当レポートではタイトルにもなっている「外沢」という地名の読みですが、前回は「そでさわ」とルビを振りました。
根拠は、昭和5年や28年版の地形図(左図参照)に加え、秋田県にも同名集落があるためですが、これを「そとざわ」に改めます。
(前回レポートも修正済み)
理由は、現地近くに住まいの方から「地元では普通に「そとざわ」といっている」というご連絡を頂いたほかに、現国道の外沢トンネルの読みが「そとざわ」であること(「平成16年度道路施設現況調査」による)も重視しました。
旧地形図の誤りなのか、地名の読みが時代とともに変化したのかは分かりませんが、以上、修正でした。
2010/5/18 15:21 《現在地》
スタート地点の下寺地区(道の駅小谷)の標高が約390m、そこから国道を2.2km南下した現在地は約490mであるから、この間100mほど登っている。
そしてここに外沢トンネルがある。
右脇には一目でそれと分かる旧道の入口もあり、嬉しくなるような?典型的トンネル前の風景。
目指すはもちろん旧道だが、その前に現・外沢トンネルの“特殊性”に触れておきたい。
旧道にも同名の隧道があったので、本文では以下「新外沢トンネル」と呼称するが、このトンネルの長さは1360mもある。
これは昭和49年の開通当時、道路トンネルとして小谷村最長だったのみならず、長野県内でも最長だったことは意外だ。(大町市の関電トンネル(5.4km)は鉄道トンネルに分類されるので除外)
しかし、長野県には今でこそ2kmを上回るような長大トンネルも複数あるが、ほとんどが平成の生まれなのである。
それまでの村内道路トンネル最長は、192mの平倉トンネルだったが、一気に伸びた。
平成に入ってようやく国道148号の改良は本格化し、中土トンネル(1228m)をはじめとして新たなトンネルが幾つも開通したが、今でも小谷村最長は新小谷トンネルである。
地形図で新旧道を見較べると、新道(現道)の特徴がよく分かる。
新道と旧道の距離にはほとんど変化が無く、旧来のトンネルの多くが“峠越え”の地点に掘られた短絡用のものであったこととは一線を画している。
これは雪崩や落石など、道路が地上にあることに起因する災害を避ける目的での地下化というルーティングであり、防災性と維持性を重視したルーティングである。
新外沢トンネルは、今でこそ珍しくないこの種の“防災バイパス”のはしりと言うことが出来るだろう。
道路の量から質への変化を先取りしているものともいえる。
そして、こんな時代を先取りしたトンネルでありバイパスが、国ではなく県の事業として行われたことにも驚きを覚える。(国道148号に指定区間はなく、管理者は長野県である)
そのような道に、時代を先取りするような長大トンネルを掘らなければならなかったというのは、ただ事ではない。
結局何を言いたいかといえば、外沢の旧道が如何に至急の改良を要求する脆弱な道路であったのかということだ。
それではいよいよ、旧道へ。
とりあえず、始まりはこんな感じだ…。
砂利道だが、奥へ行くほど路面が緑色の草道に近付いている。
それでも廃道というわけではなく、塞がれているでもない。
とりあえず、単なる林道ではないことは、車がすれ違えるほどの道幅が物語っている。
なお地形図には、旧道に入ってすぐ左手に登る徒歩道が描かれ、150m近くも高い外沢集落へと繋がっているはずだが、これは今回特に意識していなかったこともあり、発見できなかった。
集落のあるエリアへは別に向かう道があるので、徒歩道は廃道になっているものと考えられる。
そもそも集落が現存するかも不明だが。
はじめこそ視界の効かない杉林に始まった旧道だが、まもなく姫川に面する西向きの斜面にぶつかり進路を変える。
そこには携帯電話の電波塔が建っており、なお道は続く。
法面には低い石垣(玉石練積)も現れ始めるが、これと無普請である路肩の間の道幅は、きっかり2車線分ある。
しかし実際に通れるのは崖側の半分だけであり、そこにも目に見える轍はない。
すでに通行量は皆無だと分かるが、堅く締まった砂利敷きの旧路面のおかげで辛うじて藪化を免れている感じだ。
これは個人的な印象でもちろん統計的なものではないが、廃道の実際の“状況の悪さ”と入口の封鎖の厳重さとの間には相関関係が認められる。
厳重に封鎖されているほど状況が悪いかと言えばそうでもなく、むしろ全く封鎖されていない廃道ほど、“嫌な予感”を感じさせるものはない。
それはもう、うっかりと入り込んでしまうことが考えられないほどに通りがたい廃道であったり、そもそも入口が外見的に消滅しているような場合に多い。
今回は入口があれだけ明瞭であるにもかかわらず、全く封鎖されていないと言うところに、最大級の不安を感じた。
旧道(電波塔そば)から見下ろす、姫川対岸の「来馬河原」。
明治44年9月稗田山崩れが起きるまで、一面の沃田を明治新道が横切り、道の両側には北小谷村役場や荷継場もある来馬集落が存在した。
山崩れによる土石流自体はこのすぐ上流で姫川を堰き止めて止まったため、直接の被害は免れたが、4日後の天然ダム決壊に伴う流路変更(洪水)により壊滅した。
以来長らく氾濫原(荒れ地)になっていたようだが、現在は久々に人々の活動する姿が見える。
それは氾濫源に堤防を築き、姫川を本来(稗田山崩れ以前)の流路に治めようという治水工事の姿である。
平成7年の豪雨災害を契機として国交省が進める、防災力強化のための大規模な砂防事業と思われる。
この工事が完成すれば、再び来馬河原に“くらし”が甦るかもしれない。
入口から200mほど進むと、早くも路面は草の海に呑み込まれた。
「やっぱりな」である。
全長1400m程度なので、ある程度は状況が悪くても我慢して自転車を連れて行くつもりだったが、早くも乗車は不可能になり、フカフカの枯れススキを踏みしめながらの歩行となった。
すぐに体温が上昇し、熱さを感じ始める。
それでもこの探索が5月中で、まだ冬枯れの藪は萌えの途上のだったのが幸いした。
枯れススキの深さを見る限り、夏藪や秋藪は余裕で背丈を超えて来ると思われ、探索しようものなら必要以上の苦労を強いられたに違いない。
引き続き来馬河原の俯景。
先ほどの場面よりは少し上流で、このあたりの堤防(というか護岸工事)と流路はすでに完成したようだ。
かつて集落を流し去り、広大な川原を乱流しつづけた流れもようやく…やや強引に…元の鞘に収められた。
白馬の山々の雪解け水を集めた姫川は、まるで雪を溶かしたような白い早瀬となって、新たな流路を駆け抜けていた。
なお、稗田山崩れの泥流は凄まじく、写真左に見える小高い山さえも一部乗り越えて来馬河原に達したと言うから、まさに天変地異の恐ろしさである。
15:29 《現在地》
進むにつれて、順調に?廃道の度合いを増していく旧道。
ついに“草”だけじゃなく“木”も出て来たあー!
