道路レポート 梓湖に沈んだ前川渡 (長野県道乗鞍岳線旧道) 後編

公開日 2016.8.12
探索日 2008.9.09
所在地 長野県松本市

往く果て知れぬ湖底の廃隧道へ…


2008/9/9 8:46

渇水によって干上がった湖底で偶然にも見つけてしまった、おそらくは発電用導水路とみられる廃隧道。穴を見つけると覗かずにはいられない私は、いくつかの障害を乗り越えて入口に立ってしまったが、今はそこで足が止まっている。
これは、このまま進んでいいものだろうか?

水路隧道というのは、とにかく通常の道路や鉄道用の隧道とは一線を画するレベルで長いことが多い。おそらくこの水路は戦前に建設されたものだと思うが、そのような古い時期でも、水路隧道には数キロを越えるものがざらにあった。
この隧道についても、どこへ通じているのかも、その長さも、皆目見当が付かない。

過去の経験を振り返ってみれば、廃止された発電用導水路の隧道探索は、岩手県でやった覚えがある(和賀計画第1次探索/同第2次探索)が、あれもかなり長くて大変だった。あのときもダムの建設で水没し廃止された発電所の導水路だったが、水没区域外に残った坑口から内部を探索したのであって、今回は湖底にあった坑口に潜り込もうとしている点で大きく異なっている。今回の方が、状況はより不確定であろう。



右図は坑口周辺の地形図だ。GPSで位置を測定したのでかなり正確なはずだ。

果たしてこの水路隧道は、どこへ通じているのだろうか?
どこかにあった発電所に向かって徐々に下降していくものと推測されるが、現在の地図だと近隣にそれらしい発電所は描かれていないし(←これは当然だ。おそらく奈川渡ダムに沈んでいるのだろうから)、発電所があったような場所も私は知らない。

そもそも、奈川渡ダムが形作る巨大な梓湖の北岸(左岸)には国道が通じているが、現在地を含む南岸(右岸)には全く道が存在しないし、左岸の国道もトンネルばかりで視界がほぼ皆無だ。それゆえに梓湖南岸の情報は圧倒的に不足している。地形図には送電線の記号が2本ほど右岸を通っており、これらの管理用通路くらいはどこかにあるのだろうが、私は見たことも無いし、満水位以下にある本隧道とは基本的に関わりが無いだろう。これも頼りには出来ない。

う〜ん…。
入って行く先を確かめなければならない気はするし、中が気になるのは間違いないのだが、坑口に風が全くないので、高確率でどこにも繋がっていない閉塞隧道だと思うんだよなぁ…。
坑口の風というのは本当に正直で、野外が限りなく無風に近い状況でも、貫通さえしていれば多少の空気の流れを感じる事が出来るものだ。(閉塞していても洞内外の温度差から空気の流れを感じることはある。)

しかも、普段は湖底にあるせいか洞床に濡れた泥が堆積していて、もろに澱んでいるイメージが…。
過去の隧道探索で酸欠の危険を感じた体験はないが、むしろ体験した時にはアウトっぽいし、過去に体験していない危機がどこかにあるとしたら、それは過去に体験していないこの手の閉塞長大水路隧道がヤバいんじゃないかという気がする。ここに風さえあったら、こう怖じ気づきはしないんだが…。
そもそも万が一があったとして、道路でも鉄道でもない水路で散るのは悔しすぎる…。



…なんていうことをウダウダとしばらく考えていたが、結局は行くも引き返すのも決めるのは自分であり、一旦決めた通りにしなければならない決まりもないという「当たり前」のことに気付いたので、とりあえず様子見で少し入ってみることにした。行けるところまでは何が何でも行く!…なんてことを今回は言わない。

写真(←)は、どうやっても暗すぎて仕方ない洞内を画像処理で無理矢理明るくして表示したものだ。
肉眼だともっと暗くにしか見えなかったが、それでも現在地(坑口)の30mくらい先で左にカーブしていることは、辛うじて見えた。
まず最初の目的地は、あのカーブだ。
曲がったら案外ひょっこりと出口が見えたり… は、多分しないだろうけど…。

なお、隧道の断面は、見ての通り真円ではない。前川を渡る鉄管は真円形だったが、隧道はそうなっていない。普通のトンネルと同じような馬蹄形の断面に見える。通常の山岳工法で掘削されたのだろう。サイズは目測だが、高さ3m幅2.5m程度で、林鉄以上に小さい。また、水路隧道であれば下側もアーチを延長したインバートという構造で巻き立てられているはずだが、一面に泥が堆積しているので観察出来なかった。




ててて撤収〜!!

