2008/5/31 12:24
いやはや、何も残ってはいなかったけど、凄かったねぇ。
塩原新道、全長52km、その最大最高の橋を、いま渡った。
もちろん、ない橋は渡れないけれど、探索の進捗としては、確かに渡り終えた。
ここからは、新しいステージだ。
男鹿川橋の南詰を出発。
山王峠(帝釈山地)と桃の木峠(那須連山)の間を流れる男鹿川を海抜850mで渡ったことで、ようやく長かった前哨戦が終わった。
いよいよ、桃の木峠(海抜1200m)の山を上り始める。
峠までの残距離は推定8kmだが、このうち序盤2km、標高930mのウドが沢までは、横川林道という国有林林道が並行あるいは重複している。
男鹿川橋の南詰は段丘崖の突端で、ここから塩原新道は、段丘崖の縁をなぞるように南へ進む。
実測図によると、500mほど先で横川林道と合流するようだ。
この間、林道が自動車のパワーに頼った急勾配で高度を上げてくるのを、塩原新道が高見の見物を決め込む形である。
まるで明治の道の方が高規格な新道みたいだ(名前は確かに「新道」なんだけど…笑)。
で、実際の道の状況がこの写真だが、見ての通り、とても良く原形を留めていた。
幅の広い水平道路で、自転車はもちろん自動車でも通れそうなくらい、ゆったりとしている。
路上に樹木が全くないのは、比較的最近まで林業などの目的で使われていたのかも知れない。
12:34 《現在地》
(→)
カラマツ林の中で、右から横川林道が合流してきた。
一見すると、塩原新道という廃道が、生きた林道に呑み込まれてしまったようだが、私にはそう見えない。
横川林道として塩原新道が今も生きているのだと見る。
……まあ、ただの贔屓だがね。
実測図によると、ここから約1kmにわたって、塩原新道は横川林道になっている。
ここは塩原新道における、桃の木峠以北では唯一の“現役区間”といえるはずだ。
さあ、飛び出そう!
横川林道は地図を見る限り行き止まりの道であるし、一般車両も来ることの出来ないゲートの奥の世界だが、案外に通行量があるようで、路面が活き活きとしていた。
そして印象的なのが、非常な緩勾配であることだ。まるで見慣れた森林鉄道の跡のようだった。ただしこれは塩原新道と重なっている区間の特徴だ。そこを外れると、普通の林道の勾配がある。
この緩勾配について、少々余談ではあるが、実際にかつて(竣功年も廃止年も位置も現時点で不明である)男鹿川森林鉄道ウドガ沢支線というのが存在したらしい。
もし探索当時からこのことを知っていて、かつ「実測図」というありがたい手引き書もなかったならば、私はこの辺りで平場を見つける度に、塩原新道なのか林鉄跡なのかということで悩んだのではないかと思う。
そしてこれは妄想同様の可能性の話でしかないが、もしかしたらこの正体不明のウドガ沢支線という軌道には、塩原新道上に敷かれていた区間や時期があるのかも知れない。
栃木県塩谷郡横川村字萱野の図 [栃木16] | |
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12:38 《現在地》 「横川村字萱野」という地点で描かれたこの画は、雄大な構図が特徴的だ。 また、男鹿川橋の画に描かれていた紅白幕のある四阿が、ここにも描かれている。 |
新しい轍がたくさん刻まれた土場(林道沿いにある一時木材集積のためのスペース)があった。
林道の轍が濃いのは、最近この辺りで盛んに伐採が進められているためなのだろう。
土場の前で林道は二手に分かれていたが、左は作業道で、道なりに行くのが本線かつ塩原新道だ。
それはそうと、いつの間にか正午を過ぎてずいぶん経っていた。
そして出発からは約4時間が経過していた。現在時刻は12時38分だ。
塩原新道を辿るという目的においては、ここまで妥協も不明点もあまりなく、成果は上々だと思う。だが時間的に押しているのでないだろうか。
既にお願いしてある帰りの迎えの車は17時に横川集落なのだが、これに合わせて下山するためには、遅くとも15時には峠に立っていたい。
にもかかわらず、私はまだ峠の麓といえるような場所にいる。
なぜ想像していたより時間がかかっているかといえば、写真を撮りまくっているからだと思う。だがそれは今日に限ったことではなく、もう少し早めに出発するべきだったと反省している。
仕事仲間(しかもたいへん目上の人)に送迎して貰ったこともあって、ワガママを抑えてしまった。無理を言って朝早く出発していれば良かったかも。
しかし、いまできることは出来るだけペースを上げることだな。
12:54 《現在地》
横川林道を黙々と歩くこと1km。
緩やかな森の景色が突然破れ、谷の存在を窺わせる明るい空間が現われた。
そこをウドが沢が流れているはずだ。
そして実測図によると、、谷に臨むこの目の前のカーブを境に、塩原新道が離れる。
この先、林道も新道もウドが沢を横断することになるが、渡る位置に違いがあって、新道は林道よりも下流で渡るらしい。
ということで、もちろん分岐は“新道”側へ行きたいのだが――
分岐… ないぞ?!
