ここからは歴史解説編と銘打って、衝撃的な終末に彩られた「三原山ドライブウェイ」という道の誕生から引退、そして現在に至る経歴を紹介しよう。
なお、本項執筆にあたっては、本文中にタイトルを明示した資料の他にもいくつかの文献・資料を参考にした。それらをまとめて文末に掲げた。→「参考文献」
(1)三原山観光の隆興と、ドライブウェイの誕生
なぜ、三原山には登山道路(ドライブウェイを含む)が存在しているのだろうか?
「そこに山があるから」という回答は素敵だが、最も人口が多かった時期でも1万人と少し(現在は8000人台であるが)に過ぎなかった離島に、山登りの“有料道路”が存在していたということは、全国の他の多くの離島の常識と比較してみても、特殊な事情があったと考えるべきだろう。
ソレハナニカ。
平成12(2000)年に出版された『大島町史 通史編』にある次の文章が、その答えと考える。
古来島人は噴火を神霊視して神火と称し、火口を御洞といった。御洞(みほら)が転化して三原と呼ばれるに至った(中略)
噴火は、まさに島民に苦難を強いたが、その一方で大島が観光地として脚光を浴びるようになって以来、三原山への登山が最大の観光目的の一つであったことは疑うべくもない。
この国に住む者であれば、人生の間に平均1回以上はこの山の噴火のニュースに触れる。そんな風にして、図らずも存在感を誇示し続けてきたのが三原山である。
だが、ここは離島である。まずは外の人間が計画的に島を訪れることができる、そんな定期航路の整備が、観光の最初の条件だった。
明治40(1907)年に成った東海汽船(株)の大島定期航路開設は、大正から昭和初期にかけて、多くの文人墨客や歌い手を、神火の灯るこの島へと導いた。明治45年から大正期にかけては噴火活動も活発で、彼らのクリエイティビティを刺激したのであろうか。やがて彼らの優れた作品は全国に拡散し、それを携えた多くの人々を島へ連れ帰るようになった。
昭和8(1933)年には、島民の思いがけない形で、三原山の名がブームになった。実践女学校生が1月と2月に相次いで三原山の火口に投身自殺を図り、2件に同じ同級生が立会ったことでセンセーショナルに報道された。この年だけで129人が後を追って火口へ消えた。
大島への観光客は増え続け、昭和3年頃は年間2〜3万人であったものが、この年には20万人に迫る勢いとなった。
大島に観光協会が設立されたのも、この年である。
右図は、明治29(1896)年と昭和9(1934)年の地形図を比較している。
前者は島が離島であり孤島であった時代の風景だ。観光施設といえるものはまだ無く、島民が信仰や薪拾いのために歩いた「旧登山道」が、各集落から山上を目指すのみである。
しかし、38年後を描いた後者では、一気に“道路”が出来ている。後の都道大島循環線(大島一周道路)や都道大島公園線(三原山登山道路)の一部が既に見える。島には昭和4(1929)年に初めて自動車が導入され、元町〜岡田間を通ったという。
また、外輪山上には「御神火茶屋」が出来ている。これは昭和3年に観光拠点として整備された施設で、現在も同じ位置に存在している。
昭和の初期、来島者の多くは三原山への登山が主目的で、旧道をのぼり途中の茶屋で大島の情緒を味わい、三原山の火口近くで火山の息吹を堪能して下山するのが一般的な日帰り観光客のコースであった。
この『大島町史 通史編』の記述のように、元来は徒歩によって極めるよりなかった三原山であるが、観光客の大量流入によってモータリゼーションが急速に進む事となった。同町史の次の記述は、三原山ドライブウェイの曙光を告げる内容である。
昭和九年には大野重治が出願したことがさきがけとなり、湯場―御神火茶屋間の自動車専用道路、同十年には大島観光事業(株)が島内のバス、トラックの運行を開始、昭和二十三年には東海汽船が大島開発を吸収合併して、島内のバス、ハイヤー、トラックを一元的に経営するに至った。
