道路レポート 塩原新道 桃の木峠越 第一次踏査 第4回

所在地 栃木県日光市〜那須塩原市
探索日 2008.05.31
公開日 2021.04.28
このレポートは、『日本の廃道 2009年1月号』に私が執筆した同名レポートのリライトです。

決意により、遠のく峠


2008/5/31 14:30 《現在地》

SC(ショートカット)尾根。
ここで私は重い選択を迫られた。

道なりに進むか――ショートカットに挑戦するか。

SC尾根は峠への最短ルートだ。
これを使った場合の峠までの距離は約800m、高低差約170mだ。
だが、迂回と冗長を持ち味とする塩原新道を辿る場合、なお4km以上もある。ふざけてる。同じ高度差を埋めるのに、5倍の道のりが必要だと宣う。

幸いにして、復元歩道のおかげで、道は良い。いくらでも歩いていける気はする。しかし、時間がない。あと30分で、当初の峠到達予定時刻である15時になる。
今の時期なら19時頃までは明るいが、それに頼って歩き続ければ、帰りの送迎をすっぽかすことになる。夜具もなく野宿の羽目になるのかも。

当初の計画では、往路は道なりに行き、峠で引き返した後の復路で、ショートカットに挑戦することにしていた。
塩原新道の踏破が第一目的であるから、それをせずに峠だけを極めて下山するのは極めて不本意だ。だがこのまま進んだのでは、迎えをお願いしている17時までに横川へ下山することは出来ないだろう。
そして、ここを進んでしまえばもう、大幅な時間短縮を期待できる選択の機会もなくなる。

この日の私は、今回栃木県に滞在する理由でもあった仕事上のボス(秋田時代から私の活動の理解者であり協力者)に、クルマでの送迎をお願いしていた。公共交通機関ではないから、少しくらい遅れても待っていてくれるだろうし、携帯で連絡できるなら今すぐ延長を願い出ただろう。だが残念ながら、当分は電波のある場所に辿り着けそうになかった。

……ううむ。

探索本位というのであれば、間違いなく道なりに行くべきだ。
道なりに行っても、まだ夕暮れまでに下山すること自体が危険視される状況ではない。今は、遭難の危険性と探索の成功を天秤を架けているわけではない。
尊重すべき相手との約束と、自分の探索、どちらを優先するかという天秤だ。

直進することにした。
この決断は軽蔑されるかもしれないが、取り返しが付かないことにはならないと思う。それに、遅れるにしても1時間以内にしよう。できるだけ早く連絡もしよう。あまり遅れるようなら引き返すこともやむを得ない。
行くぞ、直進だ。

右画像は、SC尾根を見上げて撮影した。
地形図の印象通り、急勾配ではあるが岩場という感じはない、単調な斜面のようだ。
濡れているので登るのは面倒だろうが、下る分には、手掛かりの樹木も多くあるし都合が良さそうに見えた。
既に道が付いている感じはなかった(よく探していないが)。



14:35 《現在地》

SC尾根では実際はほぼ立ち止まっておらず、歩きながら道を選んでいた。
そのまま進むと、いくらも行かないうちに、また水の音が近づいて来た。これがウドが沢の本谷だった。

ウドガ沢の本谷は、桃の木峠の切り通しのような巨大な鞍部から流れ出ている。これを詰めれば、直ちに峠という位置にある。
しかも地図上で見る限り、蛇行はなく一直線だ。
峠まで直線距離で僅か700m、落差170mの位置にあり、今後これより峠へ近づく機会は、当分現われない。
したがって、ここはSC尾根に次ぐショートカットの候補地だったが、原則的に水際はリスクが大きいと考えており、次点止まりだった。

眼前の本谷は、水が持つエネルギーの凄まじさを見せつけた。
一切の人工的な治山装置を持たない谷の解放された力である。
かつては橋があったはずだが、道と谷底の落差は大量の土砂に埋め立てられていた。
復元歩道が架けた簡単な丸太橋も、既に半ば埋もれ、或いは押し流されていた。架けられて2年も経っていないはずだが、この有様だった。

最大の男鹿川橋をはじめ、水上沢の橋、ウドが沢の下流を渡った橋、そしてこの上流橋、これまで見た塩原新道のあらゆる橋は跡形が全くない。橋台すらない。
思うに、これらの橋は完成から数年と保たず、自然の猛威に倒壊したのだろう。県議会が、「民力に耐えず」を理由に道の維持管理を否決した根源は、これらの橋の問題が大きかったと私は思っている。



