道路レポート みなかみ町小川島の未成軍用道路跡 最終回

所在地 群馬県みなかみ町
探索日 2021.01.21
公開日 2021.03.08

粘りの軍用道路遺構


2021/1/21 13:27 《現在地》

掘りかけの切り通しという、珍しい上にとってもエモ〜い発見に励まされつつ進んでいくと、橋のない谷の先にも路盤があって、道は非常なしぶとさを見せた。
しかし、この先の斜面はかなりの傾斜だ。路肩部分の下は一気に利根川まで切れ落ちているので、慎重にトラバースする必要がある。獣道を含め全く踏み跡がないので、少々怖かった。

チェンジ後の画像は、振り返って撮影したもの。
やや白飛びしてしまっているが、奥にまだ月夜野大橋が見える。川べりの未成道跡はあそこから始まっていた。
また、50mほど先の切り立った尾根は、例の掘りかけの切り通しがあった場所だ。
こちら側からだと掘りかけの要素はなく、ただの険しい岩尾根が見えるだけだ。

眼下の利根川は、ちょうどこの辺りの崖下を洗うように勢いよくぶつかってきており、典型的な川岸通過の難所を形成していた。
現在ある町道上津下津線は、水面から70mほど高い台地上の平坦地を通過しているが、そのために急な上り下りがあるので、やはり難所になっている。
軍用道路は、アップダウンや九十九折りによる迂回を嫌って、より直線的に川沿いを通過しようとしたのが明確である。



此岸はこのように険しいが、川越しに眺められる対岸は、とても広々としていて長閑だった。
広大な氾濫原の向こうには、いかにも街道沿いらしい細長く密な街並みが見えた。
月夜野大橋が開通するまでの国道17号(三国街道)や国道291号(清水越新道)、さらに上越線が育て上げた、後閑の街並みであった。
街並みは下流の沼田市街地まで地続きであり、これは沼田盆地における古くからの開発中心軸であった。

軍用道路が敢えて地形が易しい左岸を選ばず、右岸に進路を採ったのは、目的地とされる上川田の地下工場が右岸にあったことも大きいだろうが、都市部を避けて道を通したいというバイパス的な思惑も強く働いたのかも知れない。




いつ道が終わってもおかしくない状況だが、まだしぶとく続いていた。
山側の切り立った法面の存在は、最も信頼できる工事の名残だった。
川側も同様に切り立っているが、石垣やコンクリートの擁壁は一欠片もない。

この険しい地形と、昭和20年頃という建設時期および車道だったことを考えれば、上記のような補強のための構造物があって然るべきだが、それが全くないというのは、この道路工事が荒通し(パイロット道路の建造)の段階から先には進んでいないことを想像させた。



地形がますます険しくなり、路盤は遂に川の真上に近いところまで追いやられるようになった。
道幅全体が路肩と思えるくらい狭くなり、これは道が未完成だからなのか、崩れたからなのか判別は出来ないが、とにかくいつ途絶えてもおかしくない危機的状況と思われた。

唯一の救いは、直下の川べりに滝合用水(&管理用道路)が存在していて、仮に軍用道路が尽きたとしてもエスケープして先へ進むルートが確保されているということだった。これはとても頼もしい存在だった。




13:32

路盤の状況が悪くペースは遅いが、着実に前進していた。
しかし、ろくに進まぬうちにまたしても障害となる谷が現われた。
前回の未成の切り通しのところにあった谷よりは易しく、トラバースでそのまま突破出来そうだったが、あるべき橋の痕跡は全くなかった。

写真は、道の高さから見上げた谷奥で、擂り鉢状の登降を著しく拒絶する谷だった。この上に滝合地区の耕地や人家があるのだが、全く気配を感じられない。景色は未踏の山峡だった。

そして――



道がない!

