今回紹介するのは国道148号の旧道で、特に長野県小谷村下寺から同村中土(なかつち)地区までである。
ここは小谷村の幹線道路である国道148号が、もっとも大きく付け替えられている地区であり、外沢(そとざわ)という踏破のし甲斐がある難所を含んでいる。
なおここは、以前レポートした「国道148号旧道 下寺地区」の南側に繋がる区間であり、同日に連続して探索している。
今回は「序」ということで、歴代の地形図でルートの変遷を追いかけてみよう。
別にこの行程を経なくても旧道の存在は現地で明らかなのだが、小谷村が経験してきた自然災害の歴史と、それに伴う壮絶な路線付け替えの様子を、予め知っていただきたいのである。
まず最初にお見せするのは、現在の地形図だ。
「道の駅小谷(おたり)」がある北小谷下寺地区で、新旧の国道は並走している。
そしてここから姫川沿いを南下して、中小谷の中土地区に至るまで、外沢北側の一部区間を除く全線で、新旧道は別の路線になっている。
さほど距離に違いはないが、とにかく現国道はトンネルの連続で、北から順に外沢トンネル(1360m)平倉トンネル(706m)中土トンネル(1228m)という具合に、一本一本もかなり長い。
中でも最長の外沢トンネルは昭和49年竣功と、平倉(平成8年)中土(平成5年)よりもだいぶ古く、この一帯では最重点の改良ポイントとして優先的に工事が進められた事情が伺える。
今回の探索の中心となる(メインターゲット)のも、この外沢トンネルに付随する旧道である。
次に外沢付近の拡大図を見てみよう。
廃止から35年を経ている旧道は、最新の地形図にも未だ描かれ続けている。
全長1360mの外沢トンネルに対応する、約1.4kmの旧道。
昭和49年までは、国道148号の一部として信越間の幹線ルートを構成していた道である。
実は、だいぶ以前からこの旧道に関する情報提供や踏査要望は、かなりの件数が寄せられていた。
そして、そのいずれも「容易でない」ということを伝えていた。
特に、旧道のほぼ中央には今も地形図に描かれている一本の隧道(旧外沢隧道)があるはずだが、その姿を間近に見た者はいない…といような、なんとも刺激的なことを書いてこられる人もあった。
明治の廃道とかマイナーな林道の廃隧道というのであればいざ知らず、戦後もしばらく国道であった旧トンネルに近付けないなどというのは、いささか大袈裟ではないか。
本音を言えばそう思ったのだが、確かにざっとネットを検索した感じでは、トンネルの姿を見ることは出来なかった。
何がそんなに大変なのか?
とりあえず、小谷村の一帯は私にとって当時まったく未知であっただけに、風土の感じを掴むためにも現地からやや遠い糸魚川市根知(ねち)あたりから自転車で旧道行脚を続けた結果が、本編で述べる“夕暮れ迫る廃道探索”(私にはお定まりのパターンでもあるが…)になってしまった。
ところで、私は最初にこの辺りの地図を見たときから、気になるというか、疑問を感じることがあった。
皆さんも左の地図を見て貰いたいのだが…
旧国道(赤線)はこの外沢の前後で二度姫川の本流を渡河している。
北側が「小谷橋」で南側が「姫川橋」であるが、いずれも“大きな地名”を橋名に戴く“大橋”だ。
現国道(青線)についても同じで、北側は「新小谷橋」といい、南側は地図の外だが中土の南で姫川を渡って旧道に合流している。
この姫川右岸を通行している区間は、そこに大きな集落があるわけでもなく明らかに“迂回”なのだが、地形的な必然性に乏しい。
右岸はとにかく山また山の険しい道で、それは多数のトンネルや旧道の存在もそれを物語っている。地図上の等高線も明らかに密だ。
一方の左岸に目をやれば、そこには広大な原野(来馬河原(くるまがわら))が横たわっている。
南半分は右岸同様に険しい地形であるようだが、それにしても本流を二度も跨ぐリスクやコストを考えれば、黙って左岸をゆく黄緑色に描いたようなルートが存在しないことは不思議だ。
皆さんはそう思わないだろうか?