あ れ は!
久々の廃車体遭遇!
ずいぶん潰れている…。
そもそも、何故こんなところに…?
【横から見た画像】
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原型を留めぬほど押し潰された屋根。
まるで絶壁から墜落したかのような大破ぶりだが、土砂に埋もれているわけでもなく、長い間の雪圧によって破壊されたのだろう。
そしてこの無残な廃車体は、大きな場面の転換地点にあった。
これまでは、藪こそ深くとも道のカタチ自体はよく保存されていた領域。
しかしここからは…。
路肩の石垣に寄せて置かれている廃車のすぐわきが、すでに路肩であることに注目。
これは本来の路肩ではないのだ…。
路肩ゴッソリいってる!
ここまで一度も「通行止」を示すような看板や柵は無かったが、廃車体の出現を合図にでもしたかのように、突如として路盤が大崩壊!
眼下に見えるは100m下の姫川の流れ。
今も盛んに砂防工事が進められている浦川合流地点まで、悠々見通すことが出来る。
まさに露頭に立った眺めであり、自転車を押す体に緊張が走った。
私の嫌な予感は的中。
やっぱり楽に通させてはくれないようだ。
ひゃ〜〜!
何たるギリギリ!
しかし、これは助かった!
というか、これがなければ早くも進路を絶たれていたかもしれない。
周りは岩というよりも土の斜面で、枯れ草が表面を覆っているせいで絶壁という言葉は似合わないが、勾配の度合いは崖となんら変わるところはない。
転落した場合の結果も大差あるまい。
私は玉石の法面を左手をなで回しつつ、右の小脇には自転車を抱え、このギリギリ生き残った路面を頼りに前進した。
深く考えればこのギリギリ路面も万全のものではなく、下は空洞であるかもしれなかったが、こうして私の前に人1人分の路面が残っているのを目の当たりにした私は、それをオブ神の与えた通路と考えた。
私に踏破せよと命じているのだ。
イケイケ! ヨッキ! ドンといけ!
こんなところに、標識が!
支柱は見あたらず、“具”だけが法面にもたれるように落ちている。
見慣れた「屈曲多し」の標識だが、このデザインは昭和25年3月の「道路標識令」発令以来ずっと変わっていないので、新旧の判断は難しい。
しかし普通に考えれば、現役当時に設置された標識だろう。
あと1mでも右に移動すれば崖下なのに、よく風に巻き上げられもせず、ここに在り続けたものだ。
かなりギリギリの道幅ではあったが、なんとか自転車同伴でこれをクリア。
道は再び本来の路肩までの全幅が甦った。
しかし、これから先はもうまったく保証のないエリアである。
どんな崩壊が現れても、驚いてはいけないだろう…。
それでは、再出発だ。
道がねぇ!
歩き出そうにも肝心の道は、
前回崩壊から20mも行かないうちに、
完全に消滅していた!!
15:35
旧道に侵入してまだ15分。
距離にして300m程度しか進んでいないと思われるが、道は完全に消滅していた。
目の前に横たわるのは、斜面をスコップで抉ったような土砂崩れの跡で、まだ崩れてからさほど時間が経っていないように見える。平成7年の豪雨災害と関係があるかも知れない。
崩れた道路の長さは、目測だが50m近くあるだろう。
これは大いに悩ましい展開。
自転車を諦めて身軽になれば、或いは乗り越えることも不可能ではないかも知れない。
方法としては少し戻ってから路肩を降り、この大崩落現場を“下巻く”ことが考えられた。
しかし、それは相当に危険な香りがする行為だ。
土の斜面は相当急で、降りたら戻ってこられなくなるかもしれない。
そして何より、自転車をここに置いていかねばならなくなることが最大の難点だった。
ここに自転車を置いていってしまえば、たとえこの先の踏破に成功しても、歩いて戻ってこなければならなくなる。
それは時間的にも体力的にも、かなりのハードルを背負うことになるだろう。
2連続で現れた崩壊現場を見る限り、崩壊がこれで終わりとも思えないし、これを越えても結局戻ってこなければならなくなるとしたら、…辛い。
一旦ここは撤退し、反対側からこの大崩落の向こうまで歩くことが出来れば、それでも「踏破」として良かろう。
過去の探索でいえば、「国道17号二居旧道」を思い出させる展開だ。
よし、決めた。
ここは戦略的撤退 だ。
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