昭和9(1934)年に、大野重治という人物が、湯場〜御神火茶屋間の自動車専用道路の出願をしたという内容である。(昭和8年に自動車交通事業法が公布された。この法律は昭和26年に公布された現行の道路運送法の前身であり、新たなバス路線を開設するためには出願に対して免許を得るというプロセスが必要になった。また、交通事業者自らが自社専用の道路を運用する専用自動車道の制度が定められた。)
この湯場〜御神火茶屋間の自動車専用道路は、出願者の名前を取って「大野道路」と呼ばれたのであるが、上記記述からは、それが島内にバス事業を広める「さきがけ」であったことが分かるだけで、実際に出願が容れられて開通した時期は定かではない。
また、大野重治氏がいかなる立場の人物で、なぜ出願に至ったのかといった経緯も、不明である。
果たして、大野重治氏が出願した自動車専用道路「大野道路」は、いつ開通したのか。
大島には膨大な文人墨客の足跡があり、彼らの中には三原山登山を企てて、記録を残している者が少なくない。
『町史』には百を超える著名な来島者が挙げられており、その幾人かの三原山登山の様子を抜粋している。だが、その中に「大野道路」を利用したとみえる記述はない。
また、三原山をテーマにした絵葉書も多く刷られているが、それらの中にも「大野道路」そのものや、その存在を裏付ける(例えば御神火茶屋に自動車が写っているなど)写真は見あたらなかった。
もちろん、全てを検査したわけではないので断定は出来ないが、出願後すぐに開通した可能性は低いと考えている。
『地図・空中写真閲覧サービス』より転載。
私が調べた限り、「大野道路」の存在を断言出来る最も古い記録は、昭和22(1947)年に米軍が撮影した航空写真である。
ここには後のドライブウェイの位置を占める太い道が、湯場から御神火茶屋まで、はっきりと描き出されいたのだ。
このように、町史にはっきりした完成時期の記録がないのにもかかわらず、太平洋戦争の直後に忽然と姿を見せている「大野道路」の建設時期は、あらゆる歴史にベールをかけた大戦中だったのではないか。
太平洋戦争中の大島は、東京湾防備上の要塞として重視され、大島守備隊が置かれた。我が国が防戦に回るにつれ重要度をさらに増し、昭和20年6月には大島を本拠とする第321師団が編成されている。島内各地に陣地の建造が進められ、三原山山上の各所に速射砲などの配備が進められたが、陣地完成前に終戦となり放棄された。現在の大島飛行場の前身となる飛行場もこの時期に建設されている。
「大野道路」は、本土決戦に備える軍用道路として開通した可能性が高い。
戦争によって暗黒期を迎えた観光地としての大島も、世の中が落ち着きを取り戻し始めたことと、昭和25(1950)年に発生した中規模噴火(山頂火口から溶岩流が外輪山の手前まで流れ出した)も沈静化したことで、昭和28年頃から再び大勢の観光客が訪れるようになった。
そしてようやく「大野道路」にも、発願者の大野重治氏が思い描いたような活躍の場が開かれた。
『町史』に次の記述がある。
昭和二十八年頃から観光客が再び来島するようになり、翌年大島登山自動車による通称「大野道路」の開通もあって、年間二十万に達するようになった。
(中略)
昭和二十九年以降、湯場〜御神火茶屋間(通称大野道路)の自動車道(有料)の開通もあり、旧道を利用する登山者も激減して、途中の茶屋も廃業せざるを得ない状況となり、(以下略)
昭和26(1951)年に現行の道路運送法が公布され、その中で一般自動車道が規定された。
大島登山自動車(株)は、昭和29(1954)年に湯場〜御神火茶屋間の通称「大野道路」を、有料の自動車道(一般自動車道)として開業した。
以後、この道が長きにわたって、三原山の威容に臨む登山者の最大の便道として活躍することになる。
『大島町史 通史編』より転載。
なお、『町史』には通称「大野道路」とだけあって、「三原山ドライブウェイ」という道路名がどこにも書かれていない。昭和29年の開業当初から、この道路名であったのかどうかは不明である。