谷を越えて、その先の斜面に入っても、さっきまで道があった続きに、平場は現われてくれなかった。

また工事の不完成のために、道が途切れているのか。
しかし、前の切り通しのところのような作りかけの道も、今度は見えなかった。
地形的に選択の余地はまるでなく、この目の前の小さな岩尾根は切り取りによって開削されねばならないのに、着工の気配がなかった。

今度こそ、本当に、未成道の末端に達してしまった予感があった。




これは、出発前にも見ていた(そして紹介していた)昭和23(1948)年の航空写真だ。

この画像を見ても、北西から南東へ向かう川沿いの工事跡は、最後までは貫通していない。
ある谷筋に入ったところで線は途絶えていて、それより先には全く見えない。

また、既に越えた未成切り通しのところは、その鋭角に切り残された岩角が太陽を反射したせいなのか、妙に白く目立っている。
事前に見た段階では、さすがにこれで未成の切り通しとは予期しなかったが、現地の景色を知ってから見るならば、確かに未成の切り通しなのだった。

というわけで、航空写真によっても、この場所が工事の末端であろう事が強く推察される状況であった。
最後に相応しい何かの目立つものはなく、或いはあったけれど谷に押し流されたのかもしれなかったが、ここで遂に――




私は、軍用道路のトラバースを終了し、さほどから下をずっと並走していた滝合用水の水路兼管理道路へ下降することに決めた。
幸い、地形が良くて簡単にエスケープできた。


(←)これが滝合用水の水路兼管理道路だ。

非常に水面に近いところを通っており、少しの増水で水没する造りになっているが、あくまでも取水の施設なので、洗われることには抵抗を持っていないようだ。
とはいえ、護岸はしっかりした造りで、水中で耐える強さを持っている。
なお、農閑期だからだろうが、全く水は流れていなかった。

ここから観察しても、前方の崖の上には、全く平場が見当たらない。今度こそ本当に終わってしまったようだ。




そして、この険しい部分、利根川が崖下を直に流れる右岸の険悪部は、残り200mほどで終わる。
そこから先は、軍用道路の目的地とされた上川田の孫目川原まで、広い堆積平野の農地が続いている。
眺めの上でも、間もなく広闊な平野部に解放されることは、明瞭に察せられた。赤城山が、美しかった。

軍用道路は、難関突破まで あと一歩 のところまで、進んでいたようだ。
完成まではまだ遠かったと思うが、工事の先端は本当に難所突破間近だった。
だが、終戦に間に合わせることは出来ず、ここで工事中止となったのだろう。



こちらは同地点から振り返って見た上流方向の眺め。
水路さえなければ、崖の直下を激流が迸るという苛烈な地形。

なお、この辺りが、『町史』に軍用道路の最終到達点として地名が出ていた
「ギョーニン渕」(行人渕か)というところなのだろう。
竜ヶ渕は、だいぶ地形が変わっていて、もはや渕ではなくなっていたが、
こちらはいまも名前に負けない、川の難場を保っていた。



(←)
この写真は、ほんの少し水路を上流へ戻ったところで、崖上の軍用道路跡(【この写真】の場所)を見上げて撮影したものだ。
このように、かなりくっきりと道が見える。
そして、やはり下から眺めても、石垣やコンクリートの擁壁は皆無であった。
(チェンジ後の画像の説明は、少し後で)

(→)
今度は下流方向へ水路伝いに歩いて行く。
すぐに行く手に水門らしいものが見えてきた。

歩きながら、常に意識は頭上の斜面に向けていた。
岩場を過ぎて、いまは一面に笹が生い茂る急斜面になっているが、そこにも道の続きは現われなかった。

(←チェンジ後の画像)
さらに進むと、また鋭いV字谷の支流が合流してきた。
両岸とも大変な岩場になっていて、ここに道を貫通させるのは、…安易な表現になってしまうが…、とても大変だろうなと思った。
距離は短くとも、残された区間は総じて地形が険しく、まさに最後の関門というに相応しい区間だったようだ。




13:49 《現在地》

水門までやってきた。
ここで水路と管理用道路が兼用状態を脱して、分かれている。
水路は水門からそのまま隧道に入り、正面の張り出した岩場を潜っているようだ。
一方、管理用道路は左に逸れて、岩場と川の間を抜けていく。

いよいよ私の軍用道路の探索も切り上げの時が近づいていると感じたが、念のため、この右の竹林に道形がないことも確かめることにした。
もうないとは思ったが。




あった! 道が!!

