探索の結果、長浜側の大黒根トンネルだけでなく、返浜側にも不自然な築堤末端部を発見したことによって、大黒根トンネル東口から返浜までの約500m未成区間とする一連の道路計画がかつて存在し、その工事が両側から進められていたことが確信出来た。
今度は机上調査による素性解明が命題となったが、『神津島村史』(平成10年/神津島村)を探して読んでみたら大変な収穫があった。
本頁の締めくくりとして、村史の記述を引用しつつ未成道出現の流れを追い掛けてみることにしよう。
その前にひとつ。
現地調査ではいまいち解明しなかった、島の都道「長浜多幸線」の起点がどこだったかという問題の答え。
一部の道路地図は道路の末端(大黒根トンネル東口)が都道起点であるかのように描いているが、実際は路線名の通り神津島村大字長浜、すなわち長浜海水浴場のこの標識の所が正式な起点である。
今回探索した赤崎トンネルや大黒根トンネルは都道ではなかった。
それでは未成道の話しを続ける。
まず右の地図を見て頂きたい。
これは昭和47年以前の島北部の道路網を大まかに図示している。
当時は都道の起点の長浜が海岸沿い道路の終点であり、返浜はおろか、長浜や名組湾へさえ車で行くことは出来なかった。
しかし、内陸部には林道天上山線の建設が、着々と進められていた。
少々意外だが、神津島の道路は海岸沿いより山間部の整備が先行していたようである。
内陸の林道天上山線から返浜への道路工事が開始されたのは昭和47年のことで、当初は林道返浜線として進められた。
本路線は昭和四七年に林道天井山線土橋付近を起点に返浜に向け着工した。
当初はコンクリート要の海浜砂を採取する目的でもあったが、調査の結果採掘量が予想外に少なく、また、海浜砂のため貝殻等の不純物が多くコンクリート用には利用出来ない事が判明した。
おい! そう思わず計画者(神津島村)にツッコミを入れたくなる迂闊さである。
未成道になるような迂闊な道は、やっぱり最初から何か“ケチ”がついていたのだと、妙に納得…。
これで敢えなく道路計画は中止かと思いきや、話しはまだ始まったばかり。
このため事業の継続について検討されたが、折からの離島ブームにより観光客の増加があり、利用目的の見直しがされ、観光、漁業の振興を図ると言う目的で事業を進めることとなった。
やっちまったパターンの大定番、事業目的の見直しが発動した。
これで林道返浜線の建設は続行され、昭和56年に返浜海岸まで1.3kmが全通したという。
事業目的の変更はあったものの、これで当初の計画は完結したと思われたが、まだ続く。
細かい経緯は不明だが、事業目的変更の過程で、林道返浜線は村道とりが沢線となり、終点は従来の返浜ではなく、都道の起点である長浜へと変更されていたのである。
そのため返浜で工事は終了せず、さらに長浜へ向けた海岸道路の建設が進められたのだった。
が、すぐに問題にぶち当たる。
返浜海岸まで整備されたが、その先が波浪の影響により海岸線の地形が変化して、事業の進捗が困難となり――
ほらー。やっぱりあの波はヤバかったんだ……。
そもそも、「波浪の影響により海岸線が変化」という理由を書いているが、波の激しい海岸線であることは建設前から分かりそうなものだ。
これで今度こそ計画を断念するのかと思いきや(村史の記述を全てとするならば、驚くべきことにこの地形の問題の解決を先送りにしたままで)…
――工事の施工を終点の長浜海岸から工事を進めて行く事となった。
おいおいおい!!!
