今回も探索後に机上調査を行った。
その内容を紹介する前に、探索のきっかけとなった『月夜野町史』の記述を、再掲しておく。
探索後の机上調査ももちろん、この町史の記述を下地にして不足を補うことを狙ったのであり、重要な前提情報であった。
役場庁舎の西方、利根、赤谷の両川を挟んで指呼の間に位置する小川島部落は、名胡桃台地の裾に位置し、北は小袖の岩壁が、南は竜ヶ渕がそれぞれ、赤谷川、利根川に迫って人を寄せず、加えて古い時代から赤谷川の氾濫におののくなど、恵まれない生活を余儀なくされていたのである。(中略)
昭和12年5月関口橋が架けられて、この不便さから脱却することはできたが、今度は洪水の度に橋は流失、或いは破損し、橋との戦いが続けられていた。
昭和19年、上川田の孫目河原に、旧陸軍の地下工場が建設されることになり、軍用道路として関口橋以南が拡幅改良され、竜ヶ渕まで到達、その先はトンネルによって進められギョーニン渕ぎわまで掘り進んだところで敗戦となって工事は中止され、今はその形骸を残すのみとなっている。
『月夜野町史』が、軍用道路の目的地である“旧陸軍の地下工場”を、現在の沼田市上川田あるとしていたことから、探索後は『沼田市史 通史編3 近代現代』(以後『市史』とする)を入手して、追加の情報を求めることにした。
結果、軍用道路の全貌や、地下工場の正体について、非常に重要な情報を得ることが出来た。
それらを紹介する前に、太平洋戦争当時の沼田周辺には、右図のように多くの軍事施設が存在しており、一種の軍都化していたという事実を、その経緯と共に述べておきたい。
『市史』によると、沼田が軍都化したきっかけは、日中開戦の昭和16(1941)年に、国内初の化学戦専門部隊であった日本陸軍東部第41部隊が、島根県松江市から当時の沼田町へ移転したことに始まるという。兵舎および陸軍病院が現在の沼田中学校および沼田病院一帯に建造され、練兵所、将校宿舎、憲兵隊、火薬庫などの附属施設も町内各所に設置された。同時に市街地周辺の道路拡幅や住宅地造成、水道などのインフラ整備も急ピッチに進められた。
さらに、隣接する久呂保村(現昭和村)の赤城山裾野の広大な敷地に毒ガス戦を想定した赤城演習場が設置され、施設を連絡する多くの軍用道路が整備されたという。
以後、沼田駐屯は終戦まで続き、多くの軍人が町民と生活を共にしたのだった。(幸いにして、大規模な空襲に遭うことなく終戦を迎えている)
以上は、今回探索した軍用道路から見て利根川を挟んだ対岸にあたる旧沼田町の事情であり、直接の関係はない。
そして『市史』は続いて、この他にも多くの軍事関係施設が周辺にあったことを、次のような書き出しで述べている。
大戦末期に利根沼田地方で進められていた三つの大きな土木建設事業の一つは、後閑の三峰山麓に作られた中島飛行機地下工場であり、小字名の芹田から「セ号工事」と呼ばれたものだった。昭和20年3月に着工し、終戦間際の7月末に完成したそうだ。
また一つは、日本発送電が計画した利根川の岩本水力発電所(現在の東京電力岩本発電所)の建設で、京浜工業地帯の軍需工場への送電を目標としたものだった。昭和18年に着工し、20年2月に通水可能の段階まで進んだが、翌月の東京大空襲で水圧鉄管の製作所が焼失したり、工業地帯の焼失によって緊急施工の必要性が失せたとして中止されたとされる。(戦後に完成して現在も発電を行っている)
そして、残る一つにして、『市史』が最初に紹介しているのが――
『沼田市史 通史編3 近代現代』より
――陸軍火薬製造所(岩鼻火薬工廠)の地下工場(完全防空工場)の建設であり、『月夜野町史』にある“上川田の孫目河原”の“旧陸軍の地下工場”とは、これを指している。
探索中は謎のままだった地下工場の正体は、火薬製造工場だったのである。
明治15年の創設以来、陸軍火薬製造所として長い歴史を持ち、日本初のダイナマイト製造工場でもあった岩鼻火薬製造所は、長らく高崎市の烏川べり(現在一帯は「群馬の森」公園となっている)にあったが、大戦末期にこれを完全防空工場として地下移転する計画が建てられ、移転先として当時の利根郡川田村上山田地区に白羽の矢が立ったのである。高崎市岩鼻と上山田はおおよそ45km離れている。