唐突だが、進行不可能な事態になった!! これは断念だ!

何が起きたかは、泥に埋もれかけたこの長靴が物語っている。

長靴“だけ”が、そこに埋まっていると言うことは――。



いや〜、ヤバかった。
未体験の危機を感じて焦りまくった。
こんな人知れぬ、得体も知れぬ地下で、私の身に起きた次のような出来事を想像して欲しい。

坑口から20mほど進んだ地点で、突然私の左足がスボーーッ!! と沈み込んだ。
慌ててその足を抜こうとしたら、長靴だけがスポンと抜けてしまい、左足は靴下の状態で泥の中へ着地した。
当然、その足も長靴と同じくらいまで深く沈み込んでしまい、じんわり来た…。でもそれどころではなかった。咄嗟に上半身をひねって振り返り、長靴を両手で掴んで手で引っこ抜こうとすれば、これがなかなか抜けやがらねぇ!ジュポジュポいいやがるだけ。しかも、間髪入れずに両足はさらに深く泥へと沈みはじめた。最初は20cmも沈めばインバート(泥の底のコンクリートの外壁)に足が付くと考えていたが、一向にそうなる気配が無い。想像以上に泥は深かったのである!
この瞬間、私の中に赤信号が点灯。
このままモタモタしていたら、沈みすぎて脱出不可能になるかも知れないという“恐怖”を感じた。ここは電話で救援を呼べる可能性が絶無だし、地力で脱出出来なくなったら溺死か衰弱死するしかないのかと思うとゾッとした。

わたしは慌てながらも、自ら四つん這いの体勢になった。泥にかかる体重を分散させることで、沈み込みを止めようと思った。これが功を奏し、私は移動の自由を回復したのである。このときに長靴もどうにか回収出来た。
だが、代償は両手両足泥まみれという、かなり悲しい現実であった。

やはり、水路のような得体の知れない。
そもそも人が通る為に作ったわけではない隧道に、中途半端な気持ちで潜るべきでは無かったのだ!
完全に臆病風に吹かれたくさいが、私はもう未練も何も感じる間もなく、一目散で引き返した。

……隧道がどこに通じていたかの答え合わせは、机上調査でなんとかしよう。




これは直前、ズボッと嵌まり込む数歩前に撮影していた、“最奥”の写真だ。

このすぐ先から左カーブが始まっているのだが、ほぼ同時に洞床に水面が現れ始めていた。
だから私も嫌な予感はしていたのだが、水面が始まる前から突如著しく泥が緩くなり、おそらく底なし沼に近いような状況になっていたのだ。

水路隧道だから洞床は平らではなく、中央部がより深くなっているだろうことを想定はしていた。
だから中央部ではなく、やや左の壁に近いところを進んでいたのだが、それでも想像以上の深さであった。戻りに通った壁際でさえ、足が固い底に着いた感触は一度も無かった。

仮に、私の装備が小さなスキー板のようなものであったとしたら、泥に嵌まらずさらに奥へ進めただろうが、水路はこの先徐々に下って行くので、おそらく先は排出も蒸発もしていない湖水で水没しているか、閉塞壁が現れる可能性が高いだろう。命を差し出したとしても、この方法で水路の行方を確かめることはきっと難しい。 撤収!




8:55 やっぱり地上は最高だ!!(ここも湖底だけどね)
僅か20mくらいしか探索出来なかった水路隧道だが、
逡巡や四苦八苦があったお陰で、洞内に10分近くは居た。

この私をワルニャらせた中途半端な鉄格子が、水没時に封鎖を目的に設けられたのか、
現役時代から大きな流木などが水路に入り込まないようあったものなのかは不明だが、
いずれにしても、鉄格子などという禍々しいものに塞がれた隧道は、内部も禍々しい。

渇水時でさえも対岸道路などからは一切見えず(トンネルのため)、存在自体がマイナーで、
一年のうちの結構な期間を完全に水没して過ごし、あまつさえ水位が下がって地上に現れても、
今回ほど大きく下がらなければ船以外で訪れられなさそうな、猛烈なアクセス性の悪さである。
これは“幻の隧道”と言ってもよい存在だろう。内部探索は散々だったが、発見自体はとても嬉しい!