マジかよ(笑)。

先ほどまで見ていたものとそっくりな道形が、なんと復活した!
航空写真では見分けが付かなかった場所にも、ありやがった。

し、しぶとい…!



すぐによじ登って確かめたのだが、間違いなく先ほどまでの軍用道路跡の続きだと思われた。

幅や、岩場の削り方や、荒れ方など、、思いつくあらゆる要素が、軍用道路の再来を感じさせた。
とはいえ、いま見てきた通りで、引き返す方向の奥行きはほとんどない。
竹林が終わり岩場に突き当たったところで、即座に終わっていた。

一方、下流方向はどうかというと――




こちらもあっという間に岩場にぶつかって、終わってしまった。
ちょうど、水門の先の水路が隧道となって潜っている岩場が、道路を遮っている形だ。
ここを越えるためには、やはり大規模な工事が必要だろうが、着手の形跡がない。

結局、この水門前の道路跡は、僅か20mから30mの長さしかない、どことも繋がっていない孤立した痕跡だった。
だが、ここまでしぶとく工事跡が点在しているということに、驚いた。




「みなかみ町地図情報」で公開されている大縮尺の地図上に、これまで発見した軍用道路跡の位置を赤線で示した。
途中、明らかに未着工と思われる部分や、もしかしたら大規模な崩落で埋没したのかも知れないが現状として道形が皆無である部分は空白としたので、線は奇妙に飛び飛びとなっている。

おそらく、計画区間の各所で同時多発的に工事を行うことで、全体の進捗を極限まで早めようという思惑だったのだろう。
資材は乏しかったかもしれないが、人員は相当に投入していたことが感じられ、かなり速成を求められた工事だったのではないかと思った。
しかし、工事車両や大規模工作機械の導入路は全く考慮されておらず、まさしく人海戦術的な手作業工事の姿だけがイメージされた。




難所が終わり、探索も終わる


14:05 《現在地》

滝合用水の水門前に降りてきた。
用水は水門を潜るとすぐに隧道となる。水門の側面に銘板があった(チェンジ後の画像)。
昭和58年にこの先の隧道の50m区間が改修されたようで、これは地図上から読み取れる隧道全長の半分程度の長さである。
以前見た【旧水路の隧道】と、この洞内で接合しているのかも知れない。




辿るべき軍用道路の跡は途絶えており、水路と同じ高さにある農道(水路の管理用道路)で、最後の崖地を回り込んでいく。
ここで利根川の水流は左に離れていき、道と川の間に広大な氾濫原が登場する。
常に崖の上に注目し、道形の復活を期待したが、それはないまま……



14:06 《現在地》

眼前に、大平地区の広い耕地が現われた。

小川島の耕地の外れで竜ヶ渕の尾根に行く手を阻まれ、自転車を乗り捨てた時点から、約2時間。
紆余曲折ありつつも、隧道1本、掘りかけの切り通し1箇所、そして無数の土工跡を包含する、滝合の利根川べり崖下の全区間約800mを踏破した!