(←)
架橋地点というよりも、実質的には徒渉地点というべきところから、ウドが沢を見上げている。
今日は雨だから勢いよく流れているが、渇水期にはほとんど伏流となり、白いゴーロを露わにしていることだろう。
見える範囲に滝はなく、それらしい音も聞こえない。淡々と登っていけば、ショートカットが出来そうな感じはあった。

だが、この迷いは直前に断ち切ったばかり。渡って、対岸へ取り付――

(→)
――こうとしたが、谷から上がるのが容易でなかった。
かつて橋台もあっただろう対岸の橋端は、洪水に崩されたらしく、手掛かりの乏しい急峻な土の斜面になっていた。
復元区間内であることを忘れさせられる光景だが、直近の復元作業以降に崩壊したのだろう。この斜面には踏み跡が全く見あたらなかった。

木の根を手に取り、よじ登って、路盤に復帰した。



路盤に戻ると、そこで復元の手は途絶えていた…とはならずに済んだ。
だが、ウドが沢を左に見下ろしながら進む間、崩壊地が頻発した。
そのせいなのだろう。
復元の手も、次第に手薄になってきたのを感じる。
最初のうちは丁寧に桟橋を用意していたような場面でも、今はムリヤリな高巻きの通路に置き換えられるようになった。

しかしそれは無理からぬ事だ。
既に林道から3km近くも入ってきた。土木作業の道具を持って、ここまで登ってくるだけでも大変だろう。むしろよくやったものだと思う。私だったら鍬1本でも持ち込み御免蒙る。




14:44 《現在地》

途中から時間に余裕がないことを自覚していたせいもあったろう。
なんとこの日、出発からここまでほぼ何も食べてなかった。さすがに空腹に耐えかねた私は、リュックから潰れきった菓子パンを取り出す。
歩きながら食べた。

1時間ほど前に本降りのようになってしまった雨だが、依然として雨脚を強めていた。
頭上の枝葉にため込まれ、集められて大きくなった雨粒が、口に運ぶそばからマーガリンとジャムに飛び込んでくる。
雨を食っている。



15:01 《現在地》

敢えなく15時を迎えた。
峠までは、まだ3km弱はあるだろう。……あと1時間は、かかりそうである。
ゲームのキャラじゃないんだから、決意によって覚醒するなんてことはなくて、残り体力応分のペースで淡々と進んでいるだけであるため、決意の場所からさほど進まぬ間に敢えなく15時を迎えてしまった。

しかも今は、決意の場所(SC尾根)にいた時より遙かに峠から遠のいている。
海抜1050m付近の等高線に服従して、ひたすら峠より遠ざかるトラバースが続いている。はっきり言ってなにをしたいのか、どこへ行きたいのか、分からなくなりそうな遠ざかり方である。
ごく大雑把な見立てだが、過去峠に一番近づいていた地点からは1km以上遠くまで離れて、ようやく切り返すことになる。
今はその切り返しに向けた、忍従のトラバースである。

道もご覧の通りの様子で、“復元”も今や、斜面に幅30cmの踏み跡を刻むことにまでスケールダウンしている。
とはいえ、あるのとないのとでは大違いである。




15:06 

キタ―――!!!

まだかまだかと恋い焦がれ、何度も見上げた右斜面上部に、やっと迎えの道が来た!

遠のきのトラバースが終わり、やっと前向きになれる待望の折り返し地点は、間もなくだ!!

大幅な時間超過への不安に戦きながら、GPSも持たず、ただ1枚の実測図を頼りに
私は一体どこまで峠を背にして進めるのか、酷く不安になってきたところだった。
助かった…。心折れるより前に、峠よりの迎え手に辛うじて掬われた……!