どう見ても、そんなものない。
とてもじゃないが、真っ当に道が分かれていたような気配はない。
林道の谷側には樹木のない草斜面が30mも下の谷底へ落ち込んでいて、うっかり踏み込んだらそのまま滑り落ちそうだ。濡れてるし。
もともと林道を開設した時点で塩原新道は完全に廃道だったはずで、分岐なんて意識的には用意しなかっただろう。
なので、林道の建設によって、無意識的に古い道の跡が消滅してしまった可能性が高そう。
とはいえ実測図が道を描いている以上、簡単に無視はしたくない。
しかし、時間が不足しているし、ちょっとここから斜面に突入するのは無理がある気がする…。
どうしよう……かな。
一瞬悩んでいると、、突然、谷底付近の草むらがガサガサとうごめいた。
咄嗟に測った彼我の距離は、おおよそ30m。
この距離……、“奴”なら一跳足だろう。
ヤバッ!?
オヤジ…。
なんだ、オヤジかよー。よかったーオヤジで。オヤジありがと〜。
山菜でいっぱいのカゴを背負って、両手にフキを持った、全身ほぼ緑のオヤジがいた。
道などない谷底でオヤジがゴソゴソしているなど、都会山だったら遭難騒ぎだが、ここは東北…
……じゃないけど、もう東北ということにしちゃおう。東北だよ、この光景は。
(私の偏見と愛情のために失礼な物言いとなったことをお詫びします)
とりあえず、そこに道はなさそうだが、山菜採りは気にせず入っている。
まあ要するに、入れるルートがあるということ。
このことに軽く安堵しつつ、私は先へ進むことにした。
ここでスルーしても、もう一度だけ、見逃したものを確認するチャンスが来るはずだ(後述)。
さて林道は、ウドガ沢を高巻き気味に渡る。
渡り方は近年の林道らしく暗渠だったが、その直前に「横川林道」と書かれたボロい林道標柱が立っていた。
これに一瞥を加えてから、谷を渡った。
すると間もなく――
13:02 《現在地》
林道の山側に1本の細い道が分かれていくのを見つけた。
この景色、初めて来たのに、見覚えがある。
なぜか。
『三島街道を復元する会』のブログに掲載されていた写真だ。
そう。
ここが、塩原新道(=三島街道)の復元歩道の入口である。
復元歩道の入口は、いかにもログクラフト的な手作り感がある、カラマツ材で仕掛けられた階段だった。
たったこれだけでも、『復元する会』の真剣な仕事ぶりが目に浮かんだ。この人達は、ガチで道を作っている。
しかし、遊歩道や登山道として集客する意図はないようで、道の正体や行き先に関する何の案内もなかった。知る人ぞ知る道であれば良いということか。これもまた私にとって好ましい姿勢だ。
私を峠へと最も安全に導いてくれるであろう、ありがたい復元歩道である。
だがその一端を初めて目にした私の思いは、少々複雑だった。誤解を恐れずに書けば、「現れやがったな」、と思った。
三島の影を追い、その寵愛を受けようとする恋敵同士……、そんな気持ちが私にはあった。
なお、実測図を見る限り、そしてまた周囲の状況を見る限りにおいても、この入口自体は塩原新道ではない。
塩原新道は、この歩道を少し入った先の山腹にあるようだ。
林道と塩原新道が交差・分岐する本当の地点は、もう少しだけ先にあるはず。
13:07 《現在地》
あった! 塩原新道との再開地点!