利根川の堤防がまたここから始まる。滝合用水も堤防に埋設されているようだ。
堤防は約3km先で再び段丘崖が迫り出してくるところまで、かつて氾濫原であった肥沃な耕地を守っている。
田地の途中に、古くは村の境、今はみなかみ町と沼田市の境があるが、地形的には一つの広大な農地である。
軍用道路の目的地であり、地下工場が作られつつあった、上川田の孫目川原と呼ばれた地点は、ここから約2km離れた沼田市側にあった。



農道は山の際に沿ってなおも南下していく。
川は離れても段丘崖は一定の急峻を保っており、古くはここに水勢のあたっていた時代もあっただろう。

傍らにある鬱蒼とした竹林に目を向ける。
軍用道路の遺構を最後に見たのは水門の所だったが、もしまた復活するなら、このような地形の所だろう。
そんな予感を確かめるべく、脇道に逸れて竹藪へ向かった。




踏み跡があったので辿っていくと、「くくり罠」があるという注意書きがあり、それでも入っていくと、確かに設置されていた。
この画像に罠が見えているのだが、見えない人は現地で引っかかります(笑)。
チェンジ後の画像は拡大したもので、これならはっきり見えますね。
作動させてしまうと(本来の害獣対策が出来ず)迷惑を掛けるので、気をつけて回避した。(万が一動作させた場合の外し方、戻し方などは予習済み)



14:10 《現在地》

おおおっ! あった!

最初は平場を見ても半信半疑だったが、南へ少し進んで斜面が狭まってくると、細長い平場の存在がより明瞭に現われてきた。
単なる段畑や屋敷跡ではなさそうで、未成道の跡と見て良さそうだ。

水門の所から200m近く離れており、この間にはおそらく痕跡はなかったと思う。
本当に細切れになっているが、地形の隙を見て作ってあるという感じが、とても執念深い。
普通は難しい所から着手するのが正しいと思うのだが、必ずしもそうなっていない。




で、このまま耕地の縁の斜面を延々続いているのかと……、自転車を置き去りにしてきた身としては、喜びと同時に果てしなさへの不安も感じ始めた矢先やっぱりまたすぐ終わるのね((^_^))!

今度の平場も50mほどで終わってしまった。
最後はやはり急斜面に阻まれる感じで、未開削というのが伝わってくる状況だった。




末端部分を、すぐ下を通る農道から振り返って撮影した。
奥の笹藪の途中から、チェンジ後の画像の矢印位置まで、50mほどの間だけ道形があった。

この辺りの遺構は全く以て地味な存在だが、大平の耕地を軍用道路がどのように横断しようとしていたかを考える時に、その手掛かりを与える価値ある発見といえる。


右図は昭和23年の航空写真に見る大平周辺だが、従来はこれを見ても、軍用道路がどこに建設されようとしていたか見当が付かなかった。
小川島ではまっすぐ平地を横断していて、その痕跡は航空写真上でとても目立っていたが、大平耕地ではそのような線が見えず、カクカクと折れ曲がりながら延びていく滝合用水(水色に着色)を道と誤認しかけたくらいである。

単純に大平付近では軍用道路の工事が全く行われなかったということも従来考えていたのであるが、もしかしたら、道は山際につけられようとしていたのかもしれない。
まだこの先では現地調査を行っていないので、最終判断ができないが、軍用道路の予定線はチェンジ後の画像に示した赤点線の位置であったと予想している。


14:19 《現在地》

間もなく、段丘の上下を結ぶ九十九折りの町道が迎えに来てくれた。
ここを右折すれば、1級町道上津下津線へ抜けられるので、スタート地点の小川島(の自転車デポ地点)へ帰れる。

このコースはアップダウン各70mの山越えで、距離も川沿いの倍くらい(約1.6km)あるが、川沿い最短ルート建造の試みは大戦の狭間に消えたので、現在の我々に許された迂回路を歩いて帰ろう。

前進終了、撤収開始!




