2010/5/18 16:18 《現在地》
24分で約600mの廃道を踏破し、地形図にトンネルが描かれた地点に到達。
そこには天を突くような断崖が道から直にそそり立ち、通行人を威圧していた。
現役の地形図と“隧道リスト”に存在しながら、従来その存否が謎に包まれていた国道148号旧道最大の秘部、旧外沢隧道がいま、私の足元に開口中。
やはり現存していた。
隧道前にはうずたかく土砂が積もっており、遠目には埋没の危機さえ感じたのだが、それは杞憂だった。
意外に大きな隧道だが、完全に素堀……。
垂れ下がった落石防止ネットの隙間から、瓦礫を踏んで隧道内へ滑り込む。
隧道は、見事に貫通していた!
絶壁に孤立すること三十余年。
沿道集落もなかったことから、旧道化後すぐに放棄された隧道は、今や北側からは大崩壊のため路盤途絶し、南側も夏場は猛烈な藪に閉ざされる。
そうでなくとも、現道分岐地点に無情ともとれるシェッドの壁が並び、這い蹲らねば往来不可能という有様。
未だかつて、これほど旧国道の隧道でアプローチに不安を感じた…「もしかして辿り着けないかも?」…ことはなかったように思う。
正直いろいろな廃道の中でも、やっぱり旧国道系は作りもしっかりしているし、比較的辿りやすいものである。
ということでこの旧外沢隧道は、旧国道系廃隧道の高到達難度筆頭格に数えたい隧道のひとつだ。(他にはトモロ岬旧道、八箇峠なども大いに苦労した)
ん?
……。
なんか、おかしくないか?
出口も、入り口と同じように下半分が瓦礫に埋もれている。
それはまあいいのだが、その先に見えるのが……。
岩盤だけって、どゆこと?
…まあ、出れば分かることだ。
先ずは洞内の探索だ。
洞床。
出入り口を除けば大きな崩れはなく、洞床も平らさを保っている。
また、水が溜まっていたり、ぬかるんでいると言うこともない。
両側の坑口からの光が全体に届いており、照明は無くても不安は感じない。
しかし、すでに国道時代のものを含め、轍は全く見あたらない状態。
新雪の上には全く足跡が無いが、それと同じように、この路面には全く人の出入りした痕跡を認めない。
空き缶、空き瓶などのゴミ類も見えない。
人が往来していた痕跡が無い。
三十有余年という月日が、目には見えないゆっくりした速度で、風化や堆積を進めたに違いない。
風化は文字通り、隧道を抜ける風が路面を均したのであり、堆積は天井や壁から剥がれた砂や小石が洞床を埋めたのである。
個人的に旧外沢隧道でもっとも衝撃を受けたのは、荒々しい限りの天井の風合い。肉弾戦の極みを感じる。
見るからに、素堀。素っ裸の「素」に、堀割の「堀」をあわせで素堀である。すなわち、無普請ということである。
旧国道の隧道で素堀。
当サイトの読者ならば素堀の隧道など見慣れていると思うが、素堀は素堀でも、これは本当の素堀だ。
コンクリートの吹き付けなどの壁面強化が、全く施されていない。
この状態のトンネルが、昭和も下って49年に至るまで、信越間の主要な国道としてまかり通っていたのだから恐ろしい。
大正2年当初であれば、開通の経緯を考えても、素堀であったことに不思議はない。
だが、それから60年以上も使い続ける中で、改良を考えなかったのだろうか。
せめて坑門だけでもコンクリートで巻き立てようとか、なぜ思わなかったのか。
外見的な飾り付けは二の次にしても、安全性の面でも隧道周辺の地盤は比較的安定していると判断されていたのか。
確かに、洞内は未だにほとんど無傷であるが…。
前後は……。
そしてこれは想像に過ぎないが、おそらくこれでも当初よりは拡幅改築されているものと思う。
当初は馬車道として開通したのであって、隧道のサイズは幅、高さとも2間程度だったろう。
それが昭和時代に入り自動車に対応するにあたって、記録に残る「幅4m、高さ5.5m」程度に拡幅されたのではないか。
隧道は立派に、大型車を1台ずつ通しうるサイズを持っていた。
隧道の前後という話をしたが、これが私にとっての「前」である。
南口であり、信越で言えば信、大町・松本方面に開いた坑口である。
中央で視界を遮っているものは、襤褸のようになったネットである。
外の様子から見れば、隧道内はだいぶ落ち着いているという判断が出来るだろう。
夏場ならばなおのことそういう印象は強いはずだ。
外沢隧道
全長:22m 車道幅員:4m 限界高:5.5m 竣功年度:記載無し(実際は大正2年) 壁面素堀、路面未舗装「道路トンネル大鑑」(隧道データベース)より転載
隧道は全長22mとすこぶる短く、
完全素堀ということで意匠にも乏しいので、
これ以上語ることはない。
もう十分に味わった。
ここまで到達できたことで、いよいよ次なる目標は「全線踏破」に切り替わる。
隧道の先にも、未知の廃道が400m近く続いているはずだ。
目指すは、先に撤退を余儀なくされた「大崩壊」の反対側到達である。
16:19
それでは、この坑口から先へ進む。
脱 出。
そして、
外へ出た私の目に、眩ゆさと共に飛び込んできたのは…
想像を遙かに越える景色だった…!