ウドが沢で見失った塩原新道だが(というか実測図がなければ見失ったことさえ気付けない状況だった)、ちゃんと存在していた。
復元歩道の入口から200m林道を進んだところ、ずっと上ってきた道が下りへ転じる地点にある待避所が、明治の塩原新道と(おそらく)昭和の林道の交差地点だった。
もっともこれも、実測図の案内がなければ簡単に見逃してしまったかもしれない。
よくよく見れば気付けるというレベルの分かりづらい交差地点。
よくよーく見れば、左の山の中へ入っていく平場が分かれていた。右は平坦な森なので、正直分からず。
左が桃の木峠へのルートだが、小さなやり残しをずっと後悔するのは嫌だから、先へ右へ、ウドガ沢の渡河地点を探しに行くことにした。
13:10 《現在地》
山菜オヤジとの遭遇時点では全く道が見えなかったので半信半疑だったが、横川林道からウドが沢の方へ入っていくと、斜面に傾斜が付くのと同時に道を見つけることが出来た。
谷底から切り返しながら登ってくる道だ。
写真はその切り返しの地点で、スギ植林地の林床に浅く掘られたヘアピンカーブが綺麗に残っていた。
実測図を描いた人物の仕事の正確さに舌を巻く。
オブローダーでなければ見逃してしまいそうな部分も、的確に図示してあった。
私の仕事を先回りしている。
正直悔しい気持ちはあったが、限られた時間で探索を成功させるには必要なアイテムだったのは間違いないし、ありがたかった。
また、個人的にこういう手ほどきを受けながら歩く体験が少なく、そこにも新鮮な楽しさがあった。
13:13 《現在地》
一度だけ切り返すと、ウドが沢が左に現われて沿い始める。
谷は登り、道は下るので、急速に落差が詰まり、架橋地点が予感されるようになる。
あっという間に、架橋擬定地点へ。
道は左カーブでウドが沢に立ち向かう意思を見せる。途端に道はなくなるが、ここに橋があったのだろう。
これより上流に道形はなく、対岸へ行ったとしか考えられない。
ここにも、男鹿川橋の5割程度、高さ15m、長さ50mほどの大きな橋があったようだ。
やはり何も残っていないが、ウドが沢の大きさは、小さくない橋の規模を物語っていた。
橋台さえ残っていないところを見るに、やはりティンバートレッスル型式だった可能性は高そうだ。しかし残念ながら、絵も何も残っていないのである。
沢の浸食や横川林道の建設が原因だろうが、対岸の路盤は完全に失われているようだ。
対岸の急な草斜面は、さきほど山菜オヤジを見たところだが、今は姿が見えなかった。
一応これで、ウドが沢両岸の道も確認できた。
急ぎ林道へ戻った私は、そのまま峠への登りに突入した!
桃の木峠まで あと6.4km
塩原古町まで あと26.4km
2008/5/31 13:23
横川林道へ戻った。
ここから左奥へ入ると、桃の木峠への道がある。
そして、ここを入ればもう、峠に辿り着くまで二度と他の林道にぶつかることはないはずだ。
山王峠を出発して間もなく5時間が経過。
ようやく、桃の木峠攻略の最終実行フェーズに取り掛かれるときが来た。
現在地の標高は930m、峠は1200m。
比高270mというのは、峠としてはさほど大きいものではない。しかし、実測図から測定される残距離は、まだ6kmもある。
このことからも、実測図に描かれた右図のような迂回の大きなルートからも、非常に緩やかな勾配を持った峠道であることが予想された。
心配なのは時間だ。
今から1時間半後の15時に峠に立つことが、約束した17時までに横川へ下山するおおよそのタイムリミットになるだろう。
ようするに、ここで足を止めている時間が惜しい。出発だ。
うっひょ〜!
本性現わした感、ある!
峠へ登ろうとする明確な意思を感じさせる、本日初の九十九折りだ。
そして、もうあんな近くに“次の段”が見えている!