ミニ机上調査編 “軍都沼田”について『沼田市史』による補記


今回も探索後に机上調査を行った。
その内容を紹介する前に、探索のきっかけとなった『月夜野町史』の記述を、再掲しておく。
探索後の机上調査ももちろん、この町史の記述を下地にして不足を補うことを狙ったのであり、重要な前提情報であった。

役場庁舎の西方、利根、赤谷の両川を挟んで指呼の間に位置する小川島部落は、名胡桃台地の裾に位置し、北は小袖の岩壁が、南は竜ヶ渕がそれぞれ、赤谷川、利根川に迫って人を寄せず、加えて古い時代から赤谷川の氾濫におののくなど、恵まれない生活を余儀なくされていたのである。(中略)
昭和12年5月関口橋が架けられて、この不便さから脱却することはできたが、今度は洪水の度に橋は流失、或いは破損し、橋との戦いが続けられていた。
昭和19年、上川田の孫目河原に、旧陸軍の地下工場が建設されることになり、軍用道路として関口橋以南が拡幅改良され、竜ヶ渕まで到達、その先はトンネルによって進められギョーニン渕ぎわまで掘り進んだところで敗戦となって工事は中止され、今はその形骸を残すのみとなっている。

『月夜野町史』より

『月夜野町史』が、軍用道路の目的地である“旧陸軍の地下工場”を、現在の沼田市上川田あるとしていたことから、探索後は『沼田市史 通史編3 近代現代』(以後『市史』とする)を入手して、追加の情報を求めることにした。

結果、軍用道路の全貌や、地下工場の正体について、非常に重要な情報を得ることが出来た。
それらを紹介する前に、太平洋戦争当時の沼田周辺には、右図のように多くの軍事施設が存在しており、一種の軍都化していたという事実を、その経緯と共に述べておきたい。

『市史』によると、沼田が軍都化したきっかけは、日中開戦の昭和16(1941)年に、国内初の化学戦専門部隊であった日本陸軍東部第41部隊が、島根県松江市から当時の沼田町へ移転したことに始まるという。兵舎および陸軍病院が現在の沼田中学校および沼田病院一帯に建造され、練兵所、将校宿舎、憲兵隊、火薬庫などの附属施設も町内各所に設置された。同時に市街地周辺の道路拡幅や住宅地造成、水道などのインフラ整備も急ピッチに進められた。
さらに、隣接する久呂保村(現昭和村)の赤城山裾野の広大な敷地に毒ガス戦を想定した赤城演習場が設置され、施設を連絡する多くの軍用道路が整備されたという。
以後、沼田駐屯は終戦まで続き、多くの軍人が町民と生活を共にしたのだった。(幸いにして、大規模な空襲に遭うことなく終戦を迎えている)

以上は、今回探索した軍用道路から見て利根川を挟んだ対岸にあたる旧沼田町の事情であり、直接の関係はない。
そして『市史』は続いて、この他にも多くの軍事関係施設が周辺にあったことを、次のような書き出しで述べている。

太平洋戦争末期、利根・沼田地方には、三つの大きな土木建設事業が進められていた。
『沼田市史 通史編3 近代現代』より

大戦末期に利根沼田地方で進められていた三つの大きな土木建設事業の一つは、後閑の三峰山麓に作られた中島飛行機地下工場であり、小字名の芹田から「セ号工事」と呼ばれたものだった。昭和20年3月に着工し、終戦間際の7月末に完成したそうだ。

また一つは、日本発送電が計画した利根川の岩本水力発電所(現在の東京電力岩本発電所)の建設で、京浜工業地帯の軍需工場への送電を目標としたものだった。昭和18年に着工し、20年2月に通水可能の段階まで進んだが、翌月の東京大空襲で水圧鉄管の製作所が焼失したり、工業地帯の焼失によって緊急施工の必要性が失せたとして中止されたとされる。(戦後に完成して現在も発電を行っている)

