道路レポート 川根街道旧道(三ツ野古道) 第4回

公開日 2016.5.01
探索日 2015.3.10
所在地 静岡県川根本町

見棄てられた地


2015/3/10 13:40 《現在地》

弔うべき死者の名が刻まれていない昭和11年建立の慰霊碑が、3段の台座を崩土に隠され、石碑そのものも徐々に埋没しつつあるような状況で佇む「現在地」は、ここに至るまでの行程を見る限りにおいて、本当にもう何十年ものあいだ、誰ひとりとして訪れていないのではないかと思われた。

だが、実はまだそうと決まったわけではない。
私がこれまでに見てきた三ツ野からここへ至るオチイ沢越えの区間は、本当に難しく危険に満ちていたが、逆にここから千頭へ向かう区間は、案外に楽な道のりであるかも知れないのである。
まあ、それでも何者かが頻繁に訪れて、献花なりしている様子は全く見られないので、見棄てられた土地である事に変わりは無いだろうが…。

というか、私の中では「ここから千頭までの区間は案外に良いはずだ」という楽観的期待が、対岸にこの場所を見た瞬間から生じていた。
理由は、この立派な慰霊碑や、慰霊碑の周辺に何段も積み上げられた玉石の広大な石垣である。
これらがあるという事は、当然大勢の人間や資材をここへ運ぶ手段があった事を意味している。
そして、これまで辿ってきたオチイ沢越えの道が、そうした運搬に絶えるものであったとは思えない。
ならば自動的に、これから辿る道こそが、その膨大な資材の運搬を可能としたルートであったはず。

私はそう考えたからこそ、かなりの危険を冒してまで、この絶壁中の一地平を目指したのだ。


なお、慰霊碑がある地点は、これまで辿ってきた川根街道の路盤の続きだと思うけれど、そこからオチイ沢方向へ戻ることは、ほんの少しであっても出来ない。
私が決死の覚悟へ谷底へ迂回することで越えてきた区間だけに、当然と言えば当然である。

慰霊碑地点から西を見ると、おおよそ50m先に、地表のあらゆる土や植物を表土ごと剥がされてしまった無惨な岩尾根が横たわっていた。
いずれ、あの岩尾根のどこかを道は越えていたはずなのだが、どの高さにあったのか、全く分からなくなっている状況だ。

最新の地理院地図にも、徒歩道としてこの道は描かれたままになっているが、荒れ果て過ぎて誰も通れないことを国土地理院に報告する人もいなかったのだろう。
ここが登山道でさえない本当に忘れられた需要無き道であることが、地図と現地の著しい乖離を放置させしめている。



ここに辿り着いてから、既に10分ほどが経過した。
この間、石碑の周囲をうろうろし、或いはしゃがみ込んで呼吸を整え、また立ち上がって辺りの景色を眺めるなど、これまで1時間余り続いた絶壁や激流の緊張のため昂ぶり、すり減った精神を平静にすることに時間を費やした。

実はまだ、距離の上では歩行すべき全行程の3割くらいしか完了しておらず、千頭集落までは残り2.4kmもある。
序盤で大変な苦闘を強いられたというのが正直な感想であり、これは参ったなとも思っていた。

…だが、そろそろ歩きだすことにしよう。
この目の前の杉林が、次に進むべき進路だ。ここに、続きの道があるはずだから。
まだ、時間的には慌てる必要は無いが、先ほどから濡れた雪が結構な勢いで降り続いているのが、気掛かりだった。
地面が濡れるだけでも嫌なのに、もし雪が付いたりしたら、崩壊地の横断が一気に困難化するおそれがある。




歩き出す直前、慰霊碑のある平場の一角に、「町」という文字の刻まれた赤いペイント付きのコンクリート製標柱が、何本も転がっているのを見つけた。
これは本来は地面に埋め込まれているべき用地杭だと思うが、正しく埋められているものは見あたらず、どれも崩土の斜面に転がっていた。