焦らしプレーにご用心。

全くまどろっこしいが、すぐに切り返しにはならず、焦らしの並走を見せつけられた。
強引に斜面を登れば、時間も距離もやや短縮できるが、駆け足でもいいから完歩したい。
雨降る斜面をときおり飛び跳ねるようにしながら、最後までトラバースし続けた。



15:08 《現在地》

峠を背にして進むこと約40分。
海抜1100mに位置する、広場のような切り返しに辿り着いた。

やっと切り返す。

ここは既にウドが沢の水系ではなく、隣の紅藤沢の上流に入り込んでいる。
ここにようやく、馬車を転回させられるだけの緩いカーブが置ける緩傾斜地を見出して、切り返す。
なぜこんなに迂回してきたのか本当の理由は分からないが、それくらいしか思いつかない。
(狭い斜面に九十九折りを作ると、1箇所の崩壊が致命傷になることがあるので、それを避けた説や、
馬車の車体構造上苦手だった転回を出来るだけ減らすために、このような線形にしたという説もある)

無言のまま、スタスタと切り返し、しばらく見上げていた上の段へ


はいったらば




道は、幻想世界にあった。

私は心を打たれ、ずっと我慢して止めなかった足を、止めていた。
と同時に、この道が、三島通庸の生涯が最後に作らせた道であることに思い至った。

彼は明治17年10月に土木局長の辞令を受けると、すぐ東京にもどって首都改造のプランを練った。
さらに警視総監としての辣腕を振るった。だがそれから間もなく明治21年、53歳の若さで病没した。
彼が県令時代の最後に開通させた塩原新道は、いわば“道路県令”としての遺作である。
いままで不思議とその事に意識が向かなかった。

猛烈な衝動がわき上がり、叫びが喉元を激しく突いた。
一瞬だけ理性の箍(たが)に触れたが、瞬に突き破った。



↓音量注意↓20代のテンション注意↓恥ずかしさ注意

うおー!

みしまーー!!!

私の持つ全ての愛が解放され、この年一番の快感に酔いしれた。




橋も隧道も石垣すら見ないというのに、ここまで熱くなっている自分に驚いた。
この霧に煙る道だって、冷静に見れば、ただ山腹の土を掘って道形に
据えたものが延々と続いているだけの光景である。

出発前のトリップブルーの時なんて、道のりの余りの長さと、“何もなさそうさ”に、
うんざりして、つまらなそうだと本気で思っていた。

それが、土砂降りの雨のなか……、こんな猛っちまうなんて…。

やっぱり、三島の道って最高だ…。

たぶんこの道、俺をオブローダーとして覚醒させるために存在している。




行く道と、来た道と。

壮大な山岳に、道という形の意思が刻まれている。

それだけで、人間賛歌の名画である。




夢見心地で私は歩いた。

条件さえ整えば、百有余年を放置されても、道はこれほど形を保つ。
この探索の前秋に、2日間におよぶ死闘を演じて敗退した、明治18年生まれの清水国道とは、
境遇が酷似しているだけにどうしても比較してしまうのだが、現状はあまりにも異なる。
仮に復元の手が全く入っていなかったとしても、遙かにこちらの状況は良い。




桃の木峠まで あと.5km

塩原古町まで あと22.5km




三島通庸への傾倒

この頃の私の三島通庸への傾倒は、本当だった。

私には、平成15(2003)年の万世大路探索によって廃道の真価に触れたという思いがあり、そのとき初めて道というものの裡にある、「道を計画する人」の側に興味を持った。
そしてそこに、三島通庸という、誤解を恐れずに言えば、オブローダーの父のような“道路県令”がいた。
彼が作った東北各地の偉大な明治馬車道に魅せられた私は、廃道趣味の深化と同時に、通庸の研究にも没頭していった。
この時期からの読者であれば、ご存知だと思う。

そして、私のなかにおける通庸との決着が、この塩原新道だった。
この道の攻略を果たしたことで、私は通庸により廃道探索という生き方を育てられた東北から、その生き方で稼ぐための関東へ活動の軸足を移し、様々な有名廃道に取り組む決意を新たにした。
こうした三島との決着の仕上げの段階に、(三島が土木局長時代に開通式に出席している、全国区の廃道である)清水国道攻略もあった。

これを書いているいま、私は再び東北の人になっているが、当時の通庸への強い傾倒を思い出すにつけ、鮮烈だった塩原新道での絶叫を、赤面すると同時に誇らしくも思う。
私が廃道で生きる決意の叫びだったというのはクサいが、確かにそういう心の迸りがあった。



