現在地は小湊〜大沢間の旧国道上、その中間地点から大沢寄りである。
このルートは、昭和44年に現在の山側の国道が開通するまで、国道128号として使われていた。
開通の正確な年度は不明だが、おそらく明治10年代であると考えられ、明治35年の地形図には県道として描かれている。
そして今、「おせんころがし」が見えてきた。
それは名前以上に印象深い景色だった。
現在地は小湊〜大沢間の旧国道上、その中間地点から大沢寄りである。
このルートは、昭和44年に現在の山側の国道が開通するまで、国道128号として使われていた。
開通の正確な年度は不明だが、おそらく明治10年代であると考えられ、明治35年の地形図には県道として描かれている。
そして今、「おせんころがし」が見えてきた。
それは名前以上に印象深い景色だった。
2009/3/19 7:50
究極の場面を、私は予感した。
それは少しも小出しではなく、一つのカーブを境として、心を準備する間もなく現れた。
この景色は真っ正面から私を直撃した。
震えた。
次の感想は、フィクションだ。
死んでも通ってみたいと思ってしまった。
今回初めての心境ではないが、稀である。
一目見て、そこが危険な道だと分かった。
おそらく塞がれているだろう事も予感した。
絶壁の中腹を蛇のように這う、幅の知れない道形が見えた。
実際にそこに立てば、意外に危なくはないのかも知れない。
現に、かつて自動車も通っていた道だ。
だが、遠景の見て分かり易過ぎる物理的険しさ、ここに至るまでの精神的起伏に根ざした登場シーンの鮮烈さ、威風を伴うほどの圧倒的迫力を持ちながら周囲の景色とは矛盾しない場面的説得力、激しい逆光のため白く霞んで荘厳さを加えている時期的要因。
全てをひっくるめての“究極の道”の出現だった。
今までの数多くの「道路体験」の中で蓄積してきた、私の中の“ある”イメージ。
こういう道が日本のどこかにあるのだろうかという、理想像のうちのひとつ。
静と動、海と山、他にも様々なベクトルの理想像が考えられる中で、これは“動”と”海”を組み合わせた場面の究極。
文字通りの絶海に臨む「おせんころがし」旧道は、そんな姿を私に思い起こさせた。
強烈な“ファーストインパクト”だったが、見えっぱなしでは私の心が保たないという仏心からか、直ぐにそれは隠れた。
そして代わりに、旧国道が崖っぷちの本性を現した。
かすれた文字の看板には、お決まりの「落石注意」と「路肩注意」を促す文句が書かれているが、落石はともかく、路肩についてはどう注意すればいいのかツッコミを入れたくなる狭さだ。
鋪装された部分だけを道と呼ぶならば、それはたったの2mほどしかない。
これまでと較べても、ここだけが明らかに狭い状態である。
しかも、普通は海(崖)側に少しでも路肩を設けそうなものだが、なぜかここでは山側にだけ1mに満たない草地(道路余地)がある。
そんな路肩のガードレールが思いのほか貧弱なのは、頑丈な防護壁を支えるだけの強度が無いからではないかと…そう勘ぐりたくなる。
昭和44年までこれが現役の国道だったというのが俄には信じがたい状況だが、そういう感想を私が自然に持ったのは、自身にはかつて関東に長く住んだ経験があり、房総の行楽シーズンにおける激しい渋滞ラッシュを知っていたからかも知れない。
私が生まれた頃には既に旧道になっていたわけだが、観光地としての房総の夜明けは鉄道が開通した戦前にまで遡るのである。
そしてこんな「酷道」の状況に対応するべく、かなり無理のある一方通行規制を行っていた時期があるようだ。
これを私に教えてくれた読者様曰く、それは現道が開通する直前まで行われていたらしい。
大雑把な規制状況は右図のようなもので、小湊〜行川アイランド間の(現在地を含む)酷道は東行きの一方通行。
そして西行きは、現在の主要地方道天津小湊夷隅線などを経由する、かなり大きな迂回を強いられたようだ。
つまり、前回紹介した「卵形の暗渠」のある県道も、一時期国道の一部のような使われ方をしていたことになるのだ。
日光のいろは坂のように通過交通のみであるならばいざ知らず、迂回路上にも多数の集落があり、住民生活に及ぼした影響はかなり大きかったと想像される。