そして、残る一つにして、『市史』が最初に紹介しているのが――



『沼田市史 通史編3 近代現代』より
本土決戦の方針に伴い進められた陸軍火薬製造所(岩鼻火薬工廠)の地下工場(完全防空工場)建設である。これは利根から取った「ト号工事」と呼ばれていた。旧陸軍資料では、地下工場の所在地を利根沼田町と記載してあるが、これは当時の川田村上川田地内、現在の沼田市上川田町で、遺跡はいまも残っている。
『沼田市史 通史編3 近代現代』より

――陸軍火薬製造所(岩鼻火薬工廠)の地下工場(完全防空工場)の建設であり、『月夜野町史』にある“上川田の孫目河原”の“旧陸軍の地下工場”とは、これを指している。
探索中は謎のままだった地下工場の正体は、火薬製造工場だったのである。

明治15年の創設以来、陸軍火薬製造所として長い歴史を持ち、日本初のダイナマイト製造工場でもあった岩鼻火薬製造所は、長らく高崎市の烏川べり(現在一帯は「群馬の森」公園となっている)にあったが、大戦末期にこれを完全防空工場として地下移転する計画が建てられ、移転先として当時の利根郡川田村上山田地区に白羽の矢が立ったのである。高崎市岩鼻と上山田はおおよそ45km離れている。

今回の探索では訪れていないが、地下工場跡の現状(市史は平成14年刊だ)についても、『市史』は次のように詳細に述べている。

地点を見ると上川田町滝合地区で、利根川べりの右岸河岸段丘崖に現状12か所の堅固な横穴が掘られている。そのうちの一つをとってみると、入り口の規模は幅約2.5m、高さ2.1mであり、壁面には無数の鑿岩機ロッド穴(岩石に直径2〜3cmの深い穴を開け、ダイナマイトを仕掛ける)を確認することができる。入り口から15mほど進むと突然に天井が高くなり幅広い空間ができている。右には天井がドームの形に成形された空間もある。ここから35mほど直進すると行き止まりで、左右に連絡通路が延びている。入り口から15mほどは明かりも差し込んでいるが、奥に行くにつれて辺りは闇となり懐中電灯だけが頼りである。床面には掘削途中の石屑(ズリ)が厚く堆積して通路を妨げている。竪穴が5か所ほどあり、さらに天井には巨大な円型の掘り込み、壁面中段に横穴の存在など、単なる地下軍需工場の構造とは大きな相違があり、まさに火薬製造所のそのままの移転という感じである。天井が極端に高いのも、火薬の内部異発に対処するためであったろう。
『沼田市史 通史編3 近代現代』より

このように、市町村史としては異例と思えるほど詳細に洞内を探検した風景が描写されており、例えば壁面に無数の削岩機のロッド穴があることなどは、私が竜ヶ渕の隧道の壁で見たものとの共通点といえるし、入り口の規模(幅2.5m、高さ2.1m)も、(これは偶然かも知れないが)隧道(おそらく導坑)と同規模である。

しかし、地下工場の工事は終戦までに完成しなかったことが、次のように述べらている。

資料によれば掘削の進捗度は16%にもかかわらず、これほどの規模を有していることから判断して、完成していたらこの上山田にどんなにか巨大な軍需工場が造られたかが想像できる。
(中略)
上川田の「ト号工事」は(昭和20年)6月には着工したようである。
『沼田市史 通史編3 近代現代』より

『市史』は、地下工場の着工は昭和20年6月であるようだとしており、『月夜野町史』が、この工場を前提とした軍用道路の建設が昭和19年に始められたと述べられているのとは、1年程度ずれがある。
先に軍用道路から着手したのかと思える記述なのだが、これについてはまだ追加の情報があるので、保留する。
そして、終戦により工事が中止された時点で、地下工場の掘削進捗度は16%であったというのも、重要な情報だ。
残念ながら、この数字のソースとなった“資料”が分からないのだが、とにかく完成からはほど遠い状況での終戦となったのは確かであるようだ。


さて、ここまでの『市史』の記述はいずれも地下工場“本体”の工事に関する内容だが、軍用道路について触れた内容が、この後に控えていた。
これは別の文献からの引用という形になっているのだが、そのまま掲載しよう。