林道を外れると同時に始まった、峠への長い長い上り坂。
その最初に待ち受けていたのが、計4段の九十九折りだ。
三島と言えば九十九折り……というわけではないが、まさにこれぞ明治道だ。
それにしても、最初すぐそこに見えていた“次の段”が、思いのほか遠くて驚ている。
緩い斜面をほんの数歩登ればショートカットできてしまう位置にあるのに、
さっきから勿体つけるように、なかなか繋がろうとしなかった。
そしてこの勿体つけが、背丈の高さになっても続くのを見て、
驚きを通り越し、少々呆れてしまった。
入口から約120m進んだところで、ようやく切り返して、2段目へ。
なんなんだこのユルさ?
思わず空に問いたくなるような、全く尋常ならざる道の緩やかさである。
“険しさ”に驚くのはままあるが、山岳道路の“ユルさ”に驚くって、珍しい!
しかしこれは笑い話ではなく、ここまで勾配を緩和しなければ満足に通行できない“馬車交通”が、
全く根本的に我が国の地形条件には馴染まなかったという事実を、強く実感する光景であった。
中央政府が明治20年代以降、長距離の陸上交通機関として鉄道重視の政策へ舵を切ったのは、
このような山岳道路に頼った馬車交通では、とうてい近代国家たり得ないと理解したからなのだろう。
このことの教材となったのが、明治10年代に建造されて失敗に終わった、いくつかの長大な山岳道路群……
……かの清水国道や、ここにある塩原新道だったのではないだろうか。
このころ、何用か細田氏からケータイに着信があったが、出るなりすぐに切れた。電波が微弱すぎた。
切り返して2段目に入っても、風景には既視感がつきまとった。
それも当然で、少し前に歩いた所のすぐ傍を逆方向に歩いているだけなのだ。
あまり進んでいるという実感は得られない。
やがて眼下から1段目の道の姿が消えても、今度は代わりにそこを横川林道が占拠した。
これもまた少し前に逆方向に歩いた道である。
あまりにも林道に近づきすぎて、切り取られてしまうのではないかと、やきもきした。
だがそうはならず、“恋敵”との再会の時を迎えた。
13:36 《現在地》
やがて目の前が明るくなると、そこに見覚えのあるカラマツ材の階段があった。
“恋敵”と私に呼ばれた、復元歩道の姿だった。
34分前に目の前にあった【階段】を登れば、直ちにこの場所へ来ることが出来たのだ。
この34分は探索としては無駄ではなかったが、峠へ近づいた距離という意味では、わずか10歩分に過ぎなかったといえる。
また、林道から塩原新道を約300m歩いた先のこの場所は、九十九折りの2段目から3段目に切り返すカーブの直前だった。
ただし、この切り返しカーブは横川林道に切り取られ、あるべき位置は空と化していた。
復元歩道は、横川林道と九十九折りが最も接近するこの場所を突くことで、一気に1段目と2段目を省略して3段目から歩き始めるよう、手筈を整えていたのである。
そのため、復元の手は、ここから先の塩原新道に対して加えられている。
私はここで初めて、復元歩道を踏んだ。
カラマツの階段を数歩上って、3段目へ。
おおおっ!
木橋だ! 木製桟橋だ!