ちょうど昭和39年に、外房最大の集客力を誇る一大レジャーランドとして民間経営の「行川アイランド」(平成13年閉園)が開園しているので、俄に交通需要が道路容量を大超過してしまったのかも知れない。
道が狭いのに車は多いというのは、いかにも観光地らしい苦心談である。
そして、この旧道で撮影した写真の中で私が一番気に入った一枚が、これだ。
逆光を嫌って振り返って撮影したのだが、それが思いのほか良い景色になった。
言葉にすれば崖の中腹に道があると言うだけなのだが、道の微妙なアップダウンや左右への蛇行の様子が面白い。
初めから道があるはずもない地形に、100%純粋な人工物として道を作ったはずなのだが、それでもどこか「自然に逆らわない、地形に即した」道であるような感じがするのが面白い。
おそらくは、道路の構造についてカーブの角度から勾配のきつさ、障害物を介しての視距離に至るまで数字で定められるようになる(=道路構造令)以前の明治初期に出来た道であるがゆえの、そしてそれを大きくは改良せず使い続けてきたがゆえの、「自然のブレ」なのだろうと思う。
今風に言えば、ファジーな感じだ。 って、ファジーは死語か?
なお、上と同じ景色を少し望遠にして撮影したのが右の写真。
その眼目は、1枚の写真に何枚の落石注意を同時に(識別できるくらいの大きさで)写すことが出来るだろうかというもの。
右の写真に、「落石注意」の標識が何枚写っているかお分かりだろうか。
4枚?
残念。答えは5枚である。
黄色く写っている標識は4枚あるが、このうち奥にある1枚は「右折注意」であるから除外。
しかし、よく見ると裏返しの標識が2枚あり、これはいずれも「落石注意」であったから加える。
合計は、5枚なのである。
このあとも時々振り返ったりしながら、さらに沢山写せる場面を探したが、どうやらこれが最多のようだ。
次のカーブでは、「おせんころがし」が一気に近づいた。
そしてその直ぐ手前には人家の点在する広い谷と、海岸には思いのほか近代的な漁港が広がっていることを認めた。
これが「おせんころがし」の悲劇の舞台であり、またその語り部として共に生きた大沢の集落だった。
地図で集落があることは知っていたが、思っていた以上に人が住んでいそうだ。
「おせんころがし」とは、人知れぬ山間部に孤立してあるのではなく、意外なほどに暮らしの近くにあった。
そして私は、「おせんころがし」がなぜここにあるのかと言うことよりも、集落がなぜここにあるのかというほうが、不思議に感じた。
ここに来て望遠で崖を覗かない者は、オブローダーではない。
思わずそんな暴言も吐きたくなるほどの、素晴らしい「道路風景」である。
漁港内には海から戻ってきた漁師達であろうか、数人の人の輪が見えている。
人に較べて漁港の建物は当然遙かに大きいが、その背後に立ち上がる崖の高さは10階分では利かないだろう。
そして、そこを堂々と横切ってしまう道跡の、なんというあけすけさだ。
惚れ惚れする。
なお先ほど、何気なく「道路風景」と書いた。
それはつまり道路がメインに映っている風景と言うことだが、然るべき予備知識を持たずにこの眺めを見ても、道は単なる法面の犬走りか、或いは造成上の段差に見えるかも知れない。
道の上も下も、これまでの旧国道と同様かそれ以上の丁寧さで、吹きつけのコンクリートでガチガチに固められているのである。
どこまでがコンクリートで、どこからが自然の崖なのか、写真では分かりにくいと思うが、漁港の端の少し先までがコンクリート壁である。
したがって、廃道区間の大半がコンクリートウォールに含まれているようだ。
望遠で観察してしまうと、実際に辿る前に全貌を知ってしまう気がして少し躊躇ったが、綺麗事を言っていて死んでしまっては元も子もない。
それは少し大袈裟にしても、抜けれそうなのかどうかを事前に予測しておくことは、チャリ×オブローダーの私にとって重要な効率化になるのだ。
結局、容赦せず望遠を利かせて覗いてみた。
そして、右の写真を得た。
見た感じ、意外に道幅には余裕がありそうで少し安心したが、それにしてもこれは…、
露骨と言うか、
赤裸々と言うか…
…真っ
さらにズームを先(右)に向ける。
そこには、執拗な“コンクリート固め”を逃れた、切り通しらしき地形が見て取れる。
あそこが「おせんころがし」の出口と考えて間違いないだろう。
だが、その手前の辺りは、もの凄く藪の深い予感がする。