この「ト号工事」について『川田村誌』は、戦時下の生活をうかがわせるものとして、「岩鼻火薬の移転」と題して次のように記している。
昭和18年松根油製造工場設置に相次ぎ、上川田字滝合の岩盤地帯一円を区域として、陸軍直轄事業で、岩鼻火薬工廠の火薬製造工場の設置が計画され、陸軍関係者が出張指揮のもとに、関係地区の買収、一時的工事中の借地等に対する、ほぼ強制的な交渉が行われ、滝合耕地はこれらの使用地のため約7町歩の耕作不能の田畑が生じた。この田地には工作物建物・機械置場・合宿所・倉庫などの築造物を設置して、傾斜地、岩盤の掘り込み作業に従事する人夫は、北古屋・馬込・下村の各部落農家を借り受け、総人員200人ぐらい分宿し、また一方一ヶ所に合宿所を設けて、中共人100人ほどと佐藤梅次を取り締まりとし、中共人使用の世話役に2名を置いて監督させたが、これらの中共人は、おとなしくよく世話役の指揮を守って、労働に従事したことは土地の人も及ばないほどの感があった。 (――続く)
『沼田市史 通史編3 近代現代』より

これは、昭和29年に沼田市の一部となった旧川田村が、合併後の昭和36(1961)年に刊行した『川田村誌』からの引用である。(原本は現在手配中)
『市史』よりも具体的に地下工場築造の模様を伝えており、ここでは地下工場に関わる工事は、昭和18年から始められているように読み取れる。
そして、軍用道路に関わる記述は、この後に出てくる。
刮目せよ!!


当地区一円、すなわち下川田、屋形原、今井、利南の一部地区、桃野などより、毎日何人かの割当人夫が出動し、川田も部落から工場地帯に通じる道路の改修にあたらしめる一面、又軍道として鷺石橋―小川間の道路の新設も亦これ等の人夫の手に依って着々と進められた。 (――続く)
『沼田市史 通史編3 近代現代』より(『川田村誌』からの再引用)

『川田村誌』は、“軍道として鷺石橋―小川間の道路の新設”ということを述べている。
これは驚くべきことで、まず起点として挙げられた鷺石橋(さぎいしはし)とは、現在の沼田市下川田町と同市戸鹿野町の間の利根川に架かる国道120号沼田街道の橋であり、現在の沼田大橋が完成するまでは、国道17号三国街道もこの橋を渡っていた。古くから沼田中心市街地の玄関口となっていた著名の橋である。

そして、終点とされる小川というのは、問題だった。
このありきたりな地名がどこを指すのか、はっきりしない。最初は上川田地区内の地名かと思って探したが見当たらない。
旧川田村(現沼田市)の外だが、旧桃野村(現みなかみ町)下津の小川島(今回の探索のスタート地点)を指しているのだとしたら、右図に示した赤線および赤破線の如き位置に軍道が計画されていたと考えられる。

『月夜野町史』には、軍用道路の工事が小川島の関口橋から南下していったことが述べられており、終点は暗黙的に上川田町地下工場と思っていたが、これが実際には鷺石橋まで続いていた可能性が高くなったわけだ。

もう一つの小川の候補地として、月夜野から利根川右岸伝いに国道291号を4kmほど北上したところに、そのものずばり小川という大字がある(→位置)。地名としてはドンピシャだが、軍道の終点になるような場所かと言われると謎である。だが仮にここを指しているとしても、鷺石橋〜小川島〜関口橋の区間を通ることは確かだろう。