また、大島登山自動車(株)と大野重治氏の関係だが、この資料(pdf)の18ページ冒頭によると、同社の社長であったようだ。(同社は現在も存続)
左の写真は、昭和48(1973)年に撮影された元町の埠頭である。私が今回の探索で最初に上陸した場所だ。
信じられないほどの人波だが、昭和30年代後半から40年代にかけ、我が国では離島ブームがおこり、大島の年間来島者は昭和48(1973)年に歴代最大の84万人という数字を記録した。
ドライブウェイの収益は如何ばかりであったろうか。
(1-2) 「大野道路」の開通年など、詳細な経緯が判明した 2019/11/19 追記
前章において、「三原山ドライブウェイ」(通称「大野道路」)の誕生について述べた。
復習がてら概要を述べると、同道路の廃止時点の所有者であり運営者だった大島登山自動車(株)の社長大野重治氏が、昭和9(1934)年に国に対して出願した湯場〜御神火茶屋間の自動車専用道路が、この道の原点である。それゆえ「大野道路」と通称された。だが、上記の出願が容れられた時期や、実際に建設・開通された時期については明確でなく、単に航空写真上で昭和22(1947)年には完成しているように見えたことから、大島の戦時中における軍事的重要度も鑑みて、「大野道路」は本土決戦に備える軍用道路として開通した可能性が高いと推定した。のち、昭和29(1954)年に、「大野道路」は有料自動車道路として開通、観光に利用されるようになったことが町史に出ており、これをもって「三原山ドライブウェイ」の開通と結論づけたのだった。
今回、「大野道路」の初期の建設の経緯について、より詳細に述べられた資料を入手したので、本章(1-2)をもって追記したい。
資料名は、『伊豆大島 大島観光事情の綜合研究報告書』といい、昭和33(1958)年に東京都広報渉外局観光部が発行したものだ。
かなり古い文献であるが、その背景として、当時国内の戦後復興が一段落し、昭和30(1955)年に大島が伊豆七島国定公園(昭和39年に富士箱根伊豆国立公園へ)編入されたこともあり、島に再び戦前のような観光ブームが到来し始めた時期における、観光にまつわる島内外の様々な事情を概観し、発展の妨げとなる問題点を指摘した研究報告書である。
交通に関しても一章を設けており、当時の交通事情をよく知ることが出来た。
道路状態は砂利道だが整備も良く行き届き、途中3ヶ所に展望場所があり快適なドライブウェイになっている。道路の土地は4分の3が大島登山自動車株式会社社長大島重治氏の所有、残りが村の所有となっており、私道としての性格が強い。
このようにあっけなく、開設と完成の時期が、それぞれ昭和13年と昭和16年であったことが判明した。
同書は、このように私道的な有料道路(法的には道路運送法に定められた一般自動車道)が、三原山の観光における唯一の登山車道として独占的地位を占める現状を憂慮しつつも、その建設された事情を次のように解説し、一定の理解を示している。
大島登山自動車は、昭和9年と13年に計3回、別々の3区間について、「三原登山自動車道」なる有料自動車道の免許を、国に申請していた。
第1回目は、三原山の南部山腹の道路で、当時は下山コースとしてよく使われていた滑台コースに沿ったものだった。
第2回目は、島の中心集落である元村(現元町)から標高差700mを克服して御神火茶屋に至るもので、詳細なルートは不明だが、もともとの登山ルートと大きくは離れていなかったと思われる。昭和62年に完成した御神火スカイライン(町道)は、これを再現したものといえそうだ。
さらに昭和13年に申請された第3回目は、当時車道の終点であった湯場を起点に、第2回目申請路線の中途に繋がる道とされた。
上記は、町史にあった「昭和29年から有料道路の営業が開始された」という内容と整合するし、昭和22年の航空写真に道路が写っていることとも矛盾がない。
これまで未解明だった本道路の建設時期や営業開始時期については、これで解明できた。
(2) 昭和61(1986)年噴火当時のドライブウェイの状況は?