支流、小大野川筋での探索と帰路


皆さまはお忘れではないだろうか?
私は、忘れてはいないぞ。
今回の探索の本来の目的が、水没した旧県道の探索だったということを。
だが、それはあっけなくぶ厚い堆砂の下へ消えてしまい、その先はもはや水位を問わず確認が不可能であることが明らかになってしまった。
こうなってしまっては、もはやこれ以上探索を続ける意義は薄い。

ただ、来た道をただ戻るのは能が無いと思ったので、水路隧道のさらに200mほど下流で前川に合流してくる小大野川を経由して現県道へ戻る事にした。

左の写真は小大野川の合流地点付近の景色だ。この辺りまで完全に湖底が露出していた。
さらに400mほどで梓川との合流地点で、そこには冒頭に登場した前川渡大橋も見えているが、この日のバックウォーターはあの辺まで後退していた。



前川と小大野川の合流地点に到達。
周辺は相変わらず一面の砂利の海であり、本来の谷底がどれほど深いものか想像が付かない。
旧県道も、この砂利の底のどこかで小大野川を橋で渡っていたはずだが、もちろん痕跡は見あたらない。

それはそうと、ダムの湛水開始は昭和43(1968)年か44年だと思うが、以来40年を経過してなお結構な数の立ち枯れ木が残っていたことに私は驚いた。
こうした湖の立ち枯れ木の景色は、上高地の大正池を代表する景観として著名であるが、それも近年ではだいぶ数を減らしている。
大正池の場合、大正4(1915)年の焼岳の噴火で梓川の上流が堰き止められて誕生した自然湖なので、人造湖である梓湖とは成因が異なるが、水没により発生した立ち枯れ木が残存する期間は、地上に暮らす我々が思う以上に長く、他の災害などが無ければ4〜50年は平気で耐えるようである。



さて、ここからは小大野川筋での帰路!


9:02 《現在地》

小大野川の谷に入るとすぐに、満水時には小さな島となって湖上に浮かぶに違いない“絵”になる岩山と共に、
大きな鉄管水路を背後に背負った建物が現れた。これは現行地形図に「発電所等」の記号と共に描かれている施設である。

ほんの少し前にすぐ隣の前川では、水没によって廃止された発電所の関連施設跡(水路)を目にしたばかりだが、
こちらの小大野川には、今でも稼動し続けている発電所が存在していたのである。

だが、この施設の姿を間近で見た私は驚いた!




←見てくれ、この姿を !!

"頑張ってる" と思わないか?

私は基本的に建造物や廃墟の愛好家ではないが、廃道や廃線と同じ産業用遺産として地域の社会に貢献してきた発電施設などの産業廃墟には、大いに通じ合うものを感じている。
この目の前にある発電所の建物は、まさにそうであった。超絶に心惹かれるものがあったのだ!

私が一人で盛り上がっていても仕方ないので、写真では分かりにくいかも知れない説明をする。
この遠目にも現役の施設であることが分かった発電所だが、実際に湖底側から近付いてから見ると、なんと、その“現役”の建物の下に、2階建ての旧発電所と思しき大きな廃墟を持っていたのだ!

廃墟部分はダムの水位次第で水没するのであり、窓は全てコンクリートブロックで封印され、1階にある唯一の出入口も2度と開かなそうな鉄扉が閉ざされていた。
廃墟の内部がどのようになっているのかは全く窺い知ることが出来ないが、このような水没した旧発電所の廃墟を土台として、その上に新たな発電所の建屋を設けて運用しているというのは、初めて目にするものだった。



単に水没した廃墟を見る以上に、この生と死が隣り合って存在する姿には衝撃を受けた!

さらに上流側に回り込んで見ると、廃墟と化した旧発電所の建屋の隣にも、同じ時代に作られただろう石造りの余水吐き水路があり、現に大量の水を排水していた。
明らかに水没する高さだが、発電所の排水施設としての機能を現在も維持しているようである。

私はこの探索中に施設の名を知ることはなかったが、後日調べてみたところ、これは東京電力の前川発電所というらしい。
同じ東京電力による奈川渡ダムの建設に伴い僅かに移転したが、水没前と同じ導水路の水を利用して発電を続けている。良い意味で、しぶとい!