今回の探索では訪れていないが、地下工場跡の現状(市史は平成14年刊だ)についても、『市史』は次のように詳細に述べている。
このように、市町村史としては異例と思えるほど詳細に洞内を探検した風景が描写されており、例えば壁面に無数の削岩機のロッド穴があることなどは、私が竜ヶ渕の隧道の壁で見たものとの共通点といえるし、入り口の規模(幅2.5m、高さ2.1m)も、(これは偶然かも知れないが)隧道(おそらく導坑)と同規模である。
しかし、地下工場の工事は終戦までに完成しなかったことが、次のように述べらている。
(中略)
上川田の「ト号工事」は(昭和20年)6月には着工したようである。
『市史』は、地下工場の着工は昭和20年6月であるようだとしており、『月夜野町史』が、この工場を前提とした軍用道路の建設が昭和19年に始められたと述べられているのとは、1年程度ずれがある。
先に軍用道路から着手したのかと思える記述なのだが、これについてはまだ追加の情報があるので、保留する。
そして、終戦により工事が中止された時点で、地下工場の掘削進捗度は16%であったというのも、重要な情報だ。
残念ながら、この数字のソースとなった“資料”が分からないのだが、とにかく完成からはほど遠い状況での終戦となったのは確かであるようだ。
さて、ここまでの『市史』の記述はいずれも地下工場“本体”の工事に関する内容だが、軍用道路について触れた内容が、この後に控えていた。
これは別の文献からの引用という形になっているのだが、そのまま掲載しよう。
昭和18年松根油製造工場設置に相次ぎ、上川田字滝合の岩盤地帯一円を区域として、陸軍直轄事業で、岩鼻火薬工廠の火薬製造工場の設置が計画され、陸軍関係者が出張指揮のもとに、関係地区の買収、一時的工事中の借地等に対する、ほぼ強制的な交渉が行われ、滝合耕地はこれらの使用地のため約7町歩の耕作不能の田畑が生じた。この田地には工作物建物・機械置場・合宿所・倉庫などの築造物を設置して、傾斜地、岩盤の掘り込み作業に従事する人夫は、北古屋・馬込・下村の各部落農家を借り受け、総人員200人ぐらい分宿し、また一方一ヶ所に合宿所を設けて、中共人100人ほどと佐藤梅次を取り締まりとし、中共人使用の世話役に2名を置いて監督させたが、これらの中共人は、おとなしくよく世話役の指揮を守って、労働に従事したことは土地の人も及ばないほどの感があった。 (――続く)
これは、昭和29年に沼田市の一部となった旧川田村が、合併後の昭和36(1961)年に刊行した『川田村誌』からの引用である。(原本は現在手配中)
『市史』よりも具体的に地下工場築造の模様を伝えており、ここでは地下工場に関わる工事は、昭和18年から始められているように読み取れる。
そして、軍用道路に関わる記述は、この後に出てくる。
刮目せよ!!
当地区一円、すなわち下川田、屋形原、今井、利南の一部地区、桃野などより、毎日何人かの割当人夫が出動し、川田も部落から工場地帯に通じる道路の改修にあたらしめる一面、又軍道として鷺石橋―小川間の道路の新設も亦これ等の人夫の手に依って着々と進められた。 (――続く)
『川田村誌』は、“軍道として鷺石橋―小川間の道路の新設”ということを述べている。
これは驚くべきことで、まず起点として挙げられた鷺石橋(さぎいしはし)とは、現在の沼田市下川田町と同市戸鹿野町の間の利根川に架かる国道120号沼田街道の橋であり、現在の沼田大橋が完成するまでは、国道17号三国街道もこの橋を渡っていた。古くから沼田中心市街地の玄関口となっていた著名の橋である。
そして、終点とされる小川というのは、問題だった。
このありきたりな地名がどこを指すのか、はっきりしない。最初は上川田地区内の地名かと思って探したが見当たらない。
旧川田村(現沼田市)の外だが、旧桃野村(現みなかみ町)下津の小川島(今回の探索のスタート地点)を指しているのだとしたら、右図に示した赤線および赤破線の如き位置に軍道が計画されていたと考えられる。
『月夜野町史』には、軍用道路の工事が小川島の関口橋から南下していったことが述べられており、終点は暗黙的に上川田町地下工場と思っていたが、これが実際には鷺石橋まで続いていた可能性が高くなったわけだ。