昭和61(1986)年の噴火でのドライブウェイの被害状況は中編でも解説したが、私が強く興味を感じたのは、具体的にどの時点まで利用できたのかだった。
噴火当時は小学生だった私の記憶として、噴火開始後も大勢の報道関係者が、火口のかなり近くで撮影を行っていたと思う。
それが記憶違いでないなら、彼らはどこを通って山上へ向かったのだろう。
ドライブウェイは、どの段階まで営業を続行し、料金の徴収を行っていたのか。
もしも、誰も経験したことのないような極限的状況へ近付いていく有料道路のルポがあるとしたら、是非目にしてみたいと思った。
「大島防災に関する参考資料(pdf)(内閣府)より転載。
昭和61年の噴火の経過の概要は左の通りである。
下線@〜Bで示したような段階を経て、全島民の島外避難という非常事態を迎えたことが分かる。
まず注目したいのは、Aの記述だ。
噴火に慣れていない私からすれば、溶岩を噴出している火口を、そこから1〜2kmしか離れていない外輪山から見物することで多数の観光客が呼べるという暢気な考えに驚くが、実際にこの時点では、危険は無いとほとんどの関係者が考えていたのである。
『昭和六十一年伊豆大島噴火の記録』より転載。
この右の2枚の写真は、そんな当時の状況を写し取っている。
11月15日に山頂火口にて数十年ぶりのマグマ噴火が発生し、火口の外壁よりも高くマグマを吹き上げはじめた。
このニュースが日本中を駆け巡ると、地球の神秘を一目せんとと大勢の観光客が押し寄せ、外輪山上の御神火茶屋は超満員、連日写真のような状況となった。(約5000人が訪れたという)
『大島町史 通史編』より転載。
左の写真は、この噴火を取り上げる際にしばしば使われる有名な一枚だ。
11月19日に山頂の噴火口を満たした溶岩流が、内輪山と外輪山の間の低地へ流出を始めた状況である。
前掲した噴火の経過表中のAの状況だが、この段階でも外輪山を溶岩流が越えて麓へ流出する危険は無いと考えられていたし、実際に山頂火口からの溶岩はここで止まった。
当時の状況を、『町史』はこう書いている。
この年の十一月十五日頃から火山活動が活発となったが、昭和二十五〜二十六年の噴火を経験し、結局大過なかったことを知っている者は、内心喜んでいたのではないか。何故なら、その頃は夜空に上がる花火を見る様なもので、夕刻外輪山から噴火の模様を眺める島民や観光客で賑わう状態であった。
だが、今回の噴火は、三世紀ぶりにに外輪山の外まで溶岩を流出させることになる。
割れ目噴火というイレギュラーによって。
「大島防災に関する参考資料(pdf)(内閣府)より転載。
上記は、11月21日から22日にかけての噴火の経過である。
急転直下の展開で、あっという間に山から誰もが逃げ出さねばならない状況となっていく。
『昭和61年(1986年)伊豆大島噴火災害活動誌』より転載。
16:15に突如としてカルデラ底に地割れとマグマのカーテンが表れた。これはB火口と名付けられた、最初の割れ目噴火口である。
右の写真がその場面だ。写っている全ての者にとって、本当に戦慄の場面であったことだろう。
写真のキャプションには、「割れ目噴火発生時、山頂にはまだ大勢の人がいた」とある。
そしてこの事態から1時間半後の17:46に、遂に外輪山より外を走るドライブウェイの路上が、新たな火口となる。
一連の噴火で最後に生まれた二つめの割れ目噴火口、火口Cの出現。
そして、同火口からの大量の溶岩の流出。
外輪山を駆け下った溶岩流はあっという間に元町集落へ近付き、集落へ300mまで迫った。
当時島にいた観光客400人と全島民約1万人は、一晩で島から避難しなければならなかった。
以上が、入手した色々の資料から集めた、噴火の経過である。
しかし私が知りたかった噴火とドライブウェイの関わりについては、具体的に触れている資料がまるで見あたらないのだ。
