国道17号旧道 二居峡谷  導入

所在地 新潟県南魚沼郡湯沢町 
公開日 2007.10.9
探索日 2007.10.8


 俺はまたしても、トンデモナイ廃道に遭遇してしまった!


 上越国境とは上州(関東圏・群馬県域)と越後(北陸圏・新潟県域)とを隔てる線であり、すなわち県境である。
このエリアでは古くから「三国峠越え」と「清水峠越え」の二本の道が、国家の幹道としての主導権を争って来たのであるが、現在では決着済みである。
近代において両者の優劣を決定づけたのは、上越国境を結ぶ初めての自動車道が三国峠に拓かれたことによる。
昭和34年、戦前から計画されてきた三国トンネルおよび前後13km余りの山岳道路が一級国道17号として開通し、馬さえ通れなかった三国峠が近代的自動車道へと変貌を遂げたのである。
しかし、この段階ではまだ新しい国道も十分な機能を発揮できなかった。
なぜなら、この新潟側に連なる火打、二居、芝原などの峠が未改良で、自動車による通行に大きな危険を強制したためである。
続いて上記各峠も改良が進められ、昭和40年に群馬県沼田市から新潟県南魚沼郡湯沢町までの約55kmが快適な舗装路へと変貌を遂げた。

 今回は、このうち二居(ふたい)峠の旧国道を取り上げる。



 右の地図は、二居峠周辺を示している。
現地は清津川が山地を深く抉りながら曲流して峡谷を成しており、これと一定の距離を空けつつ2本の道が描かれている。
一方はトンネルが3本連なる現在の国道で、昭和37年にトンネル区間が、40年にヘアピンカーブ地帯とその北側が改良開通した。
もう一方の、細く点線の混じる道が旧道だということはすぐに予想が付く。
その上には二居峠という文字も小さく書かれているが、これが江戸時代以前からの三国街道のルートであった。

 しかし、この二居峠の道筋はこの2本だけではなかったのである。




 左の図はお馴染みの地形図(2万5000分の1地形図「土樽:南西」)から、最新版の二居峠周辺である。
全体的に等高線が非常に密に描かれており、一帯の地形の険しさが十分に伝わってくるが、ここに道路地図からは消えた『第三の道』の片鱗が覗いている。
見付ける事が出来ただろうか?

 実は、この二居峠の旧道については、以前から読者さんからの問い合わせが少なくなかった。
その質問の内容は決まっていて、『旧道の姿が地図に見えないが、無かった筈がないのではないか?』というものだ。
先ほど旧道と紹介した二居峠の旧道は、左の地図での等高線との絡みを見ていただければお分かりの通り、大部分が車道ではない。一目見て勾配がきつすぎる。
だが、この二居峠と三国峠とに挟まれた三国や浅貝地区には戦前から荷馬車が入っていた記録もあるのだ。この古道然とした旧道と現在の国道との間は、余りにも開き過ぎているのではないか。なるほど、それは理に適った指摘である。

 上京したことで上越国境線に興味を持った私は、手始めにこの二居峠の旧道を捜索することにした。
そして、その一歩として旧版地形図の閲覧に出かけた。この段階ではまだ、『第三の道』について半信半疑だった。




 右の図は日本帝国陸地測量部発行の大正14年鉄道補入版地形図(湯澤)である。
これを見てしまえばもう、旧道があったかどうかなど一目瞭然。
当然、レポとして採り上げたからには 「あった」 訳だが、その“ありよう”が非常に興味をそそる。
今も昔も変わらず点線として描かれている古道の二居峠道はさておき、最新の地形図では辛うじて点線の道が描かれているに過ぎない谷沿いに、太い都道府県道のラインがビシッと描かれているのだ。しかも、現行地形図の点線道(徒歩道)は中間部が途絶え、繋がってさえいない。
地形図から抹殺されたその道が、昭和37年のトンネル開通直前まで使われていた“車道”なのだとしたら、これはアツイ!

 さらによく見てみると、この谷沿いの旧道の描かれ方はハンパ無い!

道に沿って崖を示す記号が延々と連なっている。
しかも、緻密さに定評のある「大正6年図式」による肉厚で迫力のある崖の記号が、岩崖と土崖の差を描き分けている!

 現行の地形図では、道と一緒にこれら法面の険しさを伝える記号も消えているが、地形がなだらかになったわけでもないだろうに…かえって不気味である。



 上とほぼ同じ範囲の、昭和44年版地形図である。
ここでは昭和40年までに全線開通した新道が、誇らしげに国道の太い二重線で描かれている。
まだ旧道も描かれてはいるが痩せ細っており、まるで風前の灯火のようだ。
地形図にはこの他の版も存在するが、三つの道が全て描かれているのは、この昭和44年版だけのようである。

 なお、ここまで紹介した三つの地形図で、水準点を示す記号が全て異なる位置に移動しているのが面白い。
水準点は国土の高さを測量して求めた地点であり、古くから幹線道路沿いに設置されてきた。(記号は"□"の中に"・"に加えて標高を併記)
時系列順に追ってみると、大正14年版での水準点は当時既に旧道となっていた「古道」沿いに。
次の昭和44年版となると、新道が現れているにも関わらず、水準点は一足遅く谷沿いの旧道沿いへ移動。
それが現行版では、新道沿いに描かれている。

 ここまでの調べで、二居峠には現在の地形図から殆ど抹消された、“車道の旧道”が存在していた事が分かった。
あとはもう現地踏査を待つばかりとなったわけだが、今回はその前にタイミング良く、『上越国道史』という、建設省北陸地方整備局が昭和49年に発行した記念誌を見る機会が出来た。


 で、その内容がまた仰天!








 ヤベッテ!
これはガチだろ。

この写真、注釈に「二居旧道」とだけ書かれている。いつ撮影されたものかは分からないが、遠くにボンネットトラックが写っていることからも、比較的近年ではないだろうか。

 で、この木製らしい桟橋道である。

こんな道が使われず放置され続け、地図からも消えてしまった今日、どんな姿に変貌を遂げているのだろう…。

もう、考えただけで鳥肌が立つ。いろんな意味で…。

 同書には、この二居の旧道について次のように書かれてある。引用する。

 二居〜三俣間は清津川の浸蝕による急峻な二居渓谷にはばまれ、川沿いに道路を開削することが出来ず、往時は二居峠越えに街道が通っていたものである。
 旧道は、明治36年渓谷沿いに開削がはじめられ日露戦争後、ようやく人の通れる道になり、その後逐次改良されてきたが、風化の著しい第三紀層の山腹を切り開いたため法面の崩壊が相つぎ「白崩れ」、「赤崩れ」と名を残す崩落箇所があちこちに散在した。

 これは、 前代未聞…。

白崩れ赤崩れ…。

…道路の崩壊した法面に愛称が……。

「名を残す」って、 おまえ……。




 いったいこの道 いまどーーなってるの?!