なお、慰霊碑の建立年である昭和11(1936)年当時、ここは上川根「村」であって、本川根「町」となったのは、昭和31(1956)年のことだ。
つまり、慰霊碑の一帯に何らかの目的で町有地を示す標柱が立てられたのは、昭和31年以降ということになる。
その頃までは、重い標柱を何本も持ち込める程度には、ちゃんとした道があった事になる。
今もそれが残っていてくれると、嬉しい。




普通に道が無い…。

いったいどういうことなんですかね……。

これでも幸いというべきか、古い杉の植林地が広がっていたため、地面には岩ではなく土があり、獣道らしいものが縦横に通っていた。
それらを適当に選びながら、GPSの画面内には確かに存在する地形図の徒歩道から離れないよう、トラバース気味に東へ進むことは、さほど難しい事では無かった。

だが、あれだけ大きな石垣に連なる立派な道があると思っていただけに、この展開には正直萎えた。
足元には相変わらずオチイ沢の地獄の釜のような谷が口を開けていて、虎視眈々と私の命を狙っているし、ほんとうに割に合わない道だ…。



慰霊碑を発って約10分後、前方にこれまでこの道では見たことが無いほど緩やかな地形を持った植林地が現れた。
広い植林地には、それなりに人が通っているはずで、今度こそ、ある程度ちゃんとした道が出迎えてくれるという期待があった。
そろそろ安心させて欲しい。
絶対に、これまで来た道を戻るようなハメには、なってはいけないのだ。

なお、この間、GPSの画面上ではほぼ忠実に地形図の徒歩道をなぞっていたが、明確な道の痕跡は一度も目にしていなかった。その距離は約300m。
だが、だからといって、この区間に道が無かったとは思っていない。
この斜面のどこかを川根街道が横断していたのは史実からも確実だし、おそらく幅の狭かった道は、地表が天然の砂利山のように風化した流動性の高い地形のために、路面と他を分けていた凹凸が長年の落石ですっかり覆い隠されてしまったのだと思う。




13:56 《現在地》

どうやらここは、自然に生まれた平坦の地形ではない。
明らかに人により均された…平場であり、しかも人が残していったものが、色々ある。

まず目に付いたのは、クマでも獲れそうなサイズの大きな害獣捕獲ケージだ。
上に積もった杉の枯れ枝から、何年も放置されていたような雰囲気があるが、これだけ大きなものが持ち込まれているという事実は、この先の道路状況に対する期待を加速させた。

また、そのケージの左奥に見えるのは、だいぶ古そうなコンクリート製の土台状のもの。
それも一つではなく、二つ見える。
二つ目は30mほど奥にある。
こちらの正体も、さらに近づいて確認したことで、ほぼ判明した。



これは、索道盤台跡だと思う。

平らな上面には金属製の支柱が真上に伸びていた形跡があったが、おそらく杉の植林をする段階で邪魔になると判断されて撤去されたのだ。

しかしここで急に、古い生活道路であったはずの川根街道のイメージとは、少しかけ離れたものが出て来た。

……

…いや、そうではないのか。

さっき目にした慰霊碑や、慰霊碑の周囲にあった巨大な石垣…。

あの辺から、既にそれまでの雰囲気…石仏が点々と現れる古道…からは、逸脱していたのだ。
むしろ今、こうした大きな産業土木施設の痕跡が現れた事で、不可解だったパズルのピースが、漸く結ばれるべき相手を見つけたのだと思う。

これは私が事前の調査では把握していなかった、だが確かにかつてこの土地で繰り広げられた、何か壮大な規模を持った土木事業の存在を物語るものに違いない…!



左図は、現在地に残る二つの索道盤台から予測される、二つの索道の配置だ。とはいえ、大雑把な方向感覚から描いた想像図に過ぎない。
本来なら、ちゃんとそれぞれの盤台が向いている方角を計測するべきなのだろうが、このときはそういったことをしていない。
ただ、おそらく大井川対岸の拠点となるどこかから来る索道と、慰霊碑があった場所を結ぶ索道を中継する中継盤台というのが、この平場の正体だろうと予想した。