例えば、噴火が平和に見物されていた段階で、彼らの大半を外輪山の上に運んでいたのはドライブウェイに違いない。
きっと料金の徴収も普段通りに行われていたことと思う。
しかし、どこかの段階で一般人の入山は制限されたのであろう。そうなると、ドライブウェイの料金所も封鎖されたと思われる。
そして、観測や報道関係など限られた人々だけが入山している状況で、B火口からの割れ目噴火が起きたのだと思うが、はっきりしない。
上に掲載した写真でも、マグマを噴き出すB火口の前には、人々と共に多くの車両が写っている。
彼らはこの直後に下山して島外へ避難したと思われるが、下山時はどこを通ったのだろうか。
『昭和六十一年伊豆大島噴火の記録』より転載。
B火口の出現から、C火口の出現までは、1時間半しかない。
最悪、ドライブウェイを通行している最中に、足元が火口に変わる畏れもあったのではないかと思うが、そのような記録は無いし、噴火中のC火口を間近で撮した写真も全く見あたらない。
右の写真は、元町からC火口の噴火を撮影した写真である。
「炎のカーテン」と呼ばれた火映が赤々と空を焼いており、道が跡形も無くなったのも頷ける迫力だが、この瞬間のドライブウェイ上は完全に無人だったのだろうか。
また、ドライブウェイがC火口に呑まれた後でもB火口付近に残っている人がいたとしたら、どこを通って下山したのだろう。
どうやら当時、観光客の多くが知らない、ドライブウェイとは別の自動車が通れる道があったようだ。
『町史』に、「昭和三十六年には東京都は都道に認定していた大島温泉ホテル地先から外輪山沿いに御神火茶屋に至る旧道を拡幅整備し、三原山へ合わせて二コースの自動車道が完成した
」とある。
つまり、噴火後にドライブウェイの代わりとして大々的に整備された現在の都道は、それ以前から一応自動車が通れるくらいには整備されていたのである。
ドライブウェイが通行できない状況でも、この道によって山上との交通が(辛うじて)確保されていたものと考えている。
C火口の噴火以前から、関係者はこの道を利用していたかも知れない。
はたして、ドライブウェイの“最後の場面”を目にした人は存在するのか。
この謎は引き続き追い掛けていくつもりだ。
大島登山自動車(株)側の資料が残っていればと思うのだが…。
『昭和61年(1986年)伊豆大島噴火災害活動誌』より転載。
突然カルデラ底に亀裂が走り、そこから溶岩がカーテン状に吹き出した「火口B」の出現(右写真)を、ごく間近で目撃した人びとは、身の危険を感じて、即座に離脱、下山を開始したという。
だが、「火口B」が出現した16:15より1時間31分後の17:46、今度は外輪山の外側山腹でも「火口C」が出現し、新たな割れ目噴火が始まった。
この「火口C」は、まさに三原山ドライブウェイの直下に出現したため、この道路は完全に寸断されたのだが、そこで大きな疑問点として浮上したのが、「火口B」の出現を間近で眺めたカルデラ底からの避難者たちは、この「火口C」の出現によって寸断されるドライブウェイをどのタイミングで通過したか、或いは通過せず別の道で下山したのかという“謎”だった。
この疑問点について、レポートの読者から寄せられたコメントの中に、興味深いものがあったので、以下に転載する。
なるほど、ありそうな話である。もし斯様に壮絶な体験談を持つ人が居れば、テレビ局は放っては置かないだろう。このような番組を見た記憶がある方が、他にもおられたら、ご一報いただきたい。
…………
……
…
……いた。
次のコメントの主は、このような九死に一生を得た避難者の知合いであるというのだ。私が真偽を確認する術はないが、上記証言と合わせれば、十分あり得たことではないだろうかと思う。
しかし、これは本当に恐ろしい証言だ……。
ななな、なんという……九死に一生スペシャルだ!