そしてこれはもちろん、復元歩道の構造物だ。
本来の塩原新道と位置的には重なっているはずだが、すっかり崩れて形を失ってしまったところに、カラマツ材と土で作った桟橋が架けられていた。
こういう崩壊の場面は、山王峠から歩き出した最序盤には非常に多くあったので、なんら不思議ではない。
復元の手が加えられていなかったら、黙って斜面をトラバースして進む場面だったろうが、桟橋のおかげでらくらくに平らな道を歩いて行ける。
先を急がないと目標達成が危うい状況を自覚しており、もう素直に、ありがたい。
ドフドフドフ…
少しだけ自分が重くなったような音が、足元から小気味よく聞こえてくる。
明治の道に現代人の手で甦った、鉄の締結金具を使う点だけがオーパーツな、木製桟橋だ。
各地の林鉄にあったものよりは、ちょっとだけカーブがキツイ。
幅は2m弱で、本来の道幅に較べれば狭い。復元とはいっても、馬車が通れる道を完全に復元するわけではないだろう。
しかし、決して貧相なものではない。この復旧歩道は一般のボランティアの手によるものだが、国有林を管理する林業のプロの指導のもとで作業を行ったというだけあって、歩道としては十分な物である。
自転車くらいなら、余裕で乗ったまま走れただろう。
(ただし、復元する会の活動は2013年秋に終了しているとのことで、これを執筆している2021年現在において、復元歩道がどの程度保存されているかは不明だ)
(←)
桟橋を渡る切ると、すぐに本来の道が復活した。
ここには、下の段にはなかった踏み跡がはっきりと見えるが、違いはそれだけだ。
広い道幅を持て余しながら、控えめに一筋の足跡が伸びているだけの、明治道。
当初、なんとなく「遊歩道」のようなものを想像していた復元歩道であるが、虚飾を全く感じさせない復元ぶりに私はホッとした。
なんだか、この道とは仲良くなれそうである。
「一緒に峠まで行こうなー。」
そんな良いニュースと同時に、嬉しくないニュースも。
しばらく小康状態を保っていた雨が、急にパラパラと音を立てて降り始めた。
風も吹きだし、同時に少しガスってきた。おそらく霧ではなく、下界から見た私は雲に包まれたのだと思う。
一度はリュックに捻じ込んだ湿ったままの雨合羽を取り出した。濡れた袖に腕を通すと、気分は少しグッタリだ。
乾きを得る手段は、もう私に残っていないので、この先体温を下げすぎないように、間違っても夜までこの山に居残ることがないように、急ぐ必要がある。
さらに、槍のような巨大な岩も現われた。
男鹿川の渓谷は険しかったが、山中にもこうした峻険が隠されているとしたら、これは大きな不安材料だ。
基本的に今回、岩山のような地形は想定してはいない。
土山でなければ、今回と次回の探索における下山方法として開拓すべきショートカットルートが、大幅に制限される恐れが出てくる。
道を外れて歩くことが危険すぎる山は、想定外なのだ。
なお、実測図によれば、この先は3度目の切り返しになるはずだが、切り返した先の4段目の道は、“槍”の上を通るのだろうか。
だとすると、まだ結構な高低差があるな。
なんて思っていたら――
うおぉーーッ!!!
3段目と4段目が桟橋の競演!
かっこいい! かっこいい!!
開通直後の塩原新道は、こんな風景だったのかも知れない。
そんな、かつてない想像をさせてくれる、真新しく素朴な、木の香りのする桟橋の競演だった。
なんとなく、明治道と言えば石垣を想像するが、それは単に石垣以外は残り得なかっただけで、
最も手頃な材料である木材をふんだんに用いていた可能性は、ある。
由一もそういう景色は描いていないし、断定は出来ないけれども、
ここまで一欠片も石垣を見ていないのは逆に不自然であり、
要所要所を木製の桟橋で維持していたことは、可能性が高いのではないか。
であるならば、これは平成に甦った、在りし日の塩原新道の姿だったのかもしれない。
(そしてそんな木造の道が、長く保つはずがなかった……)
上下に2段並んだ見事な木製桟橋を目にしたことで、ごく近い将来の展開について、見通しが立った。
今後、3回目の切り返しを経て、いま見上げた4段目を踏むことになるのだ。
問題は、その切り返しがいつ来るか。
また最初の切り返しの時みたいに、呆れるほど勿体付けられるのかな。
……なんてことを考えていたら、意外な方向に展開した。
なんか急に登り始めたのである。
え? え?
分かっちゃうんだよなぁ〜。
俺くらいの、“三島ツウ”になるとさぁ(自惚れ)。
この急坂、三島の作ったものじゃないでしょ?