このように前川発電所は現役施設であるから、ネットを検索すれば、いくつかの写真を見ることが出来る。だが、どれも現県道から施設を見下ろして撮影したものばかりで(現県道は右の写真にも施設の背後に写っている)、とてもその建屋が乗っている土台が旧発電所の廃墟のようには見えないのである。
ここには湖底側から訪れなければ決して分からない、前川発電所の“秘密”の姿があった!!

そして、さらに発見は連鎖した!



←左に!

右に!→

またしても
廃隧道の坑口
同時出現 !!

まただよ〜〜。小大野川にもあった。
梓湖の水面下には、一体どれだけの水路隧道が沈んでいるんだろう……。




新たに発見された坑門も、二つセットで小大野川の両岸に対面していた。
もちろん、両者の間には川を渡る水路橋が存在し、現在もその痕跡が堆積した土砂に半ば埋もれながら残っていた。
こちらの水路橋の構造は、鉄管水路橋だった前川のものとは異なり、コンクリートの開渠をそのまま川の上に架け渡していたようだ。

こうして前川のみならず、その支流である小大野川にも隧道や水路橋が発見された事で、従来私が考えていた地下水路“網”のルートも再考を余儀なくされた。
従来は「取水堰」→「前川水路橋」→「???(どこかの発電所)」というルートを想定していたが、これと合流するもう1本の新たなルートが考えられるようになった。
それはおそらく、現在は前川発電所のタービンを回した後に全量が小大野川に棄てられている排水の一部をさらに下流の発電所へ導くという、「前川発電所→小大野川水路橋→前川水路橋→???(どこかの発電所)」という、多段式水路発電所の姿を想像させるものだった。こうして多くの水源から導水することで水量を一定に保とうとするのは水路式発電のセオリーであり、この水量の恒常性をさらに追求したものが、水を溜めて利用するダム式発電なのである。使える水は親の死に水でも使えという貪欲さが、水路式発電だ。

なお正確に調べたわけではないが、小大野川と前川にある水路橋や隧道の標高は同じだと思う。共通する喫水線までの高さの差から、そのように推定された。前者の方が河床に近いように見えるのは、前者の河川の勾配がより大きいためだろう。



←左岸の坑門には、アーチを象った模様が存在しており、これは前川に面する坑門には見られなかった意匠である。
人目に触れる可能性がより高いと判断された故の意匠かもしれない。
それ以外のデザイン、例えば笠石の形などには違いは見られない。おそらく坑道のサイズも同じだろう。

現在も僅かながら開口しており、無理矢理身を捻って入れないでもなかったが、すぐ手前を流れている前川の水面より洞床が低い状況なので、内部を見るまでも無いと判断した。というか、もう水路隧道は懲り懲りだ(さっきのは地味に堪えてる)。

→対して右岸の坑門はほとんど土砂に埋没しており、開口していない。
もしここから内部に入れれば、推定200m弱で、先ほどは辿り着けなかった前川左岸の坑門に出られると思う。
このくらいの長さならば入っても良いと思えるが、残念ながら開口無し。

また、こちらの坑門前には長い開渠の痕跡が残っているが、川を横断する部分だけは水没前に撤去されたようで、途中でなくなっていた。



9:10 《現在地》

前川発電所や水路橋があった場所から、砂利の川原を300mほど遡って行くと、難なく現県道の橋を潜る場所に辿り着いた。

橋はそれなりに高く、道無き斜面を攀じ登って道路へ出るのに少し苦労したが、特筆するほどではない。

辿り着いた県道の橋の袂には親柱があったが、なぜか銘板が存在せず、橋名は分からず仕舞いだった。いずれにせよ奈川渡ダムに伴う付替県道であるから、前後のトンネルと同じ昭和44(1969)年の開通である。

こうして、旧県道の探索から始まったはずだった、一連の発電施設遺構群の探索は、無事に完了した。
なお、私を退けた水路隧道の気になる行く先は、帰宅後の調査で明らかになった。