今まさに溶岩が吹き出そうと、不気味に膨らみつつある路面を、車は横切って突破したというのである。
走行中に火柱が上がらなかったのは、もはや偶然でしかない。
彼が本当に「最後の救助のジープ」に乗り合わせていたとしたら、三原山ドライブウェイの現役時代における最終最後の通行人だったと断じられよう。
しかし気になるのは、彼を下ろした後も再度逃げ遅れた人を探しに戻ったというジープの行き先、そしてそのドライバー氏の体験だ。
ドライバー氏は、何を見たのか。
あの噴火で直接の犠牲者はなかったはずだから、生還はしたのだろうが、とてつもない光景を目の当たりにした可能性があるだろう。
(3)昭和61(1986)年の噴火からの復興と、ドライブウェイの正式な廃止
3つの噴火口から激しく溶岩を噴出し、一時は全山が火炎の坩堝と化すのではないかと思える程の威容を示した三原山だったが、全島民が一晩で島外へ脱出した21日夜には活動のピークを越えて収束へ向かい始める。B火口とC火口は夜半に沈静化し、残る山頂のA火口も23日朝に爆発的な活動を終えた。
住民の全面帰島は約1ヶ月後の12月19日から22日に果たされ、再び島には暮らしが戻った。
その後も小規模な噴火活動はあったものの、平成2(1990)年の山頂での水蒸気爆発を最後に、平成29(2017)年現在まで新たな噴火は起きていない。
『昭和61年(1986年)伊豆大島噴火災害活動誌』より転載。
幸いにして、一連の噴火による人命の喪失はなかったが、島のあらゆる施設に影響を与えた。
道路についても例外ではなく、割れ目噴火によって400mにわたって文字通り“消滅した”ドライブウェイをはじめ、大量の降灰や頻発した火山性地震による多数の地割れなどによって、大きな打撃を受けた。
島の復興のためには、島内道路の迅速な復旧が必要だった。
右の写真は、島南部の差木地地区にて撮影された、降灰と地割れに破壊された都道である。
そして、既に述べた通り、大島は観光を最大の産業とする島である。
中でも、代々の島民が御神火と仰いできた島のシンボルである三原山への登山は最大の観光資源であり、そのアクセスルートが失われたことは重大な問題となった。
登山道の復旧に至る道程は、東京都が昭和63年にまとめた『昭和61年(1986年)伊豆大島噴火災害活動誌』が詳しい。
以下に重要な部分を引用して紹介するが、まず被災の状況については次の通りだ。
(1)埋没した三原山ドライブウェイ
大島観光のハイライトに三原山登山とその噴火口の見学がある。三原山への登山道は、元町より大島公園線を経て、三原山中腹の湯場から三原山ドライブウェイ(有料道路)を経由して、外輪山山頂の御神火茶屋に至る道路である。
しかるに、今回の大島噴火災害により、三原山ドライブウェイ(延長4.1km)のうちほぼ中間地点において割れ目噴火が発生し、約400mの区間が道路上に噴火口ができたり、溶岩の山に埋まっている状態となり、自動車の通行は不可能となった。
さらに、この割れ目噴火地帯は、12月18日危険地域の指定をうけ、立入禁止となり、かつ、この解除の見通しも立たない現状である。また、解除になったとしても多大な復旧費を要するものと考えられる。
そこで編み出されたのが、本編冒頭でも述べた次の方法だった。
すなわち、従来は外輪山中腹の大島温泉までしか完成していなかった都道207号大島公園線を延伸整備し、御神火茶屋への新たなアクセスルートにすること。(この都道は昭和30年代に認定された時点で御神火茶屋を終点としていたが、ドライブウェイの並行区間となる大島温泉〜御神火茶屋の区間は、昭和36年に狭い未舗装路として整備された程度だった)