ついでに、幅も狭すぎるしね。
すると、案の定。
今の急な上り坂が復元歩道オリジナルのショートカットだと判明する風景が現われた。
やはり本来の道は、もう少し先で切り返していたのだ。
ただ、その途中に大規模な欠落(破線の部分)があるために、復元歩道は4段目へ短絡することを選んだらしい。
先へ進むという目的であれば、これでなんら問題はなく、むしろ体よくショートカット出来た訳だが、歩ける部分は1mも見逃したくないという気持ちがあり、合流地点から切り返しのある方へ戻ってみることに。
(まあ、ここからも見えている範囲なので、時間がないいま、本当に行く必要があったか微妙だが)
13:52 《現在地》
こんなわけで、逆方向からこの3回目の切り返しに着いた。
途中のショートカットがなく、全て道なりに動いたと仮定すると、横川林道から約700mの位置にある。
しかし実測図を見る限り、この700mで登った高さ、たった30mほどに過ぎない。
ここから導かれる平均勾配は、わずか4.3%(=2.5度)である。
そしてこの区間勾配は、横川林道から峠までの平均勾配(約6kmで270m上昇=4.5%)と概ね一致している。
この程度の勾配は、JRほか鉄道にも存在するレベルであり、高速道路にももっと急な坂道がたくさんある。
明治の馬車道に許された勾配は、本当にここまで緩いものなのである。
直線距離では11kmに過ぎない山王峠〜塩原間に、32kmもの長躯を描いた塩原新道の迂回の秘密は、この勾配にある。
先ほどうっとり気分で見上げた4段目の長い桟橋を歩く。
見ての通り、細いカラマツ材を密に敷き詰めて床板とした丸太橋だ。
幅1mほどしかないが、位置としては完全に明治道を踏襲している。
本来の道は、この急斜面をどのように横断していたのか、痕跡がない。馬車が通れる幅の木製桟橋だったのだろうか。
ちなみに、この丸太橋は濡れているとかなり滑りやすい。
特に、まだ樹皮が剥がれかかっている所が、ぬるっとしていて怖い。
手摺りが全くないので、縁の近くを歩くのは怖かった。
まあ、慎重に歩いていれば、アスレチックのようで楽しくもあったが。
(→)
3度切り返ししたことで、九十九折り地帯は終了。
現在は等高線に沿って、ごくごく緩やかな上り方で峠方向へ向かっている。
気付けば海抜1000mよりも上に来ていた。
出発地の山王峠が約900mで、男鹿川横断地点で850mまで降りていたが、現在は絶賛最高到達高度を更新中である。
峠まで残す高さはあと200mで、登山の感覚なら1時間で到達出来そうな数字だ。
また、時刻は間もなく14時になろうというところで、目標としている15時到達は微妙なライン。ただし、道のりが長い。まだ5km以上ある。
14:02 《現在地》
薄らと平場が残る道をやや早足気味に淡々と歩いて行くと、道が山側へ少し入り込み、水のない谷地を横断する形になった。
そこに、ご覧のような、バケモノじみて巨大な枯れ木が横たわっていた。
凸凹した表面の一部は土にまで分解されているのか、若木やシダを育んでいた。
私の背丈と比較した簡単な目測であるが、直径3mは下らない尋常ではない巨木だった。
私は廃道で目にする巨木や、巨大な枯木が大好きだ。
それそもののが印象的だというのもあるが、道が生きていた時代との繋がりが感じられるからだ。巨木は過去の風景との共通項、あるいはアクセスポイントだ。
果たしてこの倒木、明治10年代にはどんな姿で、路傍に聳えていたであろう。必ず印象に残る巨体であったと思うのだが…。
谷は、明治道にとって鬼門と言える。
浸食が強く働いている場所では、道はいち早く破壊されている。
だが、ありがたいことに、私には復元歩道という強い味方がいる。
強がる訳じゃないが、これまで目にしたどの桟橋も、無ければ無くても進めはしたろう。
だが、普通の歩幅で、歩速で、スタスタと進むことは絶対に出来ない。
今の私には、そのことがとてもとてもありがたかった。
14:09 《現在地》
巨大枯木の……次の谷。
ここにも巨大な枯木があって、再び私の心を掴んだ。今度は切り株。
やはり直径3m近い巨大な切り株だったが、その断面から蘖(ひこばえ)が伸びていた。
驚くべきは、その蘖として始まったであろう幹が、既に一人前の大木になっていたことだ。
蘖の大きさと、切り株の風化具合が、夢のある想像を結ばせた。
もしかしたら、この木を最初に伐ったのは明治17年の土木工夫たちだった。
切り出された部材は、男鹿川橋や桟橋の材料になった…………なんて。
ドフドフドフドフドフドフドフドフドフドフドフドフ…
またしても見事な木製桟橋が現われた。
雲らしきガスがうっすら立ちこめた雨の森に、三島の道を愛する男達が奏でる音が、溶けていく。
道を愛する者のために、行き止まりが約束された峠への片道歩道が延びている。
道の美しさが、際立っていた。
ドフドフドフドフドフドフドフ…
しっかりと体重を支えてくれる橋だが、踏み木は1本きりなので、老朽化すれば即座に危橋に化すだろう。隙間から下が見えるところが多くあり、この点もやや人を選ぶ。
復元者は、次の世代に道を残そうなんて押しつけがましいことよりも、単純に自らの手で三島の道を甦らせ、辿ってみたかったのではないかと思う。 …好き。
ドフドフドフドフドフドフドフ…
桟橋から見下ろす足元は、ウドが沢に収斂していく土斜面で、
落差100m下を横川林道が横断しているが、もちろん見えない。
しかし、滝の音らしきものがずっと聞こえている。
現在接近中であるウドが沢から聞こえてきていると思う。
ウドが沢への接近に伴って、次第に険しくなってきた斜面は、ここで一つの岩尾根のようなものとなって、行く手を遮る表情を見せた。
少し前に見た【槍岩】を遙かに上回る規模の岩場だった。
大丈夫か、道は?
