道沿いにあると嬉しさが倍加する。
それが、この道の生きた時代を物語る、何よりも確かな痕跡だからだろう。
しかし、祠の正面はなぜか道路ではなく、谷の方を向いている。
また、隣にも祠の台石らしきものが残されている。
辺りが植林地であることを考えれば、一度は移設されているのだと考えた方が無難だろう。
また、こんな祠の多くには、“読むべき情報”があることを忘れてはならない。
一礼の後、跪く。
安政六未歳五月吉日
宮 ● 立
増田源之進
石工人 ●助
安政6年は、西暦1860年である。
歴史の教科書にある出来事としては、桜田門外の変で大老の井伊直弼が暗殺された年だ。
横畑や峠の近くにあった道標石が建立された文政5年(1822)からは40年近く経っている。
まさにどっぷり江戸時代に漬かった道だ。
県道としての記念物は何もないのに…。
【原寸大画像で解読する】
8:43 《現在地》
次の切り返しもまた平凡な植林地の一角であったが、一方は谷に面していて、そこから滝の音が聞こえている。
また、細いビニルパイプが何本も地面を這っている。
ビニルパイプの根元を辿っていくと…
小さな滝があって、見下ろす位置に水神の祠が。
ビニルパイプはみな、滝の上から引き込まれている。
その存在は、言うまでもなく麓の集落が近づいてきた証だ。
ところで…、滝と言えば何か思い出さない?
【峠の道標】
あそこには、この道の“行き先”として「大山 大瀧 道」と書かれていた。
その「大瀧」とは、この滝のことではないだろうかと思った。
数本の水パイプと一緒になって、いよいよ道はこの無名の沢の中へと入っていく。
この沢が鈴川にぶつかる地点が、目指す県道の起点。
あとは本当に僅かな距離だと思う。
道路状況も、水源管理の人がたまに入っているらしく幾分改善した。
しかし、車両の轍は全くない。
水パイプの一部が破損し、すごい勢いで水が噴き出している。
道もひたひたにされていて、いやーん。
そして、そのまま道も沢の中へ入ってしまうのかと思いきや…。
キタ――!
石垣だー!!
石垣が、上にも下にもあるぞナモシ。
全く原始的な、自然石の空積み石垣。
まるで馬車道さながらの道幅で勾配も緩やかだ。
おそらく、起点側からの車道化は、ここまでだったのだろう。
「いより峠」に対し、車道はほとんど太刀打ちが出来かったと思える短さだ。
それに、これは一体いつ頃の施工なんだろう…。
施工時期の分からないものとしては、さらにこんなモノが…
沢の対岸の大岩に穿たれた、栗の形の小さな祠。
苔の色合いが美しい。
家だー!!
橋だー!!!
沢沿いを下ること約150m。
石垣が現れて50m。
横畑集落を離れて以来、久々の民家が見えてきた。
それにしてもこの橋。
とてもクルマなど通れない木の板橋である。
幅も1mくらいしかない。
左から下りてきた舗装路が、最後に県道を乗っ取った。
振り返ると(↑)、確かにこれは分かりづらい入口。
そして、前方の明るいところをときおりクルマが通り抜けていく。
県道611号に違いない。
あそこが、県道701号の“幻の起点”ということだ!
ずらずらずらずらずらずらずらズラーッ
…っと並んでいるのは、講を作って大山詣でをした人々の寄進した碑・碑・碑!
碑が垣根を作っている!
そして、こんな重々しい垣根に囲まれているのは…
こんな古風な旅館!
「旅館大滝荘たけだ」の看板を掲げている。
また、「大滝」だ!
やっぱり、さっきの滝が大滝だったのだと、ますます確信を深くする。
それはそうと、今は旅館の顔をしているこの宿だが、昔は「宿坊」と呼ばれる参詣者のための宿だった。
各宿坊には「先導師」(御師)と呼ばれる主がいて、遠方から訪れた参詣者に宿を提供するとともに、寺院に通じ参詣の便宜を図ったという。
最盛期の江戸時代中期には、大山全山で160もの宿坊があったという。(現在は50ほど)
垣根に刻まれた参詣者の出身地を見ると、関東一円に及んでいる。
が、この宿に関しては特に、東京都北部の葛飾や埼玉県内の地名が目立つ。
また「□□市」と刻まれたものが少なくないことから、明治以降のものだということも分かる。
8:53 《現在地》
旅館大滝荘の玄関前がある南面を県道701号が通り、東面を現代の大山街道である県道611号が通る。
すなわち、この大滝荘の角が両県道の交差点で、海抜220mの県道701号起点である。
見たかった場所に辿り着いた。
そこには信号も青看も無く、交差点というよりは旅館の入口に過ぎない感じだ。
しかし、右にも左にも行けるようなロータリー形状になっていて、少なからずかつての賑わいを連想させるではないか。
期待したとおりの… イイ感じだ。
県道611号側から見た交差点。
やはり県道701号の存在を示すものは、何も見あたらない。
しかし、間違いなくここが起点である。
また、手前の橋は霞橋という橋だが、銘板から沢の名前は分からなかった。
狭い“ロータリー”の部分にも、背中合わせで2枚の記念碑が安置されている。
そのうちこれは「登山参拾度」の碑。
昔の日本人は、他に行楽先があまりなかった事もあるが、本当に信心深かった。
裏側の碑もやはり度重なる参詣を記念する碑であった。
そして、最後に車と垣根の間の狭いところで見付けた石碑が、この県道探索の締めくくりとなった。
左右の画像は同じ石碑の正面と側面である。
(←)
県道711号に面する正面には、「身禊大瀧」の文字。
やはり、下ってくる途中で見た滝が「大瀧」なのだ。
参詣者は入山する前に身を清めるため禊(みそ)ぎを行う習わしがあったが、それをこの滝で行ったのだろう。
今日では県道とともに忘れられつつある滝だが、かつては重要な信仰の場だったのだと思う。
(→)
そして県道611号に面する側には、「是より小田原」の文字が刻まれていた。
この場所が古くからの分岐であった証拠に、大満足。
自動車の通れぬ“無能県道”大山秦野線の正体は、
江戸時代さながらの風景が今に残る、希有なる県道だった。