(2)都道大島公園線延伸整備の要請
三原山ドライブウェイの通行不能は、大島復興の要である観光事業に大きな打撃を与えることになる。このため、三原山ドライブウェイの代替ルートとして、温泉ホテルまでしか完成していない大島公園線を延伸整備する必要が高くなってきた。すなわち、湯場から温泉ホテルを経由し、外輪山の急坂を登って三原山放牧場付近の外輪山山頂へとりつき、尾根道を通って御神火茶屋へのルート開発が要望されるに至った。
12月16日、植村大島町町長は横田副知事に対し、都道大島公園線の延伸整備を緊急に実施するよう要望した。
島民の全面帰島よりも早い段階で町長が都に対してこの事業を要請していることからも、いかに登山道路を重視していたかが伺えよう。
そして、この要請に対する都の対応も、以下のように迅速であった。
(3)現地踏査と事業の決定
大島町の要望をうけると、建設局では直ちに、事業着手を決定し、12月17日、現地踏査に入るとともに、12月22日、航空写真測量をした。整備ルートは自然公園保護地域であり、環境庁の事業承認を得るため協議に入り、事業執行承認申請書を提出した。
年があけた1月6日、7日、環境庁の現地踏査により、事業執行の事前了解を得た。
『昭和61年(1986年)伊豆大島噴火災害活動誌』より転載。
このような町・都・国(環境庁)の迅急な対応と平行して地権者への同意も取り付けられ、昭和62(1987)年1月12日には、緊急整備事業として都道の延伸整備(延長2.1km、有効幅員7m)が着工した。
そしてなんと僅か2ヶ月後、春の観光シーズンを前に(未舗装の状態ではあったが)、交通解放が果たされたのだった。
さらに夏のシーズンまでに鋪装も完了し、9月中旬に沿道の緑化を含む全事業が完了した。
右の2枚の写真は、外輪山の稜線上に整備された都道の工事前後の風景だ。
なお、元町と御神火茶屋を最短距離で結ぶ「御神火スカイライン」も、復興対策事業に採択されたことで急ピッチに工事が進められ、昭和62(1987)年度内に完成した。この道は、「旧登山道」の車道化を目指し、昭和35(1960)年頃から、町が毎年100〜150mの緩やかなペースで建設を進めていたものだった。
こうして、噴火の4ヶ月後には、「三原山ドライブウェイ」に代わるアクセスルートが出来た。
ゆえに、大島登山自動車道(株)による一般自動車道事業が再開されることはなかった。
「三原山ドライブウェイ」の開通から33年、「大野道路」として初めて御神火茶屋に自動車の乗り入れを果たした時から数えれば、きっとそれ以上の時間を三原山観光のメインルートとして働き続けた道の、突然の交代劇であった。
昭和62(1987)年3月、町は旧ドライブウェイの敷地を大島登山自動車(株)から買収して町道に認定した。ドライブウェイの正式な廃止はこの時点となる。
その後、町は割れ目噴火口の周辺を整備して、「溶岩流遊歩道」を開通させている。
だが、未だに町道の周辺各所に旧有料道路時代の遺物が残っていることは、本編の通りである。
道が名前や姿を変えたとしても、歴史の積層した痕跡は、容易には消え去らない。
- 『昭和61年(1986年)伊豆大島噴火災害活動誌』
- 『昭和六十一年伊豆大島噴火の記録』
- 『大島町史 通史編』
- 『大島町史 自然編』
- 気象庁サイト内「伊豆大島 有史以降の火山活動」
- 内閣府サイト内「大島防災に関する参考資料(pdf)
- 大島町サイト内「大島小史」