切り通しの先の状況も不明だ。
不安なら、現道を回り込んで下見することも出来るが…、まあどちらにしても、あそこへは何が何でも行くつもりなのだ。
見る限り、たとえ藪が深くてもそれはたいした距離ではないはずで、むしろ問題は、そこがちゃんと平坦なのかと言うことだろう。
おせんさんの二の舞は、ごめん被りたい。
まだ500m以上先の景色に心奪われっぱなしだが、いい加減前進しないと。
少し進むと、大沢集落のいちばん外れの家が現れた。
太平洋の大海原に、狭い旧国道一本を隔てて面しているわけで、嵐の日なんか玄関を出た途端吹っ飛ばされそうな気がする。
って、そんなことは大いに余計なお世話だと思うが…、部外の人にとって大沢はちょっと変わった集落だ。
ただの田舎の漁村とはちょっと違う気がする。
前回の前書きでも少し触れているが、この大沢集落から「おせんころがし」にかけての旧道には2世代ある。
図中に青で示したのが、先ほどから私を誘惑して止まない明治のルートであり、車道としては初代の道である。
そして赤で示したルートが、昭和28年大正10年に付け替えられたルートである。
当初、旧国道を昭和28年竣功と考えていたが、これは誤りで、大正10年が正解である。修正する。
なお、「大沢なんて知らないよ!」という勢いで、橋とトンネルを連ねる現国道は、昭和44年に開通したものである。
さて、先にどちらへ行こうか?
当然、
「おせん」を先に
もったいぶっている間に何か状況が悪い方に変わらないとも限らないし、そもそもここへ来た最大の目的が目前にあるのだ。
外堀はあとからじっくり埋めればよい。
そう考えて右へ行くことにした。
…もし確実に仕留められる自信があったなら、私の性格上、逆の選択をしたと思うが…。
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「密漁禁止」の力強い看板に少しだけ威圧されながらも、全くそう言う意味での疚(やま)しさは無い私は、努めて堂々とローカル色の濃い下道へと入っていった。
これまでは、見えない不可侵条約が定められていたかのように決して詰まることの無かった水際との高低差が、一気に失われていく。
相対的に他の道達は全て上に行き、チャリ男の宿命として嫌な圧迫感を憶える。
まして、この先の「おせんころがし」は、分岐よりも遙か上に見えていたのであるから…。
って、おいおいおい。
マジで下っていくな。大丈夫か。
あっという間に下り着いたは大沢漁港。
そして、【地形図】に描かれていた物とそっくりだが、微妙に違う部分もある景色が眼前に広がった。
その違いというのは、トンネルのある場所である。
地形図だと現国道の真下からは少し山側に描かれているのだが、実際にはなんと、国道の真下にトンネルがあるのだ。
この面白い位置にあるトンネルは、やはり明治時代の隧道の一つなのであろうか。
辺りに分岐のないことを確かめながら、いよいよ「国道下のトンネル前」へ。
うおっ!
と初めは誰もが面食らうのではないだろうか。
橋の真下にトンネル。
しかも両者が同じ方向に向いているというのは、かなり珍しい限定的な状況である。
立体の地形を平面上に写し取る地図作成においては、もっとも表現の難しい鬼門のような状況といえる。
ましてそれが大都会の都市高速下とかではなくこの大沢だと言うところが、意外性があって面白いのである。
そしてこのトンネルは、「大沢港トンネル」という。
小湊隧道よりもさらに小さな1車線のサイズは、いかにも“明治隧道”を思わせるのだが、それは大間違いのようである。
予想外にも、トンネルの直前にもう一本、右へ逃れる分岐があったのだ。
この道こそ、「おせんころがし」へと続く、大正10年までの旧旧道だった。
…最初ぼけっとトンネルに入っていったら、そのまま漁港にズドンと出て終わった。
しかも出どころが悪く、屈強な漁師達の舐めるような?睨むような?(逆光だからよく見えなかったケド…)視線が、ちょっと痛かったんだよね。
だから、このトンネルはNGよ。
「進入禁止」って書いてあるしね。はっきりと。
でも、トンネラーとしてはどうしてもトンネルの正体も知りたいので、「大沢港トンネルは何なんだ!」と辺りを調べていたところ…。
矢印の部分に、重大なヒントが!!