スポンサーリンク |
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
|
す、すげー… 絶壁。
月並みな表現だが、まるで屏風のような岩棚が前、右、後と三方を塞いでいた。
これでは、隧道内から外を見ても、岩の表面しか見えなかったわけだ。
地形図を見ると、ここには小さな谷が描かれている。
だが、流石にこれほど険しいものとは思わなかった。
この旧道が挑んでいた地形の真の険しさを、はじめて知った。
これは、きつい。
本当に、きつい。
きつすぎる!
残念ながら、洒落になっていない。
なぜなら…。
道が途切れてる。
え?え?!
何が起きたの?!
足元にあるべき橋がない!
もう一歩も前に進めない。
禍々しいクレバスが、坑口より2mの地点に横たわっていた。
この衝撃に、私は久々に顔がにやけた。
もちろん、嬉しくない。
嬉しくないのに、顔面から力が抜けてニヤー…。
残念ながら、この地点での撤退が確定。
北側で私を退けた崩壊も凄かったが、アレならばまだ時間と根気とリスクを背負えば、突破の線が無いわけではない。
というか、もうアソコを突破する以外に、全線踏破への希望が絶たれた瞬間だった。
(注:これを書いている現時点では、まだ踏破できていない)
洒落にならんぜ…まったく。
一体何が起きたんだ…ここで。
ここで起きた“路盤消滅”という一大事の原因。
その痕跡は、残っていた。
坑口の下半分を塞ぐように横たわる、土に汚れた巨石。
その下には、ぺしゃんこに押し潰されたガードレールが…。
しかもそのガードレールは、通常のガードレールではなかった。
よく見ると分かるが、通常よりも支柱が長く、出っ張った先端に手摺りを取り付けたタイプである。
これをなんと呼ぶのか分からないが、このタイプのガードレールはふつう橋の欄干として使われる。
地形を見れば明らかであるが、やはりここには橋が存在していたのだ。
そして、その橋は……。
消えた。
押し流された。
橋台ごと! まとめて!!
対岸にも、一応は路盤が続いていることが伺える。
全く何の役にも立たなかった役立たずな落石防止ネットが、緑に満ちた斜面を覆っている。
あそこに行きたい!!
迂回はできないのか?
私だって第一印象で「駄目だな」と悟りながらも、一応は突破ルートを模索してみた。
まずは正面突破だが、足元には下ることも出来なければ、登ることも出来そうにない、クレバスのような谷がある。
何度見ても、空中に道はない。
対岸との間隔は、目測で10mくらいだが、人にはどうにもならないのは明らかだ。
高巻きはどうだろうか?
そう思って、谷の上部を改めて仰いでみる。
…。
絶対無理!
「負けない」じゃなく、これは「巻けない」。つうか負けた。
それはそうと気になるのがこの谷に造られた、数段の砂防ダム。
よくぞこんなところに建造したものだが、それより気になるのは、谷の内部の全体的な黄ばみだ。
岩盤の色は本来は隧道の内壁と同じく灰色のはずなのに、谷央部の岩盤は全て黄色がかって見える。
その正体は、明らかに土だ。
土が岩盤の表面を、薄く覆っている。
そして足元を見てみると、足元の岩盤もまた同じように土を被っていた。
やべ…。
以上の客観的事実から想像される橋の最期は、とてつもなく凄惨…。
しかもそれは、比較的最近である可能性が…。
正面突破も高巻きも無理となれば、あとは下。
一旦左の姫川本流まで下れれば迂回できるのではないかという幽かな希望も、とにかく眼下の谷が険しすぎて駄目だった。
振り返ると(画像)すぐそこに坑口があり、つまりここは四方を全て崖に囲まれている。
隧道に入ってしまった時点で迂回は不可能で、隧道手前から迂回を開始するなどというのは、流石に無謀すぎて今回は考慮しなかった。
どうやっても、私にはこの谷を越える手段は無かった。
以上が、震えながら絶壁に迫った私の結論だ。
ここに架かっていた見知らぬ橋は、谷全体を土色に変えてしまうほどの凄まじい土石流によって、橋台さえ残さずに消えた。
谷底にもその姿は見えなかった。
おおよそ百年前、対岸にある稗田山の大崩壊に伴う土石流が、この道を生み出した。
そしてやがて役目を終えた道を消したのも、また土石流だったのだとしたら…。
そこに運命的なものを感じると言っても、言い過ぎではあるまい。
(参考)【この場所の動画】
正直、心穏やかではなかった。
隧道まで到達出来たことで、全線踏破も達成できると思っていた。
しかし実際は、隧道到達の喜びの最中に、非情な現実を突きつけられた。
結果、先の北側崩壊現場での判断が、少しの後悔を私に残した。
あそこでは自転車を置き去りにすることを嫌って、大人しく引き下がったが、
あのときに無理矢理でも突破していた方が、全線踏破を達成する可能性は残った。
今回はもう(輪行と日没までの)時間的に、北側への再チャレンジは諦めるしかなかった。
もちろん、“未踏の約400m”を攻略する再訪は計画している。
だがその前に、次回は“番外編”をお伝えしよう。
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|