なお、川根地方で索道と言えば、大井川鉄道が開業する昭和初期以前に、それとほぼ並走するように敷設されて一時期活躍した、川根電気索道の名前を思い出す事が出来る。
今も地名駅構内に索道と鉄道が交差していた当時の遺構が残っているなど、索道としては比較的よく知られた存在だったが、現在地はその経路からもずれている。
盤台の規模も小さいので、あくまでも短期間利用の工事用の索道では無かったろうかと思う。
さすがに、慰霊碑がある一角に石垣を築くためだけの索道というわけでは無かっただろうが、あの周辺に私の目にしなかった大きな土木施設があっただろうか? (とても、探しに戻りたいとは思えなかった…)



意味深な平場に出会ったことで、とんとん拍子で進路が明らかになると思いきや、結局そうは行かなかった。
今度は地形が緩やかになりすぎたために、どこが道なのか、地形からは分からなくなったのだ。
とことん、スッキリさせるのが嫌みたいだ。

いま間違いなく言えるのは、この杉だけが死んだように生えている暗い植林地には、過去に現在とはまるで異なる風景があっただろうということと、道は平場のある辺りよりも下ではありえないということだ。
平場のすぐ下は大井川の旺盛な侵蝕力に削られた垂直に近い斜面が落差100m以上も落ち込んでいて、平坦に近い杉林とは鮮明な対比を見せていた。
だから道があったのは、平場よりも上で間違いない。

私は相変わらず姿を見せない道にやきもきしながら、引き続きGPSを頼りにして東へ向かった。
杉植林地内はどこでも歩けたが、どこを歩いても、ピンとは来なかった。




なんて淋しい場所なんだろう…。

はっきり言えば、どんな季節のどんな時間帯に訪れたとしても、明るい気持ちになれるイメージの湧かない場所だ。
じめじめとした杉林は本当に薄暗くて、生物に囲まれている事を感じさせない。
このような人工的な杉林を指し、遠目に見たときの青々とした様子に較べて生物的な多様性が極端に乏しい事から、“緑の砂漠”という表現を使うことがあるが、それを思い出した。

冷静に見れば、この森の下枝はある程度まで払われているから、見棄てられた完全放置の植林地ではないのだが、未だまともなアクセスルートの存在が確認出来ず、挙げ句は猛烈な降雪に閉じ込められた心境の私は、不安を募らせている。雪はいい加減洒落にならない降り方をやめなさい。慰霊碑に辿り着いた頃から、ずっと降ってるじゃないか。徒歩での探索中に、こんなに沢山雪が降ったのは珍しい。

この探索のスタートの時点では、春の麗かな晴天だったから、こういう展開を全く考えなかった。
地図の上では、大井川の蛇行に少しばかり付き合って集落対岸にある山腹を歩いている程度なのに、こうも孤立した心境になれるとは…。
大井川が厳然たる境界として存在し、勝手に渡れば死罪もありえたために、流域の無辜の人々が仕方なく歯を喰いしばって歩いたであろう百数十年前の川根街道の辛気くさいイメージは、この予想外の降雪によって私の中で一層堅固なものになった。



この植林地は、かつての集落跡だ。
或いは、先ほど目にした索道と関わる工事のための飯場の跡かもしれない。

200m四方以上もある比較的に平坦な土地の一円に、右の写真のような雑多な生活用品が散乱していた。
まさにそれは散乱と言うべき有り様で、何らまとまりなく全体に散らかっていた。

右下の写真のものは、ひときわ鮮やかな色をしたガラス瓶のようなもので、目を引いたが、鮮やかすぎて日常的な利用シーンが思い浮かばない代物だ。
他には見馴れた陶製の茶碗や、甕の欠片、ガラス瓶など、どれも年代は定かで無いが、明治よりも下るとは思えない。これらの写真はごく一部で、本当に沢山あった。

なお、歴代の地形図を一通り見てみたが、明治末のものも含め、当地の集落や家屋を描いたものは全くなかった。(例:昭和27(1952)年版
だが、確実に一人二人ではない人数がここで暮らしたはず。杉の植林地になったのは、彼らが全て消えた後だろう。

名前のない慰霊碑に、地図に描かれた事の無い集落跡?

両者に関わりがあるのかは不明だが、なんだか不気味。



ゴールまで あと0km