右図のように、鷺石橋〜上川田地下工場〜小川島〜関口橋(〜月夜野)という一連の軍道を想定すると、この全長は鷺石橋から関口橋まで約7kmである。
そしてこれは、利根川左岸を通る三国街道のバイパスのようになる。
そもそも、高崎市岩鼻から移転した地下工場が最も重視すべき輸送路は南方であるはずなのに、わざわざ竜ヶ渕の難所に隧道を穿ってまで北方にも軍道を建設していたのはなぜかというのは、大きな疑問点だ。
北方からも地下工場に必須の物資輸送が計画されていたのであろうか。それとも、後閑の中島飛行機地下工場との連絡を考慮したものであろうか。

仮説として、三国街道のバイパス説を提案したい。
橋は爆撃の格好のターゲットであり、輸送上のウィークポイントであった。そのため、利根川を横断しない三国街道のバイパスを建設しようとしていたのではないかという説だ。(あくまでも軍用の別線バイパスで、置き換えのための新道ではない)

話が少し遠くなるが、東京新潟間の最短ルートである三国街道は、戦前は東京満州間の最短ルートとしても重要視され、昭和9(1934)年に国道9号に指定されてから、昭和14年には三国峠を自動車通行可能とするための改良工事がスタートしていた。だがこの工事は大戦中の資材不足などにより中止された。戦後の昭和27年に国道17号として建設再開され、34年にようやく三国トンネルが開通したという経緯がある。
したがって、戦時中に沼田付近の三国街道を改修する動機は、十分あったと思われる。

一地下工場のためのローカルな道と思っていたものが、日本と満州の間の最短ルートの一翼を担う可能性があった……としたら、これは大いに妄想が捗るところだが、残念ながら、今のところこのバイパス説の文献的裏付けはない。

岩盤掘鑿工事には、北馬込、下村に分宿の工夫を以って、昼夜交代作業によって工事も進捗し、ほぼ完成の域に達した時、昭和20年8月の終戦となり、同時に工事も打ち止めとなったのである。所で此時混乱を来し喧争甚だしく、村人は万一を慮り夜警をする状態であったが、徐々に人夫が三々伍々村を離れ去り、中止後の耕地中、約2町歩の耕作不能地は、戦時中の置土産となったのである。
『沼田市史 通史編3 近代現代』より(『川田村誌』からの再引用)

以上で『川田村誌』の記述は終わっており、軍道について追加情報はない。
また、『沼田市史』以外の文献の捜索も行ったが、現時点で実を結ぶものはなかった。
旧軍関係の文献を多く公開しているアジア歴史資料センターを検索してもヒットせず、利根沼田の戦争体験の聞き取りをまとめた論文も読んだが、直接関係する内容はなかった。
軍事遺構全般に言えることだが、建設中の写真が残っている可能性も低いと思われる。

以上、机上調査としてはいささか不満足であるが、軍道が意外に規模の大きなものだったと判明したことは成果といえよう。
私自身の軍事的知識レベルが低いこともあって、文献以上の推測なども難しいのが正直なところだ。有識者のご見解を頂戴したい。


なお、今回の現地調査では(そもそも探索対象と考えなかったために)探索しなかった、鷺石橋から上川田町地下工場現場までの軍道(「南側区間」と仮称)については、位置を含めて確定的情報は皆無であるが、遺構が存在する可能性は高いと考えている。

右図は、終戦間もない昭和22(1947)年に撮影された下川田〜上川田地区の航空写真である。
これを見ると、鷺石橋から利根川沿いに北上する道が存在しており、昭和4年の地形図にはこの道が描かれていないことから、戦時中の建設である可能性を窺わせる。

そして、この道の延長線上とみられる利根川段丘崖中には、探索した竜ヶ渕付近と同様の生々しさを持った道路開削の痕跡とみられるラインが、点々と続いている。
チェンジ後の拡大画像に示した黄矢印の辺りである。

現在の地形図には、この位置で斜面を横断する道路が存在しないことを確認しており、ここに竜ヶ渕と同様に未成の軍用道路遺構が現存する可能性は高いと考える。
もちろん、探索もしたいと思っているので、続報を待って欲しい。