霧の中の秘めたる逢瀬


2008/5/31 15:28 《現在地》

折り返して約20分。ロング・ディスタンス。
明治馬車道を時空の瓶詰めにしたような信じがたいほど美しい道が、暫し続いた。
おおよそ復元とは無関係に、この状況は存在していた。
まずは地形に恵まれたこと、そして植林を含む大規模な山林開発が行われなかったことが、千古の森に眠る明治廃道の印象を今に留めしめたのであろう。

一度は夢見心地になったが、この安定した状態を利用して、1分でも早く峠に辿り着かねばなるまいと、すぐに目を覚まして、真剣に長足で歩いた。
あっという間に、さっきまでいた下段の道は霧に隠され、私はまた目の前の道と2人きりになった。
霧がますます深くなり、代わりに雨が少し小降りになってきた。

この写真は、路肩から見た白い風景だ。
地形的には開けており、もし晴天なら、そして視界を遮る樹木もなかったなら、こんな風な展望を得られたはずだ。
この辺りの標高1100mというのは既に、この北側3kmを東西に走る中央分水嶺の帝釈山脈(山王峠周辺)より高いので、その頭越しに会津地方の広大な山域に視界を広げることが出来るはずである。ただし、右方には那須山地の主脈(あの塩那道路の“天空街道”が走る1700m以上の稜線)があり、その方角は見晴らせないだろう。

こうした壮大な眺めを全て隠してしまっている今日の天候だが、憎らしいとは思わなかった。
秘められた霧の中での、密やかな道との逢瀬こそ、今の私には最も相応しいと思ったからだ。
燦々と照りつける日の中で、蝉時雨に囃されながらでは、これほど興奮しなかっただろう。

さて、早足で進む私の前方に、三度、ウドガ沢の魔手が接近しつつあった。
桃の木峠の鞍部は、完全にウドガ沢の頂点に存在しており、峠に近づくことは、ウドガ沢に近づき完登することと、同義なのである。
谷への接近に伴い、山は次第に険しくなり、路盤も同時に荒れていった。

楽園への滞在は、おおよそ20分間で終わった。


そういえば、もう長らく丸太の橋を見ていない。
それに、なんか…、踏み跡が頼りない。

これは、もしや……。
出発前の情報では、復元歩道は(この当時)峠にはまだ達していないということは分かったが、具体的にどこまで進んでいるのかについては不明であった。
現在、峠まで残り2kmほどになっていると思うが、折り返しの辺りから、踏み跡の数と質が目に見えて衰えていることに気付いていた。

もしや、既に復元作業の末端を超えているのではないか?




あれが峠か!

とくに印象に残らないカーブを回った直後だった。
唐突に、すぐに手が届きそうなほど近くに稜線が現われて、ハッとした。
方角的に、今取り付いている山の上方であり、桃の木峠の方向である。

しかも、白い稜線のシルエットからは、手前の樹木に隠された位置に、顕著な鞍部の存在が予感された。
あそこが桃の木峠に違いないと確信した。
脳内の地図と綺麗に符合した。

本当に近くに見えたが、実測図の道は一度峠直下をウドが沢の対岸まで行き過ぎてから戻ってくる形で峠に入る。
なので、実際にはもう少し道のりがある。
それでも、こんないきなり指呼の間に峠が見えて……、とても嬉しいです! へへっ。




路外の景色に目を奪われたのは一時のことで、眼前の道にも注目すべき光景が。

路上に生えた木々に、まだ新しい白いテープが巻かれている。何本も。
これまで見なかった光景であり、おそらくだが、次回の復元作業で伐採をするという目印ではなかろうか。

…ということは、つまり、この先…




15:28 《現在地》

復元区間!!

ここが、復元区間の終わりだった。

峠まで残1.5kmを切った、ウドガ沢源頭の小さな支谷を渡ろうとするところで、
横川林道から4km以上も続いた復元歩道は、遂に途絶えたのである。
(なお、平成20年の暮れまでに、復元歩道は峠に到達したそうである)


いままでサポート、ありがとう。

あとは独力で、頑張ってみるよ。



  …でも、

ここはちょっと恐い………かも?