“トンネル内”の沿革碑(これも珍しいな…笑)曰く、
大沢漁港之記
大沢漁民漁港の建設を待望する事久し歴代役
員又之が実現に努力し幸に昭和廿四年災害復
旧工事として初めて西船揚場の造成を見○○
て昭和廿九に至り漁港整備の全体計画を○
立之が達成に努力す昭和卅一二三年に於て○
単工事を以て西側第一二防波堤及東防波堤が
一部成り昭和卅四五年度に於ては政府の補助
事業たる局改工事に依り東西防波堤及泊地の
浚渫工事物揚岸壁及臨港道路の完成を見て大
要漁港の規模を整ふに至れるは歓喜の極みな
り爾今後進の士の努力に依り一層之が完璧を
期せられ漁業の進展に期与せられん事を祈る
昭和三十五年七月七日
大沢漁業協同組合長 山口仁作誌之
どうやらこのトンネルは、昭和34〜5年頃に「臨港道路」(港湾法による道路で道路法による道路とは区別される)として建設されたものらしい。
通りで明治の地形図には描かれていないワケである。 納得。
それでは、
心おきなく、 “地図にない道”へ。
ついさっき下ったのは一体何だったのかと不問な自問自答をしたくなるような、とんぼ返りの急登坂である。
そのまま、再び国道の下へ潜り込もうとしている。
しかもこの先の数メートル間の道幅は、先ほどの絶壁地帯よりもさらに狭い、普通乗用車にとってはギリギリと言っても良い幅である。
まあ、旧道化してから時間もかなり経過しており、しかも上に国道、下に漁港というように地形の改変も著しいので、元からこの狭さであったかは断定できないが…。
いずれにしてもこの激しい上り下りだ、相当に無理のある道路であったことは間違いない。
頭上の橋は、現国道の大沢橋である。
これは厳密には、その中央部分が「大沢港トンネル」真上の地面に着地しており、構造としては2本の橋から成るのだが、欄干や親柱などの橋上から見て取れる施設は1本の長い橋としてデザインされていて、名前も「大沢橋」の一つしか与えられていないようだ。
明治由来の旧旧道は、この大沢橋を2度目に潜ったところで、二手に分かれる。
正面の急坂は「上地区(上大沢)」へと登る道で、旧国道への近道でもあるのだが、「おせんころがし」へは右折となる。
分岐のところに立っている野仏には、「日蓮大菩薩」「南無妙法蓮華経」などと刻まれていた。
有名なこの「南無妙法蓮華経」という題目は、日蓮が仏道の最も重要な修行として広めたものである。
近づいております…。
平和な時は、もうすぐ終わりかと存じます…。
こりゃもうダメだな。
私が行き止まりや廃道を予感する一番は、こうして路上に無造作な感じで車が駐められている時である。
憐れ、これほど現国道に接近しながら、旧旧道と現道との連絡は、歩行者専用の小さな階段しかないようだ。
階段を無視して進めば、自ずと廃道が始まるという事らしい。
一体いつ頃までこの道が使われていたのかは、分からない。
自動車が通らなくなっても、遊歩道的に使われていた時期があったと思うのだが…。(←微かな記憶)
いずれにしても、既に閑却されて久しいというのは、この入口の雰囲気から十分に伝わって来た。
どう見ても、外房有数の観光地として私の頭にインプットされていた「おせんころがし」の玄関口ではない。
まあ、インプット自体が間違っていた可能性は否定できないが…。
ただそうは言ってみても、地形図中においては今も点線としてではあるが、ちゃんと存在する道である。
怖じ気づくにはまだ早いはずである。
堂々といけ! 堂々と!!
次回、千尋のコンクリートウォールへ…。
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