もう一つの小川の候補地として、月夜野から利根川右岸伝いに国道291号を4kmほど北上したところに、そのものずばり小川という大字がある(→位置)。地名としてはドンピシャだが、軍道の終点になるような場所かと言われると謎である。だが仮にここを指しているとしても、鷺石橋〜小川島〜関口橋の区間を通ることは確かだろう。
右図のように、鷺石橋〜上川田地下工場〜小川島〜関口橋(〜月夜野)という一連の軍道を想定すると、この全長は鷺石橋から関口橋まで約7kmである。
そしてこれは、利根川左岸を通る三国街道のバイパスのようになる。
そもそも、高崎市岩鼻から移転した地下工場が最も重視すべき輸送路は南方であるはずなのに、わざわざ竜ヶ渕の難所に隧道を穿ってまで北方にも軍道を建設していたのはなぜかというのは、大きな疑問点だ。
北方からも地下工場に必須の物資輸送が計画されていたのであろうか。それとも、後閑の中島飛行機地下工場との連絡を考慮したものであろうか。
仮説として、三国街道のバイパス説を提案したい。
橋は爆撃の格好のターゲットであり、輸送上のウィークポイントであった。そのため、利根川を横断しない三国街道のバイパスを建設しようとしていたのではないかという説だ。(あくまでも軍用の別線バイパスで、置き換えのための新道ではない)
話が少し遠くなるが、東京新潟間の最短ルートである三国街道は、戦前は東京満州間の最短ルートとしても重要視され、昭和9(1934)年に国道9号に指定されてから、昭和14年には三国峠を自動車通行可能とするための改良工事がスタートしていた。だがこの工事は大戦中の資材不足などにより中止された。戦後の昭和27年に国道17号として建設再開され、34年にようやく三国トンネルが開通したという経緯がある。
したがって、戦時中に沼田付近の三国街道を改修する動機は、十分あったと思われる。
一地下工場のためのローカルな道と思っていたものが、日本と満州の間の最短ルートの一翼を担う可能性があった……としたら、これは大いに妄想が捗るところだが、残念ながら、今のところこのバイパス説の文献的裏付けはない。
岩盤掘鑿工事には、北馬込、下村に分宿の工夫を以って、昼夜交代作業によって工事も進捗し、ほぼ完成の域に達した時、昭和20年8月の終戦となり、同時に工事も打ち止めとなったのである。所で此時混乱を来し喧争甚だしく、村人は万一を慮り夜警をする状態であったが、徐々に人夫が三々伍々村を離れ去り、中止後の耕地中、約2町歩の耕作不能地は、戦時中の置土産となったのである。
以上で『川田村誌』の記述は終わっており、軍道について追加情報はない。
また、『沼田市史』以外の文献の捜索も行ったが、現時点で実を結ぶものはなかった。
旧軍関係の文献を多く公開しているアジア歴史資料センターを検索してもヒットせず、利根沼田の戦争体験の聞き取りをまとめた論文も読んだが、直接関係する内容はなかった。
軍事遺構全般に言えることだが、建設中の写真が残っている可能性も低いと思われる。
以上、机上調査としてはいささか不満足であるが、軍道が意外に規模の大きなものだったと判明したことは成果といえよう。
私自身の軍事的知識レベルが低いこともあって、文献以上の推測なども難しいのが正直なところだ。有識者のご見解を頂戴したい。
なお、今回の現地調査では(そもそも探索対象と考えなかったために)探索しなかった、鷺石橋から上川田町地下工場現場までの軍道(「南側区間」と仮称)については、位置を含めて確定的情報は皆無であるが、遺構が存在する可能性は高いと考えている。
右図は、終戦間もない昭和22(1947)年に撮影された下川田〜上川田地区の航空写真である。
これを見ると、鷺石橋から利根川沿いに北上する道が存在しており、昭和4年の地形図にはこの道が描かれていないことから、戦時中の建設である可能性を窺わせる。
そして、この道の延長線上とみられる利根川段丘崖中には、探索した竜ヶ渕付近と同様の生々しさを持った道路開削の痕跡とみられるラインが、点々と続いている。
チェンジ後の拡大画像に示した黄矢印の辺りである。
現在の地形図には、この位置で斜面を横断する道路が存在しないことを確認しており、ここに竜ヶ渕と同様に未成の軍用道路遺構が現存する可能性は高いと考える。
もちろん、探索もしたいと思っているので、続報を待って欲しい。