何か左岸には、敢えて道が避けるような事情でも存在するというのか。
その事が気になっていた。
さて、地形図を頼りに時代を遡っていこう。
まずは昭和28年版である。
この年、府県道大町糸魚川線は道路法改正に伴い、二級国道148号大町糸魚川線に昇格した。
そのルートは先ほどの最新地形図で私が赤で塗った旧国道そのものである。
なお、鉄道の大糸線が工事中の記号で描かれている。
これは戦時中から一部路盤が完成していたものの、実際にレールが敷かれて開業したのは昭和32年(大滝〜中土間開業…大糸線全通)だった。
次に昭和5年版であるが、左の画像にカーソルを合わせてご覧頂きたい。
違いは大糸線が存在しないことと、中谷川出合いの姫川橋が合流地点の上流に架け替えられた程度である。
旧国道のルートは、この当時から外沢隧道とともに存在していた。
これらの姿と大きく違う光景を見れるのは、一帯を描いた地形図では最も古い、大正元年版だ。
左の画像を見ながら、下のリンクにカーソルを合わせて欲しい。
【大正元年版の地形図を表示】 (見れない人はこちら→【リンク】)
大正元年当時、外沢を通る旧国道ルートは描かれていない。
北から来た太い県道は、小谷橋を渡らず、左岸を来馬(くるま)集落まで来て消滅しているし、南側の県道も中谷川出合でやはり唐突に終わっていた。
この分断された区間を迂回するように破線の道が存在しているものの、その姿はいかにも頼りなく見える。
しかも、「まだこの区間に県道は開通していなかった」などという単純な話ではないのだ。
実は明治19年には、馬車も通れる当時としては立派な車道が、大町と糸魚川の間に開通していた。
「長野県史」に曰く、「七道開鑿」事業の第五線路(小谷新道)がそれである。
残念ながらこれより古い地形図が存在しないので、その馬車道のルートを完全に明らかにすることは出来ないが、「小谷村誌(文化編)」などの記述を総合すると、当時のルートは大概次のようなものであったらしい。
2本のルートを図示したが、破線は藩政期以前から続いてきた「千国街道」である。
今日では「塩の道」として観光地化されている部分もあるが、大概は廃道となって藪に埋もれている、いわゆる古道に属するものだ。
ここで千国街道の詳細を述べることはしないが、日本海岸の糸魚川と内陸の松本平一帯を結ぶ主要な街道で、宿場や一里塚などの街道らしい施設も整えられていた。
たとえばこの図中で言えば来馬集落はかつての宿場であったところで、明治時代になっても栄え続け、この大正元年の地形図にあっても、当時の「北小谷役場」が所在していたことが分かる。
黄緑の実線のルートは見覚えがあるかも知れないが、そうそのとおり!
先ほど、「こんなルートがないのはおかしい」と言ったばかりのルートにそっくりである!(わざとじゃないぞ)
やはり地形と道の関係は、時代が古くなるほど“自然”で分かり易く、理由無き迂回は存在しないとみていい。
明治時代の新道は、山側に迂回していて上り下りが激しかった古道を廃し、姫川左岸の崖を土木力で切り開くルートとして開通していたのである。
だが、この明治の立派な新道は、地形図が描かれた大正元年当時にはもう一部が消滅し、一部が破線として描かなければならないほどに荒廃していた。
そうなった原因については、いずれこの明治道自体のレポートを書くときに詳しく述べるが、今は次の地図と画像で察して欲しい。
とんでもないことが起きてしまったことが、分かると思う。
明治44年に撮影された、来馬集落北小谷村役場付近。(「小谷村誌・文化編」より転載)
明治44年に稗田山が山体崩壊を起こし、崩れ落ちた数億立方メートルの土砂が浦川を土石流となって下った。
それは即座に姫川を堰き止め、合流地点付近に水深60m以上の天然ダム(高瀬湖)を出現させた。
数ヶ月後にダムが決壊して下流に洪水となって押し寄せ、糸魚川河口までの全ての橋が落ちた。
来馬集落はこの洪水で山手に移転を余儀なくされ、従来は来馬河原を通っていた県道も廃道となった。
稗田山の話を出すと、明治道が主役みたいになっちゃうが…。
今回の主役はあくまでも、旧国道である。
小谷村誌によると、災害復旧のため大正2年にとり急ぎ建設されたルートだそうだ。
こんな怪しい経歴を持つ道が、ただの旧国道であるはずはなかったのかもしれない…。