ここでの斜面横断が、男鹿川橋跡の突端で“岩尾根”へ降りた時に次いで、
本日2度目となる、命の危険を感じざるを得ない岩場での行動だった。

特に、チェンジ前の画像。
復元歩道側から谷へ下りるところは、岩の面に砂利が浮いており、ステップも浅いので、
かなり怖かった。こういう岩を登るのならまだしも、下って行くのは今でも恐い。

慎重に、突破した。



難場を越えれば、ご覧の通り。

復元の手が入っていないとみられる場所でも、基本的には明瞭な路盤が存在していた。
ときおり谷に分断されている場面だけが、道にとっての正念場である。
ただ、今の私にとっての最大の気がかりは、時間のことだ。
夢中で歩いていても、時間の感覚も合わせて早まっているかのように、気付いたときには16時まであと15分になっていた。
約束の17時下山は、完全に不可能である。

焦ったが、この頃デジカメに私は何度もボイスメモを吹き込んでいる。
「いやー、マジで長い」とか、「進退も考えなければならないかも知れない」などと、そんな弱音混じりの録音が残っている。
しかし、ここまで来たら行くしかないでしょと、心の中では決まっていた。これらの弱音は、ポーズであった。私だって葛藤しているんだというポーズ。誰に対するものだったかは、よく分からないが。




お。 これは…。

シカの角?

白い綺麗な角だ。
折角なので戦利品にしようと思い、拾い上げるとそのままリュックに突っ込んだ。
今も自室のどこかに眠っている。




15:50 《現在地》

そしていよいよ、
ウドが沢との最終決戦へ!

会津側より峠に向けて放たれた刺客。
そんなに三島が憎いかウドガ沢よ。
お前今日何回目だよ、この道を分断するの。

しかし、そんな腐れ縁との決着も、いよいよである。
普通、峠に近づいた谷は浸食力を失って、穏やかな湿地のような所に落ち着くのであるが、ウドの野郎はこの峠直下に至っても、未だ牙を失っていない。
思いっきりスパルタンに切れ込んで道を分断していて、迂回は手間取るような地形だ。
時間的に、正面突破以外選べない。

お前には負けん! とばかり、死力を尽くし、下って上った。


(←)
これが谷の中の眺め。
【前回横断地点】から500m上流であり、標高的には150mほど上っている。
このゴーロの雰囲気だと、谷伝いに上り下りすることは出来そうなので、いちおう、“SC尾根”がダメだった場合のショートカットコースの候補になる。

なお、左岸上部のシダが濃いあたりが左岸の道の始まりだが、例によって橋台の痕跡は一切無い。
塩原新道には、石垣というものが無かったのだろうか。
こんなに石垣がない明治道は、初めて見るような……。
もしかして……というレベルでなく、おそらく確信的に言えることがある。

手間がかかる石垣をあまり作らないことでも、工期の短縮を狙ったのだろう。
たった3ヶ月で20km以上の山岳道路が造られたという“伝説”の真相は、そこにあるのだろうか…?



突破成功!

その先にも、何事もなかったかのように、幅広の道が伸びていた。
ただし、私にとってはありがたくない変化があって、それは水上沢以来の笹藪の出現だ。

今日は、どう転んでも、あと1km少々頑張れば峠に着いて、“帰れる” からいい。

だが、今日を成功すれば次に挑戦することになる塩原側には、こういう手付かずの笹藪の道が、長く長く、最大20kmも続いている可能性があるということに思索が至り、……遠くない未来の探索に、恐怖を覚えた。



15:54 《現在地》

ついに、やっと、きたよ…

今度こそ、峠は目前である。
ここがウドが沢の始まりで、真っ正面の緩やかな凹みの奥に桃の木峠が存在する。
直線距離で約130m、高低差は20mに過ぎない。直登は十分に可能である。

だが、三島は妥協を許さない。

道はここに至ってなお反転し、さらなる迂回を試みるのだ。

峠まで、ラスト700m。




この笹藪を突っ切れば、峠はすぐである。
踏み跡は残っていないが、当時からここを歩いた者もいたはずだ。
私にとっても魅力的なショートカットではあったが、濡れた笹が背丈を越えるのに辟易したのと、
やはり峠への最初の対面は完全性を重視したいということで、正規ルートを辿ることに。



このとき、霧が少しだけ薄くなって、あまり遠くない山腹が、僅かに視界に入った。

これはウドガ沢右岸の山腹であり、私はここに至るまで、3度この山腹を横断しているはずである。

もし視界明瞭、樹木落葉であれば、図に描いたような遠大な道形が見えるかも知れない。



この景色を見納めて、峠へ向けて歩き出した。


桃の木峠まで あと.7km

塩原古町まで あと20.7km