道は大丈夫だったが、頭上に覆い被さるような横木になっている巨木に目を奪われた。
この木の太い根は、岩を現在進行形で砕いていた。
明治道のデストロイヤーが、こんな所にもいる。
しかし、こんないかにも崩れ易そうな場面でも、路上は妙に綺麗だった。本来の道幅が完全に残っていそうだ。
復元作業があったといっても、路上の小石まで拾ったとは思えない。
やはり、岩尾根は風化に強い。道も自然とよく残るのである。
おっと! 出た! 明治廃道の定番。
風化しまくっているが、この丸い石垣の囲いは間違いなく炭焼き窯の跡だ。
しかもかなり大きい。
道を生活のために利用する人は、その道が概ね廃道になってからも、しばらくはいた。
廃道自体を目的として歩くオブローダーと違い、廃道を生活のために歩いていたのは、林業関係者、職業的な山菜採取人、職猟師、そして木炭生産の山稼人たちであった。
明治期に敢えなく公道としての大役を失った塩原新道を、最後まで緩やかに看取っていたのは、彼らだったと思う。
窯跡はそうした廃道二次利用の名残であり、それゆえ道幅を奪う形で作られている。
先ほどから聞こえていた滝の音の正体は、足元から急速に接近してきたウドガ沢……の大きめの支流だ。
窯跡の下辺りで本流から分かれた支流が凄い勢いで上ってきて、気付いた時にはこんなに近くに、さらさらと水を流す白い谷底が見えていた。
滝は見えないが、このすぐ下流の明るく見える辺りにあると思う。
14:12 《現在地》
たいそうな剣幕で上り詰めてきたウドガ沢支流。
こいつが道を突き破るすぐ下で、さらに3つの支谷に分かれた。
そして道を連続して3度も分断せんとする。
まるで「三島憎し」の会津から、山王峠越しに放たれた多弾頭ミサイルのような谷だ。
おかげさまで、復元歩道までもがめちゃくちゃにされていた。
チェンジ後の画像は3つの中では本流らしき中央の谷を渡る部分で、一番酷く荒れていた。
数年以内に復元されたはずの丸太橋が、すっかり瓦礫に埋れ、その先の道も崩れていた。
久々に廃道らしい足運びで斜面を突破、前進続行。
14:30 《現在地》
ここを「SC尾根」とする!
これは私が勝手に名付けた、「ショートカット尾根」の略だ。
ここは、ウドが沢の支流と本流の間に突き出した三角形の尾根と、塩原新道の交差地点だ。
地形図を見ると分かるが、この尾根を水平距離400m、比高200m登ると、そこに塩原新道の続きがある。
しかもその再会地点は、なんと桃の木峠の400m手前という核心部である。
何を言いたいか、もう分かるよね!
この尾根を使えば、峠への出入りはショートカットが可能である。
そしてこれが机上の空論でなく実際に可能なのか、尾根が通行可能かを確かめることが、
今回の探索の大きな目的であった。
重要地点、到達。
桃の木峠まで あと4.3km
塩原古町まで あと24.3km
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