なお、村史が編纂されている平成8〜10年頃は工事も順調に進んでいたらしく、その進捗を次のように書いている。
この工事の特色は、神津島では従来不可能とされていた隧道工事が最新の技術が導入されて既に三か所完成したことと、風光明媚な海岸沿いに遊歩道や休憩施設が設けられ、観光的にも好評を得ている。
この完成した3本の隧道とは、一連のレポートに登場した錆崎、赤崎、大黒根トンネルのことであり(錆崎トンネルは村道とりが沢線ではないが、一連の事業として村道海岸線も建設された模様)、島にとってのトンネル工事がビッグエポックであったことが窺える記述となっている。
また「遊歩道や休憩施設」というのは、赤崎海岸遊歩道のことであろう。 …返浜にもトイレがあった。
ここまでの村史の記述を見る限り、どうしても場当たり的な計画という印象は持ってしまうのだが、この話は次のように結ばれている。
その後、林道天上山線沿線にゴミ焼却場、火葬場、し尿捨て場、不燃ゴミ最終処分場等の生活関連施設が整備されたが、林道天上山線は頻発する地震や台風による被害を受け、車輌の通行が度々不能となり、住民生活に多大な影響を及ぼすことになるため、この路線のバイパス道路として村道とりが沢線の完成が急がれている。
行き止まりの一本道よりも、リダンダンシー(代替性)がある環状線が望ましいという訳である。これは確かに的を射ている。
そもそも、島の閉鎖的で絶対的に限られた土地を最大限に有効活用しなければ、本土との経済的関係(過疎問題)の中に島の未来は描き出しにくいというような、危機感に根ざした開発への意気込みが感じられるのは確かで、そこは共感出来る。
…というか、私は全面的に島の味方です。こんなに私を楽しませてくれるんだものね。
村史の記述はこれで終わりで、平成10年に大黒根トンネルが完成した後、現在の未成区間が未成である理由は語られていない。
単純に、「波浪の影響」という問題が(技術的および財政的要因から)解決出来なかったからとも考えられるが、もっと大きな原因があったようだ。
アジア航測(株)のサイトに、平成12年に撮影された未成道の画像があるという情報を読者さまから頂戴した。
次の画像がそれである(許諾を得て転載)。
この画像はアジア航測(株)の許諾を得て転載。説明のため一部加工済み。
引用元:【アジア航測サイト 「平成12年(2000年)神津島・新島地震」災害状況(2000年6月)(撮影番号-5)】
キャプションは以下の通り。
神戸山溶岩ドーム北斜面の崩壊。神津島の北端に位置する神戸山は、標高269mのほぼ円形をなす溶岩ドームである。北斜面には、複数の崩壊があり、周回道路は写真右端のトンネル出口が終点となっていた。今回、いくつかの地点で、新たな崩壊があったようにみえる。
この写真は、神津島・新島地震が発生した3日後の平成12年7月3日に撮影されたもので、今回探索した大黒根トンネル東口の地震直後の状況が写し出されている。
これを見る限り工事はトンネルでスパッと終わっていた訳ではなく、その先にも50mくらい路盤があったようだ。
現状では土砂に埋もれ、草が育ち、ほとんど跡形も無いが、落石防止ネットだけは現存している。
また、現場に工事車両のようなものが見られないので、被災時点で工事は休止していたのかもしれない。
しかし、本当にこの神戸山の下は落石多発地帯であったようだ。
というのも、写真の中の崩壊が全部地震で発生したものならば、もう少し海岸線に地表からはぎ取られた倒木などが転がっているはずだが、それが見られない。
つまり、もともとここには幾筋ものガレ場があって、地震ではそれが更に崩れたのだと思われる。
“敵”は海の波だけでなく、山の崩れもあったわけで、ここに道路を敷設するのは生半可な事ではないだろう。
そんな予測された難工事を、おそらくは村単独の村道開設事業で進めていた…進めようとしたのだから、本当に剛毅である。
なお、言うまでもないかもしれないが、この平成12年神津島・新島地震とは、あの新島の都道を壊滅させた地震である。
本土では数ヶ月後に発生した三宅島噴火のニュースに押しやられてさほど長期間報道された記憶がないが、神津島村での震度は6弱という激しいもので、新島と同様に島内全土で土砂崩れが多発したほか村民1名が犠牲になっている。
今回、島を探索中に地震の事を意識することはあまりなく、道路の復旧も既に終わっていると感じたのだが、それはあくまで使われている道路の話しだった。
震災当時に建設途上であった道路は、ご覧の有り様だったのだ。
結論、大黒根トンネル東口附近の大崩壊は、平成12年の地震によるものと考えられる。
しかし10年以上経って未だ復旧がされていないのは、直しても工事を再開する目処が立たないからなのだろうか。
この500mの未成道の整備は、今後再開されるのだろうか。
個人的には、新品のまま使われていない大黒根トンネルの照明が可哀想すぎるので、村に頑張って貰いたいところだが…。
引き続き島の動きを注意深く見守っていきたいと思う。